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2007年4月 3日

祈りの言葉を読む (2)

 前回の本欄では、祈りの言葉には、「1行」という短さの中に「実相」の記述と「現象」の記述がともに含まれていることがある、と指摘した。この場合、「実相に於いて」とか「現象的には」などという修飾語は省かれることが多いので、読者は自分の頭の中でそれを補足して理解しなければならない。この補足が正しく行われないと、誤解が生じることにもなる。ではなぜ誤解が生じないように、最初から修飾語をすべて加えて祈りの言葉を記述しないのか? この疑問に答えるためには、以下の2つの文章を読み比べてみるといい:
 
A--私がたとい病もうとも、それは病んでいるのではないのである。私がたとい死のうとも、実は死んでいるのではない。

B--私がたとい現象的には病もうとも、実相においては病んでいるのではないのである。私がたとい現象的には死のうとも、実相においては死んでいるのではない。

 Aの文章は簡潔で力強く、伝えようとするメッセージが明確であるが、Bの文章は冗長で解説的であり、伝えようとするメッセージが明確でない。厳密に論理的に考えれば、Aの文章には矛盾があるのに対し、Bの文章には矛盾がない。しかし、メッセージの直接性と文章の力強さにおいて、AはBよりはるかに勝っている。そして、祈りの言葉とはまさに、そのメッセージの直接性と言葉の力強さによって読者の心に変革をもたらそうとするものである。だから、論理的矛盾はそれほど問題視されないことが多い。これは韻文と散文の違い、詩文と論文の違いに似ている。
 
 それでは、このような理解のもとに「わが家、天国浄土の祈り」の最終段落を見てみよう:
 
「私は御仏と一体である。御仏の在(いま)すところそこが極楽浄土である。されば、今ここが極楽浄土なのである。ここは決して穢土(えど)ではないのである。私の家族ひとりひとりも悉く皆御仏である。私は私の家族を常に御仏として礼拝するのである。」

 この段落は、6つの短い文(センテンス)から成っている。読者は、それぞれの文が「実相」の記述であるか「現象」のそれであるかを考えて、文の右側にある( )にその別を記入してみてほしい。
 
 ①私は御仏と一体である。(   )
 ②御仏の在すところそこが極楽浄土である。(   )
 ③されば、今ここが極楽浄土なのである。(   )
 ④ここは決して穢土ではないのである。(   )
 ⑤私の家族ひとりひとりも悉く皆御仏である。(   )
 ⑥私は私の家族を常に御仏として礼拝するのである。(   )
 
 さて、答えは書けただろうか? 書けたものと書けないものがあるのではないだろうか。①と②、そして⑥は、それぞれ「実相」「実相」「現象」と書ける。しかし、③~⑤では、事態はそれほど簡単でない。その理由は、お分かりだろうか?

 ③④⑤の文が、実相と現象のいずれの記述であるかが即座に分からないのは、実相と現象の双方を“架け渡した”記述であるからである。別の言い方をすれば、それぞれの短文の中に、実相と現象の双方が混在しているのだ。これを示すために、前の例にならって「実相」「現象」などの修飾語を補ってみよう。
 
 ③今現象と見えるここが、実相に於いては極楽浄土なのである。
 ④現象と見えるここは決して穢土ではないのである。
 ⑤現象に於いては私の家族ひとりひとりとして現れている人たちも、実相に於いては悉く皆御仏である。

 こうして祈りの言葉に修飾語を付け加えて論理を整えたとしても、それはパンチのない、説明的な文になってしまう。そして、それを読んで救われる人の数は、きっと減少する。だから、祈りの言葉に“論理の飛躍”があることは「問題点」や「欠点」ではなく、ましてや「汚点」とは言えないのである。しかし、だからと言って、論理を無視して書いた文が、必ず優れた祈りの言葉になるわけでもない。祈りの言葉を書くことは、このようになかなか微妙で、困難な仕事である。
 
谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

「日々の祈り」の真理のお言葉が、雅宣先生の精緻を極めた推敲を通して表現されていればこそ、私達に深い感動と感激を与えるのだと実感致しました。心より感謝申し上げます。

投稿: 北田順一 | 2007年4月 5日 00:34

副総裁先生

「日々の祈り」(祈りの言葉)を神想観の中で読み始めて約1週間経ちましたが、朝に夕に心が爽やかと言うか和やかになります。

まだ、現象と実相の違いが理解出来ていない私にとって、毎日神想観の時に読み続ければ、必ず、「現象と実相」が理解できるようになると信じ切ることが出来るようになりました。

「日々の祈り」は思想、哲学を超えた真理を私のようなものにも理解できるように解説していただいているポエムだと感じております。
ポエムだから、韻を踏まれておられるのだと思います。
毎朝、毎夕が楽しみです。

そして、「祈りの言葉」は真理の解説書ではなく、何度も何度も拝読して体得する「言葉の漢方薬」ような気がしております。

ありがとうございます。

投稿: 佐藤克男 | 2007年4月 6日 06:27

北田さん、

 コメント、ありがとうございます。
 私の場合、「精緻を極めた推敲」というのとは少し違う感じの言葉探しをしています。いわくいいがたいものがあります。

佐藤さん、

 お役に立てれば、幸いすぎることはございません。実相と現象との違いは生長の家では難しいところですが、実相は「理解」というのとは違う面があると思います。あなたは、ご自分の理想を「理解」するのではなく、「これが理想だ」と内部ですでに了解していると思います。それと似たようなものです。

投稿: 谷口 | 2007年4月 6日 16:23

谷口雅宣先生

>いわくいいがたいものがあります。

霊感的、直観的なものでしょうか?
祈りの中から「祈りの言葉」が生まれるのでしょうか・・・・・?。
これも勝手な解釈でした。「いわくいいがたし」ですね。

投稿: 北田順一 | 2007年4月 6日 18:57

 私は”「偶然はない」と知る祈り”を読んだ時、10年来悩んできたことの解答を得た思いで、嬉しくて泣きました。現象に悩み苦しんだときは、この祈りを読んでいます。

投稿: 国重 | 2007年4月 7日 10:45

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