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2007年4月 2日

祈りの言葉を読む (1)

 生長の家創始者である谷口雅春先生の著書『叡智の断片』(日本教文社刊)には、次のような言葉がある:
 
「実相と現象との問題ぐらい間違われて取り扱われる問題はないのである。それの混同と混乱と、その取り扱いの不適正とで人生は不幸になるのである。」(pp.113-114)

 同じ書の少しあとには、こんな言葉も出てくる:

「説法に二種類あり。現象世界に処すべき方法を説くことあり。実相そのままを説くことあり、混同すべからず。」(p.195)

 後のものは、私が最近、生長の家講習会で頻繁に引用している文章だ。これは「生長の家の説法に2種類がある」という意味だけでなく、「宗教の教えには一般的にこの2種類がある」ことを知ってもらうためである。このことを意識しながら宗教書を読むのと、そうでないのとでは真理の理解に雲泥の差が生じてくるだろう。ましてや、実相と現象の区別を全く知らない人が宗教書を読むとなると、正しい教えを間違って理解する可能性が増えるのである。
 
 では、生長の家では、この実相と現象についての教えを、常に厳密に分けて記述しているかというと、必ずしもそうではない。このことは、かつて第1回目の生長の家教修会が行われた際、私が“いの一番”に述べたことである。この教修会の記録『歴史から何を学ぶか』(2004年、生長の家刊)には、次のようにある:
 
「……谷口雅春先生は何を説かれたかというと、『実相世界』を説かれたのです。(中略)しかし、その一方で、仏教でも説かれている唯心所現の真理も説かれた。これは現象世界の話です。ですから、先生が厖大な著作の各所に書かれているお言葉というものは、これは実相世界のことを語っているのか、それとも現象世界のことを語っているのかを、我々がきちんと判別して理解しないといけない。そこが一つの重要なポイントだと思います。」(pp.71-72)
 
 私はこのあと、実相についての記述と現象についての記述は、「1冊の御著書の中で重なり合っていたり、同じ章の中で重なっていたり、さらには1文--1つのセンテンスの中で重なり合っていることもある」(pp.72-73)とも書いている。これはもちろん、雅春先生の御文章に難クセをつけているのではない。宗教的な文章には、本来こういう性質があるし、またそうでなければ、現象にのみ注目しがちの読者の目をそこから離して、実相の高みへと導く助けにならないことが多いからである。

 例えば、『真理の吟唱』の中の「わが家、天国浄土の祈り」にはこうある:

「仏の“いのち”は無量寿であり、その“いのち”が私の内に宿っていて、私の“いのち”となっていられるのであるから、私の“いのち”も無量であり、死することなく病むことなき存在であるのである。
 だから私がたとい病もうとも、それは病んでいるのではないのである。“病んでいる”という夢を見ているのである。私がたとい死のうとも、実は死んでいるのではない。“死”の夢を見ているに過ぎないのである。」
 
 段落にして2つ分を引用してあるが、最初の段落は「実相」についての記述であることは明白だ。ここを読んで、「生長の家では肉体生命が無限に続くと説く」などと理解する人は少ないだろう。では、2番目の段落はどうだろうか? 構文は最初の段落のような単純な記述ではなく、「△△しようとも○○である」という複雑な条件文だ。この条件文の前半は「現象」のことであり、後半は「実相」のことである。この関係がハッキリと理解されないと、真理は伝わらない。つまり、「人間は“現象的に”病んだり死ぬことがあっても、“実相においては”病まず、死なない存在である」という意味である。
 
 この辺りのことは、大方の読者は理解されているだろう。
 
谷口 雅宣

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