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2007年3月21日

“終り”は“始まり”である

 春分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」が行われ、私は斎主として務めさせていただいた。以下は、祭祀ののちに私が述べた挨拶の概略である。
 
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 本日は春のお彼岸のお祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございます。

 先ほど祝詞の中でも申し上げましたが、本日は生長の家の人類光明化運動に挺身・致心・献資の誠を捧げてくだり、霊界へ逝かれた私たちの運動の先輩の方々に対して、生前の功績を讃えお礼を申し上げると共に、今後の霊界でのご活躍と幸福とを祈念するお祭でした。招霊に際して読み上げられる数々のお名前の中には、私が個人的に知っていたり、お世話になった方もいらっしゃり、「あぁ、あの方もあの人も、肉体のお姿はもう見られないのだなぁ」との感慨をもちました。皆さま方もそれぞれに、きっと同じような感慨をもたれたことと思います。
 
「人間の生命は不死である」というのが生長の家の重要な教えの1つであります。この場合の不死というのは、肉体のことではなく、通常“魂”とか“霊魂”と呼んでいる肉体を動かしている見えない“力”のようなもを指しています。「帰幽の神示」には、「汝の肉体は汝の念弦の弾奏する曲譜である」とあります。また、「生命はその念弦の弾ずる曲譜にしたがって肉体を現すのである」とあります。ここでは、私たちの人生は、それぞれ独特のメロディーとリズムをもった音楽に喩えられているのです。先ほども聖歌隊の皆さんに『久遠いのちの歌』を合唱していただきましたが、あのように長い曲もあれば、もっと短い曲もある。例えば、『光』とか『声』という聖歌は、五七五七七の短歌から作られた曲ですから、演奏時間はとても短いです。

 しかし、そういう演奏時間の長短によって音楽の価値が決まるわけではない。それと同じように、人は長生きしたか短命だったかで、その人生の価値は必ずしも決まらないと言えます。「帰幽の神示」では、そのことを「地上の生活は汝の初歩の1曲である。速やかにこれを終るものは、初歩の教本を速やかに終えたものである」と表現しています。しかし、だからと言って、長寿の人は教本を終えるのが遅いノロマだという意味ではありません。

 音楽には「重奏」という形式があります。先ほど聴いた合唱では、ソプラノ、アルト、テノール、バス……というように、いろいろの高さの音が重なることで、荘重なハーモニーが生れます。これは、私たちが独身で送っていた人生に恋人ができ、やがて結婚して子どもが生まれ、家族が増え、あるいは社会の中で多くの人々と共に生きることと似ています。その中でハーモニーが生じれば、その曲に参加しているすべての人々が生かされ、美が生れます。しかし、独奏とか独唱というのも立派な音楽です。それによってしか表現できない曲想もあります。だから、すべての人の人生には価値があると言える。ただし、音楽と同じように、人生で重要なのはハーモニーですね。「音」が外れてしまっては、独奏でも、重奏でも、オーケストラの演奏でも、それは失敗といえるでしょう。だから、人生でも「調和」というのがとても大切になります。
 
 私はいつも、この春の初めの季節に慰霊祭がもてることは、とてもよい廻り合わせだと感じます。この時季には植物の新芽が出、花が咲きます。ちょうど昨日、東京地方は日本で一番先にソメイヨシノが開いたと発表されました。しかし、東北の青森当たりでは、サクラの開花は4月20日ごろだと言っていました。つまり、この時季は、何もない冬の寒い記憶がしっかり残っていながら、新たな生命の誕生と成長の期待を同時にもつことができるのです。これは、私たちがご先祖や知人の慰霊をしながら、人間の「死」あるいは「不死」について考えるのに最良の時季ではないでしょうか。なぜなら、人間はこの自然界の生命と同じように、一見“死”と見えるような消滅の時期を経過したあとに、新たに“生”を迎えるからです。人間は生れ変わるからです。別の言い方をすれば、“終り”とは新たな“始まり”であるということです。

 この3月の初めに『日々の祈り』という本を出させていただきましたが、その中から「“終り”は“始まり”であることを知る祈り」の一部を紹介します。この祈りでは、神の子である人間は神の無限性を包蔵していることを確認したあとで、次のように続きます--
 
 (「“終り”は“始まり”であることを知る祈り」--『日々の祈り』pp.178-179--を朗読)
 
 このように私たちは、一見有限の中にいながら無限を表現している生命である--これが「人間の生命は不死である」という意味です。今日、祭祀させていただいた御霊は、有限な肉体を使った表現を終えられて、次なる表現活動に向われているわけです。私たちとは違う世界へ行かれたとしても、同じ神の子として、同じ表現者として、またいずれ袖が触れ合うこともあるのです。そんな時、「しっかりやってるねぇ!」と互いに肩を叩き合えるように、私たちも益々、この御教えを生き、そして他の人々にもどんどんお伝えして、神の子の本性を表現する人類光明化・国際平和信仰運動を力強く推進してまいりましょう。
 
 今日の慰霊祭に際して、所感を申し上げました。ご静聴、ありがとうございました。
 
谷口 雅宣

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コメント

合掌、ありがとうございます。
 質問ですが、雅宣先生の御文章はご自分で打たれてますか。それとも誰か、速記者などがいて書かれているのでしょうか。少し読みづらい所があるのは私だけなのでしょうか。
日々の祈りを出されていますが、雅春先生を越えられたのでしょうか。先日、講習会で、パソコンで写経はしない方がと言われましたが、私は今パソコンで「真理の吟唱」を写経してます。一冊できました。で、思ったのですが、日々の祈りは、真理の吟唱にとっても似てます。パクリのようだと思いますが、こんな失礼な事を言ってはいけませんよねえ。

投稿: フジイ敦子 | 2007年3月21日 23:13

フジイ敦子様

>雅春先生を越えられたのでしょうか。

 雅春先生も雅宣先生も、もちろんフジイさんも神の子であり神において一体です。信仰者としては、超えた超えないの問題ではありません。信じるか信じないかの問題です。

>日々の祈りは、真理の吟唱にとっても似ています。パクリのようだと思いますが、

 「日々の祈り」を写経してみてください。私はその真理の深さに感動しました。真理は一つです。私は少しもパクリとは思いませんが、雅春先生とお孫さんの雅宣先生が似ても良いではありませんか。むしろ信者としては頼もしく思います。

投稿: 北田順一 | 2007年3月22日 07:01

日々の祈りは先生の優しさに溢れていて、今を生きている私達にとって一番必要なお言葉に溢れています。

雅宣先生を批判される方の声さえこのブログで受け止めてくださる雅宣先生のお心の広さ、優しさにいつも感動しています。私は雅宣先生が大好きです。


率直すぎてすみません。私こそ失礼しました。

投稿: 酒井幸江 | 2007年3月22日 07:03

合掌、ありがとうございます。
 宗教上の経典というものは必ず霊感に依って書かれたものでなければならないのであります。霊感と云うと何であるかと云いますと、眼、耳
鼻、口、皮膚などの五つの感覚以上のパッと判る感じであります。眼、耳、鼻、口、皮膚を五官云いその五官を通して感じられる感じは「感覚」と云うものでありまして、「霊感」ではないのであります。
 真理 第一巻
世界のすべての善き宗教は色々の教祖達が行をしたり、修養につとめたりした極、そう云うような天地に満つるいのちの波と一つになれるような自分の心の波になった時に霊感として直感的に閃いてきたものでありまして、これが宗教の中心の教えになるのであります。
 霊感によって天地の成り立ちや、人間の成り立ち、人間がどうして生きて行くべきかの、「生きる道」の書かれたものが宗教的経典であります。だから霊感のない人が宗教を製造しようと思っても宗教は製造出来るものではないのであります。
谷口雅春先生は、沢山の書をのこされました。清超先生は、その御文章を分かりやすく御説きくださいました。そして私達は理解し、生活の中に真理を生きて来ました。
雅宣先生は、何か新しい物を作りたいのではないのでしょうか
私は、生長の家とは、谷口雅春先生の書から学びたいと思っております。それは、雅宣先生の言われる、原理主義ですか。

投稿: 藤井敦子 | 2007年3月22日 10:05

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