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2007年2月12日

神武東征の神話考

 前回の本欄で、私は「神話は一種の“文学作品”で様々な解釈が可能」だと書いた。これは、我々が見る夢のように、そこに登場する様々な人や事物は、暗号のように意味が隠されていることが多いからだ。しかし、これらの暗号を解く正しい“鍵”を手に入れれば、これまた我々の見る夢のように、複雑で飛躍の多い神話の物語の背後にある深い意味を知ることができると考えられている。「夢の解釈」が可能なように「神話の解釈」も可能であり、両者には内容的な共通性さえあると言われている。
 
 そういうことを言ったのは、アメリカの神話学者のジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell)という人だ。キャンベルは、その代表作と言われる『千の顔をもつ英雄』<上下巻>(The Hero with a Thousand Faces)という著作の中で、そのことを詳述し、世界中の神話や古い教典の中から多くの実例を引いて、「外形こそさまざまに変容していても驚くほど恒常不変な[内容をもつ]同一の物語」(上巻 p.15)があることを証明してみせた。彼は、「神話は衣裳を変えながらもいたるところで[象徴的に]同一の顕現をしめす」(p.16)というのである。特に、神話に登場する「英雄」に注目し、この英雄は、世界中の多様な文化的土壌から生まれたものであっても、たいていは一定のパターンで行動することを示した。
 
 その「一定のパターン」とは、次のようなものだ--
 
「英雄は日常世界から危険を冒してまでも、人為の遠くおよばぬ超自然的な領域に赴く。その赴いた領域で超人的な力に遭遇し、決定的な勝利を収める。英雄はかれにしたがう者に恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する」(p.45)

 箇条書きにすれば、①分離もしくは出立、②試練と勝利、③帰還および社会との再統合、の3段階のパターンである。釈尊が悟りにいたる物語にも、旧約聖書にあるモーセの物語にも、このパターンが認められるというのである。

 ところで、神武東征の物語にこのパターンが潜んでいるのだろうか?

 『日本書紀』によると、神武天皇は15歳で太子となり、日向国の吾平津媛(あひらつひめ)をめとって手研耳命(たぎしみみのみこと)という子をもうけていた。そして、東征を思い立ったときにはすでに45歳になっていた。ということは、30年間も太子として生活していたのだから、敢えて生命の危険を冒して遠方へ戦闘に向う必要は、普通はない。にもかかわらず、遠い東の土地に四方を山に囲まれた美しい土地があり、そこが国の中心としてふさわしいと考え、諸々の皇子と軍団を率いて、南九州から出発するのである。いったい何のためか? 『日本書紀』の説明では、それら遠くはるかな土地では自分たちの徳がおよばず、村々にそれぞれ中心者がいて、互いに争い合っている。その争いを平定して統一国家をつくるべきだと考えた、というのである。

 これはまさに、平穏なる日常世界から出発して超人的な偉業をなしとげようとする意志を表している。今でこそ、宮崎空港から大阪空港までは一足飛びだが、当時の状況を考えると、この決意は超人的であり、気の遠くなるような道程と困難とが予測できたはずである。だから、この東征の決意は上記の「分離もしくは出立」のパターンに合致すると言える。
 
 予想されるように、東征の道程は困難をきわめた。『日本書紀』によると、決意の年の10月5日に一行は出発、日向から大分方面に海路北上し、途中で水先案内人となる国津神・珍彦(うずひこ)を船に乗せ、莵狭(うさ=大分県宇佐郡)に立ち寄って歓待を受ける。その後、11月9日には岡水門(おかのみなと=福岡県遠賀郡芦屋町)、12月27日には安芸国(広島県安芸郡)、翌年3月6日には吉備国(岡山県)に入る。ところが、そこで3年を過ごすのだ。軍備を調えるためという。『古事記』の記述は少し違っていて、北九州に1年、安芸に7年、吉備には8年も滞在したことになっている。このあと一行はいよいよ大阪から近畿地方に上陸、奈良の龍田(北葛城郡王寺町)を目指すが、道が狭いために引き返し、改めて生駒山を越えて大和へ向おうとする。この時に、長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と衝突して兄の五瀬命(いつせのみこと)が負傷するのである。(つづく)

谷口 雅宣

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