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2007年2月 8日

意味と感覚

 一昨日(6日)の本欄では、七面倒くさい議論で読者を煙に巻いてしまったかもしれない。私が絵を描く動機を理解してもらおうと思ったのだが、かえって誤解の種になってはいけないと思い、別の角度から説明したい。
 
Mtimg070208  休日の今日、私はある生活雑貨店へ妻とともに行った。そこにはいろいろな趣向を凝らした食器、洗面用具、文具、絵本、玩具などが並んでいて、手に取ったり、眺めているだけでも十分楽しめる。そんな中に、私はここに掲げた絵にあるようなものを見つけたのである。左側のマグカップのことではなく、その右に並んだ大きなテントウムシのようなものだ。最初、私はこれをテントウムシの縫いぐるみだと思った。ところが、近くに置いてある説明書きを読むと、「パソコン・ディスプレイの埃を拭くためのクリーナー」だという。私は「参ったなぁ~」と思った。
 
 何に参ったかというと、この商品ほど「意味」と「感覚」のズレが大きいものに、私は近年出くわしたことがなかったからだ。簡単に言えば、デザインが意表を突いているのである。パソコンのディスプレイには静電気で埃が付きやすい。それを取り除くためには、私はティッシュペーパーを使ったり、その目的で売られている薬を浸み込ませた布で拭いたり、もっと無精なときは、着ているセーターの肘で拭ったりする。だから、こんな縫いぐるみ型のクリーナーがあるなど想像もできなかった。これで埃を除くには、テントウムシの“お腹”の部分をディスプレイの表面に当ててこするのである。そのために、手でつかみやすい大きさになっている。つかみ心地も悪くない。そして、“お尻”の脇に細いリボンのリングが付いていて、突起状のものに吊るすことができる。パソコンのディスプレイの上に置いたり、脇に吊るしておける、ユーモア溢れたマスコット兼掃除用具というわけだ。

 この商品と、あの七面倒くさい議論の間に何の関係があるのだろう? こんなふうに考えてみてほしい--この商品を見たことのない客がこの店に電話をして、「そちらに何かバレンタインデーの贈物にできる商品がありますか?」と訊いたとする。電話に出た店員は、そのとき別のことに気を取られていて「パソコンのディスプレイ用のクリーナーがありますが、どうでしょうか?」と答えたとする。これは“意味優先”の説明の仕方であり、店員の答えは決して間違っていない。しかし、電話口の客は恐らく、そんなものはいらないと考えるだろう。なぜなら、ディスプレイ用クリーナーをバレンタインデーに贈るなど無粋だからだ。ところが、同じ店員が「バレンタインデー」という言葉にピンときて、少し気を利かせて「かわいいテントウムシの縫いぐるみがありますが、これはパソコンのディスプレイの埃取りなんです」と“感覚優先”の説明をしたとしよう。これならば、電話口の客が興味を示す可能性はグンと増すはずである。

 客にもっと興味を持たせるには、この店のインターネットのサイトに、テントウムシ型のクリーナーの実物の写真を大きく掲げることだ。この方法は、「他人の目」と「言葉」を介さずに、客に直接商品を見せることになる。それを一見して「わぁ、かわいい!」と思った人は、それから「これは一体何?」と、その商品の「意味」を考えるだろう。目から入った「感覚」が先で、それを「ディスプレイ用クリーナー」という意味に結びつけるためには、言葉が必要だ。その言葉を聞いて(あるいはパソコンの画面で読んで)「なぁーんだ」と落胆する人はこれを買わないだろう。が、「かわいい」という印象をもち続ける人や、「へぇー、面白い」と思う人は、値段しだいでは買ってくれる可能性がある。買うということは、価値を認めることだ。
 
 この例では、“意味優先”の視点で見るとつまらないものでも、“感覚優先”の視点に切り替えると、その価値が認められる場合があることが示されている。都会の生活に価値を認めるためにも、これと似た方法が有効だと思う。言葉を介さずに、都会の事物を直接感覚で受け取るのである。言葉が我々を導いていく先は「意味の世界」であることが多い。これに対して、感覚は我々を直接感動へと導くことができる。

 例えば、読者は毎日、新宿3丁目を経由して仕事場へ行くとする。そのとき、1軒の喫茶店の前を通るとしよう。この店を「通勤路の新宿3丁目にある喫茶店」として捉えるのが“意味優先”の視点である。こういう見方では、この店への関心はほとんど生じないだろう。しかし、ある日、その通勤路で「西日を浴びて、木の肌を克明に見せた板壁の店」が見えたとしよう。もちろん、この喫茶店がそう見えたのである。その時、「なんだ、いつも通る店じゃないか」と考え直して“意味の世界”へもどってしまわずに、見えたとおりの光景をじっと味わってみるのはどうだろう。その板壁の文様が心を打ったならば、それをしっかりと見て、心に留めるのである。そして、その感動を絵に描けばいい。

 私のいう“感覚優先”の視点を、理解してもらえただろうか。忙しい都会人は、大抵“意味の世界”で生きている。そこから“感覚の世界”へ移って都会を見れば、そこにはまだまだ感動すべきものが沢山ある、と私は思うのである。

谷口 雅宣

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コメント

初めて書き込みします。
三ヶ月程前に、このブログの存在を知り、興味を持って、毎日拝見しています。
私の知識や理解が足らず、難しくてついていけない日もありますが、毎日楽しみにしています。
私は田舎育ちですが、主人の転勤で、埼玉、千葉に住んだことがあり、東京によく遊びにいきました。
当時はつらいことが多かったですが、大都会のモダンで、斬新な建物や、華やかさに随分と気持ちを引き上げてもらいました。その一方で、街路樹の美しさに、ハッと息をのんだり、少し路地を入ると、ひっそりとある神社を見つけて、都会の中の”静”を感じて涙したりしていました。
これらは、田舎暮らしの時には、あまり感じなかったことです。今は、再び田舎暮らしですが、私は東京の街が大好きです。
先生のおっしゃる”感覚優先”とは、豊かな感受性とも言えると思うのですが、どこに住んでいても、持ち続けていきたいと思っています。

投稿: 国重 | 2007年2月 9日 12:09

国重さん、

 コメント、ありがとうございます。

 「豊かな感受性」……そう、そう。その言葉があれば、私の面倒くさい説明は不要だったかもしれませんネ。(笑)

投稿: 谷口 | 2007年2月10日 14:02

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