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2007年2月28日

映画『ダーウィンの悪夢』(Darwin's Nightmare)

 生長の家代表者会議も終ったので、ひと息入れようと思い、妻を誘って渋谷の映画館へ行った。目当ては、2004年のヴェネツィア国際映画祭の受賞作である表題の映画だ。しかし、上映館が少なく、新聞には新宿にある1カ所しか出ていなかったので、インターネットで検索したら、渋谷にもう1カ所あった。渋谷には多くの映画館があり、そこに住む私たちはこれまでいろいろな所で映画を見たが、その映画館は聞いたことがなかった。地図では東急本店の向い側ということなので、「それでは……」と出かけることにした。

 その映画館は目立たないビルの3階にあって、チケット売場から奥へ入ると“穴倉”のような小さな部屋に、背の低いソファーや椅子が並んでいた。観客の入りは7割ほど。昔あった「ジャズ喫茶」の一方の壁面にスクリーンがかかっている……そんな感じだ。映画館だと思わなければ、芝居小屋にも見える。映写機も、液晶プロジェクターのようなものが天井に1つ付いているだけだ。これでクリアーな映像が見えるのかどうか心配したが、いざ上映が始まると、そんな心配は無用だった。

 この映画は、生物多様性と南北問題の双方を含んだ真面目なドキュメンタリーである。映像は、決して美しくない……というよりは、恐ろしくヒドイ状態の場面もある。が、そのことが却って、どうしても悪条件下で撮らねばならなかったというリアリティーを表現していた。同じドキュメンタリーでも、前回紹介した『不都合な真実』は、確かなカメラワークと見事な編集、美しい音楽で鑑賞者を惹きつけたが、この映画はBGMも効果音もほとんどない。撮影者は、被写体の人の前でカメラを回し、脇で質問する声が聞こえ、画面の人はそれに答えるのに困惑したり、嫌がったり、得意になったり、あるいは敵意を示す。そんな人々のナマの映像が、鑑賞者の前に突きつけられる。だから、「映画の世界に浸って楽しもう」などと思っていくと、とんでもないシッペ返しを食らう。そこには、豊かで平和な国・日本とはまるで別の、残酷なほど貧しく、神経が疲れるほど危険な社会が展開する。

 この映画は、タンザニア、ケニア、ウガンダの3国に囲まれたアフリカ最大の湖、ヴィクトリア湖の、タンザニア側の1部落の生活に焦点を当てている。この湖は、琵琶湖の100倍、九州の2倍の広さで、多種多様の生物を育み、生物の進化を目の当たりにすることができるというので、「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていた。ところが、1954年と1962年に、そこに棲息していなかったナイルパーチという大型淡水魚を誰かが放流した。漁獲量を増やすためとの善意でやったことらしいが、ナイルパーチは肉食もするため在来種を駆逐してどんどん殖えていった。日本の湖に放たれたブラックバスや、ブルーギルのことを思い出してほしい。これに工場廃水の流入や森林伐採も加わって、ヴィクトリア湖の生態系が破壊された。が、その一方で、タンザニアにはナイルパーチを加工してヨーロッパや日本へ輸出する産業が発達して、それによって仕事が創出され、豊かになる人々も一部現れた。
 
 映画では、EU政府の役人らしき人が現地へやってきて、自分たちの援助で新しい産業のインフラづくりに成功したと満足気に発言するシーンが映し出される。しかし、彼らが設置した高価な解体処理施設、冷凍・冷蔵設備を通って出てくる魚は、現地の人々の経済力をはるかに上回るのだ。つまり、大勢のタンザニア人が参加して漁獲される1日500トン(!)ものナイルパーチは、現地の人々には買えず、豊かなヨーロッパ人、日本人の食卓に載るのである。否、もっと正確に言おう。タンザニアの普通の貧しい人々は、ナイルパーチからフィレ肉を取った後の残骸を拾い集めて、それをフライにしたものを食することで、かろうじて飢えをしのいでいる。人々の間にはエイズなどの病気が蔓延し、親を失った子どもたちは「ストリート・チルドレン」となって、盗みやケンカや毒物汚染の中で生きている……。
 
 ナイルパーチとは、日本ではかつて「白スズキ」の名で流通していた魚で、2003年の法改正により、現在ではそのままの名を表示して売っている。わが国は、年3千トン前後をタンザニア、ケニア、ウガンダから輸入していて、2004年にはその量が4千トンになったという。レストランや給食などで白身魚フライとして使われるほか、スーパーで味噌漬けや西京漬けとしても売られているという。読者は今度、レストランやスーパーへ行った際、この魚をじっくり観察し、そして考えてみてほしい。我々はアフリカの人々を助けているのか、それとも搾取しているのか……?。また、どうすることが、彼らの生活を助けることになるのかと。
 
谷口 雅宣

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2007年2月27日

環境省は“本筋”を通すべし (2)

 昨日の本欄では、同日付の『日経』の記事をもとにして、「環境省が策定を進めている環境影響評価(環境アセスメント)の新指針案には、アセスメントの対象に発電所が明記されていない」と書いた。この文章は、前回引用した記事に加え、次のような文章から判断して書いたものだ:
 
「2007年度から計画の初期段階からアセスメント実施を義務づけることになるが、最大の焦点だった発電所については、新アセスメントの対象として明記しなかった。」

 これでは、どう読んでも新指針案では「発電所」が特別扱いになっていると読める。ところが、今日(27日)付の『朝日新聞』は、同じ新指針案について、次のように書いている:
 
「ガイドライン案では、道路や鉄道、空港、ダム、発電所、産業廃棄物処分場建設など現在の環境影響評価法が対象とする13事業をSEAの対象と想定。」

 つまり、「発電所」は新指針案の13事業にちゃんと含まれているのだ。これはオカシイと思い、環境省の総合環境政策局環境影響評価課に確認をとってみた。すると、担当者の弁は、「2月26日の日本経済新聞の記事はこちらの意にそぐわない内容です。(新指針案からは)発電所を外してはいません」というのである。環境省の担当者がそう言うのなら、『日経』の記事が誤っているのである。あるいは(考えにくいことだが)、『日経』の記者は、別のニュースソースから環境省の担当者が知らない情報を得て記事を書いたのかもしれない。いずれであるのかは確かめようがないが、私の前日の評価が事実誤認にもとづいた可能性があるため、昨日の文章の最後の段落を少し書き換えた。

 また、昨日決定したのはあくまでも新しい指針の「案」だから、まだ本決まりではない。後日の変更によって発電所を特別扱いする可能性もあるし、そうならないかもしれないので、ここでは目くじらを立てないことにする。

 上記の引用文にある「SEA」の意味だが、これは Strategic Environmental Assessment の頭文字を取った語で、環境省のウェッブサイトの説明では、「個別の事業実施に先立つ“戦略的(Strategic)な意思決定段階”、すなわち、政策(Policy)、計画 (Plan)、プログラム(Program)の“3つのP”を対象とする環境アセスメントであり、早い段階からより広範な環境配慮を行うことができる仕組みとして、その導入が国内外で議論され、実施されはじめているもの」という。日本語では「戦略的環境アセスメント」と呼ぶらしい。何かすごく大げさな表現だが、簡単に言えば「事業の計画段階で環境への影響評価を行う」ということだろう。詳しくは、このサイトに説明がある。
 
 ところで今回、発電所の建設をめぐって新指針案への異論があったことは事実のようだ。『朝日』の記事もそのことに触れて、「計画段階で事業内容が明らかになると地価高騰を招き、手続きの長期化・コスト増となる心配もあるなどとして、根強い反対がある」と書いている。だから、新指針案では、民間が行う事業では計画段階での手続きが終了した後に、計画を公表できる余地を残し、さらにこの新たな手続きには法的拘束力がないことも明記したという。この辺の内容は、新聞記事だけではよく分からない。実際の指針案の公表を待つほかはない。
 
 生長の家では今日から、日本と海外の代表者が東京・原宿の本部会館に集まって、4月からの新しい運動について話し合う「生長の家代表者会議」なるものが始まった。そこでは、森林の機能を生かしたまま本部の業務を遂行するための“森の中のオフィス”を、2011年度までに設置する計画を含めた運動方針が話し合われた。実際の設置場所の選定に際しては上記のSEAの手続きを踏むことになるかもしれないので、今回の指針案の推移には関心をもたざるを得ないのである。

谷口 雅宣

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2007年2月26日

環境省は“本筋”を通すべし

 24日の本欄で、日豪の温暖化対策を比較した際、日本の環境省には厳しく、オーストラリアを誉めすぎた気がする。日本は産業分野での省エネ努力は先進国ではトップクラスで、日本の省エネ技術、日本製品の省エネ度も大変優秀である。この成果に環境省とその前身である環境庁が大きな役割を果たさなかったはずはない。

 これに対しオーストラリアは、京都議定書に参加しなかっただけでなく、2004年の国民1人当たりの温室効果ガスの排出量は先進国の中では最大という悪い成績だ。26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿したウイリアム・ペセック氏(William Pesek)によると、同国のハワード首相は、アル・ゴア氏の映画『不都合な真実』のことを「娯楽映画だ」と言ったり、白熱灯の廃止をぶち上げたターンブル環境相でさえ、2月に野党の労働党のことを、彼らはオーストラリア国民を「アル・ゴア式に『デイアフター・トゥモロー』的大洪水が来ると言って脅している」と批判したらしい。しかし、そういう豪政府でさえ、最近は軌道修正を余儀なくされているのだ。ペセック氏が挙げる理由は2つ--①昨年来の厳しい旱魃が国民の意識を変えつつある、②ハワード首相には今年、選挙がある。
 
 そういう文脈でわが国を見たとき、京都議定書の議長国であり、この条約を率先して守るべき立場にある日本の行政が、それに相応しい熱意をもって動いていないように見えるのが、私は残念でならない。2月4日の本欄で、環境省が計画している二酸化炭素の地下固定のための海洋汚染防止法の改正について触れたが、その際、この法改正を経産省がやるのでなく、環境省がやる点について疑問を呈し、「経産省はその仕事がら、経済界の利益になることを推進するのは当然としても、環境省が経済界の利益を第一に考えるのでは困る」などと書いた。これは言葉足らずだった。国の法律には、それぞれの所管官庁があり、海洋汚染防止の立場からは環境省がこの法律の改正に関わるのは当然である。私が言いたかったのは、CO2の地下固定に関わる企業は、その排出を最も多くしている企業だから、よほどしっかりと企業側の“仕事の質”を見極めて許認可をしなければ、次世代、次々世代の人類を犠牲にすることになる、ということだ。許認可権をもつ官庁と、許認可を受ける企業との癒着は、しばしば問題になっていることを忘れてはなるまい。
 
 そんなことを考えていた矢先、今日(26日)の『日本経済新聞』に気になる記事を見つけた。環境省が策定を進めている環境影響評価(環境アセスメント)の新指針案には、アセスメントの対象に「発電所」が明記されていない、という内容だ。現行の指針では、高速道路、鉄道、空港、発電所など13の大規模工事をする際、ほぼ計画が確定してから環境アセスを実施する。これでは、工事後の環境問題が予見できる場合でも、計画の大幅な変更が難しかった。新指針では、環境アセスの時期を早めて、事業計画が固まらない段階で実施することで、道路のルート変更や事業中止などを可能にしようとするものだ。ところが、新指針案では、環境アセスを実施する対象に「発電所」を明記しないらしい。その理由を『日経』はこう書いている--
 
「対象事業のうち発電所については火力や原子力など発電方式が二酸化炭素(CO2)排出に大きな影響を及ぼすため、早期のアセス実施が必要との指摘もあった。しかし、電力会社が“計画が初期段階で明らかになると立地に問題が生じる”と猛反発。新指針案では明記を見送ることになった」

 もしこれが本当なら、「ウソだろう」と言いたくなる。発電所の立地に問題があるかどうかを審査するのが環境アセスであるはずだ。立地に問題が生じるから早期のアセスはやらないというのでは、電力会社に立地を決めさせることを意味する。これを本当に環境省が決めたのか、と私は疑う。企業の“健全育成”をはかる経産省ならそんな方針を出すかもしれない。しかし、企業による環境破壊を未然に防ぐ任務のある環境省が、企業活動に過度に同情的であっては「環境省」の名に値しない。わが国に経産省が2つある必要はないのだから、環境省の設置目的に沿った環境行政をおこなってほしいものだ。 

谷口 雅宣

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2007年2月25日

鳥と人の共同飛行

 24日の『朝日新聞』夕刊の第1面を見て、私はハッと息を呑んだ。そこには、実に不思議な縦長の写真が4段抜きの大きさで掲載されていた。画面上部には、空高く飛ぶハングライダーのような軽飛行機が画面右端に姿を消そうとしている後を、追いかけるように飛んでいく7羽のツル。画面下部には、草原か農地に建つ背の高い円筒形のサイロが1つ……。私は、スティーブン・スピルバーグの作品『E.T.』の1シーンを思い出した。E.T.を自転車に乗せて全速力で逃げる少年が、ある時点でフワッと宙に浮き上がり、どんどんと夜空を上っていく光景だ。そんな、飛ぶはずがないものが空を飛んでいるように見えた。最初は、合成写真だと思った。なぜなら、野鳥であるツルがハングライダーを追いかけるわけがないと思ったからだ。しかし、写真説明にはこうある--「超軽量飛行機に先導されてイリノリ州内を飛ぶアメリカシロヅル」。

 空を飛んでいたのは自転車ではなく、ハングライダーの下部にプロペラとエンジンを吊り下げた超軽量飛行機だった。それが先導しているのは、数が減って絶滅の危険があるアメリカシロヅルの若鳥で、人間に「渡り」の仕方を教わっているのだった。鳥類は“刷り込み”と呼ばれる方法で親を覚え、その親の動作や行動をまねることで成鳥としての能力を獲得することは有名だ。渡りもこの方法で覚えるのだが、ある種の鳥は群れの数が減って親がいなくなったり、渡りのルートを覚えている野生の成鳥がいなくなると、それがうまくいかなくなるらしい。特にガン、カモ、ツルの類は、その傾向が強い。ただし、渡りを覚えるためには、1回だけ親について飛べばいいという。

 このことを知ったカナダ人のビル・リシマン氏(Bill Lishman)は、1985年に超軽量飛行機を使ってガンに渡りを覚えさせられるかどうかの実験を始め、1988年に数羽の群れを飛行機について飛ばせることに成功した。数年後、アメリカシロヅルを研究している科学者がリシマン氏に連絡をとり、同じ方法で、このツルを冬に南方の越冬地へ渡らせることができないか、と相談を持ちかけた。野生のアメリカシロヅルは極端に数が減り、絶滅が危惧されていたから、その数を増やすには渡りを教えることが必須だったのだ。
 
 リシマン氏は同意し、最初はまだ数が多いカナダガンを使って実験した。そして、仲間のジョー・ダフ氏(Joe Duff)とともに1993年、18羽のガンをカナダのオンタリオ州からアメリカのバージニア州までの650キロを飛んで渡らせることに成功した。翌年、これらのガンは、リシマン氏の家のあるオンタリオ州まで自力でもどってきた。これに自信を得た両氏は、その年にアメリカシロヅルに渡りを教えるための非営利法人「渡り計画」(OM、Operation Migration)を設立したという。
 
 しかし、ツルの教育には難しい点があった。それは、ツルは人間への“刷り込み”が強く、人に育てられると渡りをしたがらないのだった。そこで、リシマン氏らが考えたのは、「人間がツルになる」こと、そして「飛行機を親と思わせる」ことだった。この方法は徹底していた。ツルを育てる場合、卵の状態の時から録音した超軽量機のエンジン音を聞かせた。手にはめて動かすツルの縫いぐるみを作り、卵からかえったヒナには、最初にそれを見せた。そして、ツルの世話をする人にはダボダボの白い服を着せ、人間の形が分からないようにし、常にツルの縫いぐるみを持たせたうえ、発声を禁じた。また、超軽量機に形と音を似せた車を作って、ツルが飛べるようになる前に、ついて歩かせる訓練もした。そしてついに、若いツルたちは超軽量機自体について歩くようになり、機体が飛べば、それについて飛ぶようになったという。
 
 上記の『朝日』記事によると、昨年度の渡りは10月に行われ、18羽が北部のウィスコンシン州から南へ1900キロ離れたフロリダ州西部の保護区まで、2カ月をかけて移動した。ところが、2月2日にフロリダ州を襲った竜巻で、17羽が死んでしまったという。また、OMのウェッブサイトによると、その後の20日には、もう1羽の死体が発見された。これは竜巻ではなく、ヤマネコか落雷によるものと推測されている。まことに残念だ。

 アメリカにはこんな努力をして、希少種になったツルを絶滅から守ろうとしている人たちがいることを、私は初めて知った。このサイトにある鳥と人間の共同飛行の写真は、一見の価値がある。その一方で、アメリカからは温暖化ガスが大量に排出され、気候変動を生み出している。誉むべきものも責むべきもの、ともに人間なのである。

谷口 雅宣

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2007年2月24日

温暖化対策、日豪の違い

 アメリカとともに京都議定書から抜けていたオーストラリアが、温暖化ガスの排出削減に真面目に取り組む姿勢を見せてきた。これは、喜ばしいことだ。白熱灯に替えて蛍光灯の使用を推進していく方針を20日、連邦環境大臣のマルコルム・ターンブル氏(Malcolm Turnbull)が発表した、と21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。州政府と相談して、2009年か2010年には白熱灯を全廃したいとしている。
 
 発表の席上、ターンブル氏は、世界中で白熱灯をやめて蛍光灯にすれば、2030年までにオーストラリアの電力使用量の5年分が節約できるという国際エネルギー機関(IEA)の試算を引き合いに出したり、全世界の電気照明から排出される温暖化ガスの量は、地球上の全乗用車から排出される量の70%に達するなどのデータを示して、この方針の有効性を説明したという。
 
 同国には、電機製品などに適用される「最少ネルギー消費基準」(minimum energy performance standards)という省エネ基準があり、これを一部の例外を除いて電球に適用することで、白熱灯を事実上販売できなくすることが可能という。一部の例外とは、医療用の照明やオーブンなど。同国では、これと似た方法で、すでにトイレ用の大型水槽や風呂場で使う高圧シャワー・ヘッドの使用を段階的に廃止してきた。白熱灯の廃止を表明したのは、同国が始めてという。

 これに比べて、わが国の環境省は20日、二酸化炭素の地下固定の技術を国内に導入するための海洋汚染防止法の改正案をまとめた、と21日の『朝日新聞』が伝えている。この2つの方針の違いは際立っている。オーストラリアの方法は実質的にCO2の排出削減を行うものだが、日本の方法は、いったん出されたCO2を地下深くに封入するものだ。この話は2月4日の本欄でも触れたが、『朝日』の記事には「発電所や工場など大規模な排出源からパイプラインなどを通して、海面下約1千メートルの地層に閉じ込める」とある。問題は、封入したCO2が将来的に漏れ出す可能性が否定できないことで、この点を見越して、今回の改正案では、海底下へのCO2の投棄を環境相の許可事業とし、漏出の有無を長期的に監視する義務を事業者にもたせるものという。排出削減はもう諦めてしまったのか、と疑いたくなる。

 CO2の地下固定については、ハーバード大学の地球宇宙科学部のダニエル・シュラグ教授(Daniel P. Schrag)が2月9日号の『Science』(vol 315, pp.812-813)に書いているが、地球温暖化防止の緊急性から見て有望な技術であっても、まだまだ確かなことは分かっておらず、技術も確立していないのである。シュラグ博士によると、海洋には大気中に含まれる量の50倍ものCO2が主に深海部に存在しているという。海藻や魚介類が吸収したCO2が、海底にゆっくりと沈殿していくらしい。だから、千年から2千年の時間をかければ、人間の活動で排出されたCO2の9割を、ここに吸収するだけの容量はあるという。しかし、このような海底の沈殿物や、地下の地質にCO2を注入した場合の“漏出”の正確な割合などについては、あまり研究が行われていないという。

 現在、CO2の地下固定の場所として考えられているのは、地下深くの帯水層や、古い油田やガス田であるが、そこには液化したCO2が、密度の高い岩盤に囲まれたり、毛管現象によって滞留しているという。そして、シュラグ博士によると、それらは「もし亀裂や断層や古いドリル穴によって沈殿状態が乱されれば、漏れ出すことがある」のである。世界にはCO2の地下固定のための実験場がいくつかあり、それぞれが年間約100万トンのCO2を地下に注入しているそうだが、この量は、今世紀半ばに毎年排出されると予測される「10億トン」に比べれば、わずかである。このような大量のCO2を地下に注入した場合、漏出する量はどうなるかの研究データなどまだ存在しない。

 そんな中で、日本は法律を改正してすぐにでもCO2の地下固定をしようとしているのである。実験データ蓄積のための法改正なら、私ば反対しない。が、次世代や次々世代の人々に危険を負わせるような方策は、放射性廃棄物の地下投棄と同様に、世代間倫理の無視であり賛成できないのである。
 
谷口 雅宣

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2007年2月23日

環境問題の裏に金属問題

 2月20日のニュースで、火の見やぐらに設置されている半鐘の盗難が茨城県で相次いでいると報じていた。骨董専門の泥棒かと思ったが、さにあらず、最近世界中で金属泥棒が多発しているというのだ。それもプラチナや金銀などの貴金属を盗むのではなく、銅や亜鉛、ニッケル、アルミニウム、ステンレスなどの普通の金属を盗むのだそうだ。しかも、それらの金属を積載したトラックを丸ごと盗むというような“大泥棒”ではなく、教会の亜鉛板の屋根をはぎ取ったり、アルミニウム製のビール樽や鋼鉄製のマンホールの蓋、ゴミ収集に使うリアカーのステンレスの蓋といった“小泥棒”が多発しているという。その原因は、中国やインド、ブラジルの経済発展だというのだから、世界の動きが私たちのすぐ隣にも反映していることがわかる。

 つまり、世界的に金属の値上がりが起こっているらしい。値が上がるということは、必要とする金属がなかなか手に入らない状況が起きているというわけだ。金属関連の商社を経営している中村繁夫氏の著作『レアメタル・パニック』(2007年、光文社刊)を読んで、世界中で金属泥棒が発生している一方で、簡単には盗めないが、レアメタルと呼ばれる希少金属を得るために、世界中で争奪戦が繰り広げられていることを知った。この本の副題は「“石油ショック”を超える日本の危機」というのだから、なかなか穏やかでない。

 レアメタルとは、ニッケル、コバルトなど比較的よく知られた金属から、インジウム、タンタルといった生産量のきわめて少ないものまで含み、計31種類である。希土類元素(レアアース)もレアメタルに含まれ、まとめてレアメタル1鉱種と数える。これらは、電子情報産業(コンデンサ、小型モーター)、光産業(ディスプレイ、発光ダイオード等)、環境産業(自動車触媒等)等の日本経済を支えるハイテク産業に使用されているため、大変重要な資源と言える。用途の中でも特に気になったのが、クリーンエネルギーや大気汚染、水質汚染、土壌の廃棄物汚染の防止に必要であるという点だ。例えば、太陽電池、電気自動車の蓄電池や発電装置、自動車排気ガスの浄化、石油、灯油、ガソリン、軽油の低硫黄化(SOx低減)、有機化合物、窒素酸化物の除去、ダイオキシンの分解等にもレアメタルが使用されている。そのため、地球環境問題の解決のために、今後、益々需要が増えることが予想される。

 日本は、環境産業も含め最先端の製品を多数生産しており、世界中のレアメタルの約25%を消費する世界最大のレアメタル消費国である。しかし、国土からレアメタルは産出せず、国内市場からはなくなっているそうだ。その理由は、需要が増えていることはもちろん、価格が暴騰しているため、各国、各企業が買い占めを始めているからだ。ちなみに、排ガス制御の触媒として使われているロジウムとういうレアメタルは、金の10倍もの価格(1g:2万円以上)で取引されているので、人々が群がるのも頷ける。売買交渉の現場では、一流企業の社員が土下座し、涙を流して懇願している様子も見られるというのである。

 私は金属問題の一端に触れ、資源・環境問題の奥深さを再び感じるとともに、政治家でもなく、商社マンでもない自分に何ができるのか考えた。でも、思いついたのは、今使っている電子機器を大切に使うことぐらいである。実は、今夏のボーナスあたりで液晶テレビの購入を考えていた。液晶テレビは従来のブラウン管テレビより省エネであり、耐久年数も長いと思ったからだ。しかし、金属問題を知った今、使える限りこのテレビを使おうと思う。液晶テレビとブラウン管テレビの消費電力の差は、暖房の温度をもう1度下げることで賄おうと今、“武者震い”しているのである。
 
(飯田雅俊)

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2007年2月22日

クロスワードを解く (7)

 2月15日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.7」の解答を発表しよう。

【縦の答え】
(イ)未完成。(ロ)祈り。(ハ)暇。(ニ)ノア。(ホ)長髄彦。(ヘ)ナタデココ。

【横の答え】
(イ)美濃。(ロ)イザナミ。(ト)仮の姿。(チ)姉。(リ)施肥。(ヌ)ヒルコ。(ル)今ここ。

 今回のクイズは、日本の神話から多く取材していることに気づいた読者は多いだろう。“ひねった”設問はほとんどなく、あえて“ひねった”と言えるとしたら、縦の(ロ)と(ハ)、それから横の(ル)だろうか。
 
 祈りとは「命の宣りごと」である、と谷口雅春先生は教えてくださった。これは「心の底からの宣言」という意味である。これに対して、祈りというものを「凝念」だと考える人の方が多いのではないだろうか。凝念とは、いわゆる“念力”のことだ。心で何かを一所懸命に唱えることで、そのことが現実に起こるとする考え方である。しかし、これによって一時的に小さい物体が動いたとしても、心身は疲弊して日常生活に差し支える。そんなことをするくらいなら、肉体の手や腕を使って物を動かす方がはるかに優れている。
 
 また、凝念を使うことは、「心で認めるものが現象に現れる」という心の法則を逆用する危険がある。例えば、病床にいる家族の平癒を祈るときなど、「神さまどうぞ治してください」と祈ることは、その家族がいま「大変な状態にある」ということが前提にあるから、そう強く祈れば祈るほど、心の底から「ああ現状は大変だ」と宣言することになりやすい。これでは、心で認めているのは「大変な状態」だから、その状態が消えることを心でわざわざ妨げていることになる。だから生長の家では、病気の平癒を祈るときは、本来完全健康であるその人の実相を心で強く思い描くという方法をお薦めする。このへんの心の持ち方については、谷口雅春先生の『詳説 神想観』(1970年、日本教文社刊)165ページ、谷口清超先生の『愛と祈りを実現するには』(1986年、同社刊)の191~194ページなどを参照されたい。
 
 これに関して、祈りの効果を科学的実験によって確かめる試みが何度か行われたことを思い出す。このことは昨年4月3日の本欄でも取り上げたが、こういう科学の実験では、被験者の心的態度まで厳密に確認しない点、どうしても明確な結果が出てきにくい。が、この実験では「祈りの効果なし」という結論になった。しかし、病気平癒の祈りではなく、祈りによって人工受精による妊娠の確率を上げる効果を調べた実験(2001年10月16日の本欄で紹介)では、「祈りに効果あり」という逆の結果が出ている。
 
 縦の(ハ)の答えは、「貧乏暇なし」という諺を思い出せば簡単に解ける。しかし、本当に貧しい人はヒマがないのだろうか、と私は疑う。これを逆に言えば、所得の高い人はヒマということになるが、現代の大企業の経営者でヒマをもてあましている人は、皆無とは言わないまでも例外的だと私は思う。私が知っているネコ好きのホームレスのおじいさんは、明治公園のベンチに寝そべって週間誌やマンガ本を読んでいることがほとんどだから、「貧乏暇あり」と言えるだろう。だから、この諺の「貧乏」とは、恐らく「極貧」の貧乏ではなく、「収入が平均以下」という程度の人、あるいは「生活に追われて働き通しの人」なのだ。

「実相はどこにあるか」という問いかけは、禅の公案にも多くある。有名なのは玄沙(げんさ)和尚の「膿滴々地」の話で、これについては昨年5月6日の本欄でも触れた--唐の時代にいた禅僧、玄沙が誤って薬を服したところ、全身が赤くただれて、膿(うみ)が体からポタポタと滴る状態になってしまったという。それを見た僧が、「いつも先生が説いている堅固法身(けんごほっしん)はどうなったのですか?」と問う。すると玄沙和尚は、「それは膿滴々地だ」と答える--こういう話である。谷口雅春先生は『日常生活の中の真理(仏典篇)』の中で、これを解釈されて「膿が滴々と流れているこの肉体そのままに堅固法身であると云う意味であります」(p.295)と説かれている。別の言葉でいえば、現象の状態に関わりなく、実相は「今ここ」にあるということになる。谷口雅春先生の聖歌『今ここに新たに生まれ』では、神の子の自覚を深めることで「今ここ」に新生することが説かれ、谷口清超先生の聖歌『悦びの歌』にも「神の国は今ここにあり」とある。

  第8問を以下に掲げる:
 
Cwp6x6008 【縦のカギ】
(イ)生滅・変遷がなく永久に続くこと。
(ロ)他の侵害から守り大事にすること。
(ハ)頭で知るだけでなく、体験を通して自分のものにすること。
(ニ)屋根を共有すること。
(ホ)人生に起こる吉凶のめぐりあわせ。
(ヘ)神の別名。
(ト)植物の体の中軸。

【横のカギ】
(ハ)人と対面して話し合うこと。
(チ)何かに心をもっぱら集中すること。
(ホ)苦しんで声を出すこと。
(リ)聖経『甘露の法雨』では、人間の肉体が死ぬことを詩的にこういう。
(ヌ)「こうでなければならない」と心に掴むと、この状態になる。
(ル)神想観の時の気合いの元になった2語のうちの1つ。
(ヲ)神社等で神がすむとされる場所。

谷口 雅宣

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2007年2月21日

好奇心の肥大化の先に

 人間の好奇心は、科学を発達させてきた大きな要因であり、哲学や宗教を支えてきた基礎的な力である。しかし、それが“欲”と結びつくと、人を危険な結果へと導くことがある。このことは多くの神話や文学にも取り上げられてきた。『創世記』の失楽園の物語には、ヘビにそそのかさえたイブの好奇心が描かれ、日本の国生みの神話にも、「見てはいけない」との妻の警告を守らないイザナギノミコトが描かれている。生物の遺伝子の研究も、最初は好奇心から始まったものだろうが、現在では家畜や作物の遺伝子を解明することで莫大な利益が生まれ、それが国家間の利害関係や人類の運命にも関わるほどになってきた。

 2006年現在、地球上で遺伝子組み換え作物(GM作物)が栽培されている面積は、1億200万ヘクタールほどだそうだ。前年比で13%増え、初めて1億ヘクタールを超えたという。21日付の『朝日新聞』が伝えている。GM作物に関する情報をまとめている国際アグリバイオ事業団(ISAAA)の調査によるもので、栽培国は22カ国、食料や飼料として輸入が認められているのは、日本を含めて51カ国。栽培面積はすでに日本国土の2.7倍に達しているという。栽培面積の国別順位は、①アメリカ(5460万ha)、②アルゼンチン(1800万ha)、③ブラジル(1150万ha)、④カナダ(610万ha)、⑤インド(380万ha)。6位は中国で、日本は栽培国に含まれていないが、実際は小規模な実験栽培が行われている。インドは、害虫抵抗性のワタの作付けが前年の3倍近くとなったため、中国を抜いて5位に入ったという。
 
 ところで、同じ21日付の『日本経済新聞』には、慶応大学先端生命科学研究所が、バクテリアの遺伝子にデータを保存する技術を開発したことが報じられている。枯草菌(こうそうきん)のDNA配列の複数箇所に、フロッピーディスク1枚分のデータを収納することが可能になったというのである。枯草菌は、空気中や枯れ草・土壌中など自然界に広く分布する細菌で、味噌・醤油のもろみにも多数存在する(『大辞林』)という。納豆菌もこの一種だ。しかし、いったい何のために細菌にデータを収納するのだろ? 記事には、「CD-ROMなど既存の記録媒体より格段に小さく何100年も長持ちする“生物メモリー”が将来登場するかもしれない」と書いてある。
 
 科学者が「特定の生物に自分の痕跡を残しておきたい」という気持は理解できなくもない。実際、新しい彗星や新種の生物に、発見者の名前を冠したりする話は聞いている。しかし、名前を冠したからといって、その彗星や生物を発見者が「所有」するわけではない。私が言うのは、「拾ってきた捨てネコに名前をつけて飼う」というような、特定の個体の話ではなく、「イリオモテヤマネコ」という新種のネコを発見した人が、その種に属するすべての個体を所有することなどない、という話である。しかし「生物のDNAに個人や法人独自のデータを収納する」という考え方には、この「種としての所有」の概念が含まれていないか、と私は危惧するのである。

 上記の記事には、枯草菌は約30分で世代交代するから、そのたびにDNAの配列がわずかずつ変化する点を改善するため、DNAの複数箇所に同じ情報を組み入れて、データの修復を可能にした、と書いてある。だから、これは「数限りない世代を通して同一データを所有する」ための研究である。ということは、遺伝子の一部を改変した生物種全体を所有したり、利用することにつながらないだろうか? 現に、上述した莫大な量の遺伝子組み換え作物は、それを開発した製薬会社や種苗会社の所有ということになっており、栽培のためには莫大な金額のライセンス料が支払われているはずだ。開発企業としては、そういう収入がなければ開発費を回収できないからだ。

 バクテリアをデータ保存の媒体に使うことと、遺伝子組み換え作物の利用とは必ずしも同じではないかもしれない。しかし、科学技術の発達に際して常に出てくる問題が、ここにも存在する。それは、新しい便利さは新しい不便さを生むということだ。人間が他の生物のDNAを利用することは、そのことを生物界全体に広げることにならないだろうか。

谷口 雅宣

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2007年2月20日

IPCC4の予測は“保守的”

 昨年10月末にイギリス政府が発表した『スターン報告書』、今年1月24日のアメリカのブッシュ大統領の一般教書、そして、今月初めに出た「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1作業部会」の第4次評価報告書(IPCC4)と、世界では地球環境問題への取り組みの緊急性がいよいよ鮮明になってきた。にもかかわらず、わが日本国政府はこの問題についてほとんど何も言わないし、動こうとしていないように見える。これは一体どうしたことだろう? 安部首相は、地球環境が撹乱され、人類史上かつてなかったような異常気象に見舞われても、“美しい日本”を実現することができるというお考えか。それとも、そんな言葉は初めから政治的スローガンだったから、お題目として唱えていれば“愛国者”は満足すると楽観しているのだろうか。

 IPCCの第4次報告書とは、113カ国から約300人もの代表者が出て合意されたもので、先日出された報告書の「まとめ」は約600人もの科学者が執筆に加わっている。その内容をまとめると、2月4日の本欄に書いたように、「人類が今後、省資源の循環型社会を実現したとしても、21世紀末には地球の平均気温は約1.8℃、海面は18~38センチ上昇する。また、化石燃料に依存した高度経済成長を続けていれば、平均気温は約4℃、海面は26~59センチ上昇する」というものだ。ところが、この「まとめ」の文章は、実は科学者の温暖化予測としては“かなり保守的”な見方であるらしい。つまり、今世紀末の地球環境はこれより相当大きく変化する可能性があるという科学者も多いという。2月10日号のイギリスの科学誌『New Scientist』が、特集記事でそう伝えている。

 それによると、このような“保守性”の原因は、この報告書の執筆に際して、きちんと数量化がされていないデータや、使用する気象モデルに採用されていない比較的最近の研究データは含めないとの方針が貫かれたからという。だから、例えばグリーンランドの氷床が物理的に崩壊したり、南極の氷の融解が速まったり、大西洋を北上するメキシコ湾流の動きが止まったり、二酸化炭素やメタンが地下や海底、あるいは永久凍土から漏れ出すというような、最近言われるようになった可能性については、ほとんど考慮されていないらしい。

 今、最も心配されているのは、グリーンランドや南極の氷床が崩壊の危険にさらされていることだが、そうなれば、世界の海面上昇はメートル単位で起こる。しかし、今回の報告書では、海面上昇の予測は最大でも「世紀末に59センチ」であり、10年単位では「3~6センチ」にすぎない。その理由は、現在使われている気象モデルでは、「2千メートルもの厚さの氷床は長い時間をかけてゆっくり解ける」ことになっているからという。しかし現在では、多くの雪氷学者はそんな予測をしなくなった。現実には、氷床は氷の融解とともに基盤から「裂ける」のだそうだ。すると、裂け目に数秒で水が入り、そこから氷床が物理的に崩壊する。これは、氷が徐々に溶けていくよりも、はるかに早い時点で起こるというのである。

 また、報告書で使用された気象モデルでは、氷床の融解は徐々に「一定のペースで起こる」ことになっているが、今年2月初めにドイツの気象学者らが発表した研究では、現在の海面上昇の速度は、前回のIPCC(2001年)の時点で予測された速度より1.5倍速くなっているという。しかし、今回の報告書では、“最悪の場合”の海面上昇の数字は当初「88センチ」だったものを「59センチ」へ引き下げられた。その理由は、この研究が気象モデルには反映されていないからだという。

 まあ、そういう具合で、IPCC4の報告書は“保守的予測”であることを覚えておいた方がいいだろう。この報告書は、世界の気象学者の6年間の研究をもとに3年をかけて書かれたもの。先日は「まとめ」が発表されただけであり、全文は後日出版される。11章からなる相当大部のものになるらしく、1章だけで150ページあり、参考文献はその章だけで850におよぶという。つまり、この報告書は、地球の将来を考えるために人類の知恵を結集した文書である。そここに書かれた警告を政治家がきちんと受け止めて政策に反映させないならば、そんな政治家は有害だと言いたい。
 
谷口 雅宣

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2007年2月19日

病気腎移植は“白”から“黒”へ?

 愛媛県宇和島市の宇和島徳洲会病院の万波誠医師(66)の行っていた病気腎移植の問題で、同病院が設置した外部医師らによる専門委員会の調査結果が明らかになったとして、18~19日の新聞各社が一斉に報道した。その内容は、万波医師が実施した11件の病気腎移植のほとんどが、摘出は医学的に適切でなく、別の患者への移植もすべきでなかったというものである。これでは、病気腎移植のほぼ全面否定と言えるだろう。

 この問題については、昨年12月3日の本欄で、岡山大学大学院教授の粟屋剛氏と、東京女子医大名誉教授の太田和夫氏の両名が、期せずして肯定的にとらえていたことを書いた。粟屋氏は、社会への情報開示と、患者へのインフォームド・コンセントが行われていれば問題ないとし、太田氏は、自身が病気腎を移植に使った経験があると述べ、病気腎の患部を完全に切除して行う「部分腎移植」の技術を開発すべきだと述べていた。今回の調査報告との違いは歴然としている。いったい何が起こったのだろう。

 新聞各紙の報道は、しかしこの疑問に答えてくれない。また、各紙の報道は微妙に違った部分もある。私がこの調査結果関連の記事を最初に読んだのは18日付の『静岡新聞』紙上だったが、ここでは冒頭に書いた通りの内容で、さらに付け加えて「18日に大阪市で開かれる同病院の調査委員会と合同会議で報告される」とあった。同じ日付の『日本経済新聞』も『静岡新聞』とほぼ同文だが、それよりも長い記事を載せていたから、この記事は通信社が配信したものだろう。これに対し19日の『産経新聞』は、18日の合同委員会(会議)の内容を伝える形でこの件を報じた。それによると、合同委員会では「専門委員からほとんどが医学的に“不適切”との報告があったが、結論を先送りにし、来月3日に万波部長に直接意見を聞いた上で、結論をまとめたいとしている」となっている。
 
 ところが19日の『朝日新聞』は、宇和島徳洲会病院内の委員会の見解ではなく、「日本移植学会など関係5学会」が打ち出す方針を中心に記事にした。こちらの方がより大きな影響力をもつからだろう。それによると、関係5学会では、万波医師らによるような病気腎移植は「原則禁止」となるという。また、ガン患者とネフローゼ症候群の患者から病気腎を移植すると、移植後の免疫抑制剤の投与によって、患者の体内でガンが再発したり、急速に進行する恐れがあるため「絶対禁止」にする方針という。何のことはない。私が昨年12月3日の本欄で“素人考え”として書いたことと、同じ結論なのだ。
 
 臓器移植をめぐる現在の医療は、いったいどうなっているのかと思う。“専門家”とされる医師たちが、数カ月の間に180度異なる見解を新聞紙上で述べるということは、医学はこの分野ではまだ信頼性がないということなのだろう。あるいは、医師は本当のことを言わずに、自分の利益を守るために専門用語を煙幕にして発言しているのか--私はそう思いたくないのだが、どう思えばいいのかよく分からない。

 こういう疑問に対して、何らかの回答を与えてくれるように見えるのは、19日の『産経』に載った木村良一編集委員の「一筆多論・岐路に立つ移植医療」だ。木村氏は、移植医療の取材を始めて10年以上になると前置きしてから、この問題の背後に何があるかをまとめている。それは「この病腎移植を支持する医師が『移植する腎臓が不足しているから病腎移植を進めるべきだ』と主張している」ということだ。つまり、脳死段階を含めた死体からの臓器移植の代用として、安全性に多少疑問があっても生体から取り出した病気腎を使いたい医師のグループがいるということだろう。この方法で助かった患者もおり、また亡くなった人もいる。医療の現場では、臓器不足を理由にさまざまな“実験的治療”が行われていることが、今回の出来事から推測できるのである。
 
谷口 雅宣

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2007年2月17日

ネコの“魔力”

 生長の家講習会のために静岡へ向う新幹線で読んだJRの車内誌『ひととき』(2月号)に、宗教評論家のひろさちや氏がネコについて興味ある話を書いていた。日本にはもともと野生でない家ネコはおらず、奈良時代の初めに中国から輸入したものが日本の家ネコの先祖になったのだという。だから釈迦の入滅を描いた涅槃像には、少数の例外を除いて、日本ではネコは描かれていないそうだ。描こうにも、当時の日本人はネコをよく知らなかった可能性があるというのである。しかし、日本の伝承ではそうは言わずに、涅槃像にネコが描かれていない理由は「間に合わなかったから」とか、「ネズミにだまされたから」という説が伝わっているそうである。

 しかし、奈良時代から江戸時代まで800年以上あり、江戸は“徳川300年”だ。この1千年以上の間には、ネコを涅槃像に入れたいとする動きはなかったのか、と思う。釈迦の入滅時には52種類の動物が集まったとされるが、そこにネコが含まれず、十二支にもネコは含まれていない。ネコは、イヌとともに人間に最も“近い関係”にあるとされる動物であるが、それでも仏教ではイヌと同等には扱われない。仏教は、もちろんインドから中国を経て日本に伝わったのだから、奈良以前の日本にネコがいたかいないかとは別に、ネコを特別扱いする理由がそこにはあったと見るべきだろう。本欄でも、ネコを特別扱いして何回も触れている(最近では2月5日、昨年は5月26日、8月25日、10月6日、11月27日、同29日)。その理由は恐らく、私を含めた多くの人間が、ネコのことを気にしているからだろう。

 昨日(2月16日)の『朝日新聞』の夕刊には、「小笠原諸島で繁殖した野ネコを捕獲し、東京へ運んできて飼う」という試みが報じられていた。小笠原諸島には、貴重な固有種であるハハジマメグロやアカガシラカラスバトなどの鳥類が棲息するため、世界自然遺産の候補地にもされている。それらを“外来種”である野ネコが捕食する可能性があるため、地元のNPO「小笠原自然文化研究所」と東京都獣医師会の有志が協力して、ネコを殺さずに東京で飼う試みを始めたというのである。同諸島の父島と母島には野ネコが数百匹いると推定されているが、殺処分には島民の反対もある。それに、島に人間が住むかぎり誰かがネコをまた持ち込むというのである。
 
 こういう話を聞くと、ネコにはやはり“魔力”があると思う。小笠原では、野ネコと同じように希少種を駆逐しているという理由で、外来種のトカゲや野ヤギ(野生化したヤギ)が捕獲され、殺処分されている。ところが、ネコだけは「人間に親しい」という理由で、殺されずに遠方へ送られて手厚く保護されているのだ。上記の記事によると、小笠原から東京へ送還されたネコは現在のところ20匹。都獣医師会に所属する都内の約740箇所の動物病院が、彼らを受け入れてくれるという。

Mtimg0702162 「しかし……」と私は思う。小笠原からの“送還ネコ”はそれで満足かもしれないが、都内にゴマンといる町ネコたちからは、「それはないぜ」という不満の声が出るような気がする。扱いがあまりにも不平等だからだ。もちろん「ネコ同士の平等」など、日本国憲法に定められていない。しかし、何かすごくバランスがとれていない感じがする。わが家のノラたちには今、恋の季節が訪れていて、数匹が集まって甘い声で鳴いたり、うなり合ったりしている。街中でも、ネコがネコを追いかける姿をよく見かけるようになった。こういう町ネコたちは、東京のビルの谷間と人間の腕の間を渡り歩きながら、これからもどんどん殖え続けていく。“小笠原出身”ネコも結局、その中に加わるのではないだろうか。(絵のネコは、霞ヶ丘団地の公園で会ったノラ)

谷口 雅宣

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2007年2月16日

『日々の祈り』について

Dailyprayers  本サイトに掲載した祈りの言葉をまとめた『日々の祈り--神・自然・人間の大調和を祈る』(=写真)が、宗教法人生長の家から発行された。今日、私の手元に見本が届けられたから、月末には全国で入手できるようになるはずだ。本書には「日々の祈り」欄に発表した49の祈りが収録され、新書判上製で258ページになっている。収益金の一部は、森林再生のために寄付される予定だ。
 
 49の祈りの言葉は、「神を深く観ずるために」「自然を深く観ずるために」「人間を深く観ずるために」「明るい人生観をもつために」「人生のすばらしさを観ずるために」「“病気本来なし”を自覚するために」の6種類に分類されている。しかし、人間は古来、自然を通して神を観ずることをしてきたし、神を観ずるときに自然を観ずることも多く、また、人間を観ずることは神を観ずることにもつながる。さらに、「明るい人生観」と「人生のすばらしさ」もニワトリと卵の関係にあるから、これらの分類は、読者が祈る言葉を選ぶ際の便宜上のものだと考えてもらっていい。
 
 本書の副題を「神・自然・人間の大調和を祈る」とした理由を少し書こう。

 現象としての現在の地球世界は、この三者が必ずしも調和していないし、場合によっては深刻に対立している。このことは、しかし今に始まったことではない。『創世記』の第1章には、天地創造をした神が自分の創造物を見て「はなはだよい」と讃嘆したことが書いてある。ところがそれ以降の記述を読むと、はなはだよかったはずの被造物のうち、まずヘビと人間が神の言いつけに従わなかったため、神は怒って人間をエデンの楽園から追放する。これ以降も、バベルの塔をつくることも含め、旧約聖書全体を通して、人間は繰り返して神の意思に反する行為をする。これに対し、神は洪水や疫病などの自然の力を使って人間を罰し、正しい道にもどそうとする。

 このような過去の三者の関係が、現代はだいぶ変化してきているようだ。過去において神と自然は人間を圧倒していたが、その関係が逆転しつつある。人間は科学によって自然を研究し、その内部の法則を次々と発見した。そして、自然法則を利用して技術を開発し、それを人間の目的に使ってきた。当初は、生命のない物理科学的な自然の利用を進めていたが、次第に生物の利用を進め、現在は遺伝子操作によって、かつて存在しなかった生物を誕生させたり、人間自身の誕生の時期や可能性さえ操作できる技術を身につけた。また、極微の世界の原子を破壊したり、原子や分子の1つ1つを操作する技術も手に入れただけでなく、これら諸々の活動によって地球の大気の組成まで変化させ、気候変動を起こしつつある。これらすべては「神のため」ではなく、「人間のため」として行われているのだ。

 しかし、こういう人間の活動は、本当に「人間のために」なっているのだろうか? 人間は「神は死んだ」と宣言し、伝統的な宗教的価値を次々に否定し、生殖医療や、人間と動物が混ざり合ったキメラを開発して自然を“神”に対抗させている。が、これらに反対する人々の一部は、逆に「神のため」と称して大勢の人間の無差別殺戮を行う。これは一種の“神と人との戦い”ではないか? それは「人間のため」であるはずなのに、当の人間は一向に幸福に近づいていないように見えるし、“テロとの戦争”の最中に、地球温暖化の進行による被害はどんどん拡大している--こんな見方ができるほど、三者の関係は不調和に見えるのだ。

 しかし、これらの悪現象は、人間の心が仮構した一種の“幻影”にすぎないのである。生長の家は、神の創造になる実相世界では、神・自然・人間の三者は本来、大調和していると説いている。ところが、我々の目の前に展開する現象世界は、人間の心の“迷い”を映し出しているために、歪んだり曇ったりして見える。その“迷い”とは、人間の神に対する不信・不信仰であり、自然に対する不信、人間に対する不信である。読者が本書中の祈りの言葉を日々朗読することにより、それらの迷いが“コトバの力”によって取り除かれ、本来大調和の神・自然・人間のすがたが多くの人々に自覚されることで、現象界の諸問題が解決される一助となることができれば幸いである。

谷口 雅宣 (京都議定書の発効日にあたって)

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2007年2月15日

クロスワードを解く (6)

 2月9日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.6」の解答を発表する。

【縦の答え】
(イ)非実在。(ロ)手交。(ハ)日蓮。(ニ)優曇。(ホ)自己処罰。(ヘ)菊石。

【横の答え】
(イ)比喩。(ロ)精進。(ト)どこ。(チ)自己認識。(リ)通知。(ヌ)欲。(ル)霊媒。(ヲ)イコン。(ワ)津市。

 今回“ひねり”が入った設問は、縦の(イ)と(ヘ)、横の(ヲ)だっただろうか? 生長の家の初心者が聞いて驚くのは、恐らく「肉体は無い」という教えだろう。普通我々は、自分の感覚を通じて「肉体がある」ということをイヤというほど感じている。特に病人は、「自分の肉体の特定部分が普通でない」と強く意識しているから、それが「ない」と言われると「何とベラボーな教えだ」と反発する人もいる。が、この強烈な言葉に反語的な意味を察知し、「どういう意味か知りたい」と興味を示す人もいる。そういう取っ掛かりを提供するという意味で、「肉体は無い」は強力なメッセージである。

「肉体は無い」は、「肉体は実在でない」もしくは「肉体は非実在」という意味である。『広辞苑』(第1版)には、「実在」の意味として「実際に存在するもの。単に考えられただけのものや想像・幻覚など、単なる主観の産物に対して、このような思惟或は体験・主観とは独立に客観的に存在するもの。(中略)更に自然を生滅変化の現象界と見る時は、このような現象的規定を超越する恒常不変の形而上学的実体・本体を意味する」とある。ずいぶん難解な定義だが、これが哲学で「実在」を扱うときの意味である。生長の家では、ほぼこの定義に沿った意味で「実在」という言葉を使う。我々の肉体は細胞の集まりであり、その細胞の構成元素は刻一刻入れ替り、細胞自体も新陳代謝でどんどん入れ替っているから「実在」ではないのである。

 中生代の標準化石とは「アンモナイト(ammonite)」のことで、日本語ではこれを「菊石」と呼ぶ。アンモナイトは「アメンの角」という意味で、アメンとは古代エジプトの都・テーベの守護神の名前だ。この神は雄羊の頭をもって表現されていたから、その巻いた角のことを言った。つまり一時期、アンモナイトは雄羊の巻き角の化石だと思われたのだ。が、現在では、白亜紀に絶滅した軟体動物頭足類に属するものとされる。これは、現在のオウムガイとの共通点が指摘されている。様々な大きさや形体のものが化石として残っており、成体の殻の大きさは、直径2~3センチの小さいものから2メートルを超える大型のものまである。

 イコンとは、パソコンで使う「アイコン」(icon)に通じる言葉だ。ロシア正教(東方正教会)で信仰の要となる聖母、聖人などの聖画像のことを指す。聖堂内のみならず信者の自宅にも安置されて崇敬される。木板に聖像を描いた形式のものが多く、掲げる場所によって大小さまざまなものがある。「イコン」という名称は「肖像」「似姿」「心に思う像」などを意味するギリシャ語に由来する。最も古いものは、シナイ山にあるカテリナ修道院にある6世紀ころのものという。神学上は「それを拝する者の心を不可視の原像、神の本質へ導くもの」とされる。
 
  第7問を以下に掲げる:

Cwp6x6007 【縦のカギ】
(イ)現象はすべてこの状態。
(ロ)心の底から宣言すること。
(ハ)貧しい人にはないとされているもの。
(ニ)旧約聖書の預言者の1人。
(ホ)神武天皇を苦しめた強敵。
(ヘ)ココナツの汁を発酵させて作った寒天状の食品。

【横のカギ】
(イ)岐阜県南部。
(ロ)日本神話に登場する霊界の女神。
(ト)死、悩み、苦しみのことを聖歌『神の国なり』でこう呼ぶ。
(チ)年上の女の兄弟。
(リ)植物に栄養を与えること。
(ヌ)イザナギ、イザナミの両神から生まれた神で、葦舟に入れて流された。
(ル)実相はどこにある?

谷口 雅宣

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2007年2月14日

愛の交換日

 バレンタインデーだというので、街にはチョコレートが溢れている。我々夫婦もこの日にあやかり、休日前の夜を静かに過ごさせてもらった。とは言っても、家の中にこもったのではなく、外出して夕食を六本木のホテルのレストランでゆっくりいただいた。こんな日の夜だから混雑しているに違いないと思ったが、意外にもガラガラに空いていた。窓際の席に案内され、つましくカレーとピッツァとサラダをメニューから選んだ。2人とも近年は、油こいものや食後の満腹感を避けるようになってきた。「腹八分目」の健康法である。外は小雨模様で、傘を差したコート姿の人々が通り過ぎる。朝の天気予報では、西から来る低気圧が夕刻には発達して、夜は大荒れになると言っていたが、今回も当たらなかった。

 バレンタインデーについては、本欄の前身で、ブログを始める前の2002年の「小閑雑感」に書いた(世界聖典普及協会発行『小閑雑感 Part 3』に収録)ので、言うことはあまりない。が、この国の“チョコレート騒ぎ”には食傷気味だ。「○○の日には○○をしなければならない」というのは、一種の社会的強迫観念だ。それでも、クリスマスや正月などは、その意義が十分あるから、自分なりのやり方で積極的に参加できる。しかし、「チョコレートをあげる」というのは、見え透いたコマーシャリズムが背後にある。それを知りながら、多くの人々がどうして熱意をもって参加するのか、不思議に思う。本家本元の欧米では、この日は一般に「愛情を表現する日」だから、男女双方から自分たちのやり方で愛を表現すればいいのである。また男女でなくても、親子や友人間の愛の表現でもいいのである。「この日は女から男へ」「あの日は男から女へ」などと決め、しかもチョコレートの色まで「黒はいつ」「白はいつ」と規定するなど、学習指導要領みたいで息がつまりそうだ。

Mtimg070214  とはいうものの、もらってみると決して悪い気持はしない。今年は2人の女性からいただいた。1人は妻だが、もう1人はあえて公開しない。妻はイタリア産のワイン、もう1人はフランス製のチョコレート。舶来の習慣には舶来の製品がいいということだろう。私は双方に素直に謝意を表した。チョコレートとワインの組み合わせも、なかなかいい。「味がマッチする」という意味ではなく、並べてみると絵になるのである。もともとは、カカオとブドウの実という自然食材である。が、双方とも原形をとどめないほど加工され、高度な技術を通して嗜好品に生れ変わっている。また、こういう食品としての“内側”に劣らず、容器や包装などの“外側”にも手をかけている。このような手の込んだ品であるために、「愛情」や「友情」の表現である贈物に使われるのだろう。

 ところで、人間の愛の交換日に合わせたわけではないだろうが、今夜は家の庭で、冬を越したヒキガエルたちが大いに活躍していた。彼らは、すでに先週の金曜日(9日)から出没しはじめていたが、今日の雨で一斉に出たのかもしれない。池の周囲、石段の途中に、体長12~13センチの茶色の丸っこい塊が、いくつもうずくまり、近づいていくと、次々に腰を上げて逃げる。コロコロという鳴き声は、彼らの見かけとは裏腹に、人間の耳にも案外快く響く。それが、輪唱のように微妙にズレながら、四方八方から聞こえてくる。
 
 2001年の『小閑雑感』では、2月28日にヒキガエルが出たと書いた。5年後の昨年は、2月16日に書いた「春の兆」という文の中でヒキガエルが出たことに触れている。そして、今年は2月9日で、だんだん早くなる。そう言えば、先週の月曜日(12日)に、庭の東側斜面でフキノトウをいくつも摘んだ。昨年の本欄では2月16日に「ちょうどよい大きさのものがいくつも頭を出していた」と書いている。自然界の生物たちは、地球温暖化に呼応して生き急ごうとしているようだ。

谷口 雅宣

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2007年2月13日

神武東征の神話考 (2)

 五瀬命の負傷後、東征軍に何が起こったかは11日の本欄で触れた。太陽神の子孫である自分の軍隊が太陽に向って(東に)進むのはいけないというので、紀伊半島を迂回し、熊野から大和入りを目指した。しかし、5月になって茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと=泉南市樽井)から紀国の竃山(かまやま=和歌山市和田)へ着いたとき、五瀬命はその時の傷がもとで死亡してしまった。6月になって、狭野(新宮市佐野)から熊野の神邑(みわのむら=新宮市新宮)にいたると嵐に遭遇し、一行の乗った船が危うくなった。そこで神武天皇の2人の兄・稲飯命(いないのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)が荒波を鎮めるために次々と海へ飛び込んだ。こうして神武天皇は3人の兄すべてを失い、ようやく熊野の荒坂津(あらさかのつ)にたどりついたのである。
 
 東征軍の試練はまだ続く。一行は今度は、その土地の神の祟りに遭って皆、体力を奪われ戦意喪失してしまう。そこへ現れたのが高倉下(たかくらじ)という人物で、天照大神から下賜された韴霊(ふつのみたま)という剣をもって助けに来る。そのおかげで一行は精気を取りもどし、再び大和を目指して進軍を開始するのである。一行がしばらく険しい地形の道を進んでいくと、やがて道に迷ってしまう。すると神武天皇の夢枕に天照大神が現れ、ヤタガラスという烏に道案内をさせるというので、一行は飛来したそのカラスに従って進んでいく。大和を目前にした8月2日、神武天皇はその土地(奈良県宇陀郡)の首長である兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を呼び出すが、弟だけが現れて、兄は神武殺害を企んでいると告げる。その情報にしたがって兄は討伐され、東征軍は吉野へ入る。
 
 吉野の山中では、しかし山賊たちが手ぐすね引いて一行を待っていた。八十梟師(やそたける)と兄磯城(えしき)で、弟磯城(おとしき)は恭順の意を示した。神武天皇は11月、大軍を率いてこれらの賊を討伐し、12月にいよいよ長髄彦と2度目の合戦のために対峙するのである。何度も戦ったが、敵は強く破ることができない。すると氷雨の中、金色のトビが飛んできて神武天皇の弓の上にとまる。そして、体を光り輝かせたので、長髄彦の軍勢は目を眩まされ戦意を失う。東征軍は勢いを増して敵を攻める。その時、長髄彦は使いを寄こし、「自分は天神(あまつかみ)の御子である饒速日命(にぎはやひのみこと)を君として仕えてきたが、あなたも天神の御子という。いったい天神は2人いるのか?」と自分の正統性を主張する。ところが、大和を治めていた饒速日命は、長髄彦が事情を理解できないと見て殺害し、神武天皇に帰順してくる。こうして大和は平定されるのである。
 
 上に掲げたのは“大筋”であるから、細かい出来事は省略してある。しかし、一連の物語の流れは、これで分かると思う。何か不思議な点はないだろうか? 普通考える“英雄物語”としては、何か不自然なところはないだろうか? ここに出てくる英雄は、いわゆる“スーパーマン”ではない。何度も苦戦し、家族さえを失い、不如意の行軍を余儀なくされるが、その要所要所で必ず“援助者”や“援護者”が出てくるのである--九州を出る際に水先案内を買って出る者、魔法の剣を持ってくる者、霊力のあるカラス、兄の奸計を暴露する弟、金色のトビ、そして最後は、敵であったはずの支配者の帰順……。実は、こういう筋書きは、神武東征だけにあるユニークなものではなく、世界の英雄物語に広く共通するのだ、とキャンベルは言う。

「ひとたび境界を越えると、英雄は妙に流動的で輪郭もさだかでない、夢のような風景に足を踏みいれ、そこでえんえんと続く試練に耐えて進まなければならなくなる。この局面は神話冒険の1つの見せ場をなしていて、苦難にみちた摩訶不思議なテストや試練を主題とする文学をこれまで大量に産みだしてきている。英雄はこの領域に立ち入るまえに出会った超自然的な庇護者の忠告や護符や密使たちにより、蔭ながら護られている。あるいはここにいたって、その超人的な境界通過の道すがら、いたるところで正体不明の慈悲の力が自分の後楯になってくれているのにはじめて本人が気づく場合も少なくない」(p.115)

 神武東征の物語には、神話の英雄の行動の3段階目--「帰還および社会との再統合」が一部欠けている。が、国家を統一したのであれば、その本人がいる場所はどこでも自分の国なのだから、わざわざ帰還する必要はない。また、自分が日本国全体の君主になるのであれば、それがすなわち「社会との再統合」を果たすことだと見ることもできる。このようにして、日本の建国神話の背後にも世界の神話共通の“英雄物語”のパターンが潜んでいることが分かる。もちろん、登場人物の名前、性格、行動は日本独特のものである。が、そのような日本人の顔をもち、日本的な衣装をまとうことで、一人の“英雄”が千年以上も日本人の心を動かし続けてきたその物語の筋書きは、世界共通なのである。
 
 我々はだから、この“英雄”を愛し、理想とするのと同時に、世界各地にいる“英雄”もそれと同様に愛すべき存在であり、かつ価値ある理想像であることを知り、それぞれの顔や名前、性格や行動の細部が異なることを、善悪や優劣の基準にしてはならないのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○ジョセフ・キャンベル著/平田武靖・浅輪幸夫監訳『千の顔をもつ英雄』上下巻(2004年、人文書院)
○関裕二著『神武東征の謎』(2003年、PHP文庫)

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2007年2月12日

神武東征の神話考

 前回の本欄で、私は「神話は一種の“文学作品”で様々な解釈が可能」だと書いた。これは、我々が見る夢のように、そこに登場する様々な人や事物は、暗号のように意味が隠されていることが多いからだ。しかし、これらの暗号を解く正しい“鍵”を手に入れれば、これまた我々の見る夢のように、複雑で飛躍の多い神話の物語の背後にある深い意味を知ることができると考えられている。「夢の解釈」が可能なように「神話の解釈」も可能であり、両者には内容的な共通性さえあると言われている。
 
 そういうことを言ったのは、アメリカの神話学者のジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell)という人だ。キャンベルは、その代表作と言われる『千の顔をもつ英雄』<上下巻>(The Hero with a Thousand Faces)という著作の中で、そのことを詳述し、世界中の神話や古い教典の中から多くの実例を引いて、「外形こそさまざまに変容していても驚くほど恒常不変な[内容をもつ]同一の物語」(上巻 p.15)があることを証明してみせた。彼は、「神話は衣裳を変えながらもいたるところで[象徴的に]同一の顕現をしめす」(p.16)というのである。特に、神話に登場する「英雄」に注目し、この英雄は、世界中の多様な文化的土壌から生まれたものであっても、たいていは一定のパターンで行動することを示した。
 
 その「一定のパターン」とは、次のようなものだ--
 
「英雄は日常世界から危険を冒してまでも、人為の遠くおよばぬ超自然的な領域に赴く。その赴いた領域で超人的な力に遭遇し、決定的な勝利を収める。英雄はかれにしたがう者に恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する」(p.45)

 箇条書きにすれば、①分離もしくは出立、②試練と勝利、③帰還および社会との再統合、の3段階のパターンである。釈尊が悟りにいたる物語にも、旧約聖書にあるモーセの物語にも、このパターンが認められるというのである。

 ところで、神武東征の物語にこのパターンが潜んでいるのだろうか?

 『日本書紀』によると、神武天皇は15歳で太子となり、日向国の吾平津媛(あひらつひめ)をめとって手研耳命(たぎしみみのみこと)という子をもうけていた。そして、東征を思い立ったときにはすでに45歳になっていた。ということは、30年間も太子として生活していたのだから、敢えて生命の危険を冒して遠方へ戦闘に向う必要は、普通はない。にもかかわらず、遠い東の土地に四方を山に囲まれた美しい土地があり、そこが国の中心としてふさわしいと考え、諸々の皇子と軍団を率いて、南九州から出発するのである。いったい何のためか? 『日本書紀』の説明では、それら遠くはるかな土地では自分たちの徳がおよばず、村々にそれぞれ中心者がいて、互いに争い合っている。その争いを平定して統一国家をつくるべきだと考えた、というのである。

 これはまさに、平穏なる日常世界から出発して超人的な偉業をなしとげようとする意志を表している。今でこそ、宮崎空港から大阪空港までは一足飛びだが、当時の状況を考えると、この決意は超人的であり、気の遠くなるような道程と困難とが予測できたはずである。だから、この東征の決意は上記の「分離もしくは出立」のパターンに合致すると言える。
 
 予想されるように、東征の道程は困難をきわめた。『日本書紀』によると、決意の年の10月5日に一行は出発、日向から大分方面に海路北上し、途中で水先案内人となる国津神・珍彦(うずひこ)を船に乗せ、莵狭(うさ=大分県宇佐郡)に立ち寄って歓待を受ける。その後、11月9日には岡水門(おかのみなと=福岡県遠賀郡芦屋町)、12月27日には安芸国(広島県安芸郡)、翌年3月6日には吉備国(岡山県)に入る。ところが、そこで3年を過ごすのだ。軍備を調えるためという。『古事記』の記述は少し違っていて、北九州に1年、安芸に7年、吉備には8年も滞在したことになっている。このあと一行はいよいよ大阪から近畿地方に上陸、奈良の龍田(北葛城郡王寺町)を目指すが、道が狭いために引き返し、改めて生駒山を越えて大和へ向おうとする。この時に、長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と衝突して兄の五瀬命(いつせのみこと)が負傷するのである。(つづく)

谷口 雅宣

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2007年2月11日

建国記念の日に思う (2)

 今日は日本の建国記念日。東京・原宿にある生長の家本部では、例年のように午前10時から祝賀式典が行われ、私は大略、以下のようなスピーチをした:

--------------------------------------------------------
 皆さん、建国記念の日、おめでとうございます。今年も日本国の誕生日を祝う建国記念の日を、皆さんと共に元気で迎えられたことを神様と皆様に心から感謝いたします。ありがとうございます。
 
 この建国記念日は、『古事記』や『日本書紀』に記された日本の神話にもとづくものです。神話は歴史ではありません。現在の世界のほとんどの国々では、近代の民主主義革命や現代の独立記念日が建国記念日になっています。これは昨年も申し上げたとおりです。だから、世界のほとんどの国の建国は歴史にもとづいて理解されているが、日本とお隣の韓国ぐらいのごく少数の国が、有史以前の神話にもとづいた建国記念日をもっている。これは大変珍しいことで、世界に自慢できることの1つだろうと思います。
 
 しかしその反面、神話にもとづいているというそのことに、1つの問題が内包されています。それは、近代や現代の歴史的事象に建国の基礎を置く国々では、“建国の理想”とか“建国の精神”というものが「憲法」や「独立宣言」などの歴史的文書の中に明確に記されており、その解釈にあまり異論を差し挟む余地がないのです。しかし、神話にもとづいて建国を定めた場合、神話というものはその性質上、様々な解釈が可能な一種の“文学作品”でもあります。だから、“建国の精神”が何であるかは人によっていろいろに解釈できる。そういう意味で、戦前・戦中に「紀元節」としてこの日が祝われていた当時、日本の建国神話の中の様々な出来事や言葉について--例えば「八紘一宇」という言葉について--当時の政権の都合のいいような解釈が強制されたのです。このことを私たちは忘れずに、同じ間違いを2度と繰り返してはならないと思います。
 
 そういう過去もあったので、残念なことですが、現在の日本では「建国の理想」についての国民的な合意がまだできていません。だから、一方には「戦前・戦中の紀元節と同じ日を建国記念日にすることは戦前の日本へ還ることにつながる」として反対する人々が大勢います。またその逆に、他方には戦前・戦中の考え方は正しいとして、それが「建国の理想」だととらえる人もいます。私たち生長の家では、そのいずれの立場とも違うのであります。それは、谷口雅春先生が説かれたように、日本建国の精神とは「武力によって世界を統一することではなく、神意にしたがって、八方の国々が合意して平和を実現すること」だと考えます。そして、そのことは『日本書紀』の神話にも明確に書いてあるのです。この話は昨年もしましたが、大切なことなので繰り返してお話しましょう。

 神武天皇が国を統一する際、一番の強敵だった長髄彦(ながすねひこ)という人がいました。神武天皇は長髄彦と戦ったときに大変苦戦をされて一度退却されます。お兄さんの五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢に当たって重傷を負います。そういう経験をされた天皇は、それまでの自分のやり方に何かまずい点があったのではないかと考え、神々に聴いてみる。すると、神からの次のようなお告げがあったと『日本書紀』には出ています。重要な部分なので原文を引用します:
 
「今我(いまやつかれ)は是れ日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此れ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。若(し)かじ、退き還りて弱きことを示して、神(あまつやしろ)祇(くにつやしろ)を礼(いや)び祭(いわ)いて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(みいきおい)を負いたてまつりて、影(みかげ)の随(まにま)に圧踏(おそいふ)みなんには。此(かく)の如くせば、曽(かつ)て刃に血ぬらずして、虜(あた)必ず自ずからに敗れなん」

 このように、神武天皇は、自分が太陽神である天照大神の子孫でありながら、太陽に向って進軍していたのでは神の御心にかなわないと判断された。つまり、苦戦の原因は神意に歯向かっていたからだと考えられ、いったん退却してからその土地の神々を祀られて、背中に太陽を負ってもう一度進む--即ち、神の御心に従って進む。そうすれば、血を流さずに敵は自ら降参する、と述べられたわけです。このことから分かることは、「常に神の御心を聴き、真理の光を背負って進む」のが日本の建国の理想であるということです。「真理の光を背負う」とは、真理に歯向かわず、「ハイ」と言ってしたがうことです。自分の利益を優先せずに、神意に聴き、正しいことを素直に実行するということです。そういう精神が、日本の神話に表れた建国の精神であるということが、もっと多くの日本人の間で合意される必要がある、と私は思うのであります。
 
 さて、日本の建国神話の話をしてきたのですが、日本の神話のもう一つの大きな特徴は、「神」と「自然」と「人間」とが連続してつながり合っているということです。それぞれの間には垣根がほとんど存在しない。例えば、『古事記』にイザナギノ命とイザナミノ命が国生みをする有名な話があります。その際、イザナミノ命が“火の神”を生んだために大火傷をして死んでしまいます。それを見たイザナギノ命は、最愛の妻を失った怒りと痛恨のあまり、火傷を負わせた自分の子であるカグツチノ神の首を切ってしまう。すると、ほとばしり出た血がいろいろのものに飛び散ったところから沢山の神々が生まれてきます。また、切り殺されたカグツチノ神の体からも、次のように自然を司る八神が生まれる:
 
  頭  → マサカヤマツミノ神(険しい頂をもった山の神)、
  胸  → オドヤマツミノ神(山の麓の神)、
  腹  → オクヤマツミノ神(深山の神)、
  陰部 → クラヤマツミノ神(暗い谷間の神)、
  左手 → シギヤマツミノ神(鬱蒼たる樹木の神)、
  右手 → ハヤマツミノ神(麓の山の神)、
  左足 → ハラヤマツミノ神(平坦な峰をもつ山の神)、
  右足 → トヤマツミノ神(端にある山の神)。
 
 ひと言でいうならば、“火の神”から大自然が生まれたのです。この話は、自然というものが神の命そのものであることを示しているのです。そして、この自然を生んだ神は、イザナギとイザナミであり、その子孫が天照大神と神武天皇を通して地上に現れてきた人間(日本人)なのですから、人間もまた自然と同じ命を共有しているという考え方が背後にはある。この「神」「自然」「人間」の三者が一体であるという日本神話の感性は、我々日本人がずっと共有してきたものです。だから、日本人が「神の御心」に聴いて行動する場合、神や人間と本来一体であるところの自然を破壊するなどということは全く考えないはずなのです。先ほど、「日本建国の理想」とは「常に神の御心を聴き、真理の光を背負って進む」ことだと言いましたが、その進む方向が「自然破壊」に結びつくはずがないし、もしそんな現象が起きているならば、それは日本建国の理想に反するのであります。

 そういう意味で、21世紀の今日、人類が直面している最大の問題である地球環境問題に対して、この日本の国と日本人とが担う役割は大変大きいと思います。現に日本人は、省エネ技術や環境技術の面で世界に大きな貢献をしています。日本の建国の理想と日本人の感性とは、21世紀には新しい使命をもって世界で待ち望まれていると言える。そのことを自覚して、我々は大いに「人間・神の子」の教えを伝えるとともに、神・自然・人間の大調和した世界実現に向って邁進したいと思うのであります。戦前・戦中のように独善的にならずに、多くの国々、多くの人々との合意を形成しながら、明るく、自信をもって運動を進めていきましょう。
 
 このおめでたい記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣

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2007年2月10日

「テロとの戦争」をやめよう

 アメリカが「テロに対する戦争(the war on terrorism)」という呼称を廃止するかもしれない--と私は期待している。なぜなら、アメリカに最も近い同盟国、イギリスでは、この呼称の使用が最近禁じられたらしいからだ。2月9日の『ヘラルド・トリビューン』紙にハーバード大学のジョセフ・S・ナイ教授(Joseph S. Nye, Jr.)が論説を寄せて、そのことを論じている。ナイ教授は、外交・国際関係の分野では一流の学者だ。
 
 私は2005年6月1日の本欄で、「“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っている」と書いた。なぜなら、「テロ(terror)」とは「恐怖」という意味であり、恐怖は、第一に恐怖する人の心の中にあるのだから、それと戦うのに実際の兵器はさほど役に立たないからだ。その時に書いた文章から引用する:
 
「恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の(恐怖の)投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ」

 実際には自分を傷つけようと意図している“敵”が存在しなくても、本人が恐怖心をもって周囲を見ていれば、あらゆる人々の視線や行動が自分への“敵意”を表しているように見える。この心理状態が昂じると、「被害妄想」という病名がつく。また、この妄想にもとづいて周囲に敵意を撒き散らせば、周囲の人々がそれに応じて敵意を示すことにもなる。こうして“妄想上の敵”は“本物の敵”になるのである。

 この矛盾を、少なくともイギリスは気づきはじめているようだ。ナイ教授によると、イギリス外務省は昨年遅く、ブレア内閣の閣僚と外交官らにこの用語の使用をやめるよう指示したという。このことを評して、ロンドン発行の『オブザーバー』紙は「イギリス政治の考え方が1つの岐路にさしかかっている」とし、イスラム過激派によるテロ事件が一向に終息しないことに対し、「英米の考え方に差が広がりつつある」と分析している。

 イギリスでは、2005年7月にロンドンでの交通機関を対象にしたテロ事件があり、それ以降も自爆テロ事件、あるいはその未遂事件が起こっている。最近も、イギリス政府は重大なテロ計画を16も発見し、追跡調査をしていると発表した。ある世論調査によると、上記のロンドンでのテロ事件について、イギリス在住のイスラーム信者のうち10万人が「攻撃は正当」と答えたという。だから、イギリスでの“テロとの戦争”では、イギリス政府は“負け”の側にあると言える。その理由の1つが、“言葉の力”の悪用にあると結論したのだ。
 
 ナイ教授によると、イギリスの情報機関であるMI5がテロリストを取り調べたところ、彼らの心の軌跡には共通したパターンがあることに気がついたという。それぞれのテロリストは、過激思想や、様々な社会的・政治的不満をもっていることは確かだが、そういう若者に宗教的使命感にも似た精神の高揚や、より大きな目的意識をもたせて行動に至らせるものは、「戦争」という言葉や、「戦い」をめぐる物語なのだという。アルカイーダは、そういう単純だが強力なメッセージをメディアやインターネットを通じて伝達する能力に優れているらしい。テロ行動に出た人々の間には「イスラーム社会は今、西側諸国から一斉攻撃を受けている。だから、イスラーム信者は世界中で、イスラーム共同体を敵の攻撃から護るのが信仰者個人としての義務だ」という考え方が浸透しているというのだ。そんな中で、西側諸国が「戦争」や「戦い」という言葉を使えば、彼らの信念をより強固にし、テロ活動への参加者を増やすことになる--そう考えるに至ったらしい。
 
 “言葉の力”の大きさを示した一例である。ブッシュ大統領もこのことに早く気づき、イギリスに倣ってこの種の“火のついた言葉”を消す側に回ってほしいのである。キリスト教を信仰する大統領なのだから、「敵に譲歩する」などと思わなくていい。『ヨハネによる福音書』の冒頭にある次の聖句を「思い出した」と言えばいいのである:
 
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、1つとしてこれによらないものはなかった」

谷口 雅宣

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2007年2月 9日

クロスワードを解く (5)

 遅ればせながら、1月30日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.5」の解答を発表する。

【縦の答え】
(イ)母系。(ロ)強さ。(ハ)和子。(ニ)罪の子。(ヘ)至妙。(ホ)理路。(ト)祈祷師。

【横の答え】
(イ)菩薩行。(チ)国家意識。(リ)水戸。(ヌ)牛。(ル)岩海苔。(ヲ)心の眼。

 今回悩んだのは、縦のカギの(ニ)である。ややこしい表現になってしまった。「ある宗教で……」という表現を使い、さらに「人間を“性悪”と考えるとき」という条件まで加えた。もっとストレートに「キリスト教で……」と書けばいいのに、と思う読者がいるかもしれない。しかし、そうしなかった理由がある。すべてのキリスト教で「人間は罪の子」と説いているわけではないからだ。最近、NHKのドラマ『芋たこなんきん』で、小料理屋の女将役をやっているイーデス・ハンソンが「人間はみな神の子や」と言ったのを聞いて、私は妻と顔を見合わせた。原作にこんな台詞があるかどうか知らない。また、彼女がキリスト教信者なのかどうか分からない。あるいは、自ら考案した台詞なのかもしれない。が、何となくピッタリ来る言葉だったと思う。

 生長の家の講習会でもこのことに触れることがあるが、実は聖書の『マタイによる福音書』には、間接的な表現ではあるが「人間は神の子である」という意味のことが書いてあるのだ。まず第一に、イエスが弟子たちに教えた“模範的祈り”ともいうべき「主の祈り」(6章9~13節)の冒頭には、神への呼びかけの言葉として「天にいますわれらの父よ」と祈れとある。「われら」とは一般の信者が自分を指して使う言葉だから、「われらの父」が天にいるのならば、子である一般信者はみな「神の子」ということになるだろう。そういう表現をイエスが“模範的祈り”の中で使えと言っているのだから、少なくともイエス自身は「人間は罪の子だ」とは考えていなかったと推測できる。
 
 それだけではない。以下に列挙する聖句をじっくり味わってほしい:
○敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。(5:44-45)
○あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(5:48)
○あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。(6:8)
○もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。(6:14)
○空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。(6:26)
○あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。(6:32)
○あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(7:11)

 こうやって続けて読んでみると、「人間はみな神の子や」という台詞の説得力が伝わってくるだろう。

 第6問を以下に掲げよう:

Cwp6x6006 【縦のカギ】
(イ)あなたの肉体は?
(ロ)手で直接渡すこと。
(ハ)仏教の宗派の開祖。
(ニ)インドの想像上の植物。花は三千年に一度咲くとされる。
(ホ)不幸や戦争の原因の1つ。
(ヘ)中生代の標準化石の日本名。イカやタコの仲間と言われる。

【横のカギ】
(イ)宗教教典でよく使われる説明の仕方。現象的に存在しないものを、これで暗示する。
(ロ)仏教で心を込めて善業を修めること。転じて肉食をしないこと。
(ト)「馬の骨」と「吹く風」に共通するもの。
(チ)人間にしかない能力の1つと言われている。最近、チンパンジーやイルカにもあるという研究も出た。
(リ)講師試験の結果も、これによって分かる。
(ヌ)人間が愛し、また憎むもの。
(ル)死者からのメッセージを伝えるとされる人。
(ヲ)肖像や偶像のこと。キリスト教では聖母像や聖画像を指す。近頃はコンピュータでも使われる。
(ワ)三重県の都市。

谷口 雅宣

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2007年2月 8日

意味と感覚

 一昨日(6日)の本欄では、七面倒くさい議論で読者を煙に巻いてしまったかもしれない。私が絵を描く動機を理解してもらおうと思ったのだが、かえって誤解の種になってはいけないと思い、別の角度から説明したい。
 
Mtimg070208  休日の今日、私はある生活雑貨店へ妻とともに行った。そこにはいろいろな趣向を凝らした食器、洗面用具、文具、絵本、玩具などが並んでいて、手に取ったり、眺めているだけでも十分楽しめる。そんな中に、私はここに掲げた絵にあるようなものを見つけたのである。左側のマグカップのことではなく、その右に並んだ大きなテントウムシのようなものだ。最初、私はこれをテントウムシの縫いぐるみだと思った。ところが、近くに置いてある説明書きを読むと、「パソコン・ディスプレイの埃を拭くためのクリーナー」だという。私は「参ったなぁ~」と思った。
 
 何に参ったかというと、この商品ほど「意味」と「感覚」のズレが大きいものに、私は近年出くわしたことがなかったからだ。簡単に言えば、デザインが意表を突いているのである。パソコンのディスプレイには静電気で埃が付きやすい。それを取り除くためには、私はティッシュペーパーを使ったり、その目的で売られている薬を浸み込ませた布で拭いたり、もっと無精なときは、着ているセーターの肘で拭ったりする。だから、こんな縫いぐるみ型のクリーナーがあるなど想像もできなかった。これで埃を除くには、テントウムシの“お腹”の部分をディスプレイの表面に当ててこするのである。そのために、手でつかみやすい大きさになっている。つかみ心地も悪くない。そして、“お尻”の脇に細いリボンのリングが付いていて、突起状のものに吊るすことができる。パソコンのディスプレイの上に置いたり、脇に吊るしておける、ユーモア溢れたマスコット兼掃除用具というわけだ。

 この商品と、あの七面倒くさい議論の間に何の関係があるのだろう? こんなふうに考えてみてほしい--この商品を見たことのない客がこの店に電話をして、「そちらに何かバレンタインデーの贈物にできる商品がありますか?」と訊いたとする。電話に出た店員は、そのとき別のことに気を取られていて「パソコンのディスプレイ用のクリーナーがありますが、どうでしょうか?」と答えたとする。これは“意味優先”の説明の仕方であり、店員の答えは決して間違っていない。しかし、電話口の客は恐らく、そんなものはいらないと考えるだろう。なぜなら、ディスプレイ用クリーナーをバレンタインデーに贈るなど無粋だからだ。ところが、同じ店員が「バレンタインデー」という言葉にピンときて、少し気を利かせて「かわいいテントウムシの縫いぐるみがありますが、これはパソコンのディスプレイの埃取りなんです」と“感覚優先”の説明をしたとしよう。これならば、電話口の客が興味を示す可能性はグンと増すはずである。

 客にもっと興味を持たせるには、この店のインターネットのサイトに、テントウムシ型のクリーナーの実物の写真を大きく掲げることだ。この方法は、「他人の目」と「言葉」を介さずに、客に直接商品を見せることになる。それを一見して「わぁ、かわいい!」と思った人は、それから「これは一体何?」と、その商品の「意味」を考えるだろう。目から入った「感覚」が先で、それを「ディスプレイ用クリーナー」という意味に結びつけるためには、言葉が必要だ。その言葉を聞いて(あるいはパソコンの画面で読んで)「なぁーんだ」と落胆する人はこれを買わないだろう。が、「かわいい」という印象をもち続ける人や、「へぇー、面白い」と思う人は、値段しだいでは買ってくれる可能性がある。買うということは、価値を認めることだ。
 
 この例では、“意味優先”の視点で見るとつまらないものでも、“感覚優先”の視点に切り替えると、その価値が認められる場合があることが示されている。都会の生活に価値を認めるためにも、これと似た方法が有効だと思う。言葉を介さずに、都会の事物を直接感覚で受け取るのである。言葉が我々を導いていく先は「意味の世界」であることが多い。これに対して、感覚は我々を直接感動へと導くことができる。

 例えば、読者は毎日、新宿3丁目を経由して仕事場へ行くとする。そのとき、1軒の喫茶店の前を通るとしよう。この店を「通勤路の新宿3丁目にある喫茶店」として捉えるのが“意味優先”の視点である。こういう見方では、この店への関心はほとんど生じないだろう。しかし、ある日、その通勤路で「西日を浴びて、木の肌を克明に見せた板壁の店」が見えたとしよう。もちろん、この喫茶店がそう見えたのである。その時、「なんだ、いつも通る店じゃないか」と考え直して“意味の世界”へもどってしまわずに、見えたとおりの光景をじっと味わってみるのはどうだろう。その板壁の文様が心を打ったならば、それをしっかりと見て、心に留めるのである。そして、その感動を絵に描けばいい。

 私のいう“感覚優先”の視点を、理解してもらえただろうか。忙しい都会人は、大抵“意味の世界”で生きている。そこから“感覚の世界”へ移って都会を見れば、そこにはまだまだ感動すべきものが沢山ある、と私は思うのである。

谷口 雅宣

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2007年2月 7日

映画『不都合な真実』

 元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏(Al Gore)が主演する映画『不都合な真実』(An Inconvinient Truth)を見に、妻と2人で日比谷へ行った。この映画については、試写会の招待状をもらっていたが、時間の都合がつかずに他の人に行ってもらい、その人から大体の内容を聞いていた。地球温暖化の危機を訴える真面目なマルチメディア・プレゼンテーションだという話だったから、あまり期待していなかった。私が生長の家の講習会でやっているのと大差ないだろう、くらいに思っていたからだ。しかし、彼のプレゼンテーションは、私のものより数段上だった。画面が大きく、しかも動くというだけでなく、複雑な現象を視覚化し、手短に分かりやすく提示する手法は、どんなテーマにも応用できる第1級のもので、さすが千回以上も続けてやっているだけあると思わせる。

 ゴア氏は、2000年の大統領選挙で現ブッシュ大統領と大接戦を演じ惜敗した後、アメリカ全土のみならず、世界各地を巡って、このプレゼンテーションを繰り返しながら、技を磨き上げてきた。そんな感じがした。そういう「聴衆を納得させ、説得する」方法の1つの模範として、生長の家の講師は一見する価値があると思う。もちろん、地球温暖化のメカニズムや、その影響がどんなに広範囲で劇的でありえるかという科学的知識を学ぶうえでも、よい参考になる。が、この側面では、私が知らなかったこと、講習会等で話さなかったことは、そう多くなかった。また、残念に思ったのは、ゴア氏が「肉食」が地球環境に及ぼす影響についてまったく触れなかったことだ。彼はビーフ・ステーキが好物なのか、などとつい思ってしまった。

 私が知らなかったことの中に、北極海の氷の厚さのことがある。この氷の厚さを測定することは、アメリカ海軍の必須の仕事だったというのである。それは、原子力潜水艦の行動の自由と直接関係している。原潜の軍事上の特徴は、何カ月もの長期にわたって海中に潜行したまま作戦行動ができるという点である。このことと、原潜が核ミサイルを搭載しているという事実を併せて考えると、「潜在敵国に居場所を知られずにどこからでも攻撃できる」という核抑止力の大きさが理解できる。しかし、この核抑止力が保証されるためには、海面が分厚い氷で覆われていてはいけないのである。アメリカの潜在敵国とは長い間、ソ連であり、今はその後継国、ロシアである。ロシアへの攻撃がしやすいのは北極海だろう。そしてこれと同じことは、ロシア側にも言える。つまり、ロシアがアメリカを攻撃する場合、北極海は重要な拠点である。ということは、そこの氷の状態がどうであるかは、米ロ双方にとって国家安全保障上の重要事項なのだ。
 
 ゴア氏が映画で指摘しているのは、彼が原潜に乗って北極海へ行った際(それがいつかは明らかでないが)、北極海の氷が年々薄くなっている事実を知らされたということだ。一方、私が講習会でもたびたび触れるように、アメリカ航空宇宙局は、人工衛星から定期的に北極海の氷の状態を写真撮影している。これによって北極海の氷の「面積」の推移が正確にわかる。その面積が年々縮小していることは、私が本欄でも紹介した通りである。だから、アメリカ政府高官にとっては、北極海の氷が年々縮小し、その「厚さ」も年々減少していること--つまり、地球温暖化が進んでいること--はよく知られた事実であったのだ。にもかかわらず、その原因が人間の活動であることを米大統領が長い間認めようとしなかったことは、驚くべきことではないだろうか。
 
 この映画と、昨年7月6日の本欄で紹介した『ホワイト・プラネット』の2本を見れば、地球温暖化の深刻さを知識として理論的に理解するだけでなく、失われつつある地球環境や生態系の壮大で繊細な美しさを感情的に納得できるはずである。両作品が早くDVD化されることを私は期待している。
 
谷口 雅宣

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2007年2月 6日

わが町--原宿・青山 (2)

 2月からオープンした表題の欄に、読者(鑑賞者?)からいろいろなコメントをいただき、有り難く感謝している。絵画やスケッチの類は、見る人によっていろいろな感想があっていいと思う。だから、私がスケッチに表現した街並みを見て「ひしめきあっていて息苦しい」とか「馴染みにくい」などと言ってもらって一向に構わないのである。東京の町並みがひしめきあっているのは事実であるし、東京に多くある奇をてらった建物は馴染みにくいのが普通だからだ。そういう町並みや建物を描けば当然、息苦しく、馴染みにくい絵になる。

 でも、どうしてこれだけの数の人間が息苦しく、馴染みにくい町に住んでいるのだろう? 毎朝、電車や駅の殺人的な混雑を修行僧のように黙々と潜り抜けて、職場でも忙しく時間に追われる仕事をし、疲労して家路につく。それが、給料のためだけとは私には思えないのである。もっと何か、「生き甲斐」と言えば大げさだが、「夢」とか「憧れ」とか「希望」みたいなものを、人々は大都会に抱いているのではないか。自分の仕事にそれを抱く人もいる。が、それができなくても、アフターファイブや、まだ遭えない恋人には抱ける。また、ロードショウとか、大美術館とか、最近話題のナントカヒルズとか、ナントカプレースなどへ行けば、そこには綺麗に演出され、ガラスの飾り棚に入れられて「夢」「憧れ」「希望」が並んでいる。手を伸ばせば、まるでつかめそうな距離に……。
 
 夢、憧れ、希望は、小さいガラスケースにも収められるが、大きな建築物にも表され、街並みにも表現できる。こうして表現されたものが、自分の抱く夢、憧れ、希望とは違っていても、それぞれの表現物はそれぞれの“良さ”を持っていないだろうか? キラキラした夢であっても、ケバケバしい憧れでも、キャンキャンと騒がしい希望であっても、それらを少し距離をおいて外から眺めるとき、普段気づかなかった人間の温かさ、人生の素晴らしさや愛おしさが伝わってこないだろうか? そんな良さは、新しいものの中にあるだけでなく、朽ち果てそうな古いもの、あるいは全く普通の平凡な、当たり前のものの中にもあるのではないか? それを獲物探しの“ハンターの目”になって物色する--私はスケッチの際、こんな心境になっているような気がする。
 
 直感的で、分かりにくい表現になってしまったので、論理的な説明を試みよう。物事には大別して2つの側面があるように思う。1つは「意味」を伝えるもの。もう1つは「感覚」を通して訴えるものである。例えば今、私の執務室の窓から外を見れば、隣接地の工事現場に、山吹色の穴掘り用の機械が聳え立っているのが見える。これを見て「景観を壊す工事用機械」という「意味」を脳裏に刻む人もいれば、その機械の色と形が昔、子供のころ自分が割り箸で作ったゴム鉄砲に似ていると感じ、「巨大なゴム鉄砲が空を向いて立っている」と感じる人がいるかもしれない。前者は“意味優先”のものの見方であり、後者は“感覚優先”のものの見方と言える。私たちは、この2つのものの見方を、その時の気分によって組み合わせて使っているのではないだろうか。
 
 “意味優先”のものの見方をする場合、私たちは目の前にあるものを自分の現在の目的との関係で意味づけ、価値判断する傾向がある。例えば、朝の通勤時に先を急いでいる時、駅前広場でバインダーを抱えた青年が近づいて来ると、私たちはその人を「行く手をさえぎる邪魔者」として見る。この場合、その人を含めた私たちの周りの“外界”は、どうしても「自分の手段」のように目に映っている。自分との利害関係の有無で「善」と「悪」と「無関係」の3種類の意味づけを行う傾向が出てくる。自分の現在の目的に貢献するものは「善」であり、それを妨げるものは「悪」となり、無関係のものは「非存在」の中に消えてしまうのである。これでは、私たちはいったい何を見ているのか分からない。多分、周囲のもの「そのもの」など全く見ていないから、素晴らしいもの、美しいものがあっても気がつかない。そこに何十万色の豊かな色彩があっても、自分の心で白(善)、黒(悪)、灰色(無関係)のたった3色に減色した世界を見ているかもしれないのだ。
 
 都会の生活はどうしても“意味優先”になりがちだ。だから、“感覚優先”のものの見方に切り替えることで、普段見えなかった何か素晴らしいものが、モノトーンの、平板な意味の裂け目から顔を出してくれないだろうか……そんな期待を込めて街を歩くのも悪いことではない、と思うのである。

谷口 雅宣

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2007年2月 5日

ネコ好きの人に注意!

 徳島県での生長の家講習会を終えたばかりの今日、『日本経済新聞』の夕刊を見たら、国と徳島県は、鳥インフルエンザから変異した新型インフルエンザが発生したとの想定で「対応総合訓練」をやったという記事が載っていた。それによると、新型インフルエンザは、発生すると短期間に一気に世界中に広まるので、日本でも水際で食い止めるのは難しい。だからこの訓練は、国内で患者が発生することを前提に、早期に被害を最小限に食い止めることで新型ウイルスを封じ込めるためのものだという。なぜ徳島県が訓練の場に選ばれたのかはよく分からないが、「阿波尾鶏(あわおどり)」などのニワトリを多く飼育しているからかもしれない。
 
 訓練開始に当たり、いま“渦中”にある柳沢厚生労働大臣が、「いつ新型インフルエンザが発生するか予断を許さない。関係省庁は発生時に適切な対応を講じられるよう、(訓練で)問題点を確認していただきたい」と述べたという。これは今年に入り、宮崎県や岡山県で高病原性の鳥インフルエンザ(H5N1型)が相次いで発生したことから来る、危機感を表明したものだろう。上の記事によると、この新型インフルエンザは海外では人間への感染も散発的に確認されており、世界保健機関(WHO)の2月3日現在のまとめでは、すでに「165人」が亡くなっている。感染者の致死率は60%というから、危機感を抱いて当然だろう。

 この問題では、鳥から人への感染に続いて、感染した人から他の人への感染が起こることが恐れられている。H5N1型のウイルスが「人→人」の感染が容易な形に変異した場合、大流行すると考えられているのだ。上記の記事では、「新型インフルエンザが国内で大流行し、人口の25%が病気になると想定した場合、医療機関の受診者は最大で約2500万人、入院患者は約200万人、死者は約64万人に上ると推定される」などと書いてある。これは“最悪”の事態を想定しているのだろうが、何とも悩ましい数字である。
 
 ところで、日本ではあまり話題にならないようだが、「鳥→ネコ」の感染がすでに起こっていることを読者はご存じだろうか? 1月半ばに分かったことだが、インドネシアの鳥インフルエンザが流行している地域では、ネコにもH5N1型のウイルスが感染していた。1月27日付の『New Scientist』が詳しく伝えている。それによると、インドネシアのスラバヤにあるアイルランガ大学(Airlangga University)のチャイラル・アンワー・ニドム博士(Chairul Anwar Nidom)の調査では、鳥や人への感染が広まった地域のネコから、5匹のうち1匹の確率でH5N1型ウイルスの抗体が発見されたという。

 より具体的には、ニドム博士はジャワ島の4カ所のニワトリ市場近くにいたノラネコと、スマトラ島の1カ所のノラネコの合計500匹から血液のサンプルを採取したという。これら5カ所は、いずれも最近ニワトリまたは人間がH5N1型ウイルスに感染したことが確認された場所という。検査の結果、20%のネコから同ウイルスの抗体が検出されたのである。ネコへの感染は、感染したニワトリを食べたからだろう。ニドム博士は生きているネコを調べたのだから、ウイルスに感染して死んでしまったネコを考慮すれば、感染率は20%を上回るということになる。

 このことから考えると、問題のウイルスはネコの体内で適応する機会を得ているから、同じ哺乳動物である人間への感染の危険が増大しているかもしれない。このウイルスは、「鳥→人」のルートでは感染力が弱いことが分かっているが、「鳥→ネコ→人」という別のルートで感染が起これば、人への感染力が増すかもしれないのである。上記の記事では、ニドム博士はこの2月に来日し、東京大学で検体の調査をするらしい。だから、日本のノラネコの危険性についても、まもなく分かるだろう。

 実は最近、家の庭にハトの羽が散らばっているのを妻が発見した。私の家ではハトもネコも飼っていないから、野生のハトがノラネコに襲われたに違いない。私はしばらく、ノラネコとかかわるのをやめようと思う。ネコ好きの読者は、くれぐれもご注意あれ。

谷口 雅宣

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2007年2月 4日

「自然支配」の夢に眠る

 一昨日(2月2日)から昨日にかけての新聞各紙は、パリで開かれた「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1作業部会」が承認した第4次評価報告書の内容を大きく扱っている。地球温暖化は人間の活動によって引き起こされていることは「かなり確か」(very likely)であり、今後何世紀もこの傾向は続く。人類が今後、省資源の循環型社会を実現したとしても、21世紀末には地球の平均気温は約1.8℃、海面は18~38センチ上昇。化石燃料に依存した高度経済成長を続けていれば平均気温は約4℃、海面は26~59センチ上昇する。後者の場合、移動を余儀なくされる“気象難民”は2億人に達する。今や議論の時期は終り、温室効果ガスの排出削減に全世界は行動を起こすべきときである--ごく大ざっぱに言えば、そういう内容のようだ。

 本欄の読者ならば、人間の活動が地球温暖化の原因であるという話は、「当たり前」の部類に属するだろう。しかし、ブッシュ米大統領を初めとした少数の“懐疑派”の人々には、これまでは「当たり前」でないことだった。これについては、読者は本欄の昨年1月30日31日に書いたNASA(米航空宇宙局)の下部組織、ゴッダード宇宙科学研究所のジェームズ・ハンセン所長の話を思い出してほしい。同所長は、自分の講演原稿、発表論文などが上司のチェックを受けて、自由な発言ができないと訴えたのだ。その“自由な発言”の内容とは、まさに「人間が排出する温室効果ガスによって地球温暖化が起こっている」ことを前提としたものだった。だから今回、世界中の気象学者の大多数が「かなり確かだ」と合意した「地球温暖化は人間の活動による」という見解は、これら懐疑派への“墓標”を意味するだろう。パリでの記者会見では、「かなり確か」とは確率的に何%かという記者の質問に対して「90%以上」という答えがあったから、もう地球温暖化の原因をめぐる論争は実質的に終結したと言えるのである。

 今後は、各国政府が今世紀末までに起こるという「気象難民2億人」の悲劇をどのようにして食い止めるかという「行動」の問題--つまり、政策論に集中されなければならない。私は本欄を通じて、日本は環境技術の面で世界のトップクラスにあるのだから、それを前面に打ち出した「環境立国」を目指し、世界に先がけて再生可能エネルギーの大々的利用を推進していくべきと訴えてきた。ところが、現在の日本政府内では、そういう考え方は人気がないようなのである。これまでの新聞発表などを見ていると、日本は今後、原子力発電の推進をエネルギー政策の中心にすえ、再生可能エネルギーの利用はほどほどにする一方、工場から出るCO2などの温室効果ガスを地下深く埋め込むことで、京都議定書の目標を達成しようとしているように見える。

 そう考える理由を言おう。例えば、今日(2月4日)付の『徳島新聞』を見て私は驚いた。環境省が温暖化対策としてCO2の地下固定を推進するらしいのである。もっと具体的に言うと、同省は今の国会に、CO2を海底下の地層に固定する貯留事業を可能とする海洋汚染・海上災害防止法の改正案を提出するというのである。私が驚いたのは、これを経済産業省がやるのではなく、環境省がやるという点である。経産省はその仕事がら、経済界の利益になることを推進するのは当然としても、環境省が経済界の利益を第一に考えるのでは困るのである。CO2の地下固定は、環境技術としては確立されておらず、将来の地球環境へのリスク要因を増やすという点で疑問が残る、ということを私は過去の本欄(2005年5月15日12月14日)で書いた。にもかかわらず、環境省がそれをするということは、同省がそれ以上の環境対策を考えていないことを示している--そんな気がするのである。

 上記の記事によると、CO2を地下固定するためには、高圧によってCO2を液体でも気体でもない「超臨界流体」という状態にし、地下層に注入するらしい。そして「適正に管理すれば、千年後も注入した量の99%近くを漏洩させずに維持できると考えられている」という。ノルウェーなどですでに実用化されており、日本では新潟県長岡市で地球環境産業技術研究機構が実証実験をしているらしい。このように、まだ実験中の技術を法改正で実行可能にしようという“積極姿勢”は、環境省内での方針決定を意味していないだろうか? また、同じ記事は、「CO2が海中に漏れ出すことによる環境への影響に配慮して、海底下貯留を環境相の許可制とするなど国が厳しく管理し、不法業者への罰金規定も盛り込んだ」とある。環境省自らが「CO2が漏れ出す」可能性を認めているような書き方である。
 
 私はこう思う。原子力発電にしてもCO2の地下貯留にしても、その背後にあるのは「自然界は人間が操作し制御することで無害化し、利用することができる」という「自然支配」の考え方である。これは、生物の遺伝子組み換えや生殖補助医療、さらには臓器移植にも共通する“基本思想”と言える。その問題点は、私がすでに『神を演じる前に』(2001年)『今こそ自然から学ぼう』(2002年)の中に詳しく書いた。地球環境問題を生み出したのはまさにこの思想なのだが、その解決に同じ思想を用いようとしているのが、政府の施策のような気がするのである。

谷口 雅宣

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2007年2月 2日

バイオ燃料に黄信号

 バイオ燃料の使用拡大を謳ったブッシュ米大統領の一般教書演説から10日ほどしかたっていないのに、この新燃料の問題点が具体的に浮き彫りになってきた。

 1つは、本欄でも何回も(最近では1月6日)触れた「食料との競合」の問題である。今日(2月2日)の『日本経済新聞』夕刊によると、トウモロコシを原料とするメキシコの伝統的主食、トルティーヤの値段が急騰していて、同国各地で抗議デモなどが相次いでいるという。昨年までのトルティーヤの小売価格は1キロ当り6ペソ(約11円)だったが、今年に入って12~15ペソに上がったという。31日に首都・メキシコシティーで野党や労働組合が主催した抗議デモには4万人の市民が参加し、就任したばかりのカルデロン大統領は(地元紙の表現によると)“トルティーヤ危機”に見舞われているという。同国経済省は緊急に65万トンのトウモロコシをアメリカなどから輸入する決定をしたが、その程度の量では値は大きく下がらないと同紙は見ている。
 
 もう1つは、ヤシ油の生産方法の問題だ。これはインドネシアの名産品だが、旧宗主国のオランダを初めとしたヨーロッパ諸国の需要が急速に拡大しているため、それに応えようとする農民が環境破壊的な方法を使って生産しているというのである。2月1日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。それによると、インドネシアやマレーシアではヤシ農園を開発するために広大な面積の熱帯雨林が伐採され、ヤシの成長を急がせようと必要以上の化学肥料を使ったり、湿地を構成するピートモスを乾かすために水を抜き取ったり、ピートモスを焼き払ったりする方法が使われているという。昨年12月に発表されたオランダの研究者の調査によるもの。これによってインドネシアは、今や世界で3番目の温暖化ガス排出国になっているらしい。1位はもちろんアメリカで、2位は中国である。
 
 オランダはここ数年、ヤシ油の輸入を倍々ゲームで増やしており、昨年の輸入量は150万トンに達したという。輸入の相手国はインドネシアだけではない。環境保護団体のフレンズ・オヴ・ジ・アース(Friends of the Earth)の推定では、1985年から2000年までのマレーシアにおける森林伐採のうち87%は、ヤシ農園開拓のためという。インドネシアでは、ヤシの栽培に使われる土地は過去8年間で118%増加した。そして今回、ピートモスの乾燥や焼却処理が問題視されている。ピートモスは植物性のスポンジ状の土壌で、大量の炭素を吸収できるから温暖化防止に役立ってきた。ピートモスの土壌は90%が水だが、水分を抜き取ると内部に吸収されていた炭酸ガスが大気中に放散されるという。だから、ヤシ油を生産するためにピートモスを破壊し、焼却することは、かえって地球温暖化を促進することになるのである。
 
 ヨーロッパでは、EU域内のすべての国が、交通に使う燃料の5.75%を2010年までにバイオ燃料にするという方針(the 2003 European Union Biofuels Directive)が定められている。しかし、バイオ燃料の生産過程で大量の温暖化ガスが出ている現状では、この方針の見直しが検討されているという。オランダは、再生可能エネルギーの分野ではEU域内で模範的と見られてきたが、ヤシ油への政府の助成を中止し、今後どのようにして、バイオ燃料の輸入元の生産方法を捉えるかの対策を練っているらしい。
 
 読者の中には、インドネシアの問題がなぜEUに波及するのかと不審に思う人がいるかもしれない。が今、我々が直面しているのは、「インドネシア温暖化」や「東南アジア温暖化」ではなく、「地球温暖化」である。つまり、インドネシアの農民が誤った方法でヤシを育てれば、ヨーロッパ・アルプスの降雪量に影響するかもしれないし、その逆に、ヨーロッパの自動車から出るCO2が増えれば、インドネシアの島の面積が減るかもしれない--そういう地球全体の気候変動の問題だからである。上記の記事によれば、イギリスの環境保護団体、バイオフューエルズ・ウォッチ(Biofuelswatch)は、「バイオ燃料は、もはや再生可能エネルギーとして自動的に認めるべきではない」と言っている。生産方法が環境保護に貢献しているかどうかを事前に審査し、そうでない場合は、生産過程で排出される温暖化ガスを輸入元の排出量として算入する方法が望ましい、と考えているようだ。

谷口 雅宣

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2007年2月 1日

わが町--原宿・青山

 知らぬ間に、今年もすでに1カ月が過ぎてしまった。新しい月になったところで、本サイトでの新しい試みについてアナウンスしておこう。すでに気がついている読者もおられるだろうが、本欄のサイドバーにリンクを張って、私のスケッチ画を並べたサイトへ行けるようにしてある。名づけて「わが町--原宿・青山」である。
 
 私も五十路を越えて5年も過ぎたためか、“里心”がついたようだ。私は現在の居所のある東京・原宿の地で生まれ育ち、社会人になってからは高井戸、菊名、駒沢などで生活したこともあるが、結局この地に自宅を建てて落ち着いた。だから、「里心がついた」という表現は奇妙に聞こえるだろう。しかし、現在の原宿は、私が育った当時の原宿とは似ても似つかない繁華街である。駄菓子屋や八百屋、魚屋、材木屋、おもちゃ屋が並んでいた素朴な通りは、欧米の一流ファッション・ブランドが入った高層ビルが林立する目抜き通りに変身している。

 この明治神宮の表参道のことを、私は密かに「ヴァニティー・ストリート」(Vanity Street)と名づけている。ヴァニティーとは、「役に立たない」とか「空疎な」とか「虚栄の」という意味の形容詞「vain」の名詞形だから、私が何を言おうとしているかは分かるだろう。アメリカには「ヴァニティー・フェアー」(Vanity Fair)という有名な月刊誌があるが、それは主として芸能人などのセレブリティーの考えや動向を記事にしている。原宿近辺にも芸能人が住み、ブティックやビューティー・サロンが軒を接するように立ち並んだ。そういう外見の良さばかりを追う街になってしまったことを、私は半分苦々しく思っているのである。

 とは言っても、こういう変化には“良い面”もある。ヴァニティーを追求する人々はまた、美的センスに長けていることが多い。だから、この街を歩いていると、無秩序に建てられる家屋やビルの中に、裏通りの路地の一画に、ハッとするような風景が現れることがある。また、懐かしさを感じる古い町並みがまだ残っている一画もある。そういう一画は、しかし次に行った時にはもう無くなっていることが多いのだ。この辺りは開発が急速に進んでいて、1年たつと風景が変わってしまうのだ。

 今日(2月1日付)の『朝日新聞』によると、昨年1年で全国で着工された分譲マンションの戸数は過去最高を更新したという。バブル期の最高を記録した1990年が23万8600戸だったのに対し、それを14戸上回ったらしい。「道理で……」と私は思った。原宿・青山辺りでは、今流行の高層マンションがどんどん増えているだけでなく、商業ビルや2~3階建ての住宅の建設も続々と進んでいる。これを「新しい街並みの出現」と見ることは、もちろんできる。しかし、私自身にとって、それは「喪失」であるということを最近、感じ始めた。多分、年を取ったからだ。私の心の中で、過去の思い出が、未来への期待よりも大きな位置を占めるようになってきたのかもしれない。

 そんな新旧相い並ぶ混沌とした街の中で、私の心に残る、あるいは現在印象を刻みつつある風景を記録しておくのも悪くない、と思ったのである。だから、古い建物も新しい建物も差別せずに、しかし、事の性質から、あくまでも私の主観100%で選んだ風景をスケッチしている。読者から感想など聞かせていただければ、幸いである。

谷口 雅宣

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