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2007年2月22日

クロスワードを解く (7)

 2月15日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.7」の解答を発表しよう。

【縦の答え】
(イ)未完成。(ロ)祈り。(ハ)暇。(ニ)ノア。(ホ)長髄彦。(ヘ)ナタデココ。

【横の答え】
(イ)美濃。(ロ)イザナミ。(ト)仮の姿。(チ)姉。(リ)施肥。(ヌ)ヒルコ。(ル)今ここ。

 今回のクイズは、日本の神話から多く取材していることに気づいた読者は多いだろう。“ひねった”設問はほとんどなく、あえて“ひねった”と言えるとしたら、縦の(ロ)と(ハ)、それから横の(ル)だろうか。
 
 祈りとは「命の宣りごと」である、と谷口雅春先生は教えてくださった。これは「心の底からの宣言」という意味である。これに対して、祈りというものを「凝念」だと考える人の方が多いのではないだろうか。凝念とは、いわゆる“念力”のことだ。心で何かを一所懸命に唱えることで、そのことが現実に起こるとする考え方である。しかし、これによって一時的に小さい物体が動いたとしても、心身は疲弊して日常生活に差し支える。そんなことをするくらいなら、肉体の手や腕を使って物を動かす方がはるかに優れている。
 
 また、凝念を使うことは、「心で認めるものが現象に現れる」という心の法則を逆用する危険がある。例えば、病床にいる家族の平癒を祈るときなど、「神さまどうぞ治してください」と祈ることは、その家族がいま「大変な状態にある」ということが前提にあるから、そう強く祈れば祈るほど、心の底から「ああ現状は大変だ」と宣言することになりやすい。これでは、心で認めているのは「大変な状態」だから、その状態が消えることを心でわざわざ妨げていることになる。だから生長の家では、病気の平癒を祈るときは、本来完全健康であるその人の実相を心で強く思い描くという方法をお薦めする。このへんの心の持ち方については、谷口雅春先生の『詳説 神想観』(1970年、日本教文社刊)165ページ、谷口清超先生の『愛と祈りを実現するには』(1986年、同社刊)の191~194ページなどを参照されたい。
 
 これに関して、祈りの効果を科学的実験によって確かめる試みが何度か行われたことを思い出す。このことは昨年4月3日の本欄でも取り上げたが、こういう科学の実験では、被験者の心的態度まで厳密に確認しない点、どうしても明確な結果が出てきにくい。が、この実験では「祈りの効果なし」という結論になった。しかし、病気平癒の祈りではなく、祈りによって人工受精による妊娠の確率を上げる効果を調べた実験(2001年10月16日の本欄で紹介)では、「祈りに効果あり」という逆の結果が出ている。
 
 縦の(ハ)の答えは、「貧乏暇なし」という諺を思い出せば簡単に解ける。しかし、本当に貧しい人はヒマがないのだろうか、と私は疑う。これを逆に言えば、所得の高い人はヒマということになるが、現代の大企業の経営者でヒマをもてあましている人は、皆無とは言わないまでも例外的だと私は思う。私が知っているネコ好きのホームレスのおじいさんは、明治公園のベンチに寝そべって週間誌やマンガ本を読んでいることがほとんどだから、「貧乏暇あり」と言えるだろう。だから、この諺の「貧乏」とは、恐らく「極貧」の貧乏ではなく、「収入が平均以下」という程度の人、あるいは「生活に追われて働き通しの人」なのだ。

「実相はどこにあるか」という問いかけは、禅の公案にも多くある。有名なのは玄沙(げんさ)和尚の「膿滴々地」の話で、これについては昨年5月6日の本欄でも触れた--唐の時代にいた禅僧、玄沙が誤って薬を服したところ、全身が赤くただれて、膿(うみ)が体からポタポタと滴る状態になってしまったという。それを見た僧が、「いつも先生が説いている堅固法身(けんごほっしん)はどうなったのですか?」と問う。すると玄沙和尚は、「それは膿滴々地だ」と答える--こういう話である。谷口雅春先生は『日常生活の中の真理(仏典篇)』の中で、これを解釈されて「膿が滴々と流れているこの肉体そのままに堅固法身であると云う意味であります」(p.295)と説かれている。別の言葉でいえば、現象の状態に関わりなく、実相は「今ここ」にあるということになる。谷口雅春先生の聖歌『今ここに新たに生まれ』では、神の子の自覚を深めることで「今ここ」に新生することが説かれ、谷口清超先生の聖歌『悦びの歌』にも「神の国は今ここにあり」とある。

  第8問を以下に掲げる:
 
Cwp6x6008 【縦のカギ】
(イ)生滅・変遷がなく永久に続くこと。
(ロ)他の侵害から守り大事にすること。
(ハ)頭で知るだけでなく、体験を通して自分のものにすること。
(ニ)屋根を共有すること。
(ホ)人生に起こる吉凶のめぐりあわせ。
(ヘ)神の別名。
(ト)植物の体の中軸。

【横のカギ】
(ハ)人と対面して話し合うこと。
(チ)何かに心をもっぱら集中すること。
(ホ)苦しんで声を出すこと。
(リ)聖経『甘露の法雨』では、人間の肉体が死ぬことを詩的にこういう。
(ヌ)「こうでなければならない」と心に掴むと、この状態になる。
(ル)神想観の時の気合いの元になった2語のうちの1つ。
(ヲ)神社等で神がすむとされる場所。

谷口 雅宣

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コメント

Sorry -- this is not a comment about your blog. I tried to reach you via your former Compuserve email address but my message was returned ... please see below:


Dear Reverend Masanobu,

It was very nice to see you on Sunday at Tokyo International Forum. Thanks for your reassuring smile when I came on stage to give my testimonial. It helped me relax, which I needed to do since it was my first time speaking before such a large number of people.

I also enjoyed and learned from your lectures, although I have to admit I got a little nervous about your prediction regarding future land prices dropping in Tokyo due to rising sea levels. Actually, I had a similar concern a week before after seeing the movie "An Inconvenient Truth" which, if you haven't yet seen it, is still playing in Tokyo for a few more days:

http://www.seekjapan.jp/movie_page.php?id=1236

Thank you for leading the Seicho-No-Ie movement.

Gassho,
Stuart

Stuart Baker
Urayasu, Chiba

投稿: Stuart Baker | 2007年3月 6日 15:35

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