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2007年1月28日

「悪を認める」とは?

 今日、松山市で行われた生長の家講習会では、よい質問が多く出た。私はそれに丁寧に答えようとし、また質問が多かったこともあり、講話の時間が予定をオーバーしそうになった。それでもすべての質問に対して答えられず、また答えの内容も十分意を尽くしたという自信がない。そこで、この場を借りて少し補足させていただこう。
 
 午前中の講話で「唯心所現」の原理を説明したとき、私たちの世界観や人生観が、マスメディアから得る情報にいかに大きく左右されるかを示すために、犯罪統計に関する簡単なクイズをした。日本の犯罪は減っているのに、ほとんどの人は増えていると感じている。また、犯罪の質も「凶悪化」しているわけではないのに、凶悪化していると感じている。その理由は、私たちが“悪いニュース”に注目し、マスメディアも“悪いニュース”を大きく扱うだけでなく、何回も繰り返して報道し、さらに「続報」と称するその後の話を延々と流し続けるからだ、という意味のことを言った。これでは、私たちは社会を挙げて「悪を認める」運動をしているようなものだから、唯心所現の原理によって現象世界から悪はなくならない。そして、生長の家は「悪いことを心に記録しない」という日時計主義の生き方であることを話し、ついでに『日時計日記』の宣伝もした。

 これに対し、3通の質問が来たが、最も的を射て分かりやすいものを次に掲げよう。新居浜市に住む42歳の男性の質問である。:
 
「一般論では、ものごとを良くしようとした場合、欠点を認め、それを改善するのが最も良いとされています。生長の家でも地球環境問題にとりくんでいるのは、地球温暖化現象という悪を認めているからではありませんか? 唯心所現という意味は良く分かりますが、実際の応用(の仕方)が良く分かりません」

 この問題は、実は昨年3月5日7日の本欄で「悪を放置するのか?」という文章で検討している。しかし、説明が中途半端なので、ここで改めて解説を続けることにする。3月の説明を繰り返せば、この世界には「悪そのもの」や「悪という実体」は存在せず、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに、その対象を仮に「悪」と呼ぶのである。つまり、「悪」とは人間の心の中に生じる否定的な評価を外部に投影したもの、と言えるのである。
 
 上の質問者が挙げた例を使えば、私たちは地球温暖化現象を否定的に評価して「悪い」と思うのであるが、しかしどこかに何か黒々とした「悪」という実体があるわけではない。大気中の温室効果ガスが増加していくという「状態」があるだけである。温室効果ガスの主成分である二酸化炭素(CO2)は、それ自体は善でも悪でもない。また、大気中にCO2を排出する行為そのものも「悪」とは言えない。その証拠に、私たちは常にCO2を鼻や口から吐いているが、誰からも咎められない。さらに言えば、工場や自動車からCO2を排出することも、それ自体が悪というわけではない。なぜなら、産業革命の初期に蒸気機関や工場から排出されるCO2のことを「悪い」と評価した人はいないと思われるからだ。
 
 現在それが「悪い」ことのように扱われているのは、大気中のCO2の濃度が上昇し続けていて、その結果、地球の平均気温が温室効果によって上昇を始め、地球環境や生態系にマイナスの影響を与えている、と大多数の人間が評価しているからである。そして、私たちが地球環境問題の解決に努力しているのは、そういう「マイナスの評価」を私たちも共有していて、そのマイナスの度合いを減らすことが、人間社会のみならず、地球環境や生態系全体にとってプラスになると考えるからである。これを簡単に言えば、「欠けた部分を補い、より完全に近づける」努力をしているということだ。地球環境問題の背後に“悪”がいると認め、その“悪”に向って宣戦布告をするのとは、少し意味が違うのである。

 生長の家で「悪を認めない」というのは、「悪を実在として認めない」という意味が含まれる。現象としての人間には欠陥や欠点はある。しかし、それを指摘して「お前はだからダメだ」と断定することは、事実上「現象の欠陥が永続する」と宣言することになるのである。これでは、欠陥を実在同然のものとして扱っている。つまり、欠陥(悪)を実在として認めている。そんなことでは、その人の欠陥(悪)はなかなか消えない。それよりは、「貴方はこの方面で優れているから、その優れた面を他のこういう側面にも応用すれば、もっとうまくいく」と助言し、相手の隠れた能力(実相)の顕現を信じて待つのである。この最後の部分が特に重要である。現象として欠点や欠陥が目の前に見えていても、実相がその背後にあるから必ず良くなるという強い信念・信仰がないかあるかで、「悪を認める」か「悪を認めない」かの違いが出るのである。このような言葉の微妙なニュアンスの違いは、講話ではうまく伝わらなかったかもしれない。

谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 生長の家の人が何となく持っているであろう疑問に対して、明確なご指導、誠に有り難うございました。

 善一元、実相独在が生長の家の根本真理であるのに生長の家の決起大会や会議などでは「世の中がこれだけ悪くなっているから今こそ生長の家を拡げなくては」という掛け声が良く聞かれます。
 かく言う私もそういう場ではついその手の口調になってしまいますが。

 生長の家は悪を認めるから運動するのではなく、「欠けた部分を補い、より完全にする。」という善が善する運動なのですね。

堀 浩二拝

投稿: 堀 浩二 | 2007年1月31日 15:26

以前より拝見させて頂いております。
きっかけは鮪の漁獲量だかなんだかを検索にかけた時。
生長の家はもとより、宗教にも興味はありませんが、
道徳的な生き方には興味を持っています。その上でこのブログには
役立つ記事が多く、楽しく読ませて頂いてます。

道徳的な概念は人によって言葉の定義が違い、一見バラバラな事を
指しているようで、実は同じ事を言っている・・・と言う事が多いように
思います。生長の家では、(このブログからの情報のみですが)言語化が
難しい言葉の多くを言語化しているようですね。これは凄い事だと思います。

言語化の難しい言葉は理解も難しいようですが・・・
(悪を認めるも理解の難しい言葉のように思えます)

個人的には「悪を許す、悪と考えない」と言う言葉を使っていました。
概念は理解できても、実践はやはり難しいです。

今回も為になるお話をありがとうございました。

投稿: enop | 2007年1月31日 19:27

堀さん、

 「世の中が悪いから頑張ろう!」という気持は大切ですが、これが度を過ぎると“世間蔑視”のメンタリティーにつながりますね。宗教はこうなってしまっては問題です。

enop さん、

 「悪を許す、悪と考えない」の2つでは、後者がいいですよね。
「概念は理解できても、実践はやはり難しい」……その通りだと思います。修行、練習はずっと続きます。

 今後とも、よろしくお願いします。

投稿: 谷口 | 2007年2月 1日 18:18

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