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2007年1月20日

感覚と心

 人間の視覚が生む数々の錯覚については、私は『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)などで取り上げ、「目に見える」ことが必ずしも本当でないという点を強調したことがある。人間の脳の領域の7割もが、視覚から入る刺激の処理に使われているということを考えると、人間の肉体的生存にとって視覚情報がいかに重要であるかが分かる。しかし、その視覚から入る情報の処理が、必ずしも正しく行われないという事実は、我々に多くのことを語っている。
 
 1つは、我々が「目の前にある」と思っている世界は、実は案外アヤフヤで、本物ではない可能性が大いにあるということだ。哲学ではこのことを「認識論」という分野で論じるが、仏教では昔から「唯心所現」とか「三界唯心」などという言葉を使ってそれを指摘してきた。また現代の科学では、認知心理学などがそれを扱っているし、素粒子論などを通じて理論物理学がそれに触れることもある。「人間の感覚する世界」と「本当にある世界」が異なるという考え方は、だから古くから人類の間で共有されてきたものだ。生長の家では、前者を「現象世界」、後者を「実相世界」と呼んで区別してきた。そして、人間の感覚と心が密接な関係にあることを前提に、現象世界は人間の“心の影”であると言う。
 
 図式的に示すと:
       ____現 象 世 界____
         ↑ 人間の心 ⇔ 感覚 ↑
 となる。
 これを言葉で表せば、「人間は、感覚を通して心によって現象世界を形づくる」とでも言えるだろうか。この場合、「現象世界」は「現実世界」と言い直しても大過ない。すると「現実世界は、人間の感覚と心によって形づくられる」と表現することができる。
 
 もし上記の命題が正しければ、我々が「現実」と呼んでいる世界は、頑強で変えがたい世界ではなく、我々の「感覚」と「心」によって変えることができることになる。しかしここで問題になるのは、感覚と心との関係だ。①感覚が心を生み出すのか。それとも、②心が感覚を生み出すのか。あるいは、③両者は互いに影響し合うのか……。私は③が正しいように思う。①だけを認めれば唯物論に陥り、②だけを奉じれば極端な精神主義に行き着くからだ。しかし、一般論として③を採用するにしても、個々の現象については、①しか成り立たないもの、あるいは②だけが成立するものもあるだろう。
 
 上記の本の「視覚の中のプログラム」という項で紹介したいくつかの例は、①があることを有力に示している。しかし、人間の心が感覚に影響を及ぼす(②の)場合があることも事実である。例えば、今日は「大寒」だというので、日本各地の宗教施設で「寒行」というのが行われた。気温が2~3℃という寒い中で、裸になった人々が冷水に浸かったり、水をかけ合ったりするのである。そういう人々の中には「寒い」と感じない人がいるのである。これは、修験道などで「火渡り」をする場合にも当てはまる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。ということは、現象世界(現実)を変えるためには、「心」だけを相手にしているのでは不十分で、「感覚」についてもしっかり考察しなければならないのである。

 何かすごく面倒くさい言い方をしてしまったが、要は「感覚」と「心」のいずれか一方に偏ってしまっては幸福は得られない、ということだ。現代文明は前者に比重を置きすぎて発達してきたために、様々な問題を引き起こしている。現代の宗教は、だから後者を正しく人々に提示する使命と責任があるのである。
 
Image0011  ところで最近、ニューヨーク在住の生長の家全国講師、安藤比叡さんから不思議な画像(=写真)がメールで届いた。これはまさに、上記の①を示した画像だが、人間の顔に表れた喜怒哀楽の感情が、実は錯覚によっても生じることを示しているという点で、大変珍しいと思う。これはグラスゴー大学のフィリッペ・シーンズ(Phillippe G. Schyns)とアウデ・オリヴァー(Aude Oliva)両氏の作品と言われるが、詳細は不明だ。添付された英文には、「机の前のコンピュータでこれを見れば、左側に怒った男、右側に冷静な女が見える。でも、立ち上がって40センチ下がって見れば、2つの顔は入れ替わってしまう!」と書いてある。読者自身の目で確かめてほしい。
 
谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生

私は神想観を続けてまだ一年七ヶ月ですが、そのきっかけは
谷口雅春先生が神想観を続けていれば必ず「現象世界」と「実相世界」の区別が判るとご著書に書かれていたからです。

未だ判っていないと言うのが本当のところですが、今日の先生のご説明で少し判ったような気がしました。

感覚は心の置き所でどのようにも変わります。
私も35歳から50歳まで朝4時の水行を15年間一日も欠かさず続けましたが、先生の仰られるように本当に冷たくありませんでした。

これなどは「冷たくない」というのは現象でしょうか?
それとも実相なのでしょうか?

それと「不思議な画像」ですが、
これも普通に観て感じるのが実相なのでしょうか?
それとも40cm上から観て感じたのが実相なのでしょうか?

私は水の場合は「冷たくない」というのが実相のような気がするのです。なぜなら、「冷たい」というのは普通の人間が勝手にそう思っているだけで、もっと冷たい水の中で泳いでいる魚は冷たいなどとは感じていないはずですから。

また、「不思議な画像」の場合は
40cm上から観たのはコップの中の箸が曲がって見えるのと同じだから、こちらが現象なのかなと思いました。

一年半も神想観を続けて全く稚拙な質問で申し訳ありません。

投稿: 佐藤克男 | 2007年1月20日 17:15

質問ですが、純子先生は男子のみの世襲というものに異議があるのでしょうか。例えば、歌舞伎の世界では、男子でなければ、親と同じ仕事はできませんよね。襲名も親から子へと引き継がれるのが通常にようですが。そういう意味では、歌舞伎役者の妻も「男子出産」の関しては、皇室の女性と環境が似ています。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年1月21日 00:37

佐藤さん、

>> これなどは「冷たくない」というのは現象でしょうか?
それとも実相なのでしょうか? <<

 冷たい、冷たくない、というのは、感覚器官から受け取った刺激を脳がどう感じるかということですから、現象そのものです。つまり「冷たい」のも「冷たくない」のも現象のことを言っているのです。

「不思議な画像」のことでも、あなたは同じ間違いを起こしていませんか? 画像そのものが現象ですから、それをどう見るかも現象の一部でしかありません。


投稿: 谷口 | 2007年1月21日 13:06

早勢さん、

 貴方は突然、主題と無関係な話をするのがお得意のようですね。(笑)
 それと、私は谷口純子ではありませんから、彼女になり代わってお答えすることはできません。悪しからず……。

投稿: 谷口 | 2007年1月21日 13:08

>貴方は突然、主題と無関係な話をするのがお得意のようですね。(笑)

得意であるかそうでないのか、自分では判断できませんが、また、何を基準にして先生が上記のような印象を持たれたのかわかりませんが、ものの見方で結果(印象)が変わるというのは、主題に通じたところがあるのかな、と思います。

質問しましたのは、白鳩会副総裁・谷口純子として普及誌・白鳩に掲載された文章について、真意がわかりにくいと感じました。どこにその問い合わせしたらよいのかわかりませんので、ご夫婦でもある先生の、この場所に書かせていただきました。問い合わせ先を、お教えいただければ、そちらの方に問い合わせてみます。宜しくお願いします。

投稿: 早勢正嗣 | 2007年1月21日 16:17

副総裁先生

ありがとうございます。
まだまだ、勉強が足りないようです。
足りないことが判ったことだけでも
進歩したと受け止めさせていただきます。

感謝合掌

投稿: 佐藤克男 | 2007年1月21日 18:27

早勢さん、

《問い合わせ先を、お教えいただければ、そちらの方に問い合わせてみます。宜しくお願いします。》

 彼女は最近、Web版『日時計日記』のサイトに出没しているようですから、そこで聞いてみてはいかがでしょうか?

投稿: 谷口 | 2007年1月24日 15:54

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