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2007年1月30日

クロスワードを解く (4)

 1月16日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.4」の解答を発表しよう。

【縦の答え】
(イ)心眼。(ロ)大宇宙。(ハ)馬。(ニ)釈迦。(ホ)弱肉。

【横の答え】
(イ)執着。(ニ)捨。(ヘ)祭壇。(ト)蟹。(チ)我執。(リ)馬屋。

 今回は、“ひねった”問題と言えるのは横の(ヘ)だろう。これについて生長の家の神示と無関係なカギを書くこともできたが、それでは「教義クロスワード」の名が泣く。そこで強引に神示に結びつけたから“こじつけ的”になってしまった。しかし、練成会でおなじみの「食事の祈り」(昭和5年11月4日)が最初の神示であることを知っている人は、簡単に解けただろう。その第一行目には、「聖書に吾らが祭壇に対して供物を献ずるに当っては、先ず兄弟と仲直りしなければならないと云うことが書いてある」とある。

 横の(イ)については、異論のある人もいるだろうから、少し解説しよう。「この世の悪の根源」と呼ぶような重大なものが、「人間の執着心」という、考え方によってはごく些細な、時とともに消えたり、生まれたりするものであるはずがない、と考える人は少なくないかもしれない。そういう人は、この世には“悪神”“悪霊”“悪魔”のような、何か動かしがたい悪の実体があると考えている場合が多い。私は、前回と前々回の本欄で、そんなものはないという話を書いた。理解していただけただろうか? 特に前々回は、二酸化炭素などの温室効果ガスを大気中に排出する行為「それ自体」は悪でないと書いたが、その意味が伝わっただろうか?

 それは、「温室効果ガスをどんどん出しても構わない」という意味では決してない。温室効果ガスを大気中に排出するという行為「それ自体」は善でも悪でもないが、その行為が行われる状況が変化するに伴って、同じ行為が善とも悪ともなる、という意味である。産業革命が始まった頃は、蒸気機関車や蒸気船がまだ珍しい時代だから、それに伴って発生するCO2の量は、今日に比べればごくごく少量である。だから、当時はその行為の善悪はまったく問題にならなかったどころか、もしかしたら「空は無限に広いから、そこへ排出して済むことはいいことだ」と考えた人がいるかもしれない。今日では、温室効果ガスの排出量があまりにも多くなってしまったために、地球環境と生態系が破壊され、海面上昇によって島国や海岸近くの都市が消滅する可能性が増大している。この状況を我々が心で「悪い」と評価するのである。
 
 では、この“悪現象”は、人間の執着心とどういう関係があるのか? この質問に答えるためには、我々が現在、CO2などの温室効果ガスの排出を減らせない理由を考えてみるといい。おびただしい数の工場があり、自動車産業があり、そこで働く人々がおり、大勢のドライバーが存在し、巨大な石油産業があり、化石燃料を使う電力会社があり、それらから政治資金を得ている大勢の政治家がいる。このような人々が、自分の目の前の利益が減ることを嫌がるのはなぜだろうか? それは「人間の執着心」と関係がないだろうか?……こうして、我々の執着心が原因となって“悪現象”は消えずに続くのである。

 第5問を以下に掲げよう:

Cwp6x6005 【縦のカギ】
(イ)母方の血筋。
(ロ)他への影響が大きいこと。簡単に諦めないこと。
(ハ)良家や目上の人の男の子。
(ニ)一部の宗教で人間を「性悪」と考えるとき、こう呼ぶことがある。
(ホ)考えや話の筋道。
(ヘ)この上なく優れていること。または不思議なほど巧みなこと。。
(ト)祈りを行う神官あるいは僧侶。

【横のカギ】
(イ)他への慈悲を目的とした宗教的実践。
(チ)自分を国の一員として肯定的に捉えること。冷戦時代には、これが抑圧されていた。
(リ)茨城県の都市。
(ヌ)この動物の体重を1kg増やすためには、穀物を7~8kg食べさせなければならないと言われている。
(ル)日陰の岩や木の根元に生える葉状地衣。食用にする海藻に同名の別種がある。
(ヲ)肉眼で見えなくても、これで見えることがある。

谷口 雅宣

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2007年1月29日

「悪を認める」とは? (2)

 前回は、生長の家で「悪を認めない」というのは、「悪を実在として認めない」という意味が含まれる、と書いた。が、それだけの意味ではないので、さらに補足しよう。

 「悪を実在として認めない」だけであれば、悪を「現象」としては認め、その内容を微細に検討したり、その原因を細かく分析するのが、善を実現する正しい方法だ、という議論が成り立つ。しかし、生長の家では、そういう方法はお勧めしていない。なぜなら、これは「類は類をもって集まる」という心の法則の逆用になるからである。「悪い」ものに心の焦点を合わせることによって、私たちには「悪い」現象が次々に見えてくるのである。このことは、私たちがニュース報道の世界でよく経験することだ。例えば、どこかで「17歳の少年が人殺しをした」というニュースが大きく報道されると、不思議なことに、連鎖反応が起こるのである。「悲惨な自爆テロで大勢の人が殺された」と報道されると、同種の事件がそれに続いて起こることがある。これは、航空機事故についても観察されることがある。社会心理学の研究テーマとして興味ある現象だ。
 
「悪」はこうして社会的に伝播すると同時に、個人の心の中にも拡がる傾向がある。誤解のないように言っておくが、私はここで仮に「悪」という言葉を使っても、それは実体をもった“悪の塊”のようなものを想定しているのではなく、(前回使った言葉を採用すれば)「人間の心の中に生じる否定的な力(拒絶感)」のことを便宜上そう呼んでいるのである。人間の心は、対極にあるものを同時同所に感じることが困難にできている。例えば、「悪」と隣り合わせに「善」が存在することを容認することが難しい。「悪」を思っているときに「善」を同時に思うことが難しい。否定的に見ているものを、同時に肯定することは難しい。だから、悪に心を集中し、悪を分析していれば、その周囲のものも悪として感じ、さらにその周囲に隣接する、より広い領域にあるものも悪として感じやすい。こうして彼の心には“暗黒”なるものが次々と広がり、それがまるで黒々とした実在であるかのような印象が生まれるのである。

「悪を認めない」ことは、だからこのような心中の悪(否定的印象)の拡大を未然に防止する優れた方法でもあるのだ。「悪を認めない」どころか、心を実相の光明円満完全のイメージで満たすことは、「類をもって集まる」という強力な心の法則を発動して、私たちの心が現象の奥に光明・円満・完全を見出す契機を与える優れた方法である。谷口雅春先生は、この素晴らしい方法を用いられて数多くの聖典のページを、力強い光明の言葉で埋められている。例えば、『真理の吟唱』の「想念感情を浄める祈り」には、次のような件がある:
 
「今より後、決して私は悪しき事を思わず、悪しき事を言わず、人を呪うことなく、怒ることなく、現象の悪に心を捉えられることなく、ただ善のみ、光のみ、美のみ、幸福のみ、豊かさのみ、調和のみ、平和のみの実相を心に見、コトバに発し、常に想念感情を浄めて、この世界の実相たる天国浄土を地上に実現せんことを期するのである」

 私たちは、この教えに従って“日時計主義”を生きることにしている。だから『日時計日記』では、悪い出来事は書かないのが原則である。悪いことを書かない、印象しない、記録しない、思い出さない、という方法によって、多くの人々は「悪はない」という実感がもてる。加えて、「よいこと」のみを書き、印象し、記録し、思い出すことによって、多くの人々は「善が満ちている」という実感を抱き、その実感を通して、現象の背後にある善一元の世界の実在を確信することができるようになる。そういう宗教的実感や悟りへ到達するための優れた方法が「悪を認めない」という生き方である。
 
 以上のように、私たちが「悪を認めない」ということには、①現象世界における「悪を実在として認めない」という認識論的(静的)意味と、②「善一元の実相を観ずる」という宗教的実践(動的)の意味があるのである。

谷口 雅宣

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2007年1月28日

「悪を認める」とは?

 今日、松山市で行われた生長の家講習会では、よい質問が多く出た。私はそれに丁寧に答えようとし、また質問が多かったこともあり、講話の時間が予定をオーバーしそうになった。それでもすべての質問に対して答えられず、また答えの内容も十分意を尽くしたという自信がない。そこで、この場を借りて少し補足させていただこう。
 
 午前中の講話で「唯心所現」の原理を説明したとき、私たちの世界観や人生観が、マスメディアから得る情報にいかに大きく左右されるかを示すために、犯罪統計に関する簡単なクイズをした。日本の犯罪は減っているのに、ほとんどの人は増えていると感じている。また、犯罪の質も「凶悪化」しているわけではないのに、凶悪化していると感じている。その理由は、私たちが“悪いニュース”に注目し、マスメディアも“悪いニュース”を大きく扱うだけでなく、何回も繰り返して報道し、さらに「続報」と称するその後の話を延々と流し続けるからだ、という意味のことを言った。これでは、私たちは社会を挙げて「悪を認める」運動をしているようなものだから、唯心所現の原理によって現象世界から悪はなくならない。そして、生長の家は「悪いことを心に記録しない」という日時計主義の生き方であることを話し、ついでに『日時計日記』の宣伝もした。

 これに対し、3通の質問が来たが、最も的を射て分かりやすいものを次に掲げよう。新居浜市に住む42歳の男性の質問である。:
 
「一般論では、ものごとを良くしようとした場合、欠点を認め、それを改善するのが最も良いとされています。生長の家でも地球環境問題にとりくんでいるのは、地球温暖化現象という悪を認めているからではありませんか? 唯心所現という意味は良く分かりますが、実際の応用(の仕方)が良く分かりません」

 この問題は、実は昨年3月5日7日の本欄で「悪を放置するのか?」という文章で検討している。しかし、説明が中途半端なので、ここで改めて解説を続けることにする。3月の説明を繰り返せば、この世界には「悪そのもの」や「悪という実体」は存在せず、ある対象を評価する人間の心の中に否定的な力(拒絶感)が生じたときに、その対象を仮に「悪」と呼ぶのである。つまり、「悪」とは人間の心の中に生じる否定的な評価を外部に投影したもの、と言えるのである。
 
 上の質問者が挙げた例を使えば、私たちは地球温暖化現象を否定的に評価して「悪い」と思うのであるが、しかしどこかに何か黒々とした「悪」という実体があるわけではない。大気中の温室効果ガスが増加していくという「状態」があるだけである。温室効果ガスの主成分である二酸化炭素(CO2)は、それ自体は善でも悪でもない。また、大気中にCO2を排出する行為そのものも「悪」とは言えない。その証拠に、私たちは常にCO2を鼻や口から吐いているが、誰からも咎められない。さらに言えば、工場や自動車からCO2を排出することも、それ自体が悪というわけではない。なぜなら、産業革命の初期に蒸気機関や工場から排出されるCO2のことを「悪い」と評価した人はいないと思われるからだ。
 
 現在それが「悪い」ことのように扱われているのは、大気中のCO2の濃度が上昇し続けていて、その結果、地球の平均気温が温室効果によって上昇を始め、地球環境や生態系にマイナスの影響を与えている、と大多数の人間が評価しているからである。そして、私たちが地球環境問題の解決に努力しているのは、そういう「マイナスの評価」を私たちも共有していて、そのマイナスの度合いを減らすことが、人間社会のみならず、地球環境や生態系全体にとってプラスになると考えるからである。これを簡単に言えば、「欠けた部分を補い、より完全に近づける」努力をしているということだ。地球環境問題の背後に“悪”がいると認め、その“悪”に向って宣戦布告をするのとは、少し意味が違うのである。

 生長の家で「悪を認めない」というのは、「悪を実在として認めない」という意味が含まれる。現象としての人間には欠陥や欠点はある。しかし、それを指摘して「お前はだからダメだ」と断定することは、事実上「現象の欠陥が永続する」と宣言することになるのである。これでは、欠陥を実在同然のものとして扱っている。つまり、欠陥(悪)を実在として認めている。そんなことでは、その人の欠陥(悪)はなかなか消えない。それよりは、「貴方はこの方面で優れているから、その優れた面を他のこういう側面にも応用すれば、もっとうまくいく」と助言し、相手の隠れた能力(実相)の顕現を信じて待つのである。この最後の部分が特に重要である。現象として欠点や欠陥が目の前に見えていても、実相がその背後にあるから必ず良くなるという強い信念・信仰がないかあるかで、「悪を認める」か「悪を認めない」かの違いが出るのである。このような言葉の微妙なニュアンスの違いは、講話ではうまく伝わらなかったかもしれない。

谷口 雅宣

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2007年1月27日

大企業の環境対策

 生長の家講習会のために松山市に来ているが、今日の『愛媛新聞』を開いたら、見開き2ページの全面を使って、ある大手スーパー・チェーンが大広告を出していた。広大な敷地をもつ宮崎県のショッピング・センターの航空写真を紙面の真ん中にすえた広告で、右上の目立つ位置に「木を植えています」と書いてある。そして広告の下段には、そのスーパー・チェーンのグループが運営する財団が、どれだけの数と種類の自然保護団体やNPO法人に助成金を出してきたかを示すために、助成金を受けた団体名が小さい文字でビッシリと書き込まれている。私はこの広告を見て、その右上の言葉「木を植えています」を何回も読み直してしまった。

 なぜなら、私にはその言葉が「木を伐っています」と読めるからだ。もちろん、広告コピーの文字は実際に「木を植えています」と書いてある。しかし、ほとんど木の生えていないショッピング・センターと駐車場が延々と広がっている見開き2ページの写真は、どう見ても「これだけ木を伐りました」と言っているように見えるのだ。この財団が植林活動をしている多くの団体に助成金を出したことは事実だろう。が、「それはいったい何のためか?」と考えてしまう。自分が切った木の数だけ他人に植えてもらうためか。それで問題は帳消しになると考えているのか。いや、自分の行った開発行為によって失われた樹木の10倍、100倍の木をどこか別の所に植えたとしても、そんなことで何かが改善するのだろうか、と考えてしまう。
 
 同じ広告の別のところには「お買い物を楽しんでいただくのはもちろん、暮らしのもっと身近なところでもお役に立ちたい。快適で安心な地域コミュニティーの中心として、たくさんの笑顔が集まる場所になりたい」とも書いてある。これが何を意味しているのか、私にはよく分からない。しかし、ショッピング・センターだけの機能では満足せず、そこに1つの“ミニ社会”の機能を備えて、地域の「中心として」の役割をもちたい、と言っているような気がする。自分の設計した“ミニ社会”を造り上げて、人々がそこで社会生活のほとんどができるような機能をもたせたい、とでも言っているのだろうか。私には、それは何か不吉なことのように思えてならないのだ。
 
 考えすぎであればいい。しかし、私が生長の家の講習会のために日本各地を回って強く感じるのは、地方都市と地方文化の衰退である。趣のある駅舎をもつ都市も、駅前商店街は寂れ、官庁や銀行のある中心部の商店街でさえ、シャッターを閉めた店舗が並んでいる所は珍しくない。その大きな原因が、郊外型ショッピング・センターの繁栄なのである。そして、そういう大ショッピング・センターは、大企業の全国展開の1つだから、テナントの種類も、品揃えもサービスも全国一律である。中で売られているものは、どこの地方でも東京や名古屋や大阪にいるのとほとんど変わらない。そういうものを造ることで「たくさんの笑顔が集まる場所」になると考えることが、私にはちょっと信じられないのだ。
 
 大企業や企業グループが、地球環境問題の解決に真面目に取り組むことはも、ちろん大賛成だ。しかし、本当は環境破壊をしているのに、していない素振りをするための一種の“企業イメージ戦略”として、環境問題に中途半端に取り組むのは、あまり感心しない。それは、タバコメーカーが肺ガン治療のために寄付金を出すのと似ている。現在、スイスのダボスでは、世界の政治家やビジネス指導者が集まって、恒例の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)が行われている。今年の会議では地球環境問題に関心が集中しているというが、その「関心」も“企業イメージ戦略”を超えた本物であってほしいのである。
 
 27~28日付の『ヘラルド朝日』紙によると、このフォーラムに参加している多くの大企業は、自社が“環境への配慮”に優れているというイメージを打ち出すことに熱心であっても、実際には環境を破壊する部門の売り上げがそうでない部門よりもはるかに大きい場合があるという。また、大企業がこぞって“環境重視”のスタイルを打ち出すことで、かえって好ましくない効果が生じるとも指摘している。その効果とは、一般消費者が「環境問題の解決は大企業に任せればいい」という間違った印象をもち、省エネや省資源の努力をしなくなることである。

 私は昨今、東京の夜を車中から眺めるにつけ、かつて省エネの面から問題視された「ライトアップ」という電力の浪費が、続々と復活していることを目の当たりにして残念に思うのである。夜景の美しさと地球環境との本当の関係を、私たちは忘れているのではないだろうか。夜は暗くなることで、月の美しさ、星々の美しさが如実に感じられるのである。イルミネーションの美しさは、あくまでもその代用品であることを忘れてはならない。

谷口 雅宣

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2007年1月25日

衣服は綿か化繊か?

 環境問題に敏感な消費者は、自分の服をどう選ぶだろうか? 例えば、綿と化繊のシャツだったら、環境意識の高い人ほど綿を多く選ぶような気がする。その理由は、化繊は石油を原料としているから、製造過程でより多くの温室効果ガスを排出する。それに比べ、綿の原料は綿花だから、木綿生地の製造過程からはそれほど多くの温暖化ガスは排出されない。さらに、木綿生地そのものは大気中の炭素を固定している(大気中にあったCO2を吸収して綿花ができた)から、これを燃やしてもCO2の総量は増えないと考えられる。これに比べ化繊を燃やせば、地中深く眠っていた炭素(C)をCO2として放出することになるから、大気中のCO2は確実に増える。だから、環境意識の高い人は化繊でなく木綿のシャツを着るべし--こう考えるのが普通かもしれない。

 ところが、上の話は綿と化繊を使ってシャツなどの衣服を作るまでのことで、シャツになったものをどう使い、どう洗うかなど、衣服の寿命が来るまでのことを考えていない。これら「製造後の使い方」を考慮すると、木綿シャツと化繊シャツの環境への“有害度”は逆転するのだという。ケンブリッジ大学科学者のそんな研究結果を、25日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

 それによると、木綿のTシャツは、製品が廃棄されるまでに112メガジュールのエネルギーを使うが、化繊のブラウスの場合は54メガジュールですむという。この違いの主な原因は製品の使い方にあり、木綿のTシャツは60℃の温水で洗った後、乾燥機で乾かし、アイロンを必要とするのに対し、化繊のブラウスは洗濯時の温水が40℃ですみ、ハンガーに吊るして風で乾燥でき、しわが寄らないのでアイロンもいらない。だから、両製品とも廃棄までに25回洗濯・乾燥すると仮定した場合、木綿のTシャツは使用の過程で65メガジュールのエネルギーが必要だが、化繊のブラウスは7メガジュールですむ計算になるという。

 私は洗濯・乾燥のプロではないので、上の計算による比較が適切であるかどうか確かではないが、盲点を突いた指摘のように思う。ただ、私はTシャツを洗うときは水温を「60℃」などにしないし、乾燥機もアイロンも使わない。しかしワイシャツは、そういうわけにはいかないと思う。この問題の所在は、しかし「生地が木綿か化繊か」という点にあるのだろうか? 私はそんなことより、今の時代、衣服が「必要性」から選ばれるよりも「ファッション性」から選ばれる方が多いという事実にあると思う。特に先進諸国においては、この要素が強い。その場合、素材が化繊であっても木綿以上にエネルギーを使うことは大いにあるだろう。

 上の計算では、化繊製品の使用は木綿製品の半分のエネルギーで足りることになっているが、その化繊製品を買って、2~3回腕(または脚)を通しただけで、次の化繊製品を買うというようなムダ遣いをしていれば、木綿製品を何年も使っている人よりはるかに多くのエネルギーを使うことになり、地球環境への有害度も木綿以上になる。つまり、流行を追ってバンバン衣服を買い換えるという「使い捨て」のライフスタイルが、地球環境に有害な影響をもたらすことは確かだろう。
 
 そんな意味でも、私は衣服のデザインは、はやり廃りのない、できるだけスタンダードなものを選ぶようにしている。

谷口 雅宣

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2007年1月24日

世界はバイオ燃料へ急傾斜?

 今日行われたブッシュ米大統領の年頭教書演説では、バイオエタノールなど再生可能燃料や代替燃料の使用を増やし、2017年までに年間350億ガロンとすること、また自動車の燃費基準を強化してガソリン消費量を同年までに85億ガロン減らすなど、今後10年間でガソリン消費量を20%減らす方針が発表されたらしい。私は全文をまだ読んでいないが、今日(24日)付の『日本経済新聞』夕刊がそう伝えている。ブッシュ氏が1年前の年頭教書で「アメリカは石油中毒だ」とブチ上げて以来、同国のバイオ燃料は急速に伸びた。今後はさらに、その勢いが増すと思われるから、地球温暖化防止の意味では大いに歓迎すべきことだろう。しかし、1月6日の本欄でも書いたように、今後、トウモロコシなど燃料と競合する食料の値上がりを初め、食品全般の値上がりも予想されるから、手放しでは喜べない。

 今回のブッシュ演説の内容は、事前にある程度発表されていたが、バイオ燃料へこれほど力を入れるとは予想外だった。2005年に成立したエネルギー政策法では、再生可能燃料の使用量を2012年までに年間75億ガロン(284億リットル)に引き上げることを求めているが、今回の方針では、その量を同年以降5年間で5倍に引き上げることになる。これによって現在、エタノール精製関連企業やトウモロコシ農家などが享受している“特需”は、当面続くことになる。

 また、世界の自動車メーカーは、こぞってエタノール対応車やバイオディーゼル対応車の開発に力を注ぐことになるだろう。主な自動車メーカーは、すでにその方向へ走っている。例えば、三菱自動車は22日、エタノール100%対応車(E100)を今年中にブラジルで発売することを発表したし、ホンダは昨年エタノール対応車を同国で発売、トヨタも今春に同タイプ車を同国に投入する予定だ。
 
 これに平行して、CO2排出削減を目指してハイブリッド車や電気自動車の開発も進むだろう。この分野で中心的役割をはたすのは「電池」の性能であり、日本企業も次々にリチウムイオン電池などの高性能電池の開発を進めている。23日付の『日経』によると、三菱重工は自動車向けリチウムイオン電池を2010年をめどに発売する計画で、そのほかNEC、三洋電機、日立製作所、GSユアサの電機各社も、2010年を目標に量産体制を整えているという。また、ハイブリッド車では本家本元のトヨタは、家庭用電源から充電できる次世代ハイブリッド車向けのリチウムイオン電池を自社開発中という。

 これら企業の歩調を合わせた動きの背景には、地球温暖化への危機感があるのは確かだろうが、欧州連合(EU)がCO2の排出削減へ積極的に動いていることも大きな要素だろう。つまり、政治の側からの排出規制が経済界を動かしている。23日付の『日経』は、EUが域内で販売する自動車メーカーに対して、2012年までに業界全体の平均で1995年比「35%」の排出削減を義務づける法案を、今年後半に提出する構えだと伝えている。この「35%」削減により、域内で販売される新車全体で、1キロ当りのCO2排出量が平均で「120グラム」を達成しなければならなくなるという。業界はこれまで、この削減値を自主目標として進めてきたが、進展がはかばかしくないため、政治が法律によって義務づけようとしているわけだ。

 このような欧米の動きを見ていると、地球温暖化対策は政治や行政が指導力を発揮していかなければ効果が少ないことがわかる。これまでの日本政府の方策は、業界の自主的努力に頼る側面が強くあまり効果がなかった。化石燃料依存国であり、高度技術国であり、京都議定書の議長国でもあるわが国が、欧米の動きに引きずられて温暖化対策を行うというこれまでのやり方を見ていると、実に歯がゆい思いがする。“美しい日本”などという抽象的でよく分からない言葉をもてあそぶのではなく、具体的で喫緊の課題である温暖化対策に、わが国がもっと真剣に取り組むことを切に望むものである。

谷口 雅宣

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2007年1月23日

クロスワードを解く (3)

 1月16日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.3」の解答を発表しよう。前回同様、文字のみの解答である:

【縦の答え】
(イ)布施。(ロ)苦楽。(ハ)一縷。(ニ)不生不死。(ホ)悔い。(ヘ)良い笑い。(ト)卍。

【横の答え】
(ニ)不如意。(チ)正師。(リ)調和。(ロ)狂う。(ヌ)ラマ。(ル)福音。(ヲ)苦しい。

 今回の“ひっかけ”的問題は「悔い」だろうか。これのカギを「内部神性の表現の1つ」などと書いたため、「愛」とか「慈悲」とか「善」などの語を入れて、正解までの道のりを長くしてしまった人がいるかもしれない。私はここで「人間が悔いたり後悔することは、実は人間の内部神性が表現されつつある過程である」ことを確認しておきたかった。このことは、すでに昨年10月1日2日の本欄で「表現者の悩み」と題して説明した。「仏である人間がなぜ迷うか?」という問いに対して、「仏であるがゆえに迷う」と答えたのを思い出してほしい。

 次に“ひねった”問題としては、縦の(ト)の「卍」のカギだったかもしれない。ここに「地図などで使われる寺院のマーク」などと書けば、簡単に正解が得られるとは思うが、あえて「仏像の胸などに描かれた吉祥万徳の印」とした。これは、そういう事実を知らない人が案外いるかもしれない思ったからだ。意地悪のためではなく、そのことを知っていただきたかった。なぜなら、これは生長の家のマークの構成要素でもあるからだ。白川静氏の『字統』(平凡社、1994年)によると、これは「十字形の各末端に、回転方向をつけた形」で、「吉祥万徳の集まるところの印とする」から仏像の胸に描かれるのである。左回転を「左卍」、右回転を「右卍」と呼ぶ。
 
 また「卍」は何も仏教専属の印ではなく、世界中で使われてきた宗教的表象でもある。ギリシャでは「ガムマテ十字」あるいは「ガムマディオン」と呼ばれ、インドでは「スワスティカ」と呼ばれる。古代ギリシャの陶器や地中海沿岸の国々の貨幣のデザインにも使われている。「鍵十字」とも呼ばれていて、北ドイツ、スカンジナビア地方では雷神であるトルー神の持つハンマーにも刻印され、古代アングロ=サクソン民族の墓所にも見られるという。このほか、アフリカのアシャンティ族の青銅器や、中南米、ユカタンなどの諸部族の用具にも見られ、古代のマヤ文化では日輪のマークとともに石板に彫られているというから、興味深い。回転方向の別は、一般に右旋は白魔術・進行的、左旋は黒魔術・退行的とされるが、必ずしも世界共通ではない。生長の家のマークにあるのは「左卍」だが、これがナチス・ドイツが採用した「ハーケンクロイツ」を一部に想起させるため、西洋社会での反発(無知から来るものだが)を考慮して国際平和信仰運動のマークが考案された。

 さて、第4問を以下に掲げる。

Cwp6x6004 【縦のカギ】
(イ)肉体の目に見えなくても、これによって見えることもある。
(ロ)「生長の家」という言葉の意味。
(ハ)動物の名。
(ニ)世界四大聖人の1人。
(ホ)現象の生物界の1側面。

【横のカギ】
(イ)この世の悪の根源とされるもの。
(ニ)仏の四無量心のうち最高とされるものを「○徳」と言う。
(ヘ)谷口雅春先生に最初に下った神示の第1行目にある言葉。
(ト)この動物が念仏を唱えることは、「くどい」ことの喩えとして使われる。
(チ)自分の得を最重要と考えてとらわれる心。
(リ)イエスが誕生したとされる場所。

谷口 雅宣
 

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2007年1月22日

幹細胞に潜む「ガン化」の危険

 受精卵や卵子などの生殖細胞から作り出されるES(胚性幹)細胞の研究と利用について、私は本欄や著書を通じて一貫して反対を表明してきた。主たる理由は、これが他者の犠牲の上に成り立つ技術であるからで、そのほか移植時の拒絶反応など安全性の問題、クローン人間誕生の危険などいろいろある。しかし、私はすべての再生医療の研究に反対しているのではなく、患者の体内にもともとある成人(体性)幹細胞を使ったものについては、積極的にその研究に賛成してきた。しかし、後者については、これまでどれほどの治療実績があるのかよく知らなかった。今日(1月22日)の『日本経済新聞』には、その点をまとめた記事が掲載されていて、興味深く読んだ。

 記事には「ES細胞を使わぬ再生医療」という題がついており、これを実施または計画中の医療機関として、京大、札幌医大、山口大、国立循環器センター、大阪医大、埼玉医大、信州大、関西医大、自治医大、京都府立大、岡山大、久留米大など多くの機関名が挙げられている。使用される幹細胞は、骨髄液、足の筋肉、脂肪、心臓、腕や足の血液などから採取し、それを人工増殖して患部に投与したり、接合させる。これによって、血行障害や角膜再生、乳癌切除後の乳房再建、脳梗塞など、国内ですでに100件を超す臨床研究が実施されているという。
 
 これに対して、ES細胞を使った臨床研究が国内で行われたという事実を私は知らない。これは、ES細胞の入手が困難であり、安全性にも問題が残っているということを示しているのだろう。それなのに医学会がES細胞の研究・利用に熱心なのは、これが他の体性幹細胞に比べて“万能性”に優れていると考えられているからだ。この場合の“万能性”とは、ES細胞から分化して成長する細胞の種類が、他の体性幹細胞のそれよりもずっと多いとされていることを意味する。しかし、この“万能性”の中に危険性が潜んでいるという専門家の見解もあるのだ。ES細胞のことがメディアで報道される際、この危険性のことには全く触れられないことが多い。
 
 昨年12月16日の本欄で、私は「ガン幹細胞」の存在について書いた。これは「ガン細胞を生み出す幹細胞」のことで、白血病、乳ガン、脳腫瘍、卵巣ガン、肺ガン、皮膚ガンに、これが存在することがすでに確認されている。1月8日付で Newswise 上に概要が発表された南カリフォルニア大学などの研究によると、「ガンは少数の幹細胞から生じる」という仮説を裏づける結果が乳ガン、結腸ガン、肺ガン、卵巣ガンで確認されたという。

 幹細胞は、後に他の細胞に分化する際に働く遺伝子が“オフ”状態になっていると考えられている。正常の幹細胞では、この“オフ”状態が“オン”状態へもどり、必要な細胞へと分化する。しかしガン細胞では、この“オン”のための遺伝子が「DNAメチル化」(DNA methylation)という遺伝によらない過程によって変異し“オン”状態にもどらなくなっているらしい。上記の研究論文では、「可逆的な遺伝子抑制は恒久的な遺伝子抑制に取って代わり、その細胞を永久的な自己更新の状態に置くことで、後に続く悪性変異の素因をつくることになる」と表現している。これはつまり、幹細胞自体にガン細胞へ変異する可能性が含まれているということだろう。

 ここで問題になるのは、ES細胞と体性幹細胞のどちらがガン化の可能性が高いかだが、この点について論文は何も触れていない。この点の研究が進めば、同じ幹細胞であっても、ガンとの関係でES細胞と体性幹細胞のどちらがより安全であるかという医学的な判断ができるようになるだろう。そうなれば、再生医療の方向性にも大きな影響が出てくるに違いない。

 ところで、私がここで指摘しておきたいのは、人間の肉体の生と死は、「ガン」という病気において併存しているという点である。限りなく自己更新を行う幹細胞は、「生きたい」という意志の体現者である。しかし、その「生きたい」意志が止まらなくなると、細胞はガン化して結局、生体全体の死を招くことになる。ここに、再生医療が抱える基本的な問題があるように感じられる。
 
谷口 雅宣

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2007年1月21日

若き妻との再会

 夕方、事務所から帰宅し、着替えのため2階の寝室へ入ると、四ツ切りサイズに引き伸ばした若い女性の写真が、整理ダンスの上で私の顔を見つめていた。見憶えのある白黒のバストショットは、私が結婚前に撮影した妻の写真だった。もう長らく紛失したと思っていたのが、目立つ位置に置いてある。妻の仕業に違いなかった。着替えをすませた私は、それを小脇に抱えて階下へ行き、経緯を妻に尋ねた。

 納戸の整理をしていたら、偶然見つけたのだという。最近、なぜか彼女は整理ずいている。この前も、古い本や雑誌を大量に出した。私もつられて、子どもたちに買い与えた古いマンガ本をダンボール箱いっぱいにまとめて出したら、「それを捨てるのはもったいないから、小学生の子がいる妹家族に送ってあげる」と言った。私が気づかないことをいろいろ考えているようだ。
 
 問題の“若き妻”の白黒写真は、私が自分で撮影しただけでなく、現像・焼付も自分でやり、木製パネルまで買ってきてそこへ貼った。それほど“ご執心”だったということか。一昨年の5月23日の本欄に少し書いたが、学生時代の私は写真に凝っていて、父から手ほどきを受けて白黒写真の現像・焼付け・引伸ばしをやっていた。そんな経験を生かして、結婚前の妻にプレゼントしたものだ。記憶力のいい妻に訊くと、この写真は結婚する年の8月、妻の実家へ“挨拶”に行った際に撮影したものという。1枚だけ撮ったわけではなかろうから、何枚かの写真の中で私が最も気に入ったものを選んで引き伸ばしたのだろう。ということは、当時の私は、この写真のような雰囲気の彼女に惹かれていたのだ。

 そう思って写真を見つめると、「へぇー」という気持になる。現在の妻の雰囲気とずいぶん違う。中年の私は“若き妻”に惚れ直しそうだったが、彼女自身はこの顔を「あまり好きでない」と言う。理由は、「ふにゃ~」としていて「不安そうな顔」だからだそうだ。しかし、結婚前の彼女に不安がなかったと言えばウソになるだろう。結婚とは、不安の中にも喜びを見出し、期待を膨らませて飛び込んでいくものではなかろうか。

Yjunko015ms  最後にその写真を掲げるが、普通の白黒ではつまらないので、セピア調に色をつけてみた。この写真と彼女の今の写真を並べ、“使用前-使用後”式の比較をしないように、とは妻からのお願いである。

 谷口 雅宣

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2007年1月20日

感覚と心

 人間の視覚が生む数々の錯覚については、私は『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)などで取り上げ、「目に見える」ことが必ずしも本当でないという点を強調したことがある。人間の脳の領域の7割もが、視覚から入る刺激の処理に使われているということを考えると、人間の肉体的生存にとって視覚情報がいかに重要であるかが分かる。しかし、その視覚から入る情報の処理が、必ずしも正しく行われないという事実は、我々に多くのことを語っている。
 
 1つは、我々が「目の前にある」と思っている世界は、実は案外アヤフヤで、本物ではない可能性が大いにあるということだ。哲学ではこのことを「認識論」という分野で論じるが、仏教では昔から「唯心所現」とか「三界唯心」などという言葉を使ってそれを指摘してきた。また現代の科学では、認知心理学などがそれを扱っているし、素粒子論などを通じて理論物理学がそれに触れることもある。「人間の感覚する世界」と「本当にある世界」が異なるという考え方は、だから古くから人類の間で共有されてきたものだ。生長の家では、前者を「現象世界」、後者を「実相世界」と呼んで区別してきた。そして、人間の感覚と心が密接な関係にあることを前提に、現象世界は人間の“心の影”であると言う。
 
 図式的に示すと:
       ____現 象 世 界____
         ↑ 人間の心 ⇔ 感覚 ↑
 となる。
 これを言葉で表せば、「人間は、感覚を通して心によって現象世界を形づくる」とでも言えるだろうか。この場合、「現象世界」は「現実世界」と言い直しても大過ない。すると「現実世界は、人間の感覚と心によって形づくられる」と表現することができる。
 
 もし上記の命題が正しければ、我々が「現実」と呼んでいる世界は、頑強で変えがたい世界ではなく、我々の「感覚」と「心」によって変えることができることになる。しかしここで問題になるのは、感覚と心との関係だ。①感覚が心を生み出すのか。それとも、②心が感覚を生み出すのか。あるいは、③両者は互いに影響し合うのか……。私は③が正しいように思う。①だけを認めれば唯物論に陥り、②だけを奉じれば極端な精神主義に行き着くからだ。しかし、一般論として③を採用するにしても、個々の現象については、①しか成り立たないもの、あるいは②だけが成立するものもあるだろう。
 
 上記の本の「視覚の中のプログラム」という項で紹介したいくつかの例は、①があることを有力に示している。しかし、人間の心が感覚に影響を及ぼす(②の)場合があることも事実である。例えば、今日は「大寒」だというので、日本各地の宗教施設で「寒行」というのが行われた。気温が2~3℃という寒い中で、裸になった人々が冷水に浸かったり、水をかけ合ったりするのである。そういう人々の中には「寒い」と感じない人がいるのである。これは、修験道などで「火渡り」をする場合にも当てはまる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。ということは、現象世界(現実)を変えるためには、「心」だけを相手にしているのでは不十分で、「感覚」についてもしっかり考察しなければならないのである。

 何かすごく面倒くさい言い方をしてしまったが、要は「感覚」と「心」のいずれか一方に偏ってしまっては幸福は得られない、ということだ。現代文明は前者に比重を置きすぎて発達してきたために、様々な問題を引き起こしている。現代の宗教は、だから後者を正しく人々に提示する使命と責任があるのである。
 
Image0011  ところで最近、ニューヨーク在住の生長の家全国講師、安藤比叡さんから不思議な画像(=写真)がメールで届いた。これはまさに、上記の①を示した画像だが、人間の顔に表れた喜怒哀楽の感情が、実は錯覚によっても生じることを示しているという点で、大変珍しいと思う。これはグラスゴー大学のフィリッペ・シーンズ(Phillippe G. Schyns)とアウデ・オリヴァー(Aude Oliva)両氏の作品と言われるが、詳細は不明だ。添付された英文には、「机の前のコンピュータでこれを見れば、左側に怒った男、右側に冷静な女が見える。でも、立ち上がって40センチ下がって見れば、2つの顔は入れ替わってしまう!」と書いてある。読者自身の目で確かめてほしい。
 
谷口 雅宣

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2007年1月18日

スパゲッティーは日本食?

 休日だったので1日ゆっくりと過ごした。と言っても、1日中家にいたわけではなく、昼から妻と2人で原宿・青山方面へ散歩に出かけた。直接の目的は昼食だが、帰りがけにブラブラするつもりだった。比較的暖かな日で、マフラーなしで快適に歩けただけでなく、昼休みでオフィスから出てきた人の中には、コートを着ない人も多かった。明治通りから狭い路地を入って青山通りの方向へ行く道は、どれも上り坂になっている。そのうちの1本を選び、カーブをたどりながらゆっくり歩く。周囲の家並みや庭木、街路樹、店のディスプレイ、家の造りなどを、旅人のような気分で眺めながら歩くと、普段は見えないものがいろいろと見えてくるから不思議だ。
 
 国連大学に隣接するオーバル(楕円)ビルの地下に、生めんのスパゲティー専門店がある。1週間ほど前に見つけて、機会を見て行こうと思っていた所だ。そこへ入り、和・洋・中の3種類のメニューから2人で好きなものを選んだ。店内がはっきりと“分煙”されているのがうれしい。やがて出てきた注文の品は、いずれも新しく複雑な味。妻は和風のソースを頼んだが、バター入りだったので和洋ミックスの味。私は洋風ピリ辛ソースだったが味噌が混じっていたので、これまた和洋ミックスである。いずれもコクがあっておいしい。それらを互いに取り分けて食べながら、日本文化談義になった。

 日本人は昔から、海外の文物を自分の生活に取り入れるのに熱心で、それらをいつのまにか“日本的”なものに変えて使っている。古くは仏教や中国の律令制度に始まり、朝鮮の文化、キリスト教、欧米の法制度、行事・習慣、野球、その他のスポーツ、学問、芸術、技術、そして料理……。この柔軟性が2千年の昔から続いてきたおかげで、幕末の未曾有の危機にも対応することができた。それでいて“日本的”なものが消えてしまったかというと、そうではなく、“日本的仏教”“日本的キリスト教”“日本的法制度”“日本的野球”“日本的学問”“日本的技術”……などがちゃんと残っている。無原則、無方針などと批判されることもあるが、翻ってみれば、「外からの刺激を内に取り込んで自己の一部にする」という原則や方針がある、と考えることもできるのである。云々……。
 
 そんな談義の場であるこの店にしてから、「靴を脱いで上がる」形式は和式であるが、私たちが案内された禁煙室にはテーブルと椅子が並ぶ。ところが喫煙者用には、掘り炬燵式の畳席が用意されている。食べ物であるスパゲッティー自体は洋式。しかし、ソースは和・洋・中のいずれもある。それを食べる食器は和食器であり、塗物の木製スプーンと割り箸がついている。ああ、これを何と表現したらいいのだろうか! 「こういう形式や様式にこだわらないのが日本式である」とさえ言いたくなる。形にこだわらず、「良い」と感じるものを積極的に取り入れてきたのが日本社会だから、それが今日の日本の繁栄をもたらしたと同時に、様々な問題ももたらしている--そんな感想をもった。
 
 ところで、様式が自由すぎるということにも、問題はある。私たちはこの日、家を出る時からスパゲッティーを食べるつもりだったので、携帯用の箸を持って来なかった。西洋麺をスプーンと箸で食べることなど、まったく思いつかなかった。しかし、ここでひるんではならないと思い、私は意を決して店の配膳人にフォークを所望してみた。配膳人は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに対応してくれた。しかし、なぜ割り箸なのか? 私たちが行き着いた結論は……塗物のスプーンを左手で持ち、スパゲッティーを右手のフォークで取ってスプーンの上でグルグル巻くと、しだいに塗物がはげてくるから……。しかし、そうまでして和食器にこだわるスパゲッティーは、もはや日本食ではないか?
 
谷口 雅宣

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2007年1月16日

クロスワードを解く (2)

 1月9日の本欄に掲載した「教義クロスワード No.2」の解答を発表しよう。前回にならって文字のみを掲げる:

【縦の答え】
(イ)大和の国。(ロ)三業。(ハ)土。(ニ)救い主。(ホ)備後。(ヘ)黄泉。

【横の答え】
(イ)荼毘。(ト)むすび。(チ)訓。(リ)和顔愛語。(ヌ)映し世。(ル)肉。

 今回は特に難しい問題はなかったと思う。それより「土」とか「訓」のようなコジツケのような問題を作ってしまったのが心苦しい。また「備後」とか「肉」のように宗教と関係のない言葉も“穴埋め”的に使わねばならなかった。
 
 とは言っても、「肉」から宗教の話ができることも事実である。私はこの“カギ”で『ヨハネによる福音書』第3章6節の言葉を引用した--「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」。このイエスの言葉は、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」という言葉の意味を説明する際に使われたものだ。私が新年祝賀式で話した中に、養老猛司氏が「五官をフルに活用する」ことの意味を説いた部分があった。「便利な都会の生活よりも、不便な自然の中の生活の方が幸福だ」というパラドックスはどこから来るか? という話である。養老氏は、五官をフルに活用することによって人間の幸福感が生まれるという意味のことを言った。
 
 普通、五官は肉体に属するものと考える。すると、「五官をフルに活用する」ことは、肉体の感覚を追求したり、それに耽溺することのように聞こえる。しかし、私はそういう意味ではなく、言葉や概念の自動運転に身を任せるような生活--現代人はとかくそういう生活をしているが、それをするのではなく、もっと目の前にある事物を、自然を、しっかりと味わい、観察し、そこに表現されている“深奥のメッセージ”を読み取れ、という意味だと解釈したい。詳しい話は別の機会に譲るが、早く“答え”を知りたい人は、谷口雅春先生の『第二青年の書』(日本教文社刊)の46~50ページを読んでいただきたい。

 さて、第3問を以下に掲げる。楽しんでいただければ幸甚である。

Cwp6x6003 【縦のカギ】
(イ)人に与えること。、
(ロ)苦しみと楽しみ。
(ハ)1本の細い糸。
(ニ)人間の本性。
(ホ)内部神性の表現の1つ。
(ヘ)嘲笑は悪い笑い。では微笑は?
(ト)仏像の胸などに描かれた吉祥万徳の印。

【横のカギ】
(ニ)思い通りにならないこと。
(チ)宗教上の師。正しい教師。
(リ)矛盾や衝突がなく整っていること。
(ロ)人間の心が正しく機能しなくなる現象。
(ヌ)チベット仏教の高僧の呼称。
(ル)幸福の知らせ。キリスト教ではイエスの教えのこと。
(ヲ)生・老・病・死に際して人間が体験する感情。

谷口 雅宣

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2007年1月15日

ブレア首相の論文を読む (2)

 ブレア論文の中で驚かされたことの1つは、イスラム原理主義をめぐる今日の世界的な混乱には、“西洋社会”(the West)はまったく責任がないとの立場を貫いていることだ。もちろん「疎外」(alienation)、「犠牲」(victimhood)、「植民地化」(colonization)、「政治的抑圧」(political oppression)をイスラム社会が経験したことには触れているが、それはまるでイギリスとは関係のない、どこかの国の仕業のような書き方である。そういう様々な困難を乗り越えようとしたイスラム社会の人々の中に、たまたま間違った、非合理な解釈を採用したグループがいて、それが西洋社会の価値を否定することで自己目的を達成しようと“暴力のイデオロギー”を広めている--そんなニュアンスの論文である。

 もっと具体的に指摘しよう。ブレア論文にはこんな箇所がある--「私にはほとんど信じられないことだが、西側の多くの意見の中には、このような世界的テロの台頭には我々にも責任の一端があるという考え方があることだ」。「イスラム主義者によるテロが貧困の産物だというのも馬鹿げている」。「我々は彼らの残虐行為を拒否するだけではなく、西洋社会に対する間違った抗議の感情も、彼らの暴力の責任は彼ら自身にあるのではなく、誰か別の人にあるという議論をも拒否しなければならない」。
 
 ブレア氏は、このように一方的に間違っているイスラム過激主義の“運動”に対しては、西洋社会は傍観していることは許されず、「方法」と「考え」の両面で積極的に立ち向かうべきだという。「イスラム主義のテロは、我々が過激派の方法に立ち向かうだけでなく、その考えに立ち向かうのでなければ、打ち負かすことはできない」。「考えに立ち向かうとは、テロリストの活動は間違っていると言うだけでは十分でない。それは、彼らのアメリカに対する態度はバカげており、彼らの統治方法は封建制以前の時代遅れのものであり、彼らの女性や他の宗教に対する態度は反動的だと言葉を出して言うことである」。そして彼は、今日のグローバリゼーションの時代には、この反動的過激主義と進歩との戦いの結果が未来を左右するという。「我々は気候変動を無視することができないのと同じように、この戦いをしないわけにはいかない。行動しないこと--つまり、アメリカ1国に責任を押しつけ、あるいはこのテロの活動は、1つの世界的運動ではなく、個々別々の事件だと幻想することは、深く、根本的に間違っているのである」。

 もちろんブレア氏は、イスラム世界全体を敵に回すつもりはない。近代的で穏健なイスラム世界の主流と協力して、“反動的”な勢力を排除することを提案している。この考えには、私は諸手を挙げて賛成する。ただし、「排除する」とは思想として否定するということであり、その思想を抱く人々を武力で攻撃したり、この世から抹殺したりするという意味ではない。ワッハーブ主義にイスラム世界を席捲させてはならない。イスラムとはそれほど狭量で歴史の浅い宗教ではない。また、“イスラムの価値”と“西洋の価値”とを対立的に捉えるのではなく、双方の中に“地球的価値”を認めよというブレア氏の提案にも賛成である。しかし、現代の中東問題に西洋の植民地主義が関係しており、さらにはパレスチナ問題が深く関係していることは事実なのだから、米英その他の関係諸国はこれら“蒔いた種”の結果をきちんと刈り取る--つまり、間違いは間違いとして認める必要がある。
 
 原理主義は、とかく世界を二項対立的に捉える傾向がある。これはイスラム原理主義がそうであるだけでなく、キリスト教やユダヤ教の原理主義も同じである。今回のブレア論文は、確かに宗教的用語は使っていないが、「民主主義」対「暴力」、「進歩」対「反動」などの言葉を使って二項対立の世界を描き出している。この世界は心で描く通りの世界だから、“悪”を描けば描くほど“悪現象”が現れてくることを知らねばならない。我々はイラク戦争でそのことを学んだはずである。だから、一部宗教の悪現象を拡大・強調するのではなく、多くの宗教に共通する真や善や美をお互いが誉め称える仕事に、もっと時間と労力をかけるべきだと私は思う。
 
谷口 雅宣
 

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2007年1月14日

ブレア首相の論文を読む

 私は12日の本欄で、ブッシュ米大統領の新しいイラク政策に関する演説を聞いた感想を書いた。その時、「イスラム過激思想とのイデオロギーの闘争を物心両面で長期にわたって行う」というブッシュ氏の考え方に反対した。それではイスラム全体を敵に回す可能性があるから、“文明の衝突”をまさに地で行く愚行であり、さらに「悪を認めれば悪が現れる」という心の法則を無視している、と思ったのである。私は、このようなブッシュ氏の考え方はアメリカでは少数派であることはもちろん、世界的にもきわめて特殊なものと考えていた。ところが、アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』の最新版(Jan-Feb 2007)に載ったイギリスの首相、トニー・ブレア氏(Tony Blair)の論文を読んで、“ブッシュのプードル”などと批判された彼が、実はブッシュ氏に輪をかけて「イデオロギー闘争」論者であることを知って驚いたのである。

 このブレア論文は「地球的価値のための戦い」(A Battle for Global Values)という題で、12ページにわたるもの。ブレア氏はまず、イスラム過激主義の根源を分析し、現在の世界的な闘争の背後にある“本質”を指摘、この闘争を完遂するためには“二正面作戦”が必要だとして、アメリカとヨーロッパを中核とした自由民主主義の陣営の結束を呼びかけている。これは、同じ雑誌の1947年7月号に「X」というペンネームで発表されたジョージ・ケナン氏(George F. Kennan)の歴史的論文「ソ連の行為の源泉」(The Sources of Soviet Conduct)を思い出させる、と言えば言いすぎだろうか。

 ブレア氏の見るイスラム過激主義の根源とは、ルネッサンスを経て啓蒙主義がヨーロッパを席捲した後の20世紀初頭から始まる。イスラム世界ではヨーロッパの変革を目のあたりにして不安を感じ、植民地主義に対するナショナリズムが生まれ、逆に政治的抑圧が進んだり、その反動として政治的、宗教的過激主義も生まれたという。このイスラムの過激主義に対して、権力の座にある者は過激派指導者層の一部と急進的思想の一部を取り込んで懐柔を図ったが、その結果はほとんど「失敗だった」という。なぜなら宗教的過激主義は尊敬すべきものとされ、政治的急進主義は抑圧されたからだという。その結果、多くの人々は、「イスラム世界に自信と安定を取りもどすためには、宗教的過激主義と人気取り政治を組み合わせ、“西洋社会”とそれに協力するイスラム支配層を敵に仕立てる」方法を採用したというのである。
 
 ブレア氏が上で言っていることは必ずしも明確でないが、モスレム同胞団に始まりワッハーブ主義に至るイスラムのスンニ派原理主義のことを指しているのだろう。さらには、ワッハーブ主義を国教としながらも、“異教徒”であるアメリカの基地を国内に認めたサウジアラビアに宣戦布告したオサマ・ビンラディンと、その後継者たちのことを指しているのだろう。このアルカイーダの思想がアラビア半島から海外に広まることで、9・11事件その他の宗教テロリズムが世界中で起こったと考えているのだ。

 その影響力が「世界中」に及んでいることを示すために、ブレア氏はアメリカだけでなく、インド、インドネシア、ケニア、リビア、パキスタン、ロシア、サウジアラビア、イエメン、アルジェリアなどの国々、地域ではチェチニアやカシミールの名前まで挙げている。そして「今日では30から40の国々で、テロリストたちはこのイデオロギーと緩くつながった行動を取ろうとしている」というのである。ブレア氏は、この動きを1つの“運動”として捉え、「それはイデオロギーと、一定の世界観と、深い信念と、狂信的な決意」をもっており、「多くの点で、初期の革命的共産主義に似ている」と言う。すでに触れたが、ブレア氏のこのような物の見方が、ケナン氏の共産主義に対する見解を彷彿させるのである。

 ケナン氏の場合は、ソ連の世界共産化の動きに対して、「平和で安定した世界の利益を侵食する兆しがあるならば、それがどこであっても、頑強な反発力によってロシア人に立ち向かうための堅い封じ込め政策」を提案したのである。

谷口 雅宣

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2007年1月13日

羊水から幹細胞を得る

 私は本欄や著書などで、受精卵や卵子を使ってES(胚性)細胞を得ることにたびたび反対し、その代りに宗教的、倫理的問題が少ない成人(体性)幹細胞の研究を推進すべきことを述べてきた。医学的に言っても、後者は患者本人の細胞を使えるため、拒絶反応の心配が少なく安全であるからだ。しかしその反面、成人幹細胞は、ES細胞のように一度にまとまった量を得ることが難しく、分化能力についてもES細胞の“万能性”には劣るとされてきた。ところが最近、人間の子宮中の羊水からES細胞に似た幹細胞を取り出して、組織や臓器に分化させることにアメリカの研究グループが成功した。羊水中の幹細胞は、分化の方向が決まっている幹細胞とES細胞の中間的な性質をもっていると見られ、再生医療の分野で宗教的・倫理的問題をクリアできる可能性があるとして注目されている。

 1月8日付の共同電9日付の『ヘラルド・トリビューン』紙などによると、この研究はアメリカの科学誌『Nature Biotechnology』(電子版)に7日付で発表されたウェーク・フォーレスト大学とハーバード大学の研究者の論文で明らかになった。研究者らは、妊娠した女性の子宮の羊水から幹細胞を抽出し、培養した後、神経、肝臓、血管、脂肪、骨の細胞に分化させることに成功した。主任研究者のアンソニー・アターラ博士(Anthony Atala)によると、この幹細胞の特定には約7年を要したが、分化能力は優れていて、今後さらに何種類の細胞に分化できるかわかっていないという。また、ハーバード大学のジョージ・デイリー博士(George Daley)は、将来、妊娠中の女性が羊水を取って凍結することにより、その子の成長後に拒絶反応のない治療ができる可能性があるとしている。

 羊水の採取は、胎児の異常などを調べる羊水検査でごく普通に行われているため、母胎への危険も少ない。難点は、この幹細胞の割合が羊水中の細胞全体の1%と少ないことだが、36時間で倍増する高い増殖能力をもっているという。
 
 この研究については、ローマ法王庁も歓迎しているようだ。9日付のロイター電によると、ヴァチカンのジャヴィエル・ロザーノ・バラガン枢機卿(Javier Lozano Barragan)は8日、地元の日刊紙のインタビューに答え、この研究を「とても重要で、倫理的にも容認できる進展だ」と評価し「教会は反啓蒙主義ではなく、命の源泉を脅威にさらしたり、操作したりしない科学の進歩については、いつでも歓迎する用意がある」と述べたという。

 ところで、アメリカの連邦議会下院は11日の本会議で、ES細胞研究への予算の使用制限を緩和する法案を253対174票の賛成多数で可決した。この法案は、不妊治療でつくられた“凍結余剰胚”から抽出されたES細胞の研究に、連邦予算の使用を許そうとするもので、同様の内容の法案は昨年も可決されたが、ブッシュ大統領の拒否権行使で成立しなかった(昨年7月20日の本欄参照)。ホワイトハウスは11日に声明文を出し、「この法案は、人間の受精卵を意図的に破壊することで可能となる研究のために、すべてのアメリカ人に納税を強いるものだ」として、大統領は今回も拒否権を発動するだろうと宣言した。
 
 13~14日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、この法案に反対した何人かの共和党議員は、上記の羊水から得る幹細胞や成人幹細胞の可能性について触れた。例えば、テキサス州選出のジェブ・ヘンサーリン議員(Jeb Hensarling)は、「私は、多くのアメリカ人が道徳的に抵抗のある研究に資金を供与するのでない、倫理的な幹細胞の研究には賛成だ」と言ったという。これはヴァチカンの立場と同じであり、私の考えとも一致するものだ。

谷口 雅宣

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2007年1月12日

気がかりなブッシュ演説

 アメリカのブッシュ大統領のイラク政策についてのテレビ演説を聞いた。肩を上げ、眉間に力を入れ、緊張した面持ちでほとんど一本調子で原稿を読み上げた、という感じの演説だった。内容はすでにご存じのとおり、「2万1千人の兵員の増派で、イラク大統領の治安回復を助ける」というものだ。しかし、これは「方針通り継続」と言ってきたこれまでのイラク政策と本質的に変わらない。派兵は、イラクの“若い民主主義”(young democracy)が確立するまで維持するとしているから、これから先何年もアメリカ軍はイラクの治安維持のために中東に留まることになるだろう。この演説は、昨年の下院選挙で示されたアメリカ国民の意思を、明らかに無視した形になっている。
 
 この点をアメリカのメディアは大いに批判している。が、だからと言って、内戦状態のイラクからすぐに兵力を引き揚げるわけにはいかない。そうすれば、アメリカの失敗と無責任を世界に示すことになり、各国との同盟関係にも深刻な影響を及ぼす可能性があるからだ。アメリカは今、何とも困難な状況にあると言えよう。
 
 私はしかし、ブッシュ氏の演説の内容に大いに気がかりなものを感じた。それは「急進的なイスラム過激派(radical Ismalic extremists)」とか「テロリスト」を敵として見据え、その敵とはまったく交渉の余地がなく、武力で破壊する以外に仕方がないとの考え方が、見え隠れしていたからだ。ブッシュ氏によると、現在のアメリカの中東での戦いは、単なる武力紛争ではなく、「我々の時代を決定するイデオロギーの闘争(a decisive ideological struggle of our time)」であると定義される。その闘争とは、一方に「自由と穏健を信じる人々」が置かれ、他方には「罪のない人々を殺し、我々の生き方を破壊する意志を明確した過激派」が対峙している。そして、ブッシュ氏の考える「アメリカ国民を守る最も現実的な方法」とは、敵のもつ憎悪のイデオロギーに代わる“希望の思想”を提供することであり、それは中東に自由を広めることだ、というのである。

 この明確な「2項対立」の世界観がブッシュ氏の本心ならば、それは9・11後のアフガン侵攻やイラク戦争開始時のブッシュ氏と少しも変わっていない。かつてこの「味方でなければ敵」「自由でなければテロリスト」という単純明快な2分法が世界では受け入れられず、ヨーロッパからも反対され、国連でも認められなかったのである。しかし、ブッシュ氏は「①イラクはイスラム過激派を支援して、②大量破壊兵器の製造を推進し、③それが9・11を起こした」という論理のもとにイラク戦争を始めた。そして、我々が知っているのは、この3つのうち2つまでが間違いだったということだ。(正しかったのは、“イスラム過激派”がテロの実行犯だったことだけである)
 
 そのことから、ブッシュ氏が学んでいないように見えるのは、誠に残念である。私は特に、上記のブッシュ氏の考え方にある「イデオロギーの闘争」という言葉に危機感を覚える。アメリカは、新しい“冷戦”を作り出そうとしているのだろうか? 「イスラムの過激思想」を敵として捉え、かつて「共産主義」と対峙したように、それとの長期にわたる物心両面での闘争を、21世紀の「最も現実的な方法」として遂行するのだろうか? そんな選択は間違っている、と私は言いたい。

 現代のイスラム思想に関して私は何回(例えば、昨年8月1213日15日)か本欄に書いてきたが、中東の多くの国々の考え方は、過激なスンニ派ワッハーブ主義なのである。第一、アメリカの同盟国・サウジアラビアの国教はワッハーブ主義である。これを自由・民主主義に変えるまで戦うことが「最も現実的な方法」だと、ブッシュ氏は本気で考えているのだろうか。それとも、この演説はあくまでも“表向き”で、裏ではイランやシリアとの交渉も視野に入れた“リアルポリティーク”(現実政治)をするつもりなのか。ライス国務長官の中東訪問が始まったが、ブッシュ氏の本心は次第に見えてくるだろう。
 
谷口 雅宣

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2007年1月10日

竹林の4賢人

 昨年4月18日の本欄で、日本の山林を侵食しつつある竹について触れ、その竹を食用その他の用途にもっと利用すべきだと書いた。また、アメリカが木屑や雑草からもバイオエタノールを生成する計画を発表したことに関連して、日本は「成長が速い竹林の活用を考えてみたらどうだろう」とも書いた。それに応えてくれるかのような記事が、9日の『日本経済新聞』に載っている。題して「環境保全へ竹を生かす」。

 この記事は、昨年12月半ば日に東京で行われたパネル討論をまとめたもので、竹研究の第一人者と言われる富山県中央植物園長の内村悦三氏、建築家の彦坂裕氏、同志社大学教授の藤井透氏、新潟薬科大学教授の及川紀久雄氏の4人の「竹の良さ」について見解が述べられていて興味深い。私は上記の本欄で、竹をバイオエタノールに転換することについて「現実的であるかどうか分からない」と書いたが、木質バイオマスの利用に詳しい及川氏は、竹は「アルコールの原料となるセルロースを多く含んでいる。1年で大きく成長するため安定して供給できる。可能性は高い」と発言しているので、心強く思う。また、及川氏は竹炭の化学物質吸着性が木炭よりよく、鮮度保持剤や活性炭の代替品にも利用できると述べている。
 
 竹はまた軽くて繊維の力が強いため、木材の代替のほか様々な用途に使えると、藤井氏は言う。「竹の繊維の引っ張りに対する強さは鉄筋の約2倍」というのには驚いた。また「生分解性のポリ乳酸に竹繊維を混ぜると、耐熱性が向上し、ポリ乳酸の用途を広げられる」そうだから、植物性プラスチックの補強にも利用できるのだ。木材から作る紙パルプの利用が森林伐採につながることが問題になり、ケナフの利用が広がっているが、ケナフの栽培には平らな土地が必要だが、竹は斜面でもどんどん育つから日本の地形によく合っている、と藤井氏は指摘する。ケナフの代替にもなるというのだ。
 
 内村氏は、二酸化炭素の吸収量についても竹は優秀という。しかし、京都議定書では竹林によるCO2の吸収を認めていないらしい。熱帯雨林の植物量は1ヘクタール当たり444トン、温帯広葉樹林の場合は360トン、竹は160トン程度だからだ。内村氏に言わせると、これは竹の成長速度を考慮していないから正確な比較ではなく、5年で利用する竹の植物量を単年に換算すると20トン以上の植物量になるから、熱帯雨林よりも多いという。つまり、竹林をきちんと世話して、竹材を利用し続ければCO2の削減効果は大きいということだろう。内村氏は、竹は集中豪雨に多少弱いことはあるが、森林に負けない機能をもつと指摘する--「竹は無性繁殖によって毎年タケノコを産みだし再植林の必要はない。再生可能で持続的な資源だ。森林と同様に、水資源の保全、土壌の保持といった公益機能をもつ」。
 
 彦坂氏は、「愛・地球博」で竹を組んでつくった長久手日本政府館を設計した人だ。この外壁部分には真竹を用い、放置竹林の拡大が問題になっている地域から4万5千本を集め、腐らないように処理をして使ったという。
 
 これらのことから、日本各地の竹林が正しく維持・利用されれば、CO2の削減だけでなく、様々な恩恵が生まれることがよく分かる。どなたか、現代の“竹林の4賢人”のアイディアを現実化してくれる人はいないだろうか?
 
 ところで、俳句の季語に「竹の秋」というのがある。これは「秋」ではなく「晩春」の季語だ。このころ、春に萌え出た木々の若葉がぐんぐんと伸び、緑を濃くしていく中で、竹だけは一時的に黄色っぽくなり、落葉するものもある。こうして春の緑の中、竹林の辺りだけが薄褐色の明るさを見せている様子は、なかなか趣がある。これは、タケノコや若竹を育てるために親竹が自らの栄養を減らすためという。竹から得るものは、物質的なもの以外にも数多くあると思う。

 谷口 雅宣

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2007年1月 9日

クロスワードを解く

 1月2日の本欄に「教義クロスワード」なるものを掲載したが、お約束の1週間がたったので、解答を発表することにする。クロスワード・パズルの解答は、答えを書き込んだパズルそのもので示すのが普通だが、ここでは文字のみを掲げる:

【縦の答え】
(イ)居士。(ロ)秘仏。(ハ)つく。(ニ)福音書。(ホ)罪。(ヘ)神示。(ト)善。(チ)光。

【横の答え】
(イ)幸福。(ヘ)真。(リ)愛念。(ヌ)慈悲。(ル)物質。(ヲ)月読。

 なにせ初めての“作品”だったので、不完全なところがあった。ご容赦願いたい。また、上記以外でも正解があり得るかもしれない。発見した読者は、ぜひ教えてほしい。

 今回わかりにくかったのは「居士」かもしれない。『新潮国語辞典』(平成元年刊)によると、これは仏教で「俗人のままで仏門に入った男子」とある。また、「真宗以外で男の法名の下につける号」ともある。それを私は「求道の過程にある人の古称」と表現した。辞書的な意味では、これで大過ないと思うが、すべての「居士」が必ず「求道の過程」にあるかと言えば、「維摩居士」のような例外もある。谷口雅春先生の『維摩経解釈』には、「維摩結は宗教家ではなく一市民に過ぎないので、白衣の人であるけれども、よく沙門即ち僧侶の守るべき戒律を守って実生活を清浄に送っており、俗人の家に住んでいながら、俗人のようには現象界の事物に執着することがない」(p.85)と書かれている。
 
 「月読」は「つくよみ」と読むのが正解だが、一般には「つきよみ」とも読まれる。そう読んでも、縦の(ハ)の言葉が「つき」となり意味も通るので、これも正解としたい。
 
 今回「神の御徳の1つ」という同じカギが縦と横に2回出てくるが、これは製作者の側の“苦肉の策”である。生長の家で一般に「神の御徳」と言われるものは「真・善・美」の1セットと、「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」の6つを併せた1セットである。このうち平仮名2文字で表現でき、末尾が「ん」であるものは「真」と「善」の2語である。したがって、縦の(ト)は「しん」でも「ぜん」でも正解と言わなければならない。ただ、せっかく「真・善・美」の3語があるのに、そのうち1語だけを2回使うのでは神様に申し訳ないと考え、上の解答では「ぜん」とした。
 
 さて、次の問題を作ってしまった。お付き合いいただければ幸甚である。

Cwp6x6002 【縦のカギ】
(イ)日本国の別称。
(ロ)「コトバの力」を仏教的に言うと?
(ハ)『創世記』による人間の組成。
(ニ)キリストの意味。
(ホ)広島県の東部。
(ヘ)死後の国。

【横のカギ】
(イ)火葬すること。
(ト)陰陽合一の霊力。
(チ)教え導くこと。
(リ)笑顔と優しい言葉で。
(ヌ)現実世界のこと。
(ル)人間の物質的表現。「○○から生まれるものは○○なり」

谷口 雅宣

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2007年1月 7日

動物の脂からバイオディーゼル

 前回の本欄では、アメリカでのバイオエタノール精製工場の増設ラッシュが、食糧問題を引き起こす可能性について書いた。これは昨今の石油高騰の影響だから、アメリカでなくとも、人口の多い国ならどこでも同様の問題は起こりえる。ただしアメリカの場合、世界最大のトウモロコシ産地だから、その影響は地球規模に及ぶのだ。実は、隣の中国でも似た問題が起きかけていたが、中国政府は素早く手を打って「食糧優先」の政策を明確に打ち出している。
 
 昨年12月23~25日の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、中国財務省は昨年11月、世界最大の人口を抱える同国内への食糧の輸入を増やさないために、食料としての量が十分ある場合を除いて、イモ類やナッツ類を燃料に転換するプロジェクトへの出資を認めないとした。さらに年末には、中国政府はバイオ燃料(バイオエタノールやバイオディーゼル)の生産に投資する際、国の許可を必要とする規則を施行した。これは、石油の高騰の影響で、一部地域にバイオ燃料生産のブームが起こっているからで、同国内での急速な自動車の増加がその背後にある。中国の昨年11月までの通年の自動車販売台数は341万台で、日本を抜いてアメリカに次ぐ世界第2位の“自動車大国”になった。また、バイオエタノールの生産量と消費量では、ブラジルとアメリカに次ぎ世界第3位である。
 
 中国の場合、急速な近代化や工業化にともなう砂漠化や公害が深刻で、その影響で災害も頻発している。小麦生産用に取りおいてあった用地で昨年、農地に不向きと判断されたものは24%に達したという。そういう意味で、食料の大輸出国であるアメリカとは事情がやや違う。だから、政府の対応もそれだけ素早いのかもしれない。
 
 バイオ燃料について、アメリカでは動物性のものの製造が考えられているようだ。1月5日の『ヘラルド・トリビューン』によると、ミズーリ州南東の町デクスターには、500万ドルをかけてニワトリの油からバイオディーゼルを精製する工場を建設中の起業家がいるという。この近くにはアメリカ第一の食肉会社「タイソン食品」(Tyson Foods)のニワトリ処理工場があり、ここから出た低質油は、これまで別の州へ運ばれてペットフードや石鹸などに加工されていた。この企業家は、その粘性の強い油を精製し、ダイズ油と混合して年間約1100リットルのバイオディーゼルに転換する計画という。ダイズ油の高騰によって、この種の低質油の需要が増えてきているらしい。昨今のダイズ油は1パウンド33セントするのに対し、ニワトリの油は同じ重さが19セントと安いからだ。
 
 タイソン食品自身、昨年11月には再生可能エネルギー部門を設立し、今年から業務を始める計画だ。また、ライバルであるパードゥー・ファーム社(Perdue Farms)やスミスフィールド食品(Smithfield Foods)も同様の動きをしているという。バイオディーゼルのことに詳しいミネソタ大学の経済学者、ヴェルノン・エイデマン教授(Vernon Eidman)によると、アメリカでは5年以内に10億ガロンのバイオディーゼルが製造されるようになり、その半分は動物性油脂から作られるだろうという。業界団体であるアメリカ・バイオディーゼル評議会(Natioal Biodiesel Board)の概算では、現在の生産量は、2005年が7500万ガロンで、2006年は1億5000万から2億2500万ガロンの間という。

 さて、これらの動きがどのような経済的変化をアメリカ社会にもたらすか、私は専門家でないのでよく分からない。しかし、中東の石油への依存度が減ることは確かだろう。私が気になるのは、食肉の製造過程で得る動物性油脂から燃料を作るのと、従来通りのダイズやトウモロコシを原料とした植物性油を使うのと、どちらが環境への負荷が少ないかだ。動物の飼料効率を考えると、直感的には後者の方が環境への負荷が少ないと思われる。いずれにしても、「農地を人間と自動車が奪い合う」という関係は変わらないのではなかろうか。

谷口 雅宣

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2007年1月 6日

トウモロコシが不足する?

 世界最大のトウモロコシ生産国アメリカで、2年後、食用のトウモロコシが足りなくなる危険性がある--環境問題で権威のあるアースポリシー研究所(レスター・R・ブラウン所長)が最新版のニュースレターで警告を発し、論争を呼んでいる。その理由は、アメリカ国内でバイオエタノール工場の建設が早すぎるペースで進んでいるからだという。6~7日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 アースポリシー研究所は1月4日付のニュースレターに、「自動車用穀物燃料の需要はきわめて過少評価されている」(Distillery Demand for Grain To Fuel Cars Vastly Understated)という題の記事を掲載した。これによると、アメリカ農務省の予測では、2008年に収獲されるトウモロコシからエタノール用として使われるのは6000万トンとされているが、同研究所の概算では、その2倍以上の1億3900万トンの需要が見込まれるという。そしてこの予測が正しければ、収獲されたトウモロコシをめぐって自動車用と人間の食用の需要が競い合うことになり、世界の穀物はかつてないほど値上がりすることになるという。

 同研究所が問題にしているのは、農務省の予測が2006年2月という早い時期に出されていることだ。この時点では、石油価格は高騰していても、その影響でバイオエタノール工場の増設が本格化するにはまだいたっていなかった。さらに言えるのは、農務省の数字は業界団体である再生可能燃料協会(Renewable Fuels Association, RFA)の数字を元にしているが、RFAはこの業界の急速な動きについていけていないというのである。
 
 同研究所の調査では、昨年末の時点で稼働中のエタノール工場はアメリカ全土で116カ所あり、年間5300万トンの穀物がエタノールに転換されている。同じ時点で建設中のエタノール工場は79カ所で、稼動すれば5100万トンの新規需要が生まれる。また、現在稼働中の工場でも11カ所が設備拡大を行っていて、これが完成すればさらに800万トンの穀物需要が生まれることになる。さらに、昨年末の時点で建設が検討されている工場は優に200カ所あるという。これらの新工場の建設が今年前半に着工したとすれば、2008年9月までにさらに2700万トンの穀物需要が生まれるという。そして、これらすべてのエタノール関係の穀物需要を足し上げると、2008年の収穫期にはトウモロコシの量にして1億3900万トンとなる。この量は、その年の全米のトウモロコシ生産予測の半分に達するという。

 アメリカは世界のトウモロコシ生産の4割を占めており、輸出入で取引されるトウモロコシ全体の7割がアメリカ産という。これだけのものの半分が自動車用として使われることになれば、トウモロコシの値段だけでなく、他の穀物やダイズ等の代替作物の値段にも大きな影響を与えることになる。また、ダイズの大部分は家畜の飼料となっているため、食肉や乳製品の値上がりにもつながる。だから同研究所は今後、エタノール工場の建設に際しては政府の規制が必要だとしている。

 私は、昨年の本欄でバイオエタノールの抱えるこの「食用との競合」の問題について何回も(6月12日同13日同26日9月15日11月6日)触れた。農産物を燃料に転換する方法は、緊急避難的な意味はあっても、温暖化防止の根本的対策にはならない。日本が進めようとしているサトウキビからのエタノール生産も同じである。これは結局、自動車を運転できるような比較的富裕層の需要を、食糧の入手も難しい貧困層の需要より優先することになる。日本は国民全体が(世界水準では)“富裕層”に属するから、農産物を原料としたエタノールを使って自動車を走らせることはできるだろう。しかし、その方法では肉食と同じように、世界の貧しい人々から間接的に食糧を奪うことになる。それよりは、農地以外の土地に生えている雑草や潅木、山林や竹林から燃料を採ることが望ましく、また自動車の燃費を劇的に改善することが必要である。

 この2つの方法に必要な技術は、すでに日本に存在する。このことを考えれば、日本人が世界のために大きな貢献をする道が目の前にあることが分かる。あとは、その道を進む人の数が増えることだ。心ある読者諸賢よ、どうかその道を示す“道標”となり、またその道を進む1人となってほしい。
 
谷口 雅宣

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2007年1月 5日

他国の資源に頼るリスク

 昨年末の本欄で、ロシアによる資源“国有化”と“政治化”の動きについて書いたが、その際に触れたベラルーシとの天然ガス値上げ問題に、新しい動きが出ている。ロシアは昨年末、ベラルーシ向けの天然ガスの輸出価格を2倍に引き上げただけでなく、同国向けの原油にもトン当たり180ドルの輸出税を導入すると表明した。これに対してベラルーシのシドルスキー首相は、自国を通過するパイプラインを通ってヨーロッパへ輸出されるロシア産の石油に、トン当たり45ドルの関税を1日から課したと発表したのだ。5日の『産経新聞』などが伝えている。
 
 ベラルーシ国内を通るパイプラインは、ドイツ、ポーランドの石油精製施設にほとんどが送られ、そのほか東欧各国にも石油を運んでいる。その量は、ロシアの石油輸出の5分の1に当たる日量1000万トンである。これに関税をかければ、それらの国々への輸出価格が上昇することになり、ヨーロッパ諸国から反対が出るだろう。ロシアがそれを避けようとすれば、ベラルーシの関税相当分を自分で負担しなければならない。だから、『日本経済新聞』(4日夕刊)は「(ベラルーシの)ルカシェンコ政権は対抗措置をちらつかせてロシアに輸出税の導入を断念させる狙いとみられる」と、今回の措置の動機を分析している。
 
 化石燃料の資源国であるロシアが、昨年来、エネルギーを政治目的に利用する動きを強めていることは、日本の商社が参加する極東の天然ガス開発プロジェクト「サハリン2」の例でも詳しく伝えてきた。日本企業は、中東に比べて距離が近いこと、したがって値段が安いこと、さらにロシアの国営企業がプロジェクトに参加することなどを考えて、「サハリン2」へのロシア政府の関与を歓迎しているらしい。安倍政権も、この問題に何も関与せず放任しているようだ。

 私は昨年12月22日の本欄で、このプロジェクトがロシア主導で決着したことを書いた際、「日本の商社側の利益が当初に比べて大幅に減ることは確実だろう」と書いた。年末の29日の報道で、この「大幅」の負担の額は、プロジェクトに参加している西側3社の合計で36億ドル(約4270億円)であることが分かった。『日経』は、この負担の見返りとして「20年以上にわたる利益配分を保証するPSAの枠組みを崩さない確約を得たとみられる」と推測している。PSAとは「生産物分与契約」のことだから、長期の安定供給のために短期的損失には目をつぶったということか。

 しかし、1年前の対ウクライナの値上げ交渉や、今回のベラルーシとの交渉を見ても、現在のプーチン政権下のロシアが、政治目的のためには商取引の契約関係を犠牲にすることを厭わない国であることがよく分かるのである。言い換えれば、国際情勢やロシアの国内事情の変化によって、長期契約の変更を余儀なくされることは、ロシアでは珍しくないのである。このことを考えても、エネルギー入手を目的としたロシアとのお付き合いは“ほどほどに”しておき、今後“奪い合い”の様相を強める化石燃料からは次第に手を引き、自然エネルギーの開発と利用へと大転換を図ることを、私は日本の国策として推進してほしいのである。

 昨秋、温暖化に警鐘を鳴らす『スターン報告書』を出したイギリスでは、このほど世界最大の海上風力発電所の建設計画を承認したという。(1月5日『産経新聞』)このプロジェクトは「ロンドン・アレー」という名前で、15億ポンド(約3500億円)の総工費をかけてテムズ川河口沖に341基の風力発電タービンを建設、同国の電力需要の1%をまかなう出力100万kW規模の施設となるらしい。「サハリン2」は私企業の負担、「ロンドン・アレー」は政府の負担という違いはあるが、同じ「数千億円」でも、使い方によって結果が大きく違ってくることが分かる。他国の化石燃料に頼る方策は、国益の面からも、温暖化防止の観点からも劣っていることは明らかである。

谷口 雅宣

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2007年1月 4日

おかげ参り

 前回「おかげ横丁」のことに触れたので、もう少し詳しく書こう。この一画は、往年の「おかげ参り」の賑わいを復活させたいという地元の人々によって整備された「おはらい町」に、平成5年にできた商業区域である。約3千坪の広さがあり、おかげ参りが盛んだった昔の伊勢の町に似せた建物群が集まっていて、老舗の味や名産品、物産品を提供してくれる。
 
「おかげ参り」とは、慶安3(1650)年、宝永2(1705)年、明和8(1771)年、文政13(1830)年の4回、伊勢神宮参拝者が特に多かったことを指す。約60年周期で繰り返されると言われ、近代では明治23(1890)年にもそれがあったとされる。明和のときは2カ月で370万人、文政のときは半年で500万人が伊勢を目指したという。これらの“お伊勢参り”がブームになった背景には、平安後期から続いた「御師(おんし)」と呼ばれる人々の存在があると言われている。これらの御師は、伊勢から各地に派遣され、祈祷願いを受け付けて、伊勢への参拝を勧めたらしい。例えば『吾妻鏡』には、源頼朝が伊勢の外宮権禰宜、度会光親(わたらい・みつちか)を「年来の御祈祷師」としていたことが書いてある。

 御師は当初、神職で内宮が荒木田姓、外宮が度会姓の権禰宜であったが、時代が下るにつれて条件は緩和され、その他の神職、さらには商人などにも範囲が広げられた。江戸時代の最盛期には、宇治に271家、山田に615家もの御師があったという。『検定 お伊勢さん』という本には、彼らの仕事について次のように書いてある--
 
「江戸時代の街道整備とともに、代参や抜け参り、あるいはおかげ参りという形で、多くの人々が伊勢参宮をするようになった。檀家の参宮に当っては、六軒(松阪市)や明野(小俣町)あたりまで迎送し、御師邸に宿泊させ、お神楽をあげ、酒とともに伊勢の山海の珍味、羽二重の布団でもてなし、両宮参拝、朝熊・二見などの名所旧跡、古市を案内して、あこがれの伊勢参宮を演出した」(p. 101)

「代参」とは代りに参拝することであり、「抜け参り」とは女、子ども、使用人などが、一家の主人に無断で参拝することだから、“お伊勢参り”がいかに盛んであったかが想像できる。

 ところで、いきなり現代の話にもどるが、我々は今日、昼食時に、外宮のすぐ近くの中国料理店へ行った。車2台で行ったのはいいが、交通渋滞のために5キロほどの道のりを走るのに50分もかかってしまった。おかげで予約の時間に30分ほど遅れてしまった。それほど、正月のお伊勢参りは人気があるのだ。この混雑にはもう一つ理由がある。今日は、安倍総理が伊勢神宮参拝をするというので、大幅な交通規制が布かれたらしい。自動車専用の高速道路を経由して同じ料理店を目指していた私の義父は、なんと4時間もの交通渋滞に巻き込まれ、結局、食事を諦めて帰宅した。幸運だった我々は、義父のためにドギーバッグを用意したことは言うまでもない。

 現代の“お伊勢参り”は、難行苦行で何が“おかげ”なのかよく分からない。それは、江戸時代より一時の参拝客が増えたことも一因だが、我々が「自動車」という鉄の鎧を着込んで占有場所を広げるとともに、人と人との触れ合いを避けるようになったことにも原因があると思う。数や形だけの復活では、“おかげ参り”の“おかげ”はもどって来ないかもしれない。

谷口 雅宣

【参考文献】
○伊勢商工会議所、伊勢文化舎編集・発行『検定 お伊勢さん<公式テキストブック>』(2006年)

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2007年1月 3日

お伊勢参り (2)

 正月の伊勢行きの目的は、親戚同士の懇親と伊勢神宮の参拝である。昨年1月3日の本欄でも「お伊勢参り」の題で書いたので、今回は(2)とした。午前中に総勢15人が車3台に分乗して、内宮へ行った。午後からだと混雑すると思ったのだが、すでに十分混雑していた。今日は空もよく晴れ、初詣には絶好の“小春日和”で、夜中に雨が降ったのか玉砂利の参道がしっとり湿っていたので、気持よく歩けた。昨年より2~3割増しの人出だったと思う。拝殿前の“人間渋滞”の長さは昨年の1.5倍ほどあり、長さにして50メートルぐらい、ほとんど動かない幅広の列ができていた。その後尾に並んで中央の鳥居をくぐり、拝殿正面から参拝するためには、恐らく30分は待たねばならないだろう。だから、我々は昨年と同じく、拝殿の右側へ抜けるコースをたどって参拝を果たした。

 参拝後は、「おかげ横丁」と呼ばれる飲食店や土産物店が集まった一角で、昼食をとるのが恒例になっていた。その横丁へ続く参道の雑踏の中で、丸傘をかぶり灰色の衣を着た托鉢僧がボソボソ口を動かしていた。長身の肩から上が人混みの中から突き出している。近くへ行くと、はっきりした日本語の発音で経文を唱えている。私と目が合ったとき、その青い目が視線を逸らさないので、私の方が軽く会釈した。実は、昨年の伊勢参りの時も外国人の僧がそこに立っていたのだが、別人に違いなかった。その人が黒い僧服だったのと、立ち居振る舞いにもっと奥ゆかしさが感じられたからだ。この僧はもっと若く、修行も短いのだろう。真剣さは感じられても“角”があった。
 
 日本に仏教を学びに来る外国人がふえているという話をどこかで読んだが、どんな動機で、どんな修行をするのだろう、と私は思った。名古屋から伊勢までの列車内にも、西洋人の僧が1人いた。しかしこの僧は、僧服姿なのに隣席の日本人女性と妙に親しげに談笑していた。2人は、たまたま隣合わせたという感じではなく、恋人同士のように、体を寄せ合い、うれしくて仕方がないという様子だった。私は、何か見てはいけないものを見たように感じた。最近の僧は恋愛もするのか。では、出家の動機は何か? そもそも本当に出家しているのか……などの疑問を抱いたまま、私は列車を降りた。その僧の笑顔と、参道で托鉢中の僧とのイメージが重なり、不協和音のように心に残った。

Tekonesanma 「おかげ横丁」では、家族で好きな食事を買って持ち寄り、互いに分け合って少しずつ食べる。いろいろある地元の名産を味わうためだ。私は、カツオの手こね寿司、さんま寿司、とろろソバをおいしくいただいた。写真は、さんま寿司(手前)と手こね寿司。

谷口 雅宣

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2007年1月 2日

ゲームに興じる

 正月の日本の家庭では、家族や親類縁者が集まってゲームに興じる人も少なくないだろう。最近はゲームセンター、カラオケボックス、ボーリング場などの娯楽施設が数多くあるが、そういう家庭外での娯楽は正月でなくてもできることだ。やはり、「正月」という特別な時季に人が集まる家庭の温かさは、何ごとにも替えがたい。1年前の本欄では、わが家でする正月恒例のカルタ遊びのことを書いたが、今年も元日の夜にそれをした。
 
 2日の今日は、妻の実家がある伊勢市へ家族5人で移動した。JR品川駅から東海道新幹線の「のぞみ号」で名古屋へ行き、近鉄に乗り換えて伊勢市駅で降りる。人間は、普段と違う時間の流れに身を置くと、普段とは違うことを考えたりしたりするものである。伊勢の妻の生家へ着くと、もう二十歳を過ぎている3人の子どもたちは、小学生の従兄弟と一緒に歓声を上げながらゲームに興じて始めた。私はその目の前で、コタツに足を突っんで寝そべりながら、クロスワード・ゲームなどを作りはじめたのである。普通のものでは面白味がないので、生長の家の教えを取り入れたものにしようと思ったが、想像以上に難しかった。以下にそれを掲げるので、時間のある方はやってみて感想を聞かせてほしい。

Cwp6x6001 【縦のカギ】
(イ) 求道の過程にある人の古称。(ロ) 一般に公開されない本尊。(ハ) 都合よくいくこと。(ニ) 新約聖書の最初の4書。(ホ) 人間の神性が覆い隠された状態。(ヘ) 神来のメッセージ。(ト) 神の御徳の1つ。(チ) 神を「光源」に喩えた時の人間。

【横のカギ】
(イ) 人間が追い求めてやまないもの。(ヘ) 神の御徳の1つ。(リ) 深い好意。(ヌ) 仏が衆生を深く思う心。(ル) 在るように見えてナイもの。(ヲ) 日本の神話にある神の名の1つ。

谷口 雅宣

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2007年1月 1日

年頭に当って思うこと

 平成19年、2007年という新年が明けて、私の住む東京・原宿の周辺は一変した。人々が朝早くから大勢集まり、初詣や初売りに長い列をつくる。このエネルギーは信仰の力というよりは、習俗や習慣の力を表しているのだろう。生長の家では、午前10時からJR原宿駅近くの本部会館ホールで恒例の新年祝賀式が行われ、私は大略、以下のような年頭の所感を述べた:

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 皆さん、新年明けましておめでとうございます。
 今年も晴天のもと、皆さんとともに無事に健康で新年を迎えられたことを心から感謝いたします。本年は十二支では「亥」の年で、イノシシの年とされているので、イノシシに関する諺を2つご紹介しましょう。

 1つは、「豕(いのこ)を抱いて臭きを知らず」というもので、これは「自分の欠点や醜さは、自分ではなかなか気づかないことを言うたとえ」とされています。「豕」とは「豚」という漢字からヘンを除いた右側の文字で、この字はイノシシのこともブタのことも指すようです。ブタは臭いものだが、それを抱えている本人には臭さが分からない、ということでしょう。私は、この喩をブタだけでなく、家畜全体に適用させて考えることができると思います。人間は、太古の昔から家畜を飼って生きてきましたが、近年、その家畜の大量飼育がどんな問題を引き起こしているか、自分ではなかなか気がつかないということです。

 昨年12月17日の私のブログに書いたことですが、国連の食糧農業機関(FAO)がその月に『Livestock's Long Shadow(家畜の長い影)』という題の報告書を出しました。それによると、世界の産業の畜産部門が生み出す温室効果ガスは、運輸部門が排出する割合(全体の13.5%)を上回る「18%」に達するというのです。運輸部門の中には、航空機や船舶、そして無数の自動車から出る排気ガスなどが含まれるのですが、それよりも畜産業が排出する温室効果ガスの量が多いというのに、私は驚きました。この畜産部門が排出するガスには、餌となる穀物を育てるための化学肥料や、餌そのものの製造過程から出る分、牧養地開拓のための森林伐採で排出される分、また糞の処理過程で出る分、家畜自体が出すメタンガス、家畜とその飼料の運搬過程から出るガスなどが含まれます。

 このほか、私が講習会でも紹介している数字もその報告書には載っていました。それは、世界の農地の3分の1が家畜の飼料生産に使われているということです。食糧が足りなくて困っている人間が大勢いるのに、家畜に大量の穀物を与えているのです。ですから、諺の話にもどれば、我々人類は「豕を抱いて臭きを知らず」というよりは、「家畜を食して危うきを知らず」という状態にあると言えるでしょう。

 イノシシに関する2番目の諺は、「猪も七(しち)代目には豕(いのこ)になる」です。この諺は分かりやすいので、あまり解説する必要はないでしょう。野生のイノシシも飼いならされて七代たてば、ブタになるということです。安楽な環境下では、生物は堕落してしまうという意味に解釈できます。

 そのことに関しては、年末のテレビ番組で、解剖学者の養老猛氏が、フィリピンの島にある監獄を取材していたのを思い出します。そこは、模範囚に対しては非常に寛大な措置をとっているそうです。鉄格子や塀などはもちろんなく、普通の家で、家族を呼び寄せて一緒に暮らせるのです。そこで生活する模範囚の1人の話では、彼はマニラかどこかの都市でケンカをして、人を殺してしまった。その罪の償いのためにここにいるが、この島の自然の中で農業をしている方が、都会での一見自由な生活より幸福だというのです。便利な都会の生活よりも、不便な自然の中の生活が幸福だというのはなぜでしょうか?
 
 養老氏の解説では、現代の都会の生活は、人間の体に備わった五官を活用せず、体も使わず、エアコンの効いた部屋の中で単調な仕事を続けるのがほとんどで、そういう環境では、人間はストレスが昂じて、簡単なきっかけで暴走してしまうことがあるというのです。しかし、人間は一見不便な自然界の中に置かれると、脳だけでなく、五官をフルに活用して、自然界から必要な情報を得、また体全体を使って生存のための工夫をしなければならない。そこでは、人間は自分の感情や欲望を抑制することを学び、またそのようにして、環境と折り合いをつける生き方を習得する。と同時に、そういう努力の中に幸福があるというのです。自然とのギブアンドテイクが本来の人間の生き方であり、そこに幸福がある。
 
 例えば、オフィスの中では一定の温度と湿度、一定の照明、一定の環境が保たれていて、人間はそれで幸福のように見えるけれども、風景も一定であり、一緒に仕事する人も一定であり、仕事も一定である。この変化のない単調な環境は、本来人間がその中で生きてきた自然とは異質のものであるから、幸福感は得られない。極端な話、オフィスの中で仕事をしていれば、その日に雨が降っても、雪が降っても、それに気づかずに過ぎてしまうことがある。しかし、自然界では、日が昇り、日は動き、日は沈む。その過程に、無限の変化があり、美しさがある。雨にも雪にも、厳しさがあると同時に、それぞれの楽しさ、美しさがある。
 
 現代人は、そういう自然の無限の変化を言葉と概念に置き換えて、単純化してしまっている。これによって科学や技術が発展したことは素晴らしいが、その反面、人間と自然との直接的関係が失われている。我々も都会の便利さや、頭でっかちの考え方で生きているのでは、人間全体の“半分”の生き方しかしていないことになる。それは野生のイノシシの生き方ではなく、飼いならされたブタの生き方です。そういう意味で、今年は便利で心地のいい現代文明に飼い慣らされたブタの生き方ではなく、自然との接点を失わないイノシシの生き方を忘れずに過ごしたいと思うのであります。

 さて、話は変わりますが、新年は様々なものが新しくなる。新しくないものも新しくすることによって、さらなる発展を期するときです。例えば皆さんは、新しい日記帳を買いましたか? 私は、昨年の新年祝賀式でこんな話をしました--
 
「創始者、谷口雅春先生は“朗らかに笑って生きよ”という言葉を掲げて生長の家を始められ、私たちは今日まで“日時計主義”の生活を大いに進めてきました。また、これからもさらに進めていきたいと思うのです。なぜなら、この“日時計主義”こそ、実相独在の信仰と唯心所現の真理を体現した生活の実践だからです。つまり、現象的にはまだ“光明”が充分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、それをコトバで認め、引き出すことで、地上に“光明”が現れる――そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しないからです。
 私たちは今、主として雑誌や書籍などの印刷媒体を使った運動をしていますが、“明るいニュース”や“楽しい出来事”は、インターネットや衛星放送などのもっと新しい手段や媒体を通すことで、印刷媒体よりも早く、世界中に伝えることができます。昭和初期に印刷媒体を使った生長の家が、平成の時代にもっと新しい媒体を使わない理由はない。そういうことについても今後大いに工夫して、効果的な運動を進めていきたいと思います」

 昨年こう言ったことが、1年後には皆さんの絶大な応援とご協力によって実現しつつあります。ここに持ってきた『日時計日記』は大変好評で、昨年12月27現在で3万1千部出ました。これに先立ってインターネット上では「日時計ニュース.com」がスタートし、クリスマス前にはWeb版『日時計日記』も動き出しました。このような様々な道具を使い、さらに新しい方法を工夫し、今年も日時計主義の生き方をあらゆる機会に展開しながら、人類光明化運動を大いに発展させていきたい。このように年頭に当って念願するしだいです。皆さん、よろしくお願いいたします。

[当日の挨拶の音声(MP3)は、ここから入手できます]

谷口 雅宣

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