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2006年11月19日

『雷の落ちない村』

 大津市で行われた生長の家講習会の帰途、長等公園内にある三橋節子美術館へ寄った。私は三橋氏のことはほとんど何も知らなかったが、病気のため右腕を切断し、絵筆を左手に持ち替えて描いたという話を事前に聞き、興味を抱いた。その時、私の脳裏にあったのは詩画家の星野富弘氏のことである(11月2日の本欄参照)。人間のもつ可能性は実に偉大であり、それが引き出される契機は一見、“不幸な出来事”であることが多いのだ。三橋氏の場合は、悪性の右肩鎖骨腫瘍が診断される以前に、すでに画家としての才能を発揮していたが、手術後に左手で描いた作品の方が評価が高いという点が、素晴らしいと思う。しかしその時、三橋氏は自分の余命が長くないことを知っていたのである。35歳での死は、他人から見れば実に「もったいない」のであるが、本人は周囲の人に「幸せやった」と感謝して旅立ったという。
 
 三橋氏は、宮沢賢治の童話や近江の伝説に取材した絵を多く描いているが、絵本も作っている。私は、その『雷の落ちない村』(小学館、1977年)という作品を買って帰った。この物語は、琵琶湖の畔のある村に住む少年の“怪物退治”の話だ。この自然豊かな村では普通、人々は幸せな生活を送っているのだが、夏になるとやってくる雷の被害で、村人は大変こまっていた。この雷の狼藉を見ていた少年は、ある日「よっしゃ、おれがアイツをやっつけたる」と決意して山へ登る。そして雷に向って何本も矢を放つが、何の手ごたえもない。湖畔でしょげていると、琵琶湖の主である大ナマズが現れて、「雷を寄せつけないためには、その案内をしている雷獣を捕らえねばならない」と教えてくれる。少年は村人にそのことを告げ、村人たちは協力して雷獣を捕らえるための大網を作り、ついにそれを捕らえる。すると雷獣は命乞いをするので、少年は「もう2度と村に雷を落とさない」と約束させて放してやる。それ以後、この村にはもう落雷の被害はなくなった--こういう話である。

 17日の本欄で『トマスによる福音書』について書いたように、私はグノーシス主義のことが頭にあったので、この絵本のストーリーとグノーシス主義の考え方の際立った違いに驚いた。グノーシス主義では、この世界(現象世界)をつくった造物主はきわめて否定的に捉えられる。それは「デーミウールゴス(Demiourgos)」というギリシャ語で表現され、「至高者」と「人間界」の中間の世界に位置し、人間界をも支配していると考えられている。このことは、かつて私が翻訳したトム・ハートマン氏の『叡知の学校』(日本教文社、2002年刊)で次のように説明されている。
 
「世界には2つの創造神がいる。1つは宇宙の創造主で、これは人間とはかけ離れていて近づきがたい。この神が『アイオーン』という超自然的な存在をいくつも造った。そのうちの1つが『ソフィア』という名の処女女神だ。この女神が、今度はちょっとひねくれた神、デミウルゴスを生んだ。デミウルゴスは、基本的には狂った神だ。気がふれたサディストだった。しかし、彼は神であったため、創造の力があった。だから、人間を繁殖させ、拷問にかけるためだけにこの世界を創造した。これが、人生に多くの苦しみがあることを説明するために、ギリシャ人とローマ人が考えたことだ」。(同書、pp.191-192)

 この神話では、デーミウールゴスは人間の苦しみや悲しみにはまったく無頓着である。だから、人間が救われるためには、至高者の使いとしての“子”が天界から降りてきて、自己の本質を知らずにいる人間に対して、その本質を啓示して目覚めさせる必要があった。それにより、救われた人間はデーミウールゴスの支配下から逃れて天界へと帰還することになる。デーミウールゴスは、グノーシス主義では悪しき被造世界の創造者なのだ。人間はそれを相手にせず、自己の本質を知って超然と天界へ上らねばならない。ところが、三橋氏の物語では、自然の力を象徴する雷やその案内者の雷獣は、一見人間を凌駕する力をもっていても、近づいてみると互角の力しかなく、捕えられれば命乞いをするのである。そして、人間の「説得」あるいは「諭し」に応じて自分の行動を改めさえする。
 
 私はここに、日本の神話にあるスサノオノミコトの行動と似たパターンを見る。また「桃太郎」の物語に出てくる「鬼」と人間との関係も思い出す。日本人の感性では、自然は基本的に人間の“仲間”であり、説得し、諭せば人間の利益を守ってくれるのだろう。しかし、グノーシス主義では、自然は人間の利益を冒し、人間を翻弄し、人間の死を喜ぶ。それに対抗するためには、人間は天界からの支援を得て、自然を超克しなければならないのだ。生長の家では「すべては神において一体」と説くから、その点でグノーシス的世界観は生長の家と相当異なると言えるだろう。
 
谷口 雅宣
 

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コメント

谷口雅宣 先生

総本山で三橋節子さんのお話を紹介されたのをお聞きして
「自然と人間との共生」という内容に感動するとともに、
三橋さんと生長の家との不思議なご縁を感じました。

といいますのは、三橋さんは、闘病中に生長の家の信徒の
知人から聖典を愛行してもらい、しばらくの間、ベッドの
上で熱心に読まれていたそうです。この話は、『岸辺に~
娘三橋節子』(三橋時雄/著、サンブライト出版、198
6年)に少し載っておりまして、20年前にこの本を読んだ
時、とても感動した記憶があります。

残念ながら、今手元にありませんので、何ページにその話
が載っているかをご紹介できませんが、著者の時雄さんが
文中で「生長の家」とはっきり書かれ、生長の家を伝えて
くれた方に感謝されていたことだけは、明確に記憶してい
ます。

>>本人は周囲の人に「幸せやった」と感謝して旅立ったと
>>いう。

こうした大往生の背後には、「人間は神の子、生き通しの
生命」という真理との出合いがあったということを、ご紹
介させていただきたいと思いました。

小関

投稿: 小関 隆史 | 2006年11月24日 14:31

小関さん、

 三橋さんと生長の家のこと、そういう事情があったのですか……。
教えていただき感謝します。

投稿: 谷口 | 2006年11月25日 12:57

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