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2006年11月 7日

狭い戸口

 出張先の岐阜市で読んだ『中日新聞』(11月5日)に、青山玄氏が『ルカによる福音書』第13章にある次のようなイエスの言葉を解説していた:
 
「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着くであろう」

 この言葉は、「主よ、救われる人は少ないのですか」と訊いた人に対して、イエスが「狭い戸口からはいるように努めなさい」と答え、そのあとに続けて説いた喩え話の中に出てくる。青山氏は、この「狭い戸口」とは「自分を子供のように小さくすること」だと解し、上の聖句の意味を次のように解説する:
 
「己を無にして、神の御前に幼子のように小さくなり、ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になるなら、民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われ、神の国に入れてもらえるのではなかろうか」

 このような解釈は確かに可能だ。が、私はここで少し異なる見方を提示したい。

 この聖句は『ルカ』の第13章29節にあるのだが、よく知られているのは、これと似た喩えが『マタイによる福音書』の第7章13~14節にもあることだ。新約聖書の最初の4つの福音書は「共観福音書」と呼ばれていて、互いに呼応する似通った物語や喩え話がいくつも含まれている。多くの聖書研究者は、これらの福音書には共通する“元の文書”、あるいは“元の言い伝え”があって、それから派生したものが現在の4福音書だと考えている。とすると、イエスの喩え話を解釈する場合、似通った話が他の福音書にあるものは、複数の話の意味を総合的にとらえる方法が望ましいかもしれないのである。
 
 そう考えると、『ルカ』の話の意味を『マタイ』の話を参照しながら考察することができるだろう。そこで、『マタイ』にあるイエスの言葉を日本語訳で2種掲げる--

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(口語訳)
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(新共同訳)

 こちらは2つの訳がともに「狭い門」であるのに対し『ルカ』の方は、口語訳も新共同訳も「狭い戸口」という語を使っている。また、英語の Good News Bible という聖書でも、『マタイ』は the narrow gate であるのに、『ルカ』は the narrow door となっている。そこから想像すると、原語のギリシャ語では『マタイ』と『ルカ』では違う言葉が使われていたと推定できる。しかし、『ルカ』の喩え話では、この戸口は「神の国」への戸口であり、『マタイ』では「狭い門」は「命にいたる門」だと表現している。だから両者は、違う言葉を使いながらも、だいたい同じことを言っていると解釈できるだろう。すなわち、宗教的な魂の喜びにいたる道は狭く、そこを行く人は少ない、ということだ。
 
 それならば、なぜこの「狭い戸口」へ向って「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着く」のだろうか。青山氏は「民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われる」と解釈しているが、「非常に多く」という意味の言葉は、聖書の原文のどこにもない。『ルカ』の喩えが『マタイ』のそれと同じことを表現しようとしているならば、むしろ反対に、その戸口は「見いだす者が少ない」とはっきり書いてあるのである。
 
 私は、この『ルカ』の話は、青山氏の解釈から「非常に多く」を除いた意味を表現していると解釈したい。つまり、「狭い戸口」は見つけにくいが、そこへ入れば「民族や文化の違いを超えて人は救われる」ということだ。そう考える理由は、『ルカ』の喩え話の全体の文脈からを知れば分かるのである。
 
谷口 雅宣

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