神の国
「狭い戸口」という題で書いた本欄の第2回で、『ルカ』には「狭い戸口(the narrow door)から入る者が救われ、神の国に入る」と説かれていることを示した。また、これに対応する『マタイ』の喩え話では、「狭い門(the narrow gate)は命にいたる門」だと説かれていることも書いた。そこで問題になるのが、「神の国」とは何かということである。新約聖書の福音書で「神の国」「天国」「御国」「父の国」などと呼ばれているものが何であるかは、宗教上きわめて重要であると思われるが、聖書自体にはその明確な説明はない。というより、イエスの時代以前のいわゆる旧約聖書中には「神の国」という言葉はあまり頻繁に見出せず、福音書の時代に入って数多く見られるようになるのである。にもかかわらず、「神の国」は数多くの喩え話として存在していても、明確な定義はない。
いくつか例を示そう:
「そこで言われた、『神の国は何に似ている。またそれを何にたとえようか。1粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる』」(『ルカ』13:18-19)
「また言われた、『神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』」(『ルカ』13:20-22)
「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。……後略』」(『マタイ』13:24-25)
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」(『マタイ』13:44)
生長の家の信徒の間で恐らく最も知られている喩えは、『ルカ』の第17章20~21節にあるものだろう。この箇所は、古い文語体の聖書では「神の国は汝のうちにあり」と訳されていて、聖経『甘露の法雨』の「人間」の項に引用されている。口語訳の聖書では、こうある:
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また“見よ、ここにある”“あそこにある”などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」
しかし、これだけでは、神の国の明確な定義とは必ずしも言えず、数々の解釈の余地が残る。例えば、神の国とは一種の「悟りの境地」のようなものだとも考えられるし、神の国は空間的に位置が決められないが「我々の近くにある」とも解釈できる。これに対し、『トマスによる福音書』という文書のイエス語録には、この聖句に対応した興味ある記述があるのである。それを次に掲げよう:
「彼の弟子たちが彼に言った、『どの日に御国は来るのでしょうか』。(彼が言った)、『それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。“見よ、ここにある”、あるいは、“見よ、あそこにある”などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない』」
この後半部分は、『ルカ』とは大いに違っている。しかし、「人々はそれを見ない」という言い方は、「狭い門」についての『マタイ』の喩え--「それを見いだす者が少ない」を想起させる。だから、「肉眼には見えない」という意味では、「狭い門」も「神の国」も「御国」も一致していると言えよう。
谷口 雅宣
【参考文献】
○荒井献著『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、1994年)
| 固定リンク
« 宙のネズミ (4) | トップページ | 稔りの秋 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント