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2006年11月30日

宙のネズミ (5)

 Tからのメールは、次のようなものだった。

 --田村先生には、これまで当社への数多くの御指導を賜り誠にありがたく、何と言ってお礼を申し上げていいかわかりません。ここ1カ月ほどの研究で、毛母細胞に関する貴重なデータを蓄積することができ、マウスを使わない発毛と頭皮育成が可能となる一歩手前まで来たとの感触をもっていました。ところが2日前、当社の研究棟に落雷があり、一時停電したことが原因で、田村先生の検体を移植したマウスに異常が起き、昨夜半までに死亡しました。その間、田村先生のK大の研究室には何度かお電話したのですが、お留守でした。在室の方に伝言をお願いすることも考えましたが、当方の身分を明かすことで先生にご迷惑がかかると思い、差し控えました。
 先生と当社との合意では、当社の過失の有無にかかわらず、実験動物が死んだ場合には、それを先生にお返しすることになっております。つきましては、火急速やかに当社の営業担当に連絡いただきますよう、お願い申し上げます。
 
 田村は急いでメールを閉じると、パソコンをシャットダウンさせながら、今後の自分の行動について目まぐるしく思いを巡らせていた。チュー子が移転先で死ぬ可能性について、彼は考えなかったわけではない。しかし、一部上場の企業の無菌室に入るのだから、自分の研究室の片隅に隠されているよりも、チュー子の衛生環境は良好であるはずだった。だから、マウスの通常の寿命である3年とは言わないまでも、1年半ぐらいは生きて、自分の髪を育て、かつ有用な実験データを提供してくれると思っていた。それが、わずか3ヵ月ほどで死んでしまうなど……。

 田村の頭には「損害賠償」の4文字が浮かんだ。しかし、訴訟することで自分が学内の倫理規定に違反したことが公になることを思い出し、唇を噛んだ。絶対的価値である真理発見のためには、相対的価値である倫理を犠牲にすることはやむを得ないという、自分の論理を法廷で認めさせることができるならば、それも1つの選択だろう。しかし田村には、この論理を裁判官の前で展開することに、何か気が引けるのだった。自分に言い聞かせて納得している論理なのに、裁判の中で維持できるかどうか自信がないのだった。

 2日後の午後、田村はT製薬の営業担当と渋谷で合った。チュー子を渡した時の若者向けのカフェだった。営業担当者は、しじゅう平身低頭の姿勢を崩さずに謝るばかりで、田村はその男がチュー子の死に直接関係がないことを知っているだけに、そんな彼を責める気持が起こらなかった。それより、今後のT製薬との付き合いも考えて、「今回の失敗の埋め合わせをしてくださいよ」などと揶揄する自分を発見して、逆に驚いていた。
「それはもう、精一杯のことは……」
 と、担当者は這いつくばるような恰好で頭を下げた。
 そして、
「お荷物になりますが……」と言いながら、田村の前に包みを1つ差し出し、「実験動物と、先生の使われた運搬用のケースです」と言った。茶色の包装紙に覆われている包みの、中は見えない。
 田村は、
「そうですか」と言って、無造作にそれを受け取った。

 帰宅後も、田村はその包みを開ける気になれなかった。彼にとって、実験動物の死骸を見ることは、自分の犯した罪の証拠を突きつけられるようで、心苦しいのだった。だから大学では、死骸の処理は助手にやらせる。しかし、チュー子に限ってはそれができないので、車の冷蔵装置の中に入れておいた。その気になった時に、土中に葬ってやるつもりだった。
 
 翌日、昼休みに銀行へ寄った田村は、自分の口座にT製薬からの入金があるのを確認した。「12」のあとに「0」が6つ並んでいる。「まさか」と思いながら何度も確認したが、やはりゼロの数は6つだった。毎月100万円の入金があったが、今回は1桁多いのである。担当者の言った「精一杯のことは……」という言葉が田村の頭をかすめた。
--そんなつもりじゃなかったのに……。
 と、彼は不本意の思いを募らせたが、その一方で、科学者としての論理的思考がもどってきた。企業が大金を払うということは、それなりの成果があったからである。また、事後に訴訟されないためかもしれない。万一訴訟されたとしても、成果に見合う対価を支払っているのといないのでは、企業イメージに大きな違いが出てくるだろう。ということは、あの実験は彼らにとって失敗ではなかったのだ。そうだ、チュー子の現状をきちんと確認しておかなければならない--田村はそう考え、家路を急いだ。

 冷蔵装置の中の包みからは、茶色の包装紙をむくと2つ折りにしたメモ用紙が出てきた。中には、走り書きでこうあった。
 
「実験動物は、当社開発の培養液に浸かっています。死後も髪の毛は伸び続けているようなので、そのままの形でお返しします」

 田村は、恐るおそるプラスチック・ケースを目の高さに差し上げて、中を見つめた。暗くてよく見えないので、西日の当る玄関先へ持っていった。それでも中は黒々としている。思い切って中を開けてみた。すると、ケースの蓋を押し上げるようにして、髪の毛の束が盛り上がった。田村はそれを指先でつまみ、上へゆっくりと引き上げる。すると、液体を滴らせながら、拳大ほどの黒い髪の毛の塊が現れた。田村は思わず、その黒い塊を玄関先の石の上に置き、後ずさりした。

 これがチュー子の変わりはてた姿なのだった。人間の頭皮を移植され、懸命に毛を伸ばし続け、マウスとしての姿形が見えなくなっている。チュー子の栄養を吸い取りながら成長しているのは、ほかならぬこの自分の髪の毛なのだ。T製薬の培養液が、それを可能にしているに違いない。これで自分は、黒い毛が豊かに生えた頭に変貌することができるだろう。
 
 田村は立ち上がって、ビルの並ぶ凸凹の地平線に今まさに沈もうとしている太陽を見つめた。
「オレは悪魔だ。オレは悪魔だ!」という声が、心中から湧き上ってくるのを抑えることができなかった。
(了)

谷口 雅宣

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2006年11月29日

ネコの実相 (2)

 禅書である『無門関』の第1則は「趙州狗子」である--
 
 趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性ありや也無や。州云く、「無」。
 
 この公案は「イヌの子に仏性ありや?」という問いかけであるから、ネコの実相に関する直接的な答えを示していないかもしれない。しかし、イヌもネコも人間の愛玩動物であり、人間に最も近い動物であるという点では、「ネコに仏性ありや?」との問いかけに相通じるものである。そしてこの中で、趙州和尚は明確に「無」と答えているのである。公案は、なぜこのような答えが発せられたか、を考えることである。

 ごくごく単純に「イヌに仏性などない」と考えたとしよう。そうなれば、人間の都合によってイヌをどのように扱おうが、どのように利用しようが問題ないという結論が出るかもしれない。その場合、大量のイヌを人間の利益目的に利用する企業家が出てくることが考えられる。11月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、アメリカの製薬会社「ブリッジ製薬」(Bridge Pharmaceuticals)が仕事の一部を中国に外部委託しているという記事が載っている。いわゆる「アウトソーシング」である。その理由は、アメリカやヨーロッパ、インドなどでは動物愛護団体が動物実験施設の増設や拡張に反対している一方、中国には科学者が多く、その人件費は安く、動物愛護団体の活動も政府の支配下で盛んでないからだという。同社のCEO、グレン・ライス氏(Glenn Rice)は、「この国には大量のイヌやサルがいますから、もし我々がここに臨床実験前の施設を建設すれば、製薬産業の力学を変えることができます」と言う。ライス氏はまた「ここでは動物実験は政治問題になっていませんから、大きな製薬会社でも中国への移転を大々的に考えています」とも言う。
 
 この記事によると実際、ノバルティス(Novartis)、ファイザー(Pfizer)、エリ・リリー(Eli Lilly)、ロッシェ(Roche)などの大手製薬会社も、中国国内に研究開発部門の設置を計画しているらしい。中国政府はバイオテクノロジーの振興に熱心で、北京近郊に生命科学パークを建設して海外企業の誘致を進めている。ブリッジ製薬も5年間の無税措置を享受しているという。因みに中国は今、実験用のサルとイヌの世界最大の供給国だという。

 こういう問題で善悪の判断が難しいのは、安価な薬は貧しい人々の救いになるということと、安価な実験動物は、珍しい病気の治療薬開発を可能にするとうい点だ。前者はあまり説明の必要はないだろうが、後者は、製薬会社の新薬開発の動機と深く関わっている。つまり、製薬会社は薬の販売によって開発コストをまかなう必要があるが、それにはある程度の数の薬が売れなければならない。ということは、発生頻度が少ない病気に対する治療薬の開発は、あまり熱心になれないということだ。
 
 こうして、今後、世界の製薬会社は安価な実験動物を求めて中国に進出していくことになる。そして、イヌたちの阿鼻叫喚の図が大陸に展開する。これが本当に「趙州狗子」の公案に対する答えなのだろうか?

 問題は、イヌやネコには仏性はないが、人間には仏性があるから、優れた人間の目的のために劣った動物を道具化することは一向に構わない……などと、人間と動物とを“対立物”として捉える考え方だろう。仏性のあるはずの人間が、大量の動物を殺すことに何の良心の呵責も感じず、「さあ、どんどん殺せ」と言っている姿を想像してほしい。そういう人間の「仏性」とはいったい何なのか? そんな心で--つまり、人間とイヌとを対立物として見る心で--「イヌに仏性があるか?」と尋ねたとしたら、趙州和尚はきっと「無」と言ったに違いないのである。仏性のみが仏性を引き出すのである。

 谷口 雅宣

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2006年11月27日

ネコの実相

 11月26日に東京で行われた生長の家講習会で出た質問の中に、とてもユニークなものがあった。“ネコの実相”を問うもので、私は常識的な答えをしたのだが、よく考えてみると不十分な答えだったと思うので、この場で補足を試みることにする。質問してくださったのは、埼玉県狭山市から参加した43歳の主婦で、内容は次のようなものである:
 
「家でかっている猫が布団におしっこをしてしまいます。猫の実相をみて祈れば思いは届くのでしょうか。人間以外の動物に対して、動物的なことに関してなおるのでしょうか」

 私がこの質問を読み上げたところ、場内は一時沸いた。意外性と同時に正直さがある点に反応したのだろう。質問者は、このネコのことで本当に悩んでいると感じられるのである。私の答えは、「ネコは動物であり、動物としての本性は布団で寝たり、人間の思い通りに生活することではない。実相が現れるということは、ある人間の希望通りの行動を人間や動物が行うことでは必ずしもない」というものだった。自然界にいるネコは、尿意を催せば自分の好きなところで尿をするだろう。それを「布団の中では困る」と思うのは飼い主の勝手な願望であって、その願望に従うことが“ネコの実相”が表れることではない--私の答えの大意はそんなものだった。この日は20枚ほどの質問用紙が来ていたので、私は先を急いで次の質問へ移っていったのだった。
 
 しかし、帰宅後によく考えてみると、上の答えではまるで「自然状態が実相である」と言っているように聞こえる。単に「自然状態がいい」ということになれば、自然界では「ヘビがカエルを呑む」のも「ライオンがシカを食べる」のも「ワシがウサギを捕る」のも普通に行われている。それが実相ならば、実相とは現象のことである。私が強調したかったのは、答えの後半部分--実相とは個人の願望が成就した状態と必ずしも同じではないということだ。個人は、さまざまな利己的な動機から願望をもつことがあり、実相世界においてそれらがすべて成就しているとすると、欲望礼賛の世界が実相世界ということになってしまう。こんな考え方は、生長の家とは縁もゆかりもない。ネコやイヌを飼っている人は、ペットを愛するあまり感情移入をしすぎて、ペットと人間と同等に扱う傾向があるため、「人間のおねしょ」と「ネコの粗相」を同じに見ることもあるのだろう。それに対して「ネコは人間ではない」ことを強調したかったのである。
 
 さて、それでは「ネコの実相が表れる」とは、どういうことなのだろう。私は今日、務め帰りに花屋へ寄ってバラの花束を所望した。店員が花束を作っている間、周囲を観察する機会があった。この花屋ではネコが飼われていて、置き台の上のかなり高い位置にある籠の中に寝そべっていた。ちょうどネコ1匹が寝転ぶのに適当な大きさで、布団まで敷かれている。そのネコから30センチほど上には小型のラジカセが置いてあって、静かなクラッシック音楽を響かせていた。私が花屋を訪れたとき、店には1人の若い男性客がいて、そのネコを撫でたりあやしたりしていたのである。ネコは静かに、その好意に反応していたが、その静かさが何か妙に不自然だったのだ。その男性客はまもなく姿を消して、私とネコとが店頭に残された。私のネコに対する感覚については、本欄で何度も書いているように「つかず離れず」がモットーだ。
 
 私はネコに語りかけた。
「おい、お前はそんな所に寝ていて満足なのか?」
 ネコは寝そべったまま、2本の前足で顔の側面をなでながら、私の方を見ている。
「夕方のこの時間は、お前の仲間だったら外で活動を始めるころだぞ」
 ネコは、いかにも眠いというように大あくびをして、私を見つめる。クラッシック音楽が催眠作用を及ぼしているのかもしれない。
「おい、しっかりしろ。なまけものの人間になることがネコの幸福か!」
 ネコは、籠の縁に顎を載せたまま、目を細めてしまった。が、片目だけが薄く開いている。

 私がこのネコと対面していて感じた妙な違和感は、何だったろうか。それは、「この動物はあまりにも人間くさい」という点だった。人間をまったく警戒せず、人間が整えた環境の中で満足しきっている。それでいて、両眼は(当たり前のことだが)まったくネコの目をしているのだ。こういうネコが、“実相が表れている”のだろうか? 私は、決してそう思わないのである。
 
谷口 雅宣

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2006年11月26日

個人生活と地球環境

 昨日の本欄で、私は日本政府に対して、もっと長期的で明確な環境政策を策定してほしいと注文したが、今日、東京・調布市など3カ所で行われた東京第2教区の生長の家講習会では、“エコ容器”を使った弁当が出されたと聞いて勇気づけられた。政府がかけ声をかけなくても、民間レベルでの環境意識の向上は(困難であっても)期待できるからである。

 この容器は、7月9日の本欄で紹介した青森教区の講習会で使われたのと同じもので、植物のアシ(葦)を原料にした生分解性プラスチック製だ。今日の講習会には3会場合計で6千人以上の人が参加してくださったから、きっとCO2の排出削減に役立ったに違いない。また帰宅後、家に届いていた『七宝の塔』(生長の家栄える会会報)を読んだら、10月22日に開催された第33回生長の家繁栄特別ゼミナールでも、昼食の弁当に同じ“エコ容器”が使われたと書いてあった。こちらの参加者は2,259人というから、CO2排出削減の効果は徐々に生まれているはずだ。

 私は、この地球温暖化時代にあっては、生分解性プラスチックはもっとふんだんに利用されるべきだと考える。石油を原料とするプラスチックは、製造時と廃棄物として処理されたときにCO2を排出する。結果的に、地中深く埋まっていた炭素を大気中に放出することになる。それに対し、アシなどの地上に生えている植物を原料としたプラスチックは、植物が成長する際に大気中のCO2を体内に取り込み、さらにプラスチックを土に埋めてゆっくり分解させれば、水とCO2になる。そしてCO2は、再び植物に固定されたり、バイオマスに吸収される。つまり、使えば使うほど大気中のCO2は減ることになる。石油が原料のプラスチックとは、まさに対の働きだ。
 
 温暖化防止の観点からはこんなによい働きをする生分解性プラスチックだが、有害なプラスチックよりも値段の高い点が、普及が進まない大きな原因になっている。別の言葉で言えば、温暖化を促進するプラスチックが、それを防止するプラスチックよりも「安い」のが現状だから、経済発展をすればするほど温暖化が進む傾向になる。だから、人類が温暖化をはっきりと“コスト”として認め、それを製品の値段の中に含めるのが経済的には「正しい」と言えるだろう。そういう考え方を含めて提案されているのが「環境税」とか「炭素税」と言われるもので、これを早急に導入することで「経済発展と環境保全が両立する社会」が実現するのである。日本の経済団体は、環境税導入に反対する理由として「経済発展を阻害するから」と言っているが、この論法は短期的には正しくても、中・長期的には正しくない。先に紹介した『スターン報告書』は、そのことを有力に語っている。環境問題と真面目に取り組まない現行制度下の経済発展では、50年後には世界のGDPを5~20%減らすような被害が生じるのである。

 しかし、政府が動かなければ我々は何もできないわけではない。環境税が施行されていない現在、我々は化石燃料を使うよりも値段が高い、より“クリーン”な製品やサービスを利用することで、実質的に環境税を支払うことになる。だから生長の家では、ハイブリッド車やグリーン電力、生分解性プラスチック等の“エコ商品”等の使用を推奨しているのである。

 さて、今日の講習会では「肉食」のことも話題にした。肉食が増えれば増えるほど地球温暖化が進み、土地や資源の奪い合いが深刻化するという話だ。今年の1月には、このことを、肉食盛んなブラジルでの生長の家教修会で取り上げて、意外に良好な反応を得た。世界的にも、肉食と環境悪化の関係が理解されるようになってきているのだろう。

 11月25~26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、アメリカのウッズホール研究所(The Woods Hole Research Center)の科学者、ダニエル・ネプスタッド氏(Daniel Nepstad)が「熱い惑星のための食事」(Diet for a hot planet)という題の論説を寄稿している。それによると、すでに35年前、フランセス・M・ラッペ(Frances Moore Lappe)という人は『小さな惑星のための食事』(Diet for a Small Planet)という料理本の中で「動物性蛋白質を摂取することは、植物性蛋白質の摂取に比べて16倍も農地を必要とする」と訴えて、警鐘を鳴らしたそうだ。今や地球のどこにも新たな農地はなくなり、その一方で、急速な経済発展を続ける中国などの国々の何億という人々が、肉食の割合を増やしつつある。そのため、熱帯雨林が伐採されて農地に転換されている。経済発展はエネルギー需要を増大させるから、石油の値段が上昇し、農産物をエタノール燃料に転換することで利益が生じるようになった。すると、人間と自動車とが食料(燃料)をめぐって農地を奪い合う関係になる。そして、森林はさらに減り温暖化がさらに進行する……。
 
 この悪循環を断つためにネプスタッド氏が提案している方策の1つが、「肉食の削減」なのである。曰く--「もしアメリカ人が、食事と地球(環境)の間にあるこの関係を断つために肉食を減らすならば、彼らは温暖化の速度を下げる動きの中で、珍しく指導的な役割を果たすことになるだろう」。

 個人の力は小さくても、理性や良心に訴えて協力者を増やし、団結して行動すれば、我々は地球規模の問題解決にも一定の役割を果たせると思う。

谷口 雅宣

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2006年11月25日

『スターン報告書』から学ぶ

 10月31日の本欄で、地球温暖化による経済的影響をまとめたイギリス政府の報告書について伝えたが、これは世界銀行のチーフ・エコノミストだったニコラス・スターン氏が書いただけあり、具体的で建設的な提案がいくつも見られる。読者の参考に供するため、以下にその骨子を掲げよう:

【気温】
1.人間の活動から生じるCO2の排出により、地球表面の温度はすでに0.5℃上昇している。
2.この排出削減が行われなければ、今後50年間に地球の温度が2~3℃上昇する確率は75%以上ある。
3.同じ期間に、地球の平均気温が今より5℃上昇する確率は50%である。

【環境への影響】
1.氷河の融解で洪水の危険性が増大する。
2.作物の収穫量が、特にアフリカにおいて減少する。
3.海面上昇により、2億人が恒久的に住む場所を失うだろう。
4.最大で40%の生物種が絶滅の危機に直面する。
5.気象の激化がさらに続く。

【経済への影響】
1.気象の激化により、世界のGDPは最大で1%減少する。
2.2~3℃の気温上昇は、世界経済の生産を3%減らす。
3.もし気温が5℃上昇すれば、最大で1割のGDPが失われる。貧しい国々の損失はそれ以上である。
4.最悪の場合は、1人当たりの消費は20%減少する。
5.これらの被害を最小限で安定させるためには、今後20年間にCO2の排出量を安定させ、それ以降は毎年1~3%ずつ減らさなければならない。これにともなうコストはGDPの1%である。

【変化のための選択肢】
1.温暖化ガスを多量に排出する製品やサービスに対して、消費者の需要を減少させる
2.森林の減少を食い止めるなど、エネルギー以外の分野で温暖化ガスの排出削減に取り組む。
3.温暖化ガスの排出が少ない交通手段を育成し、2050年までにエネルギー需要の60%を化石燃料以外のものへ移行する。

【政府の対応策】
1.地球全体で炭素取引をするための(排出権)市場をつくる。
2.現行のヨーロッパ排出権取引制度を拡大し、アメリカ、インド、中国を取り込む。
3.ヨーロッパ排出権取引においては新たな排出削減目標を設定し、2020年までに30%、2050年までに60%を削減する。
4.排出削減を義務づけるために法律で目標を制定し、排出状況を監視する独立行政機関を新たに設立する。
5.企業による環境技術への投資を促進するために委員会を設立し、新たに10万人の雇用を創出する。
6.元アメリカ副大統領のアル・ゴア氏を、環境問題に関する政府のアドバイザーとする。
7.貧しい国々が気候変動に対応するのを支援するために、世界銀行その他の金融機関と協力して200億ドルの基金を設立する。
8.ブラジル、パプア・ニューギニア、コスタリカと協力して、森林の持続的利用をはかり森林の減少を防ぐ。

 以上の『スターン報告書』の提案の中で、私は「変化のための選択肢」の項に掲げられた3つの政策に匹敵するものを、日本でも早急に実施してもらいたいのである。まず、政府が明確な長期的目標を掲げること。これによって企業は投資の方向を定め、経済に新たな動きが生まれるのである。

 谷口 雅宣

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2006年11月23日

秋季大祭が終る (2)

 以下は、22日に行われた生長の家の秋季記念式典で、私が行なったスピーチの概要である。

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 本日は秋季大祭、ならびに谷口雅春大聖師御生誕と生長の家総裁法燈継承記念の式典に全国各地から、また海外からも多くの同信の皆様がお集まりいただき、誠に有り難く感謝申し上げます。毎年この時期になると日本では紅葉が美しくなりますが、日本列島は南北に長い形をしているので、北海道では秋が終り雪が見られても、九州ではまだ紅葉も最盛期とは言えないようです。つい数日前、滋賀県での生長の家講習会が大津市で行われましたが、会場周辺はまさに絶好の紅葉のシーズンでした。その紅葉を楽しもうと大勢の人々が全国から集まってきているようで、周辺のホテルは満室であり、京都駅は大混雑でした。
 
 こうして人間は、大自然の変化とその中に展開する美しさを限りなく愛する、ということが分かるのであります。しかしその一方で、人間は大自然の美を楽しむために道路や橋を建設したり、船を走らせたり、航空機を飛ばしたりすることで、大自然を自ら破壊している。このことはずいぶん前から指摘され、自然保護運動も全世界で行われているのですが、それでも全体としては、地球の環境悪化は着々と進んでいるのであります。ここに我々人間は、自然界との正しい関係を成立させる必要が、緊急に求められているのであります。そうしなければ、地球温暖化がますます進み、地球環境が不可逆的に変化する恐れがあるという指摘がなされています。「不可逆的」とは「もう後へもどれないほど根本的に」という意味です。
 
 これは、私がすでにブログにも書いたのですが、最近、イギリス政府が発表した「スターン・レポート」という環境問題への深刻な評価は、真剣に受け止められるべきものです。それによると、「気候変動をこのまま放置しておけば毎年、世界中でGDPの5~20%が失われていく」というのです。この値は、世界大戦や世界恐慌に匹敵する経済的損害であるから、二酸化炭素排出量の削減に向かって、ただちに「勇気をもって決定的行動」(bold and decisive action)をとらなければならないとしています。スターン報告書は、「我々の今後10年間の活動によって、今世紀後半と来世紀にかけて、経済や社会活動が重大な混乱を引き起こされる可能性を有しており、その混乱の規模は、20世紀前半に起こった世界恐慌と世界大戦に匹敵するものである」としています。だから、世界は炭素税、温室効果ガスの排出規制、炭素取引などの方法を使って、「低炭素の地球経済」(low-carbon global economy)へと急いで転換していかねばならないというのです。
 
 私は先ほど、人間は「自然を愛するけれども、同時に自然を破壊する」という不思議な行動をすると申し上げました。今回の秋の大祭に合わせて、私は『秘境』という長編小説を出版させていただきましたが、この中で、私は人間のこの不思議な生き方について考えてみようと思いました。この小説では、自然に対する2つの考え方を対立的に描いています。1つは、主人公の塚本敬三のもつ自然観で、これはいわゆる「自然主義」的な考え方です。人間は自然の一部だから、自然破壊をすることは自己破壊につながる。だから、できるだけ人間の欲望を抑え、自然と人間との共存共栄をはかるべしとする考え方です。

 これに対して、ライバル記者の金森達二は、「人間は自然の一部である」ことには賛同しますが、だから自然界を大切に保護すべきとは考えずに、「人間の自然破壊も自然の活動の一部だ」と捉えるのです。つまり、自然界は人間の力を使って自分自身を更新していると考えるのです。それは、かつて恐竜が地上に君臨したときのように、人間が環境破壊と自己増殖によって奪い合いを行い、お互いを殺しあって絶滅していく。その廃墟の中から、より高度な知性ある生物が進化する。自然はそのように弱肉強食が常態だから、自然破壊は自然な過程だ、と考えるわけです。

 小説の中では、どちらの考えが正しいか結論ははっきり書いていません。しかし、これまで私がいろいろの所で言ったり、書いたりしてきたことをご存知の方は、結論を推測することは容易だろうと思います。

 この小説に出て来る2つの自然観は、互いに大いに矛盾しているのですが、恐らくどんな人の心の中にも、バランスの違いこそあっても、両方とも存在しているのではないでしょうか。しかし、私たちは今日、この2つから二者択一をしなければならないのではありません。人類のこれまでの努力と技術開発によって、地球温暖化を進行させずに経済発展をする道は開かれています。もう議論する時期は過ぎているのです。なぜなら、地球温暖化を防ぐ技術はすでに目の前にあり、私たちの利用を待っているからです。それが利用されないのは、従来の技術に比べて少し不便で、少し値が張るからです。しかし、その「少し」を私たちは自分以外の人々や生物への「布施(物施)」だと思えばいい。その「少し」を大調和の世界実現のための「投資」だと思えばいい。次世代への「愛行」だと思えばいい。

 私はもう何年も前に、太陽光発電で日本の電力需要をすべて満たすためには「四国の3分の1」の面積の発電パネルがあればいい、という話を紹介したことがあります。しかし現在、太陽光発電の効率は当時の倍ぐらいになっています。また、これに風力を加えるとどうでしょうか? 最近、新聞に載った数字を紹介しましょう。11月19日の『朝日新聞』に編集委員の竹内敬二さんが次のように書いていました。

「1世帯の年間電力消費量は約3600kWh。3kWの太陽光発電設備があれば、量的にはほぼ間に合う。費用は200万円強だ。風力発電はどうか。風車の直径が約56mの大型風車なら出力1千kW。稼働率を20%とすると年間発電量は175kWh、約480世帯分だ。建設費は2億~3億円。480世帯で割れば高くても約62万円。適地さえあれば、地方の集落なら地区に1基あれば間に合う計算だ。太陽は昼しか照らないし、風は吹いたり吹かなかったりだから、もちろん電力会社の送電網のバックアップは必要だ。しかし、家庭消費だけなら、自然エネルギーで自給するのも夢ではない。将来は工夫してこうした分散型の電気を増やしたい」
 
 ここにあるデータは、私たちに何を示しているでしょうか? それは、現在の技術を正しく活用すれば、そして日本人全体がその気になれば、火力発電所も原発も使わないクリーン・エネルギー社会は実現可能ということです。問題は、我々が自己周辺の狭い、短期的な利益のみを考えていて、中・長期的な、我々の子や孫の世代、人間以外の生物や生態系のことを自分の問題として考えない、そういう“観点”“ものの見方”に捉われていることです。そして、自然界は弱肉強食の生存競争の世界だと考えて、他に「与える」ことは自分が失うことだという唯物論に陥っていることです。つまり、我々人間は自分で自分の可能性を制限してしまっている、一種の“自縄自縛”の状態にあるのです。それを破るためには、やはり理論やイデオロギーだけでは足りなくて、私は「信仰の力」が必要だと思います。宗教運動が、人類を自縄自縛から解放する必要があるのです。

 最後に、「日々の祈り」の中から『「生存競争」の迷いを去る祈り』の一部を引用して、私の言葉を終りたいと思います。
 
 (祈りの言葉は省略)

 環境運動は一種の「物施」でありますが、それが本当に効果を発揮するためには、どうしても「法施」としての伝道が必要です。また、法施のためには、神の御心を聞く神想観が必要です。大いに信仰を深めて、人類光明化はもちろん、人類と生物との共存共栄の実現に邁進しようではありませんか。

谷口 雅宣

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2006年11月22日

秋季大祭が終る

 11月20~22日の3日間、生長の家の秋季大祭と記念式典のために長崎県西海市にある生長の家総本山へ行った。20日の午後に長崎へ発ち、夜に教化部長懇談会を行い、翌20日は午前中が龍宮住吉霊宮の秋季大祭、午後は同本宮の秋季大祭と生長の家総本山特別評議員会、そして22日は谷口雅春大聖師御生誕日記念・生長の家総裁法燈継承日記念式典を主宰した。足掛け3日間の“長丁場”であったが、大過なく務めることができたのは、実行委員として見えないところ、(そして見えるところでも)尽力してくださった数多くの方々のおかげである。この場を借りて感謝申し上げます。
 
 今年は日本全国で紅葉が遅れていて、長崎地方でも1週間ほどの遅れと聞いたが、本宮の大鳥居近くのナンキンハゼの並木は赤く色づき、金龍湖の周りの木々も紅葉と黄葉が見事な調和を見せていた。全国から集まった参列者の方々も、きっと秋の美しさを楽しまれたことだろう。

 特別評議員会で発表されたことの中で、総本山で排出される二酸化炭素(CO2)の量と、その森林が吸収する量との関係が興味深かった。発表資料によると、2005年度の総本山でのCO2排出量は869,456kgだったが、境内地の約85%を構成する森林が吸収するCO2の総量を計算すると849,680kgになるのそうだ。この差は19,767kgだから、電気に換算すると、今後年間35,616kWhを節電することにより、“CO2の排出ゼロ”が実現するのだという。これは決して不可能なことではない。というのは、現在本山に設置されている太陽光発電装置は年間でざっと15万kWhを発電しているので、これの4分の1を発電する装置を追加導入すれば(例えば、現在の練成道場の屋根へ設置すれば)いい計算になるからだ。
 
 このようにして、ある場所から排出されるCO2の量を、森林による吸収や自然エネルギーの利用で減らし、実質ゼロにすることを「カーボン・ニュートラル」と呼ぶことがある。生長の家の練成道場のように外部から大勢の人々が集まってくる施設においては、本当の意味でのカーボン・ニュートラルは、それらの人々が利用する交通手段も考慮に入れなければならない。しかし、こうして現在の我々の活動の一部でも、実際にどの程度の努力で「CO2排出ゼロ」になるかを具体的に知ることは、その実現の道筋を示してくれるという点で、大いに参考になるのではないだろうか。

 ところで、この特別評議員会で私はスピーチをしたが、そこでは19日の本欄で触れた三橋節子さんの絵本『雷の落ちない村』を話題にした。この作品に出てくる「雷」は自然の象徴であり、その自然は、時に人間に悪さを働くようであっても、人間が努力し説得すれば、人間に協力してくれる。ここには、人間と自然とは基本的には“同類”であり、対立していても仲良くなれるという考え方が表れている。このことは「桃太郎」や「鶴の恩返し」など多くの昔話や日本の神話にも表れているから、それが我々日本人の自然観である、と指摘した。だから、自然と人間との共生を実現しようとする運動を「左翼が得意とする運動」などと呼ぶ人がいたとすれば、それはかなり見当はずれな見方だと言わなければならない。

 ソ連が崩壊し、ロシアも中国も資本主義の道をまっしぐらに進んでいる今日、我々はもう「サヨク」や「ウヨク」などという旧世紀の分類法に惑わされてはいけないのである。そんなことより、自民党が経済団体の意向を気にしすぎて地球温暖化防止のための有効な政策を打ち出せないでいるのは、彼らの政治資金の力に目を奪われ、日本人の自然観を軽視してきた戦後政治の悪習が未だに続いているからだと気がつかねばならない。そんな政策を「美しい国・日本」などと呼んでも言行不一致の批判は免れないのである。
 
谷口 雅宣

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2006年11月19日

『雷の落ちない村』

 大津市で行われた生長の家講習会の帰途、長等公園内にある三橋節子美術館へ寄った。私は三橋氏のことはほとんど何も知らなかったが、病気のため右腕を切断し、絵筆を左手に持ち替えて描いたという話を事前に聞き、興味を抱いた。その時、私の脳裏にあったのは詩画家の星野富弘氏のことである(11月2日の本欄参照)。人間のもつ可能性は実に偉大であり、それが引き出される契機は一見、“不幸な出来事”であることが多いのだ。三橋氏の場合は、悪性の右肩鎖骨腫瘍が診断される以前に、すでに画家としての才能を発揮していたが、手術後に左手で描いた作品の方が評価が高いという点が、素晴らしいと思う。しかしその時、三橋氏は自分の余命が長くないことを知っていたのである。35歳での死は、他人から見れば実に「もったいない」のであるが、本人は周囲の人に「幸せやった」と感謝して旅立ったという。
 
 三橋氏は、宮沢賢治の童話や近江の伝説に取材した絵を多く描いているが、絵本も作っている。私は、その『雷の落ちない村』(小学館、1977年)という作品を買って帰った。この物語は、琵琶湖の畔のある村に住む少年の“怪物退治”の話だ。この自然豊かな村では普通、人々は幸せな生活を送っているのだが、夏になるとやってくる雷の被害で、村人は大変こまっていた。この雷の狼藉を見ていた少年は、ある日「よっしゃ、おれがアイツをやっつけたる」と決意して山へ登る。そして雷に向って何本も矢を放つが、何の手ごたえもない。湖畔でしょげていると、琵琶湖の主である大ナマズが現れて、「雷を寄せつけないためには、その案内をしている雷獣を捕らえねばならない」と教えてくれる。少年は村人にそのことを告げ、村人たちは協力して雷獣を捕らえるための大網を作り、ついにそれを捕らえる。すると雷獣は命乞いをするので、少年は「もう2度と村に雷を落とさない」と約束させて放してやる。それ以後、この村にはもう落雷の被害はなくなった--こういう話である。

 17日の本欄で『トマスによる福音書』について書いたように、私はグノーシス主義のことが頭にあったので、この絵本のストーリーとグノーシス主義の考え方の際立った違いに驚いた。グノーシス主義では、この世界(現象世界)をつくった造物主はきわめて否定的に捉えられる。それは「デーミウールゴス(Demiourgos)」というギリシャ語で表現され、「至高者」と「人間界」の中間の世界に位置し、人間界をも支配していると考えられている。このことは、かつて私が翻訳したトム・ハートマン氏の『叡知の学校』(日本教文社、2002年刊)で次のように説明されている。
 
「世界には2つの創造神がいる。1つは宇宙の創造主で、これは人間とはかけ離れていて近づきがたい。この神が『アイオーン』という超自然的な存在をいくつも造った。そのうちの1つが『ソフィア』という名の処女女神だ。この女神が、今度はちょっとひねくれた神、デミウルゴスを生んだ。デミウルゴスは、基本的には狂った神だ。気がふれたサディストだった。しかし、彼は神であったため、創造の力があった。だから、人間を繁殖させ、拷問にかけるためだけにこの世界を創造した。これが、人生に多くの苦しみがあることを説明するために、ギリシャ人とローマ人が考えたことだ」。(同書、pp.191-192)

 この神話では、デーミウールゴスは人間の苦しみや悲しみにはまったく無頓着である。だから、人間が救われるためには、至高者の使いとしての“子”が天界から降りてきて、自己の本質を知らずにいる人間に対して、その本質を啓示して目覚めさせる必要があった。それにより、救われた人間はデーミウールゴスの支配下から逃れて天界へと帰還することになる。デーミウールゴスは、グノーシス主義では悪しき被造世界の創造者なのだ。人間はそれを相手にせず、自己の本質を知って超然と天界へ上らねばならない。ところが、三橋氏の物語では、自然の力を象徴する雷やその案内者の雷獣は、一見人間を凌駕する力をもっていても、近づいてみると互角の力しかなく、捕えられれば命乞いをするのである。そして、人間の「説得」あるいは「諭し」に応じて自分の行動を改めさえする。
 
 私はここに、日本の神話にあるスサノオノミコトの行動と似たパターンを見る。また「桃太郎」の物語に出てくる「鬼」と人間との関係も思い出す。日本人の感性では、自然は基本的に人間の“仲間”であり、説得し、諭せば人間の利益を守ってくれるのだろう。しかし、グノーシス主義では、自然は人間の利益を冒し、人間を翻弄し、人間の死を喜ぶ。それに対抗するためには、人間は天界からの支援を得て、自然を超克しなければならないのだ。生長の家では「すべては神において一体」と説くから、その点でグノーシス的世界観は生長の家と相当異なると言えるだろう。
 
谷口 雅宣
 

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2006年11月18日

世界の森林は拡大中?

 ケニアのナイロビで行われていた地球温暖化防止のための京都議定書第2回締約国会合(COP/MOP2)と気候変動枠組み条約の第12回締約国会議(COP12)では、中国やインドの排出削減問題、CO2の地下封入を認めるか否か等で合意にいたらず、あまり実質的な進展はなかったようだ。が、2008年に京都議定書の次回見直しを集中的に討議するために、今後2年をかけて現行の議定書の具体的な見直しを進めることで、かろうじて合意した。18日の『京都新聞』夕刊などが伝えている。今後の最大の焦点は、2013年度以降の「第2約束期間」で経済発展著しい中国やインドが、温室効果ガス排出削減を約束するかどうかと、世界最大のCO2排出国・アメリカの参加だ。これらについては予断を許さない状況だ。
 
 生長の家では、“よいニュース”“明るいニュース”ばかりを集める「日時計ニュース」を運営しているので、私も解決への取り組みがなかなか進まない地球温暖化問題に関しても“明るい話”を探してきた。と、驚いたことに、「世界の森林は回復基調にある」というニュースに出会った。これは、11月15日付の『ヘラルド・トリビューン』が報じたもので、14日に発行された『The Proceedings of the National Academy of Sciences』(アメリカ科学紀要)に、ヘルシンキ大学のペッカ・カウッピ博士(Pekka Kauppi)らが発表した論文が、そう結論づけているらしい。

 この論文はヨーロッパ、アメリカ、アジアの科学者たちの共同研究になるもので、大きな森林を抱える世界50カ国のうち22カ国で、過去15年のあいだに森林面積が拡大しており、他の多くの国でも今後数十年のうちに森林減少の動きが止まって拡大期に移行するだろう、と述べているらしい。しかし、例外もある。それはブラジルとインドネシアの森林で、これらの国では深刻な森林破壊が続いているため、世界全体で見ると、森林面積はまだ「減少」しているという。
 
 ただ、このニュースに疑問を投げかける“懐疑派”もいる。例えば、国連の食糧農業機関(FAO)の森林資源開発部(Forest Resources Development)のピーター・ホルムグレン氏(Peter Holmgren)は、研究に使われたデータの信頼性に疑問をはさむ。というのは、これらのデータの多くは関係国自身が提供したものと、空中からの観察結果によるもので、この両者ともに必ずしも正確ではないという。また、途上国における“森林拡大”は、経済発展にともなう都市化現象により、耕作地が放棄されたことでも起こるから。食糧供給のためには他国からの輸入が必要となり、それが他国での森林減少の原因にもなる。そういう意味では、農産物の大輸出国であるブラジルでの森林減少が続いている点は、気になるところだ。

 この研究は、最近FAOから発表された1990~2005年の世界の森林に関する情報と、各国のもつ森林情報のデーターベースを分析して行ったもの。それによると、圧倒的多数の先進国では、2005年には1990年よりも広く、より密度の高い森林が存在しているという。アメリカや西ヨーロッパでは、この変化が数十年前から始まっているが、最近15年間、それが加速しているそうだ。もっとよいことに、ベトナムやトルコ、そしてインドや中国でも、森林の増加傾向が見られるという。中国では、政府の政策で大規模な植林が行われているが、その成果が上がっているのかもしれない。とにかく、この傾向はどんどん広がっていってほしいものだ。

谷口 雅宣

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2006年11月17日

神の国 (2)

『トマスによる福音書』は、いわゆる“正典(Canon)”の中に含まれない「外典」の1つで、グノーシス主義者の手になるものと言われている。この文書は「福音書」という名がついてはいるが、新約聖書の4福音書とは異なり、114の語録から成っている語録集である。成立年代は2世紀の中頃(荒井献氏)と推定され、主としてユダヤ人キリスト教者の間に伝承されてきたものをまとめたもので、共観福音書(『マルコ』『マタイ』『ルカ』の3つ)とは別の伝承系列に属するらしい。

 新約聖書学では、『マタイ』と『ルカ』の双方に共通した語録集の形式の資料があると考え、それを「Q資料」と呼んできた。『トマス』は、このQ資料とかなりの部分が重なっていると考えられている。また、『トマス』の語録には『ヨハネ』(ヨハネによる福音書)と部分的に似た箇所があることも、興味深い。これは『トマス』と『ヨハネ』が思想的に近いからだと考えられる。荒井氏によると、『トマス』の語録にある「4福音書には存在しない、“知られざるイエスの言葉”の多くは、このグノーシス主義の立場から創作され、イエスの口に入れられた」とされる。

 では、グノーシス主義とは何か? この質問に的確に答えるのは難しいが、荒井氏によると、これは元来キリスト教とは無関係に成立した独自の宗教思想で、「人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという認識を救済とみなす」(pp.102-103)ものである。むずかしい表現なので、噛み砕いて言いなおすと、現在の宇宙(現実世界)は否定的に乗り越えるべきものであり、それを達成した至高者が存在するが、その至高者と同じものが人間の本来の自己だ、と考えるのである。人間は本来至高者としての本質をもっているが、現実世界においてはそのことを忘れ去り、無知の虜となって苦しんでいる。そこへ至高者の“子”が降りてきて人間の本質を啓示する。これによって人間は自己の本質に目覚め、“子”と共に天界へと帰還する--ごく大雑把に言うと、こういう宗教哲学がグノーシス主義である。何となく生長の家の教えと似ているようだが、結論を急いではいけない。

 グノーシス主義の「グノーシス」とは宗教的な知恵、叡知--仏教的には「悟り」に該当するものであろう。この知恵の内容は「人間の本質は至高者と1つ」と知ることである。それを得ることで人間は救われるとする。しかし、この「至高者」とは「神」とは必ずしも同じでない。なぜなら、キリスト教の「神」は天地創造をした「創り主」であるが、グノーシス主義では、こうして創られた宇宙は、感謝をもって受け入れられるものではなく、否定的に克服されなければならないからだ。
 
 グノーシス主義の影響を受けた『トマス』は、したがって「神の国」という表現を避けて「御国」とか「父の国」という言葉を使うことが多い。本テーマで前回提示した1節では、「父の国」は「待ち望んでいるうちは来ない」し、「ここにある」「あそこにある」などとも言えない。それは、目に見えないにもかかわらず「地上に拡がっている」と『トマス』は説く。ただ、「人々はそれを見ない」だけなのである。グノーシス主義では、人間は内在の叡知によって自己の至高性に目覚めることができるとするから、単に受動的に「待ち望む」のでは足りず、自ら「覚醒し」、自らの努力で「見る」ことが大切だということだろう。こういう点は、仏教とも相通じるのが興味深い。

 さて、それではグノーシス主義は、イエスとは無縁の非キリスト教的宗教思想であるかというと、そう簡単に言い切れないと私は思う。なぜなら、本テーマの前回で引用した『ルカ』の第17章20~21節は、キリスト教自身が「イエスの言葉」と認めているものだからだ。また、その際例示した「神の国」についての4つの喩えも皆、「神の国」を「現実に来るべき理想国家」として説いているとは思えない。そこでキリスト教は、これを終末論的にとらえるのだが、そうでない解釈も十分に可能であることを読者は知っておいてほしい。

谷口 雅宣

【参考文献】
○荒井献著『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、1994年)

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2006年11月16日

稔りの秋

 休日の木曜日なので、妻と2人で渋谷へ買い物へ出かけた。澄み切った秋晴れの1日で、渋谷の雑踏の中もなぜか気持よく早足で歩けた。もう何年もはいている革靴が傷んできていたので、替りを買おうと思っていた。私は普段、職場へ歩いていく時には柔らかい靴底のウォーキング・シューズをはいていくから、革靴をはくのは、生長の家の講習会で出張するときと、式典などの改まった機会だけである。それに、黒と茶の靴を交互にはくようにしているので、革靴は比較的長持ちしているはずだ。その茶色の革靴の足先が傷んでいた。恐らく夜、自宅の長い石段を上がるときに、足元がよく見えなくて引っかけてしまったのだろう。

 東急本店の靴売場で、妻の助言を聞きながら3~4足をはき比べたすえ、茶の革靴を買った。その後、2人で地下の食料品店へ行った。妻の買い物の中にブドウとクルミ入りのフランスパンがあった。帰宅後、秋の果物と買ったばかりのパンなどをテーブルの上に並べてみた。「稔りの秋」を演出しようとカキ、ナシ、ムベなどの果物のほかに、パンとお菓子を加え、ついでにワインの瓶も置いた。「絵になるか……」と思ったのである。私は秋が好きだとどこかに書いたことがあるが、今年は木々の紅葉・黄葉が遅く、2週間前に群馬県の渡良瀬渓谷へ行ったときも“空振り”の観が強かった。そして今、自宅の庭や表参道のケヤキの葉がようやく色づいてきている。そんなことも手伝って、「秋」を記録しておきたいという気持が高まっていたのだ。

 これらの前で、私はダンボールを切り始めた。11月5日の本欄で書いた日比野克彦氏の作品のことが、ここ2週間ほど気になっていたからだ。画材としてダンボールを使ってみたかった。どんな作品になるか見当もつかなかったが、とにかく何かができるだろうと思いながらゴリゴリとハサミで厚紙を切り、ボンドで貼り合わせ、アクリル・グワッシュで彩色した。日比野氏の作品は、淡彩でダンボールの味を引き出していたが、私は逆に、色をしっかりつけてみた。それはそれで成り立つと思ったからだ。
 
Breadfruits  その結果、できたものをここに掲げよう。どこかのレストランの看板のような絵になったが、「稔りの秋」は表現されているだろうか?
 
谷口 雅宣

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2006年11月15日

神の国

「狭い戸口」という題で書いた本欄の第2回で、『ルカ』には「狭い戸口(the narrow door)から入る者が救われ、神の国に入る」と説かれていることを示した。また、これに対応する『マタイ』の喩え話では、「狭い門(the narrow gate)は命にいたる門」だと説かれていることも書いた。そこで問題になるのが、「神の国」とは何かということである。新約聖書の福音書で「神の国」「天国」「御国」「父の国」などと呼ばれているものが何であるかは、宗教上きわめて重要であると思われるが、聖書自体にはその明確な説明はない。というより、イエスの時代以前のいわゆる旧約聖書中には「神の国」という言葉はあまり頻繁に見出せず、福音書の時代に入って数多く見られるようになるのである。にもかかわらず、「神の国」は数多くの喩え話として存在していても、明確な定義はない。

 いくつか例を示そう:

「そこで言われた、『神の国は何に似ている。またそれを何にたとえようか。1粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる』」(『ルカ』13:18-19)

「また言われた、『神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる』」(『ルカ』13:20-22)

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。……後略』」(『マタイ』13:24-25)

「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」(『マタイ』13:44)

 生長の家の信徒の間で恐らく最も知られている喩えは、『ルカ』の第17章20~21節にあるものだろう。この箇所は、古い文語体の聖書では「神の国は汝のうちにあり」と訳されていて、聖経『甘露の法雨』の「人間」の項に引用されている。口語訳の聖書では、こうある:

「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また“見よ、ここにある”“あそこにある”などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」

 しかし、これだけでは、神の国の明確な定義とは必ずしも言えず、数々の解釈の余地が残る。例えば、神の国とは一種の「悟りの境地」のようなものだとも考えられるし、神の国は空間的に位置が決められないが「我々の近くにある」とも解釈できる。これに対し、『トマスによる福音書』という文書のイエス語録には、この聖句に対応した興味ある記述があるのである。それを次に掲げよう:
 
「彼の弟子たちが彼に言った、『どの日に御国は来るのでしょうか』。(彼が言った)、『それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。“見よ、ここにある”、あるいは、“見よ、あそこにある”などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない』」

 この後半部分は、『ルカ』とは大いに違っている。しかし、「人々はそれを見ない」という言い方は、「狭い門」についての『マタイ』の喩え--「それを見いだす者が少ない」を想起させる。だから、「肉眼には見えない」という意味では、「狭い門」も「神の国」も「御国」も一致していると言えよう。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○荒井献著『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、1994年)

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2006年11月14日

宙のネズミ (4)

 チュー子のT製薬への引き渡しは、あっけなく終った。渋谷の裏通りにある若者向けのカフェで、田村は大学に出入りしている担当者と会い、その男と一緒だった50代の男と名刺を交換した。新薬開発部の「部長」という肩書きがついていた。その部長が、チュー子の入ったプラスチックケースをうやうやしく推し戴いて、担当者とともに夜の渋谷の雑踏の中へ消えていった。
 
 その翌日に、部長の名前で田村の銀行口座に500万円が振り込まれた。それは頭金で、その後の研究の進展にともなって「顧問料」が支払われる合意ができていた。T製薬への情報提供はすべて電子メールで行われ、電話や郵便は使わないことになっていた。メールの相手は新薬開発部の「T」という仮名の研究者だ。だから田村は、相手がどんな人物でどこにいるのか、皆目見当がつかなかった。
 
 チュー子を引き渡してから1カ月間は、Tからの問い合わせのメールが頻繁に来た。その内容から、田村はチュー子の様子と研究の進行具合が推測できた。写真も同時に送られてきたので、チュー子の腹に移植された“黒い帯”が胴全体にだんだんと広がっていく様子もよくわかった。T製薬は、チュー子から採った田村の頭皮をシャーレの中で培養し、増殖した分をチュー子の皮膚と入れ替えることで、白いマウスを黒いマウスへと作り変えつつあった。田村がTに指示した計画では、チュー子の全身が黒い毛で覆われた後に、その皮をはいで田村の頭に移植することになっていた。これによって、拒絶反応もなく黒々とした頭髪が再現できるはずだった。

 田村は、最終的にはマウスを使わずに、培養器の中だけで頭皮と頭髪を増やすことを目指していた。そうしないと、高価な実験動物の値段と、その世話に必要な人件費や無菌室の維持管理費など様々なコストが発生し、男性型脱毛症の治療としては一般人の手が届かないものになってしまうからだ。もう1つの問題は、「動物に移植した頭皮を人間にもどす」という方法が、一般の人から治療法として受け入れられるかという問題だった。すでに海外では、ブタの心臓や胃を患者に移植するという異種間移植は行われていたが、日本では評判がよくなく、実施例は少なかった。自分の体内に動物の臓器を入れるということを、感覚的に拒否する人が日本には多いのかもしれない。それなら、動物の体内で培養した皮膚に対しても、それがたとえ自分の皮膚であっても抵抗を感じる人が多い可能性があった。しかし現段階では、頭皮の増殖はマウスを使わずにうまくできる。が、そこからなかなか髪が伸びてこないのである。そして、チュー子の体に田村の頭皮を移植すると、不思議にも髪は伸びてくるのだった。

 この現象は、さほど驚くべきことではない、と田村は考えていた。それは、マウスの体内の化学物質の中に毛包を刺激して、髪を伸ばす働きをもつ成分があるからで、これが何であるかを探り当てれば、今回の研究目的はほぼ達成するはずだった。あとはその成分を人工的に合成し、培養器内でシート状に増殖させた頭皮の上に適量を垂らす。すると、髪の毛は一斉に伸び始めるに違いない。もしかしたら、この成分こそ“究極の毛生え薬”かもしれない。そうとなれば、もうチュー子を実験で痛めつけることも、自分の頭皮を剥ぎ取ることも、金輪際不要になるのだ--田村は、自分が記者発表の席上、被っていた帽子を脱いで黒々とした頭を見せ、それを昔の自分の写真と比較する様子を想像して、笑いを隠すことができなかった。
 
 そんなこんなで8月はたちまち過ぎ、9月も半ばに入った。K大のキャンパスには学生たちがもどって来ていた。そんなある日、田村はTから届いた電子メールを読んで衝撃を受けた。(つづく)

谷口 雅宣

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2006年11月12日

日本の政策はオカシクないか?

 今朝、横浜市で行なわれる生長の家講習会の会場へ向う車中、『朝日新聞』の第1面に載っていた記事を読んで、私は驚いた。1993年以来、最低輸入義務にもとづいて輸入してきた外国産米が貯まる一方なので、農水省はそれをバイオエタノールに転換して活用する方針を固めたというのである。売れ残って処分できない外国産米の保管費用が毎年200億円かかるから、それを燃料化して売れば費用削減になるという考えのようだが、記事には「売却価格は買い入れ価格を下回り、損失が出るのは確実とみられる」と書いてある。私がオカシイと感じるのは、余剰米をバイオエタノールに転換することに加え、この余剰米の量の多さだ。
 
『朝日』の記事によると、最低輸入義務にもとづき海外から輸入された米の在庫は、今年3月末の時点で203万トン(玄米換算)に上るという。この量たるや、日本人が主食として消費する国産米の量の4分の1にも達するそうだ。輸入先はアメリカ、オーストラリア、中国、タイなどで、年間約77万トンが義務として輸入されている。これがそのまま市場に出れば、我々消費者は米をもっと安価に味わうことができるのだが、それでは国産米を作っている農家に打撃を与えるというので、主食用は約10万トンしか市場に出さず、加工用と途上国の援助用にそれぞれ約20万トンを出し、残りの約27万トンが毎年、倉庫に貯まっていく計算になる。今回は、この余剰分を燃料に回す方針を固めたというわけだ。

 11月6日の本欄で、私はバイオエタノールの生産が抱える基本的な問題について述べたが、この農水省の計画では、まさにこの問題--農地を人間と自動車が奪い合う--を地で行くようなものではないか。『朝日』によると、政府が買い入れる輸入義務米の値段は、毎年300億円余になるという。1キロ当りの購入価格は30~60円となる計算だ。一方、バイオエタノールの値段をガソリン並みに抑えるためには、原料米の価格を15~20円にとどめる必要があるらしい。ということは、米1キロ当り15~40円の損失を出しながらバイオエタノールを作り、この損失分を税金で補うことになる。農水省は5年後までに、国内でのバイオエタノールの生産量を年間5万キロリットルにする方針で、このために工場建設にも補助金を出す考えという。ということは、これまた税金を注ぎ込んで外国産米を--人にではなく自動車に--消費させるということだ。

 上に書いたことを言い直してみよう。日本という国は、国内で農地を遊ばせ、海外から不要の米を輸入し、それを倉庫で眠らせて米の価格統制を行い、今後はあまった米を補助金を使って自動車に消費させようとしている。この過程で行われる「休耕田対策」「外国産米の輸入」「外国産米の保管」「エタノール工場の建設補助」「エタノール化の際の価格補助」のすべてが税金で賄われる。しかし、何のためにそうまでするのか? 農家を守るための税金の大量投入か? しかし、私はそれによって農家が発展するとはとても思えない。国産米の価格を人工的に高く維持することによって、現に農地は荒れている。また、外国産米を燃料に転換することは、世界の食糧の絶対量を減らすことになる。だからこれは、世界の米の値段を高く支える政策でもある。貧しい国の人々は、さらに厳しい環境におかれるだろう。つまり、この政策では、「日本は海外の貧しい人々から米を奪い、豊かな国民の税金を注ぎ込んで自動車に与える」ということにならないのか。
 
 バイオエタノールの生産と利用は、もちろん地球温暖化防止のためのものだ。しかし、「余剰外国産米の燃料化」はその目的に対する正しい手段とは思わない。外国産米の維持費が負担だというならば、もっと多くを海外への食糧援助に回し、あるいは国内市場に放出して消費者の便に供し、さらに税金のムダ遣いを減らすべきだ。バイオエタノールは、穀物から作らなくてもできることは、本欄でも度々書いてきた(今年5月13日6月13日同26日)。「車と人」あるいは「貧しい人と豊かな人」とを対立させる行政は、悪政としか言いようがないと思う。
 
谷口 雅宣
 

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2006年11月11日

『秘境』について

 かつて『光の泉』誌に連載していた「秘境」という小説が、このたび単行本になって日本教文社から発売された。奥付の日付は11月20だが、すでに配本ずみで読者は入手できるはずだ。290ページある本だから、もっと分厚くなると予想していたが、できたものを手に取ってみると案外薄い。長編の大作を書く作家で、400ページもある本の上下2巻組などを出す人がよくいるが、私にはそんなものを書く余裕もエネルギーもないだろう。今回初めて長編小説を書いてみて、そのことがよく分かった。また、小説の登場人物が“勝手に動く”という体験を、長編を書いて味わった。これは短篇にはない恐ろしさだが、反面、スリリングな面白さもある。恐ろしいのは、登場人物が当初の予定外の言動をして物語を破綻させる危険があること。面白いのは、そういう予想できない言動の中にこそ、真実が隠れているということだ。

 この小説のプロットを思いついたのは、ジョディー・フォスター主演の『Nell』(1994年)という映画のビデオ版を見ていた時だ。この映画は、アメリカ南部の山奥で独りで住んでいた老女が死んだというので、その家へ行った医師が、そこに娘が1人いることを発見するところから始まる。医師が驚いたのは、この娘が現代文明にまったく触れたことがなく、奇矯な行動をすることだった。そこで医師と大学の研究者が協力して、この娘を現代へ引きもどそうとする--そんな話だ。自然の中で不便だが自由に生きる人と、文明社会の中で、便利だが約束事に縛られて生きる人間とが、鮮やかな対照をなしていた。また、この映画は実話にもとづいているとも聞いた。その舞台を、現代日本へ移すとどうなるか? でき上がった小説は、『Nell』とはずいぶん違う雰囲気になったと思う。また、映画とは異なり、自然と人間との関係を正面から扱うことになった。

 小説の主舞台は、山形県の鶴岡市近辺である。一度も行ったことのない土地を舞台に選んだ私は、無謀だったかもしれない。取材のために2~3度現地を訪れ、この土地の生んだ作家、藤沢周平を読むことになった。冬に訪れたときは、自分の想像以上に厳しい土地であることを思い知った。雪が深くて、とても“現場”へ行ける状況ではない。そこでやむを得ず、写真を何枚も撮った。その中の1枚をもとにして、本のカバーになった絵を描いた。この絵は、今年の「聖光展」(生長の家芸術家連盟美術展)にも出したから、ご覧いただいた読者もいるだろう。雪に輝く月山を遠望した絵だ。小説の主要な物語は、夏の数カ月間で終ってしまうが、この土地の人々は厳しい冬も過ごさねばならないということを言外に示したかった。

 小説を書く上で難しかったことの1つは、方言をどうするかということだった。私はまったく庄内弁ができないから、庄内出身の知人に1から10まで添削をお願いして、会話部分を作った。その点では、この貴重な助っ人がいなければ、秘境の少女は小説の中で命を得なかったといえる。主人公は30代の新聞記者だが、この男とライバル社の記者との取材合戦の中に、自然に対する2つの考え方を対照させようとした。現代の日本人は、この2つの相矛盾する考え方の双方を心中にもっているはずだ。そして、時と場合によって、自分の都合のいいように2つを使い分けている。それらの調和的な共存が、地球温暖化時代の人間の生き方を示してくれる……などと期待している。が、実際の作品ではそうはうまくいかず、主人公はある重大な決断をしなければならなくなった。
 
『光の泉』誌での連載では、主人公がこの決断をしたところで物語は終っていた。しかし、このエンディングがあまりに唐突なのと、余韻と将来への期待がほしいという理由で、最後の1章を書き加えた。狙い通りになっているかどうか分からないが、ここには、新聞記者をやめてから、今はブロッガーをやっている私自身への励ましの気持も込められている。

 本書について、読者からのフィードバックをいただければ有難い。本欄にコメントをつけても、「本もよろしく」欄へのコメントでも、また私へのメールでも歓迎します。

谷口 雅宣

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2006年11月 9日

オーストラリアは今、

 アメリカの中間選挙でブッシュ大統領の共和党が大敗したことで、世界に新しい動きが出る可能性が生まれている。私は本欄などを通して、イラク戦争を含むブッシュ氏の対テロ戦争や地球環境問題の軽視などに苦言を呈してきたが、これほどハッキリ勝敗が決するとは予想しなかった。何か、かわいそうな気さえする。アメリカのイラク侵攻を支持してきたイギリスのブレア政権も今、国内からの猛烈な批判の矢面に立っている。それに引きかえ、日本ではブッシュ氏を全面的に応援した小泉政権が交替したことや、北朝鮮の核実験のおかげで、与党の責任問題はウヤムヤになってしまった。政治とは不思議なものである。

 ブッシュ氏を積極的に応援したもう1つの国は、オーストラリアである。この国は、かつてインドネシアのバリ島で起きた外国人対象のテロで、最も大きな被害を受けた国だから、対テロ戦争に協力する気持はよく分かる。しかし、京都議定書に参加しないなど、地球環境問題への消極的な姿勢の理由は、よく分からなかった。ところがその国で今、環境政策を見直そうとする機運が盛り上がりつつあるようだ。その最大の理由は、旱魃による被害らしい。この国はこれから夏を迎えるが、4年目の旱魃は国の経済に深刻な影響を与えている。

 11月8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、最近出された同国農業資源経済局(Bureau of Agricultural and Resource Economics)の報告書は、この国の農地の半分以上は「旱魃被害地」に指定されており、同国の3大作物である小麦、大麦、トウモロコシの収獲量は、今年は60%以上減少する見込みだというのである。このため、同国政府は110万豪ドル(約1億円)を農家に支援することをすでに発表しており、これで4年間の農家への補助金総額は2,700億円に達するという。補助金の増加よりさらに明らかな変化は、豪政府の地球温暖化に対する考え方だという。

 この件についての豪政府の従来の態度は、ブッシュ氏と同様に「人間の活動が温暖化を引き起こしているかどうか疑わしい」というものだった。また、中国やインドに排出削減の義務がない議定書には実効性がないとして、署名を拒否してきた。これに加えて、同国は化石燃料--特に石炭--の大口消費国であると同時に大口輸出国でもあるから、議定書への署名は経済発展を阻害すると考えていたのである。
 
 ところが、シドニーに本部を置くローウィー国際政策研究所(Lowy Institute for International Policy)の最近の調査では、豪国民は、今日の重要な脅威の第3位(1位はテロ、2位は核拡散)に地球温暖化を挙げており、調査に回答した人の68%は、この問題に対して「相当なコストが見込まれても、直ちに問題解決に取り組むべきだ」との考えをもっていることが明らかになっている。これに押されて、豪政府も従来の立場から温暖化対策へのシフトを始め、風力発電施設の認可や太陽光発電所の増設に力を入れるようになり、炭素の排出権取引にも関心をもちだしたという。

 オーストラリアの旱魃は、世界経済にも間接的な影響を与えている。世界の小麦の価格は最近、10年ぶりの高値をつけ、トウモロコシの値段も上がり続けている。これは、6日の本欄で書いたように、世界のトウモロコシの7割を生産しているアメリカ国内で、バイオ燃料への転換需要が続いているからだ。ちょうどその時期に、オーストラリア産のトウモロコシの半分以上が旱魃の被害で失われることが予測されているのである。穀物価格の上昇は、途上国の貧しい人々にとって残酷な影響を与えるのはもちろんだが、先進国の経済にとっても物価上昇による実質所得の減少を引き起こしかねない。穀物はパンや米の形で消費されるだけでなく、家畜や養殖魚の生産にも大量に使われる。コーンフレーク、牛乳、チーズ、ハム、牛肉、豚肉、ひき肉、魚肉、アイスクリーム、ヨーグルトなど、家庭の冷蔵庫に納められた食品のほとんどは、間接的に穀物から作られているのだ。

 地球温暖化による経済的損失は、すでに無視できない段階に達しているのである。
 
谷口 雅宣

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2006年11月 8日

狭い戸口 (2)

 この喩え話の文脈を示すためには、少し長くなるが、全文を『ルカ』から引用しなければならない。

「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、“ご主人様、どうぞあけてください”と言っても、主人はそれに答えて、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない”と言うであろう。そのとき、“わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました”と言い出しても、彼は、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ”と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある』。」(口語訳、第13章22~30節)
 
 この文章を読むと、全体から得られるのは、「主人」が家の戸を閉じてしまったならば、かつてその主人と一緒に飲み食いをし、また教えを聞いた人々であっても「神の国」に入ることはできず、かえって遠くのあらゆる方向から来た人々が先に「神の国」に入ることになる、という意味合いである。つまり、「神の国」に入るのは「大勢」か「少数」かが問題ではなくて、「狭い戸口」を見つけなければ、かつて近くにいた人々でも、遠くにいた人々に先を越されるということである。「近くにいた人々」が誰かと言えば、それは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」の近くにいて、しかも主人と「一緒に飲み食い」した人々であるから、これはユダヤ人のことを指すと解釈できる。そうすると、東西南北から来て「神の国で宴会の席につく」のは、ユダヤ人以外のすべての民族だと解釈できる。したがって、「狭い戸口から入れば、民族や文化の違いを超えて人は救われる」という意味になるのである。

 私は、この喩え話は生長の家の「万教帰一」の教えに通じるものだと考える。なぜなら、宗教上の救いは、ある特定の民族や文化を前提とせず、「狭い戸口から入る」という共通点から生じる、とこの喩えは教えているからだ。福音書の成立は紀元70~150年と考えられているから、国際化が進んだ現代ではなく、今から1800年も前の中東で、このような考えが述べられたという事実は驚くべきことである。
  
 それでは、多くの人々が見出せずにいる「狭い戸口」「狭い門」とは一体何だろうか? これは大いなる公案と言えるだろう。青山玄氏は、「ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になる」ことと解釈したが、私は「神の恵みを常に感じて感謝する」ことと捉えたい。『マタイ』の喩えの中に「それを見いだす者が少ない」と書かれていることに私は注目する。「狭い門」は、体の大きさに対して小さいから入りにくいのではなく、「見出す」のが難しいのである。また、『ルカ』の喩えの中の「狭い戸口」は、外に立って戸をたたいても追い返される人々がいる一方、別の人々は先に入ってしまうのである。これは「見つけにくい」というよりは、「入る条件を問われる」と考えるべきだろう。その条件は物理的なものではなく、心的なものであるに違いない。そう考えると、「狭い門」と「狭い戸口」に共通する入門の条件は、「心に何を見るか」という心的態度にかかると解釈できるのである。

 日常生活の中で「不足」を見て求める人、「恵み」を見て感謝する人。どちらが神の国で宴会の席につくのかは、もはや明らかだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年11月 7日

狭い戸口

 出張先の岐阜市で読んだ『中日新聞』(11月5日)に、青山玄氏が『ルカによる福音書』第13章にある次のようなイエスの言葉を解説していた:
 
「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着くであろう」

 この言葉は、「主よ、救われる人は少ないのですか」と訊いた人に対して、イエスが「狭い戸口からはいるように努めなさい」と答え、そのあとに続けて説いた喩え話の中に出てくる。青山氏は、この「狭い戸口」とは「自分を子供のように小さくすること」だと解し、上の聖句の意味を次のように解説する:
 
「己を無にして、神の御前に幼子のように小さくなり、ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になるなら、民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われ、神の国に入れてもらえるのではなかろうか」

 このような解釈は確かに可能だ。が、私はここで少し異なる見方を提示したい。

 この聖句は『ルカ』の第13章29節にあるのだが、よく知られているのは、これと似た喩えが『マタイによる福音書』の第7章13~14節にもあることだ。新約聖書の最初の4つの福音書は「共観福音書」と呼ばれていて、互いに呼応する似通った物語や喩え話がいくつも含まれている。多くの聖書研究者は、これらの福音書には共通する“元の文書”、あるいは“元の言い伝え”があって、それから派生したものが現在の4福音書だと考えている。とすると、イエスの喩え話を解釈する場合、似通った話が他の福音書にあるものは、複数の話の意味を総合的にとらえる方法が望ましいかもしれないのである。
 
 そう考えると、『ルカ』の話の意味を『マタイ』の話を参照しながら考察することができるだろう。そこで、『マタイ』にあるイエスの言葉を日本語訳で2種掲げる--

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(口語訳)
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(新共同訳)

 こちらは2つの訳がともに「狭い門」であるのに対し『ルカ』の方は、口語訳も新共同訳も「狭い戸口」という語を使っている。また、英語の Good News Bible という聖書でも、『マタイ』は the narrow gate であるのに、『ルカ』は the narrow door となっている。そこから想像すると、原語のギリシャ語では『マタイ』と『ルカ』では違う言葉が使われていたと推定できる。しかし、『ルカ』の喩え話では、この戸口は「神の国」への戸口であり、『マタイ』では「狭い門」は「命にいたる門」だと表現している。だから両者は、違う言葉を使いながらも、だいたい同じことを言っていると解釈できるだろう。すなわち、宗教的な魂の喜びにいたる道は狭く、そこを行く人は少ない、ということだ。
 
 それならば、なぜこの「狭い戸口」へ向って「人々が東から、西から、北から南からやって来て、神の国で食事の席に着く」のだろうか。青山氏は「民族や文化の違いを超えて、非常に多くの人が救われる」と解釈しているが、「非常に多く」という意味の言葉は、聖書の原文のどこにもない。『ルカ』の喩えが『マタイ』のそれと同じことを表現しようとしているならば、むしろ反対に、その戸口は「見いだす者が少ない」とはっきり書いてあるのである。
 
 私は、この『ルカ』の話は、青山氏の解釈から「非常に多く」を除いた意味を表現していると解釈したい。つまり、「狭い戸口」は見つけにくいが、そこへ入れば「民族や文化の違いを超えて人は救われる」ということだ。そう考える理由は、『ルカ』の喩え話の全体の文脈からを知れば分かるのである。
 
谷口 雅宣

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2006年11月 6日

バイオエタノールに問題あり

 10月31日の本欄で、イギリス政府の地球温暖化に対する深刻な予測について書いたが、日本ではこの話はあまり話題にならず、とても残念だ。安倍新政権は、北朝鮮のことばかり気にしているようで、“国益”を超えた問題については対応の仕方が分からないようにも思える。バイオエタノールの利用には意欲を示したそうだが、どれだけ本気か不明である。11月2日の『産経新聞』によると、安倍首相は1日、松岡農水相に対してバイオエタノールの生産目標「を600万 kl」として、増産に必要な態勢の整備を指示したという。この量は、国内の年間ガソリン消費量の1割に相当するらしい。が、現在の生産量はわずか「30 kl」で、農水省の平成2007年度予算の概算要求には、2010年度の生産目標を「5万 kl以上」として計算した額(106億円)しか含まれていない。これを一挙に120倍に引き上げようとしているのだろうか?

 自動車業界では、しかしその準備はすでに整っているらしい。6日付の『日本経済新聞』は、トヨタ自動車がエタノール対応の小型トラックを2008年に北米で生産・販売することを伝えているが、この記事には「トヨタはすでに全ガソリンエンジンで、エタノールの混合比率が10%までの燃料を使える体制を整えた」と書いてある。つまり、トヨタの新車は日本で販売しているものも皆、すでに「E-10」対応だということだろう。だから、安倍首相の今回の指示は業界の対応を見てから行なわれたのであって、“政治指導型”とは言いがたい。まあ、それでも当面の温暖化対策としては歓迎したい。

 しかし、本欄で何回も書いているように、現在考えられているバイオエタノールは、トウモロコシやサトウキビなどの作物(人間の食用)を主原料とするのだから、中・長期的には食糧問題を深刻化させる危険性があることを忘れてはならない。つまり、「自動車と人間とが農地を奪い合う」という関係が生じるのである。
 
 このことは、レスター・ブラウン氏が主宰するアースポリシー研究所(Earth Policy Institute)が3日付で発表したニュースレターに、「現在の問題」として書かれている。それによると、今年の世界の穀物の収穫量は19億6700万トンと推定されるが、今後1年間に世界で消費される穀物の推定量は20億4000万トンであり、7300万トン(4%弱)不足するそうだ。また、過去7年間のうち6年間、世界の穀物生産量は消費量に比べて“赤字”だったため、世界の穀物在庫は減少しつづけており、現在は57日分しか残っていないという。この数字は、過去34年間で最低だそうだ。
 
 その中で、トウモロコシなどの穀物が急速に燃料へと転換されている。2000年以来、世界の穀物消費は平均して毎年3100万トンずつ増えており、このうち燃料として消費される穀物の量は毎年2400万トン近く増えている。自動車燃料用のエタノール生産に使われる穀物は、アメリカ1国だけで毎年平均700万トン近く増え続けている。その内訳を見ると、2001年には200万トンだったものが2006年は1400万トンと、最近の急増ぶりが目立つ。
 
 ブラウン氏によると、このアメリカ国内の“エタノール・ブーム”は、政府の政策転換の効果ではなくて、石油の高騰によってバイオエタノールの価格競争力がついたからだという。これにより現在、トウモロコシを燃料に転換する工場の新設・増設が続いている。『The World Ethanol and Biofuels reports』(世界エタノール、バイオ燃料レポート)によると、アメリカ国内では、昨年10月下旬から1年間で、54ものバイオエタノール製造所の建設が着工された。完成までには大体14カ月が見込まれるから、来年末までにはこれらのほとんどが操業を開始する。そうなると、アメリカのエタノール生産力は40億ガロンとなり、毎年3900万トンの穀物--そのほとんどがトウモロコシ--が燃料生産に回されることになる。

 ブラウン氏は、これらのデータや今後のエタノール製造所の新設を含めて考慮すると、世界の穀物在庫を減少させずに来年の穀物需要に応えるためには、世界全体で「1億3600万トン」の穀物の増産が必要であるとしている。ところが、世界の穀物生産量は2000年以降、毎年2000万トンぐらいしか増えていないのである。昨今のような異常気象が続く中で、急激な穀物の増産はほとんど考えられない。したがって来年以降、世界の穀物価格の高騰が予測されるのである。

 穀物価格の上昇は、途上国の貧しい人々の生活に直接影響する。先進国の我々の乗る車が彼らの食糧を奪う、という関係は決して好ましいものではない。温暖化対策にはそういう視点が欠かせないと思う。
 
谷口 雅宣

【参考文献】

詳しいデータは、ここにある。

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2006年11月 5日

ダンボールで芸術を!

 岐阜市で行なわれた生長の家講習会からの帰途、岐阜市宇佐にある岐阜県美術館へ寄った。そこでは奇妙な題の展示会が行なわれているという知識しかなかったが、とにかく行ってみることにした。その題とは、
 
  HIBINO DNA AND…「日比野克彦応答せよ!!」

 というのである。
 
 私は、日比野克彦という人間を知らなかったが、妻は名前を知っていて「グラフィック・デザイナーな何かよ」と教えてくれた。美術館へは普通、自分の知っている画家なり、芸術家の作品を見に行くのだが、今回は「知らない人でもいいか……」と思ったのである。2人が美術館の入口へ近づいたところで、細かいタイルを一面に貼りつけた船のような構造物がいくつか置いてあった。よく見ると、タイル貼りではなく、色のついたダンボールの小片を、構造物を覆うように貼りつけてある。その構造物もまた大きめのダンボールを切って組み立てたものだ。私は「フーーン」と思いながら、それらを眺めた。なぜか不思議な存在感があるのである。
 
 館内に入ると、もっと驚いた。構造物に貼ってあったのと同じような色つきのダンボールの小片が、床一面に貼ってある。また、貼らずに散らばっているものもある。床は……廊下もホールも、すべて茶色のダンボール敷きである。その床に座り込んで、何人もの人が、色つきダンボールの小片を、自分の思い思いのパターンを考えながら貼り込んでいる風情である。何か、中学か高校の文化祭の準備中といった雰囲気である。私たちが近づいていくと、床で作業中の女性の1人が顔を上げて「おもしろいですから、やってみませんか?」と誘うのだった。なるほど面白そうなのだが、何しろ時間の余裕があまりない。私たちは、目的の展示会をしている場所へと向った。
 
 展示会場へ入って、私は3回目の驚きを味わった。ダンボールを壁一面に貼ったモノトーンの中で、橋や、電車、自動車、航空機、ジャケット、ビル、配管、重機などが、存在感をもって自己主張している。それらのほとんどがダンボールで作られ、彩色は控えめだ。また、手作りの感じを出すためか、形が微妙にゆがんでいる点にも温かみを感じる。木の額縁の中に入った作品もあるが、「絵画」という感じではなく、「物」としての存在感は彫刻に近いが、彫刻と絵画の中間の味わいがある。ダンボールという素材を使って展開される多彩で、多様な表現にしばらく堪能できた。

 東京へ帰ってからインターネットを調べると、日比野氏の公式サイトも今回の美術展のサイトもちゃんとある。そこに掲げられた彼のプロフィールは、こうだ--「日比野克彦(アーティスト)1958年岐阜市生まれ。東京芸術大学大学院修了。在学中にダンボール作品で注目を浴び、国内外で個展・グループ展を多数開催する他、舞台美術、パブリックアートなど、多岐にわたる分野で活動中。近年は各地で一般参加者とその地域の特性を生かしたワークショップを多く行っている」

 これらのサイトでは、彼の作品の一部が見れるので、興味ある方には「一見」をお薦めする。

 谷口 雅宣

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2006年11月 4日

報道記事は意見表明?

 まず、2日前の本欄での結論を再掲しよう--「世界が私に現れてくる」のではなく「私が世界に現れてくる」のである。この文章は、ある人の周りの“世界”は、その人の考え方や信念に沿うような外貌を呈して現れてくる、という意味である。この考え方は、客観的世界が人間の外側にひろがっているとする常識的世界観とは、少しズレている。世の中の常識では、「Aさんがこう言った」という事実は、現場にいた何人もの人が口を合わせて「その通りだ」と証言すれば、それは客観的事実として認められ、恐らく裁判所もそう認定して「歴史的事実」となるだろう。しかし、そうであったとしても、「Aさんがこう言った」ことが肝腎のAさん本人にとって事実でないことはありえるかもしれない。その場合、次の2つの原因が考えられる:①Aさんに表現力が不足している、②証言者の理解が間違っている。
 
 面倒くさい言い方をしてしまったが、自民党の中川昭一・政調会長が「日本も核武装を検討すべし」と発言し続けていることに関連して、今日の『産経新聞』と『朝日新聞』の報道があまりにも違うのに私は驚いている。私はすでに10月17日の本欄などで、「日本の核武装は現時点での選択肢の中にはない」ことを書いている。今回、私が驚いたのは、中川氏の発言の内容ではなく、それを伝える2つの新聞の書き方の違いだ。まず、『産経』の記事から。

「自民党の中川昭一政調会長は3日、佐賀市内で講演し、北朝鮮が戦争を仕掛ける能力を充実させているとした上で『行動を起こさせないためどうすればよいのか。核の議論も含め、いま議論しなくていいのか』と述べ、日本の核保有をめぐり議論が必要だとの認識をあらためて示した。」

 この記事では、中川氏は従来の主張を繰り返したことになっている。次に、同じ講演について『朝日』はこう書く。
 
「自民党の中川昭一政調会長は3日、佐賀市内で講演し、『私は核保有の議論をしろと言っているのではない』と述べた。そのうえで、北朝鮮が日本の原子力発電所を核ミサイルで攻撃する場合などを例示して『撃たれないようにするにはどうしたらいいのかという議論をなぜしないのか』と語り、核攻撃に対する防衛論の必要性を強調した。」

『産経』の記事の見出しは--「議論いま必要」中川氏改めて表明
『朝日』の記事の見出しは--「核保有の議論しろと言ってない」中川昭氏、発言を修正

 読者は、どちらの記事を信じるだろうか? 私は、どちらも“半分だけ”信じる。つまり、中川氏は昨日、佐賀市内で講演をして、日本の核武装を含めた対北朝鮮防衛戦略を検討することを促した--そういうことだろう。中川氏は先月の15日以来、自民党の政調会長という立場にありながら同様の主旨のことを言い続けているから、これまでの政府の政策だった「非核3原則を見直そう」と言っているのに等しい。『産経』はその意図に賛成しているが、『朝日』は反対している。結局、新聞記事は--とりわけ、政治や政策に関する記事は--純粋な「事実の報道」ではなく、「事実に解釈を加えた意見表明」なのである。
 
 ところで、その肝腎の「核保有の議論」の方だが、中川氏の講演を聞いていない私には確定的なことは言えないが、もし『朝日』の記事にあることが事実ならば、北朝鮮の脅威として「日本の原子力発電所への核攻撃」を例に引くのは如何なものか。通常兵器による軍事作戦においてはそういう選択肢がないことはないが、核の“第1撃”としては、「軍事基地」か「都市」のいずれかが攻撃目標になるはずだ。アメリカの攻撃を恐れている北朝鮮としては、まず日本国内の米軍基地を叩くだろう。こうなれば、対米戦の開始である。そうでなく、東京や大阪に“第1撃”が発射されても、結果は同じである。日米関係が良好で日米安保条約が機能している限り、北朝鮮は対米戦を覚悟せずに日本を攻撃することはできない。それとも中川氏は、「日米安保条約だけでは不安だ」というご意見なのか。私は議論のもっと先を聞きたいのだが……。

谷口 雅宣

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2006年11月 3日

「読ませ大賞」って何?

 本欄から生まれた単行本『小閑雑感』シリーズを発行している世界聖典普及協会の人から、興味ある話を聞いた。このほど「出版文化産業振興財団(JPIC)」がインターネット上で始めた「読ませ大賞」という本のランキング・サイトに、私の最新刊『小閑雑感 Part 6』が載っているというのである。もちろん全国ランキングにあるのではないが、「50~59歳」の「関東地方」の「男性」「会社員」が推薦する本のランキングでは「第1位」というのだから驚いた。私自身、そのサイトへ行って確認したが、何回確認してもちゃんとそこにある。ウーンと唸って考え込んでしまった。理由がわからないのである。
 
 私はこのサイトの名前をまったく知らなかったが、調べてみると「Books.or.jp」という書籍検索サイトと連動していて、「文字・活字文化の日」である10月27日を広める読書推進キャンペーンの一環としてJPICが新しく始めた企画のようだ。本の読者による投票(ハガキとインターネット)でよい本の順位を決め、インターネット上の“口コミ効果”で、良書が全国に広がっていくことが目的だという。投票期間は、インターネットが10月27日~大晦日まで、ハガキでの受付は10月27日~11月30日までという。

 こういう立派なサイトに自分の本がランクされたのだから、唸っていないで素直に喜んだらいいのかもしれない。しかし、私にとっては、闇の中で鼻をつままれたような感じだ。なぜなら、『小閑雑感 Part 6』の奥付の発行日は11月1日で、今日は3日である。もちろん、本そのものは少し前から流通していて、10月29日の和歌山市での生長の家講習会では100部以上頒布された。しかし、この本は一般書店では入手が難しい。できたてホヤホヤの本で、しかも一般に流通していないものが、書籍ランキングの上位に登録されるというのは、どうも解せないのである。まことに申し訳ない言い方になるが、一時は、サイトのソフトウエアにバグがあるのかもしれないと考えた。

 翻ってこのサイトの企画自体を考えれば、なかなか面白いと私は思う。しかし、いくつか問題も考えられる。例えば、ある宗教団体では、信者が特定の有名書店へ行ってその指導者の本を何冊も買うことで、書店でのランキングを上げるなどの不自然な方法を採っているらしい。こうすれば、その書店での“棚”や“平積み”の領域を確保できるだけでなく、新聞・雑誌には有名書店での売れ筋ランキングを発表する欄もあるから、二重三重の宣伝効果が生まれる。それと似たようなことが、このサイトで行なわれる危険性はないのだろうか? 大教団が全国の信者を動員して、指導者の著書を“よい本”としてこのサイトに登録し、ランキングを上げるのを防ぐ対策はできているのだろうか? 
 
 同じような心配は、政治家の著書や政治問題に関する本についても考えられると思う。ことに選挙が近くなると、安倍さんの本と小沢さんの本がランクの上位で競争したり、朝日新聞社の本と扶桑社の本がランクを競うかもしれない。今後、このサイトで発表される投票結果を見れば、ランキングの自然・不自然はいずれ判明するだろう。「ブルータスよ、お前もか!」にならないことを祈るばかりだ。

谷口 雅宣

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2006年11月 2日

“私”が世界に現れる

 休日を利用して、妻と2人で群馬県みどり市まで足を延ばした。山の紅葉を見たかったのと、同市東町にある富弘美術館へ行きたかったためだが、紅葉にはまだ早かった。が、富弘美術館の周囲では、早く紅葉するドウダンツツジなどが植えられていて、赤黄に染まった美しい木々を楽しむことができた。ご存じの読者も多いと思うが、ここは詩画家の星野富弘氏の故郷・東町に建てられた美術館で、草木湖畔の深い自然に囲まれている。星野氏は、群馬大学在学中は体操の選手だったが、中学の教師となってクラブ活動を指導中に事故で頚髄を傷め、首から下の全身が麻痺してしまう。が、そのハンディーを克服して、口に筆をくわえて絵や文を描く詩画家になった。美術館は1991年に東村立で建てられて以降、来館者が絶えず、2005年には500万人を達成した。自然の草花や動物を主体とした水彩画と、人生を凝視した詩文の組み合わせが人々を惹きつけている。

 私は、9月下旬に横浜の赤レンガ倉庫であった氏の詩画展を見て以来、口と首だけで絵を描くという驚異的な能力に感動し、氏の人生観にも共感を覚えていた。美術館では、横浜の展覧会の時よりはるかに多くの展示品を見ることができたので、ありがたかった。「絵を描く」という人間特有の行為の背後にある、深い精神性を教えられたように思う。
 
「世界を見ているとき、世界を見ている眼は、見えない。絵を描いているとき、描いているという働きは、絵の中に描かれえない」

 この文章は哲学者、大庭健氏の『善と悪--倫理学への招待』(岩波新書、2006年)からの一節である。私はこの本をJR高崎駅の書店で買って、この時ちょうど読んでいた。しかし、上の一節に至ったとき、先を読み進めなくなっていた。著者の言おうとしていることが分からなくなったからである。上の文章は、即物的に解釈すればまさにその通りである。私たちの見る世界の中には、自分の眼(眼球など視覚を生み出す器官)は見えない。また、絵を描いているときも、その行為自体を絵の中に描くことはできない。ここまではいい。しかし、そのあとに大庭氏が続ける次のような言葉が、私にはとても難解に感じられた。
 
「世界を見ているとき、見ている眼も、見るという働きも、見えている世界の中には現れてこない。しかし、そうだとしたら同様に、世界が私に現れてくるとき、その私もまた世界の中にはいない、のではないだろうか?」

 私は星野氏の水彩画を見ながら、「これは、星野氏でなければ見えない世界だなぁ~」と感じていたのである。「これが星野富弘の世界だ」と言い直してもいいかもしれない。これをさらに言い直せば、「星野氏が描く世界の中には、氏の視点も、そこから迸る氏の思いもよく表れている」ということになる。この私の感想は、大庭氏の上の文章とは真っ向から対立するのだ。もちろん、私の感想の意味は即物的ではない。これに対して、大庭氏の言わんとすることは即物的なことかもしれない。例えば、「人間は自分の本当の顔を見たことがない」というような意味だ。しかし、その程度のことを哲学者が何ページも使って言おうとするはずはない、と私は思った。では、上の文章はいったい何を言おうとしているのか?

 こういう話は、哲学の分野では「認識論」と呼ばれている。本欄では7月22日同24日9月14日などで、これと関係のある話を書いた。生長の家では「(現象)世界は心の反映」と考えるから、大庭氏の言葉の文脈で「世界」と「見ること」との関係を表現すれば、次のように言えるだろう--

「世界を見ているとき、見ている眼(視点)も、見るという働きも、見えている世界の中に十分反映されているのである。そうだとしたら同様に、世界が私に現れてくるとき、その私もまた(肉体が見える見えないにかかわらず)世界の中にいるのである」

 つまり、大げさに表現すれば、「世界が私に現れてくる」のではなく「私が世界に現れてくる」のである。

谷口 雅宣

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2006年11月 1日

宙のネズミ (3)

 K大では、実験動物を研究室の外へ持ち出す場合は、届出が義務づけられていた。ましてや大学の外部へ移動させるとなると、特別の許可が必要だった。にもかかわらず、この夜の田村の行動である。彼は、大学関係者に知られないように、わざわざ夏休みの夜を選んだのだ。
 
 この日が来るまで、彼は何度も迷った。T製薬の誘いに乗らず、学内の規則どおりに実験を続ける選択肢はあったが、その場合、チュー子の生存は諦めねばならなかった。チュー子を使った幹細胞の研究は、田村にとって言わば“裏の仕事”だった。本業に対する趣味と言ってもいいかもしれない。ただし、少し後ろめたい趣味だった。問題は、本業の研究が重要な段階にさしかかっていて、手が抜けなくなっていることだった。“表の仕事”である癌の研究が多忙になってくれば当然、“裏”は後回しになる。

 しかし、動物を使う研究は目が離せないのだ。誰かがそばにいて動物に餌を与え、飲み水を取り替えたり、温度や湿度調節もしなければならない。大体の実験環境はコンピューターで制御されてはいたが、「餌やり」や「観察」までは機械にできない。通常、そういう仕事は大学院の学生にさせるのだが、“裏の仕事”を他人には任せられなかった。大体、腹にだけ黒い毛が生えているマウスは、目立ちすぎる。好奇心にあふれた学生は何の研究か質問するだろうし、きっと「腹の毛だけをどうやって黒くするか?」などと細かいことも訊かれる。相手が大学院生ともなれば、いい加減な答えではすまされないだろう。

 実験動物は、栽培種の植物のようなもので、人間が世話をしなければすぐ弱ってしまう。特にこのマウスは、自然の抵抗力である免疫系の機能が取り除かれている。田村が目を離せば、チュー子が衰弱して死んでいくのは時間の問題と思われた。チュー子を手放すことはつらかった。それは、超免疫不全マウスという希少価値のある実験動物であるというだけでなく、自分の研究成果の一部を体現した一種の“作品”であり、さらに言えば、自分の肉体の小さな“延長”でもあったからだ。
 
 田村にとって、学内の倫理規定や研究上のルールは尊重すべきものであっても、絶対的な規範ではなかった。それは、違反しても法律で罰せられないという意味だけではない。倫理や道徳は結局、相対的な判断基準で、人や環境や時代によって変わっていく。これに対して、学問が解き明かそうとしている真理は、時代や環境や個人の判断を超えて常に正しい。いや、正しくなければならなかった。それは言わば、絶対的な正当性をもっているのだ。だから、絶対的正当性を得るために相対的正当性である倫理や道徳に従わねばならないとするのは、本当は不合理なのである。しかし、人間社会は、価値観の異なる個人の集合体だから、法律以外にも各種のルールを設けて各人の行動を規制しないと、無秩序となり大混乱する。そんな混乱を未然に防ぐという便宜上の要請から作られたのが倫理や道徳である。それらは、社会の混乱防止のためには守らなければならないが、混乱しない程度の不倫理や不道徳は、真理発見のためには容認されるべきなのだった。
 
 そういう考え方からすれば、チュー子を学外へ持ち出し、製薬会社に引き渡したうえで自分の研究を実質的に継続させることは、真理発見のためには許容されるべきだろう--と田村は考えた。つまり彼は、自分のノウハウと引き換えに、T製薬に自分の毛髪の培養を継続してもらうつもりだった。ただ問題なのは、学内の規定に違反していることだった。チュー子の外部持ち出しを大学に正式に要請しても、倫理委員会では承認されないことが十分予測された。しかし倫理とは相対的なものである。絶対的な真理を探究するてめには、知らなくてもいい人にその方法を知らせる必要はないのだ、と彼は考えた。
 
 田村は構内の駐車場へ着くと、チュー子の入ったプラスチック・ケースをトランク内の冷蔵装置の中に収め、T製薬社員との約束の場所へと向った。 (つづく)
 
谷口 雅宣

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