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2006年11月30日

宙のネズミ (5)

 Tからのメールは、次のようなものだった。

 --田村先生には、これまで当社への数多くの御指導を賜り誠にありがたく、何と言ってお礼を申し上げていいかわかりません。ここ1カ月ほどの研究で、毛母細胞に関する貴重なデータを蓄積することができ、マウスを使わない発毛と頭皮育成が可能となる一歩手前まで来たとの感触をもっていました。ところが2日前、当社の研究棟に落雷があり、一時停電したことが原因で、田村先生の検体を移植したマウスに異常が起き、昨夜半までに死亡しました。その間、田村先生のK大の研究室には何度かお電話したのですが、お留守でした。在室の方に伝言をお願いすることも考えましたが、当方の身分を明かすことで先生にご迷惑がかかると思い、差し控えました。
 先生と当社との合意では、当社の過失の有無にかかわらず、実験動物が死んだ場合には、それを先生にお返しすることになっております。つきましては、火急速やかに当社の営業担当に連絡いただきますよう、お願い申し上げます。
 
 田村は急いでメールを閉じると、パソコンをシャットダウンさせながら、今後の自分の行動について目まぐるしく思いを巡らせていた。チュー子が移転先で死ぬ可能性について、彼は考えなかったわけではない。しかし、一部上場の企業の無菌室に入るのだから、自分の研究室の片隅に隠されているよりも、チュー子の衛生環境は良好であるはずだった。だから、マウスの通常の寿命である3年とは言わないまでも、1年半ぐらいは生きて、自分の髪を育て、かつ有用な実験データを提供してくれると思っていた。それが、わずか3ヵ月ほどで死んでしまうなど……。

 田村の頭には「損害賠償」の4文字が浮かんだ。しかし、訴訟することで自分が学内の倫理規定に違反したことが公になることを思い出し、唇を噛んだ。絶対的価値である真理発見のためには、相対的価値である倫理を犠牲にすることはやむを得ないという、自分の論理を法廷で認めさせることができるならば、それも1つの選択だろう。しかし田村には、この論理を裁判官の前で展開することに、何か気が引けるのだった。自分に言い聞かせて納得している論理なのに、裁判の中で維持できるかどうか自信がないのだった。

 2日後の午後、田村はT製薬の営業担当と渋谷で合った。チュー子を渡した時の若者向けのカフェだった。営業担当者は、しじゅう平身低頭の姿勢を崩さずに謝るばかりで、田村はその男がチュー子の死に直接関係がないことを知っているだけに、そんな彼を責める気持が起こらなかった。それより、今後のT製薬との付き合いも考えて、「今回の失敗の埋め合わせをしてくださいよ」などと揶揄する自分を発見して、逆に驚いていた。
「それはもう、精一杯のことは……」
 と、担当者は這いつくばるような恰好で頭を下げた。
 そして、
「お荷物になりますが……」と言いながら、田村の前に包みを1つ差し出し、「実験動物と、先生の使われた運搬用のケースです」と言った。茶色の包装紙に覆われている包みの、中は見えない。
 田村は、
「そうですか」と言って、無造作にそれを受け取った。

 帰宅後も、田村はその包みを開ける気になれなかった。彼にとって、実験動物の死骸を見ることは、自分の犯した罪の証拠を突きつけられるようで、心苦しいのだった。だから大学では、死骸の処理は助手にやらせる。しかし、チュー子に限ってはそれができないので、車の冷蔵装置の中に入れておいた。その気になった時に、土中に葬ってやるつもりだった。
 
 翌日、昼休みに銀行へ寄った田村は、自分の口座にT製薬からの入金があるのを確認した。「12」のあとに「0」が6つ並んでいる。「まさか」と思いながら何度も確認したが、やはりゼロの数は6つだった。毎月100万円の入金があったが、今回は1桁多いのである。担当者の言った「精一杯のことは……」という言葉が田村の頭をかすめた。
--そんなつもりじゃなかったのに……。
 と、彼は不本意の思いを募らせたが、その一方で、科学者としての論理的思考がもどってきた。企業が大金を払うということは、それなりの成果があったからである。また、事後に訴訟されないためかもしれない。万一訴訟されたとしても、成果に見合う対価を支払っているのといないのでは、企業イメージに大きな違いが出てくるだろう。ということは、あの実験は彼らにとって失敗ではなかったのだ。そうだ、チュー子の現状をきちんと確認しておかなければならない--田村はそう考え、家路を急いだ。

 冷蔵装置の中の包みからは、茶色の包装紙をむくと2つ折りにしたメモ用紙が出てきた。中には、走り書きでこうあった。
 
「実験動物は、当社開発の培養液に浸かっています。死後も髪の毛は伸び続けているようなので、そのままの形でお返しします」

 田村は、恐るおそるプラスチック・ケースを目の高さに差し上げて、中を見つめた。暗くてよく見えないので、西日の当る玄関先へ持っていった。それでも中は黒々としている。思い切って中を開けてみた。すると、ケースの蓋を押し上げるようにして、髪の毛の束が盛り上がった。田村はそれを指先でつまみ、上へゆっくりと引き上げる。すると、液体を滴らせながら、拳大ほどの黒い髪の毛の塊が現れた。田村は思わず、その黒い塊を玄関先の石の上に置き、後ずさりした。

 これがチュー子の変わりはてた姿なのだった。人間の頭皮を移植され、懸命に毛を伸ばし続け、マウスとしての姿形が見えなくなっている。チュー子の栄養を吸い取りながら成長しているのは、ほかならぬこの自分の髪の毛なのだ。T製薬の培養液が、それを可能にしているに違いない。これで自分は、黒い毛が豊かに生えた頭に変貌することができるだろう。
 
 田村は立ち上がって、ビルの並ぶ凸凹の地平線に今まさに沈もうとしている太陽を見つめた。
「オレは悪魔だ。オレは悪魔だ!」という声が、心中から湧き上ってくるのを抑えることができなかった。
(了)

谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

合掌ありがとうございます。
 
すばらしい 作品 「宙のネズミ」を ありがとうございます。
最後のへんで 〈懸命に毛を伸ばし。。〉こみ上げてくるものがあり本当に 感動しました。 


再拝           亀田 文   

投稿: 亀田 文 | 2006年12月 1日 10:57

亀田さん、

 お誉めいただき、光栄です。
 女性読者からはヒンシュクをかう作品かと思っていましたが、そうでなく嬉しいです。今後とも、ヨロシク……。

投稿: 谷口 | 2006年12月 1日 16:19

谷口雅宣先生

合掌ありがとうございます。

自分が花に水をあげ ペットに えさをあげている 日常で 自分のほうが それらのものより 高等であると 思ってしまうのです。チュー子は 自分の体を実験に使わないでとか なぜ無駄にしたとか いいません。。。 いろんな方法で このように 世界は みな ひとつにつながっていると 教えていただける 私たちは 幸せです。

ところで 先生、 題名の 宙のネズミ 宙は どんな意味があるのですか?さしつかえなけれれば 教えてください。

再拝 亀田 文 

投稿: 亀田 文 | 2006年12月 2日 06:33

亀田さん、

>>ところで 先生、 題名の 宙のネズミ 宙は どんな意味があるのですか?さしつかえなけれれば 教えてください。<<

 特に深い意味はありません。むしろダジャレだと思ってください。
「宙」を音読みすればネズミの鳴き声になるじゃありませんか!

投稿: 谷口 | 2006年12月 2日 11:43

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