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2006年11月14日

宙のネズミ (4)

 チュー子のT製薬への引き渡しは、あっけなく終った。渋谷の裏通りにある若者向けのカフェで、田村は大学に出入りしている担当者と会い、その男と一緒だった50代の男と名刺を交換した。新薬開発部の「部長」という肩書きがついていた。その部長が、チュー子の入ったプラスチックケースをうやうやしく推し戴いて、担当者とともに夜の渋谷の雑踏の中へ消えていった。
 
 その翌日に、部長の名前で田村の銀行口座に500万円が振り込まれた。それは頭金で、その後の研究の進展にともなって「顧問料」が支払われる合意ができていた。T製薬への情報提供はすべて電子メールで行われ、電話や郵便は使わないことになっていた。メールの相手は新薬開発部の「T」という仮名の研究者だ。だから田村は、相手がどんな人物でどこにいるのか、皆目見当がつかなかった。
 
 チュー子を引き渡してから1カ月間は、Tからの問い合わせのメールが頻繁に来た。その内容から、田村はチュー子の様子と研究の進行具合が推測できた。写真も同時に送られてきたので、チュー子の腹に移植された“黒い帯”が胴全体にだんだんと広がっていく様子もよくわかった。T製薬は、チュー子から採った田村の頭皮をシャーレの中で培養し、増殖した分をチュー子の皮膚と入れ替えることで、白いマウスを黒いマウスへと作り変えつつあった。田村がTに指示した計画では、チュー子の全身が黒い毛で覆われた後に、その皮をはいで田村の頭に移植することになっていた。これによって、拒絶反応もなく黒々とした頭髪が再現できるはずだった。

 田村は、最終的にはマウスを使わずに、培養器の中だけで頭皮と頭髪を増やすことを目指していた。そうしないと、高価な実験動物の値段と、その世話に必要な人件費や無菌室の維持管理費など様々なコストが発生し、男性型脱毛症の治療としては一般人の手が届かないものになってしまうからだ。もう1つの問題は、「動物に移植した頭皮を人間にもどす」という方法が、一般の人から治療法として受け入れられるかという問題だった。すでに海外では、ブタの心臓や胃を患者に移植するという異種間移植は行われていたが、日本では評判がよくなく、実施例は少なかった。自分の体内に動物の臓器を入れるということを、感覚的に拒否する人が日本には多いのかもしれない。それなら、動物の体内で培養した皮膚に対しても、それがたとえ自分の皮膚であっても抵抗を感じる人が多い可能性があった。しかし現段階では、頭皮の増殖はマウスを使わずにうまくできる。が、そこからなかなか髪が伸びてこないのである。そして、チュー子の体に田村の頭皮を移植すると、不思議にも髪は伸びてくるのだった。

 この現象は、さほど驚くべきことではない、と田村は考えていた。それは、マウスの体内の化学物質の中に毛包を刺激して、髪を伸ばす働きをもつ成分があるからで、これが何であるかを探り当てれば、今回の研究目的はほぼ達成するはずだった。あとはその成分を人工的に合成し、培養器内でシート状に増殖させた頭皮の上に適量を垂らす。すると、髪の毛は一斉に伸び始めるに違いない。もしかしたら、この成分こそ“究極の毛生え薬”かもしれない。そうとなれば、もうチュー子を実験で痛めつけることも、自分の頭皮を剥ぎ取ることも、金輪際不要になるのだ--田村は、自分が記者発表の席上、被っていた帽子を脱いで黒々とした頭を見せ、それを昔の自分の写真と比較する様子を想像して、笑いを隠すことができなかった。
 
 そんなこんなで8月はたちまち過ぎ、9月も半ばに入った。K大のキャンパスには学生たちがもどって来ていた。そんなある日、田村はTから届いた電子メールを読んで衝撃を受けた。(つづく)

谷口 雅宣

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