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2006年11月 1日

宙のネズミ (3)

 K大では、実験動物を研究室の外へ持ち出す場合は、届出が義務づけられていた。ましてや大学の外部へ移動させるとなると、特別の許可が必要だった。にもかかわらず、この夜の田村の行動である。彼は、大学関係者に知られないように、わざわざ夏休みの夜を選んだのだ。
 
 この日が来るまで、彼は何度も迷った。T製薬の誘いに乗らず、学内の規則どおりに実験を続ける選択肢はあったが、その場合、チュー子の生存は諦めねばならなかった。チュー子を使った幹細胞の研究は、田村にとって言わば“裏の仕事”だった。本業に対する趣味と言ってもいいかもしれない。ただし、少し後ろめたい趣味だった。問題は、本業の研究が重要な段階にさしかかっていて、手が抜けなくなっていることだった。“表の仕事”である癌の研究が多忙になってくれば当然、“裏”は後回しになる。

 しかし、動物を使う研究は目が離せないのだ。誰かがそばにいて動物に餌を与え、飲み水を取り替えたり、温度や湿度調節もしなければならない。大体の実験環境はコンピューターで制御されてはいたが、「餌やり」や「観察」までは機械にできない。通常、そういう仕事は大学院の学生にさせるのだが、“裏の仕事”を他人には任せられなかった。大体、腹にだけ黒い毛が生えているマウスは、目立ちすぎる。好奇心にあふれた学生は何の研究か質問するだろうし、きっと「腹の毛だけをどうやって黒くするか?」などと細かいことも訊かれる。相手が大学院生ともなれば、いい加減な答えではすまされないだろう。

 実験動物は、栽培種の植物のようなもので、人間が世話をしなければすぐ弱ってしまう。特にこのマウスは、自然の抵抗力である免疫系の機能が取り除かれている。田村が目を離せば、チュー子が衰弱して死んでいくのは時間の問題と思われた。チュー子を手放すことはつらかった。それは、超免疫不全マウスという希少価値のある実験動物であるというだけでなく、自分の研究成果の一部を体現した一種の“作品”であり、さらに言えば、自分の肉体の小さな“延長”でもあったからだ。
 
 田村にとって、学内の倫理規定や研究上のルールは尊重すべきものであっても、絶対的な規範ではなかった。それは、違反しても法律で罰せられないという意味だけではない。倫理や道徳は結局、相対的な判断基準で、人や環境や時代によって変わっていく。これに対して、学問が解き明かそうとしている真理は、時代や環境や個人の判断を超えて常に正しい。いや、正しくなければならなかった。それは言わば、絶対的な正当性をもっているのだ。だから、絶対的正当性を得るために相対的正当性である倫理や道徳に従わねばならないとするのは、本当は不合理なのである。しかし、人間社会は、価値観の異なる個人の集合体だから、法律以外にも各種のルールを設けて各人の行動を規制しないと、無秩序となり大混乱する。そんな混乱を未然に防ぐという便宜上の要請から作られたのが倫理や道徳である。それらは、社会の混乱防止のためには守らなければならないが、混乱しない程度の不倫理や不道徳は、真理発見のためには容認されるべきなのだった。
 
 そういう考え方からすれば、チュー子を学外へ持ち出し、製薬会社に引き渡したうえで自分の研究を実質的に継続させることは、真理発見のためには許容されるべきだろう--と田村は考えた。つまり彼は、自分のノウハウと引き換えに、T製薬に自分の毛髪の培養を継続してもらうつもりだった。ただ問題なのは、学内の規定に違反していることだった。チュー子の外部持ち出しを大学に正式に要請しても、倫理委員会では承認されないことが十分予測された。しかし倫理とは相対的なものである。絶対的な真理を探究するてめには、知らなくてもいい人にその方法を知らせる必要はないのだ、と彼は考えた。
 
 田村は構内の駐車場へ着くと、チュー子の入ったプラスチック・ケースをトランク内の冷蔵装置の中に収め、T製薬社員との約束の場所へと向った。 (つづく)
 
谷口 雅宣

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コメント

副総裁先生

この小説は専門的なことが沢山入っておりますが、これを調べるだけでも大変な作業ですね。
でも、大きな興味と言うか、そこにこの小説の使命があれば「大変」とは思わないのかもしれませんね。

これからどのような展開になってゆくのか楽しみです。

投稿: 佐藤克男 | 2006年11月 5日 17:41

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