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2006年11月 8日

狭い戸口 (2)

 この喩え話の文脈を示すためには、少し長くなるが、全文を『ルカ』から引用しなければならない。

「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。すると、ある人がイエスに、『主よ、救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、“ご主人様、どうぞあけてください”と言っても、主人はそれに答えて、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない”と言うであろう。そのとき、“わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました”と言い出しても、彼は、“あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ”と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある』。」(口語訳、第13章22~30節)
 
 この文章を読むと、全体から得られるのは、「主人」が家の戸を閉じてしまったならば、かつてその主人と一緒に飲み食いをし、また教えを聞いた人々であっても「神の国」に入ることはできず、かえって遠くのあらゆる方向から来た人々が先に「神の国」に入ることになる、という意味合いである。つまり、「神の国」に入るのは「大勢」か「少数」かが問題ではなくて、「狭い戸口」を見つけなければ、かつて近くにいた人々でも、遠くにいた人々に先を越されるということである。「近くにいた人々」が誰かと言えば、それは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」の近くにいて、しかも主人と「一緒に飲み食い」した人々であるから、これはユダヤ人のことを指すと解釈できる。そうすると、東西南北から来て「神の国で宴会の席につく」のは、ユダヤ人以外のすべての民族だと解釈できる。したがって、「狭い戸口から入れば、民族や文化の違いを超えて人は救われる」という意味になるのである。

 私は、この喩え話は生長の家の「万教帰一」の教えに通じるものだと考える。なぜなら、宗教上の救いは、ある特定の民族や文化を前提とせず、「狭い戸口から入る」という共通点から生じる、とこの喩えは教えているからだ。福音書の成立は紀元70~150年と考えられているから、国際化が進んだ現代ではなく、今から1800年も前の中東で、このような考えが述べられたという事実は驚くべきことである。
  
 それでは、多くの人々が見出せずにいる「狭い戸口」「狭い門」とは一体何だろうか? これは大いなる公案と言えるだろう。青山玄氏は、「ひたすら神の愛と憐れみにすがる謙虚で素直な心になる」ことと解釈したが、私は「神の恵みを常に感じて感謝する」ことと捉えたい。『マタイ』の喩えの中に「それを見いだす者が少ない」と書かれていることに私は注目する。「狭い門」は、体の大きさに対して小さいから入りにくいのではなく、「見出す」のが難しいのである。また、『ルカ』の喩えの中の「狭い戸口」は、外に立って戸をたたいても追い返される人々がいる一方、別の人々は先に入ってしまうのである。これは「見つけにくい」というよりは、「入る条件を問われる」と考えるべきだろう。その条件は物理的なものではなく、心的なものであるに違いない。そう考えると、「狭い門」と「狭い戸口」に共通する入門の条件は、「心に何を見るか」という心的態度にかかると解釈できるのである。

 日常生活の中で「不足」を見て求める人、「恵み」を見て感謝する人。どちらが神の国で宴会の席につくのかは、もはや明らかだろう。
 
谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生:

「狭い戸口」「狭い門」とは「神の恵みを常に感じて感謝する」ことであり、それを実践するとその戸口が開かれ「民族や文化の違いを超えて人は救われる」というお話ありがとうございました。先日、北加で日本語練成会があったとき、祈り合い神想観の実修の際、ある方が交通事故で首の骨を挫傷し半年近く全く動かすことが出来なかったことが原因で首が動かせず、動かそうとすると極度の痛みがあり、癒されることを希望されましたが、祈りが始まる寸前に自分の希望を変えて、同僚のご主人がひき逃げされ、首の骨を損傷し同様の状態で入院しているので、自分のことを頼むのは止めて、その方の為にお祈りして欲しいと希望されました。練成会中、感謝を深めていった結果、閉会式後の「使命行進曲」を合唱しているとき、突然、痛みが無くなり首が自由に動くようになりました。また、この練成会では日本語を理解しないブラジル人の方が日曜日に参加されました。彼女も決して多くない収入から定期的に寄付されて、『Truth of Life』誌を感謝愛行しておられたら、昨年10月、息子さんがビザの関係で国外退去させられたのに、今回、入国時にアムネスティのプログラムが適応され、無事母子で暮らせることになったと話されました。感謝はどの民族にも共通の「狭い戸口」を見いだす道だと痛感します。(川上拝)

投稿: Mario | 2006年11月10日 04:11

Mario さん、

 よい話を聞かせていただき、感謝申し上げます。
 感謝、愛行……大切ですね。

投稿: 谷口 | 2006年11月11日 17:45

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