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2006年11月29日

ネコの実相 (2)

 禅書である『無門関』の第1則は「趙州狗子」である--
 
 趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性ありや也無や。州云く、「無」。
 
 この公案は「イヌの子に仏性ありや?」という問いかけであるから、ネコの実相に関する直接的な答えを示していないかもしれない。しかし、イヌもネコも人間の愛玩動物であり、人間に最も近い動物であるという点では、「ネコに仏性ありや?」との問いかけに相通じるものである。そしてこの中で、趙州和尚は明確に「無」と答えているのである。公案は、なぜこのような答えが発せられたか、を考えることである。

 ごくごく単純に「イヌに仏性などない」と考えたとしよう。そうなれば、人間の都合によってイヌをどのように扱おうが、どのように利用しようが問題ないという結論が出るかもしれない。その場合、大量のイヌを人間の利益目的に利用する企業家が出てくることが考えられる。11月28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、アメリカの製薬会社「ブリッジ製薬」(Bridge Pharmaceuticals)が仕事の一部を中国に外部委託しているという記事が載っている。いわゆる「アウトソーシング」である。その理由は、アメリカやヨーロッパ、インドなどでは動物愛護団体が動物実験施設の増設や拡張に反対している一方、中国には科学者が多く、その人件費は安く、動物愛護団体の活動も政府の支配下で盛んでないからだという。同社のCEO、グレン・ライス氏(Glenn Rice)は、「この国には大量のイヌやサルがいますから、もし我々がここに臨床実験前の施設を建設すれば、製薬産業の力学を変えることができます」と言う。ライス氏はまた「ここでは動物実験は政治問題になっていませんから、大きな製薬会社でも中国への移転を大々的に考えています」とも言う。
 
 この記事によると実際、ノバルティス(Novartis)、ファイザー(Pfizer)、エリ・リリー(Eli Lilly)、ロッシェ(Roche)などの大手製薬会社も、中国国内に研究開発部門の設置を計画しているらしい。中国政府はバイオテクノロジーの振興に熱心で、北京近郊に生命科学パークを建設して海外企業の誘致を進めている。ブリッジ製薬も5年間の無税措置を享受しているという。因みに中国は今、実験用のサルとイヌの世界最大の供給国だという。

 こういう問題で善悪の判断が難しいのは、安価な薬は貧しい人々の救いになるということと、安価な実験動物は、珍しい病気の治療薬開発を可能にするとうい点だ。前者はあまり説明の必要はないだろうが、後者は、製薬会社の新薬開発の動機と深く関わっている。つまり、製薬会社は薬の販売によって開発コストをまかなう必要があるが、それにはある程度の数の薬が売れなければならない。ということは、発生頻度が少ない病気に対する治療薬の開発は、あまり熱心になれないということだ。
 
 こうして、今後、世界の製薬会社は安価な実験動物を求めて中国に進出していくことになる。そして、イヌたちの阿鼻叫喚の図が大陸に展開する。これが本当に「趙州狗子」の公案に対する答えなのだろうか?

 問題は、イヌやネコには仏性はないが、人間には仏性があるから、優れた人間の目的のために劣った動物を道具化することは一向に構わない……などと、人間と動物とを“対立物”として捉える考え方だろう。仏性のあるはずの人間が、大量の動物を殺すことに何の良心の呵責も感じず、「さあ、どんどん殺せ」と言っている姿を想像してほしい。そういう人間の「仏性」とはいったい何なのか? そんな心で--つまり、人間とイヌとを対立物として見る心で--「イヌに仏性があるか?」と尋ねたとしたら、趙州和尚はきっと「無」と言ったに違いないのである。仏性のみが仏性を引き出すのである。

 谷口 雅宣

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コメント

 ネコに仏性ありと見えるのは、人間の仏性が写っているということなのですね。私も、ネコを飼っていますが、飼い主の気持ちを写すということは、色々な場面で感じられます。

 実家にいたころ、生長の家本部前に捨てられていた猫を、引き取って、飼いました。ピーという雄ネコでしたが、母が仏壇前で聖経を読むとき、しばしば、その腰に寄りかかって、あたかも聖経にうっとりと聞きほれているように寝ていました。とにかく、聖経を読むと寄ってくるネコでした。

 次に、平成元年から、「ネコ」という名の雌ネコを十年間、飼いました。「ネコ」も、聖経読誦と神想観の時間が好きなようで、神想観の間、私のひざに乗るのがお気に入りでした。「ネコ」は人の気持ちがよくわかる本当に良くできたネコでした。

 今の飼い猫は、雄ネコで、5歳です。このネコが1歳くらいのころ、質問をされた方のネコのように、布団におしっこをして、本当に困りました。わが家では、雄ネコの場合、縄張りを示すためおしっこをかけるマーキングの習性が一因だと思ったので、かわいそうでしたが去勢しました。そして、しばらくのあいだは、人が布団に入る直前まで布団を敷かないようにして、見張っていたので、今はまったくその習性はなくなりました。

 ネコは、人間と違って、おねしょではなく、人が見ていないときを見はからって、布団の上で、背筋を伸ばして、うれしそうに、おしっこをします。ですから、寝てしまえば、その心配はありません。また、その行動に出ようとしたとき、言葉で叱れば、だんだん理解するようになり、人が見ているところではその行動をしなくなります。

 それから、前の二匹は、比較的かわいがられて育ったようで、誰にでも愛想のいいネコでしたが、今のネコは、幼いころ生きるか死ぬかの大変な苦労をしたらしく、人間を極端に怖がるネコなので、うんとほめて、自信を持たせるようにしているうちに、最近は、飼い主限定ですが、のびのびと甘えるネコらしいネコになりました。そうなると、人間を困らすようなことは、減ります。

 けれども、先生がお書きくださっているとおり、人間の尺度でこうさせようと思っても、そのようにならないことは、たくさんあります。ですから、人間の側がネコの習性を知って、折り合うことになります。

 何かご参考になればと思って書かせていただきました。

投稿: ETSUKO SAGARA | 2006年11月30日 11:56

SAGARAさん、

 “ネコ博士”の登場、大歓迎です!

>>ネコに仏性ありと見えるのは、人間の仏性が写っているということなのですね。<<

 そういう捉え方もできますが、ネコがネコらしくあって、そのまま仏性である、という捉え方は如何でしょうか? 布団の上で小便をするネコそのままで人間に何かを教えてはいないでしょうか?

 実際のネコたちの生き様について、大変参考になりました。ありがとうございます。

投稿: 谷口 | 2006年11月30日 18:15

“ネコ博士”という、立派な称号をいただき、ありがとうございます。私一人の知識は、“ネコ研究員”くらいが適当と思いますが、ネコに詳しい周囲の人々の知識を借りれば、少しは、ご期待に添えるかも知れません。

>> そういう捉え方もできますが、ネコがネコらしくあって、そのまま仏性である、という 捉え方は如何でしょうか? 布団の上で小便をするネコそのままで人間に何かを教えてはいないでしょうか?<<

ネコがネコらしくあって、そのまま仏性である。公案でしょうか?

たしかに、飼い主の中には、ネコを人間のように扱う人があり、野良ネコの扱いとの差が、非常にアンバランスに感じられます。先生が、書いていらっしゃるように、実験に使われる動物も、もともと、ペットと同じイヌやネコなのに、その扱いのあまりの差には、心が痛み、考えさせられます。動物実験は、必要最低限であってほしいと、願わずにいられません。

猫話の続きで恐縮ですが、聖経大好きの“ピー”は、幼いころは真っ白な美猫でしたが、成猫になってからは、連日、なわばり争いで、他のネコとのけんかが絶えず、ヤクザのように傷だらけ迫力ネコになりました。晩年には、実子らしい3匹の雌の子猫を連れ帰り、彼女らは、実家で飼われることになりました。父親としての、責任を取ったのでしょうか。(笑)

天使のようにおだやかな顔で、神想観のひざに乗っていた“ネコ”は、外では、巧みにネズミやスズメを捕るハンターで、捕ったネズミを進呈に来たり、庭掃除をしたら、食べ残しのスズメの頭が、転がっていたりしました。スズメには、恐ろしい存在だったことでしょう。

今思えば、彼・彼女は、外に出入り自由だったので、外で野生の本能を満喫して、家の中では、人間にかわいがられる、おとなしい姿だけを見せていたのだと思います。

一方、引っ越してから飼い始めた、今のネコは、諸事情で、外に出すことが出来ず、家の中だけで生活しています。つまり、彼にとって、野生の本能を、家の中で発散するしかないのです。そう考えると、“布団への小便”は、そのにおいによって、なわばりを主張し、伴侶を獲得して子孫を残すための、重大な行為であったのかと、想像できます。だから、いくら叱りつけても、「何が悪いんだ」と言う顔をして、やめなかったのでしょう。

ネコという野生とつき合うことは、私たちに、ほんとうにたくさんのことを教えてくれます。仏性ではなく、現象の話かも知れませんが、彼らの生と死は、人生に豊かさを与えてくれました。

今日、ネコのことを考えていたら、『総務部総務課山口六平太』という漫画の、「お別れ会」という短編が、眼に止まりました。会社の中で飼われていた“ソーム”というネコの死をめぐる社員たちの思いが描かれ、結論は、やはり“ネコはネコらしく”扱われることがネコの幸せ、というテーマのように思われました。

とりとめのない話になりまして、すみません。

先生の、ネコがネコらしくあって、そのまま仏性であるというお言葉から、色々と、思い出したり、考えを深めたりさせていただきました。ありがとうございました。

                       ネコ研究員SAGARAより

投稿: ETSUKO SAGARA | 2006年12月 2日 22:10

合掌ありがとうございます。

先日講習会にて先生の「ネコQ&A」を聴かせていただき、

「ネコが布団におしっこをしたら、『良いネコ  ね』と思えばいい」

というご指導に、とても感動しました。

その際ふと、子供の頃に読んだ雅春先生の「おしゃかさまの童話」を思い出しました。

「毒蛇と行者」という話しで、
1人の仏様の教えを悟ったと思った(思ったというところがミソだと思いました)行者が、
生きとし生けるものはみな仏の子であると思い、毒蛇を可愛がって飼うのです。

ところが、行者が1週間家を留守にします。
帰宅したところ、毒蛇がエサと間違えて行者に 咬みついてしまい、
行者は毒が回って死んでしまう…という、
幼心には驚愕のストーリー展開(笑)でした。

帰宅して、この「おしゃかさまの童話」を読み返して確認しましたら、最後に、
 
 …生きとし生けるものが平等だということは、
 生きる命はみんな神さまの力がやどっているの であるから、
 どれも皆同じように尊いということである。
 しかし形の世界では、その神さまの力のあらわ れ方がみんなちがう。
 
 平等にして差別ありの真理を知らねばならぬ。
 人間はみんな尊いが、人と時と所との三つの相 応ということを知らねばならぬ。
 この相応をえたときにすべてのものが大調和す るのである。
 蛇を座敷にあげるというようなやり方では、
 この行者のように、ついに毒蛇に咬み滅ぼされ てしまうものです。

との御言葉がありました。

副総裁先生のご指導の通り、ネコはネコらしく自然体で、使命を生きるのが素晴らしいのですね。

以前純子先生が、どちらかの講習会かで、
「生命の実相」の「蛇が蛙を飲み込まなかった話し」をされた後、

「その後、この蛇が蛙を今飲み込まなかったとしても、このあと蛇はまた別の蛙を食べて、空腹を満たさなければならない現実がある。」

というようなお話をして下さったことも、重ねて思い出しました。

実相と現象について、
人間と動物の関係について、
生まれもった使命を生きる大切さについて、
大変勉強させていただきました。

ありがとうございます。

投稿: teruko tago | 2006年12月 3日 12:10

犬や猫等、動植物に仏性があるかどうかについては、自己流ですが、考えを述べさせていただきます。
仏性を慈悲(愛)あるいは生成化育の徳(生み育む徳)と定義すれば、人間同様、動植物にも「仏性はある」と断言しても良いと思います。
ただ、人間が動植物と違うのは、安岡正篤氏が指摘されているように、「敬するこころ」が人にして始めて発したということかなと感じております。人間のみが生成化育の徳、愛(神)について敬するこころ、つまり、仏性(神仏)を覚知することができる存在であるとの定義です。
仏性について敬の部分までが含まれるとすれば、「猫には仏性は無い」ともいえましょうが、わたくしは、愛の部分のみで十分で、人間を含め「すべての動植物に仏性が備わっている」と考えるほうを好みます。

投稿: 松上浩士 | 2006年12月 9日 15:47

仏性が慈悲(抜苦与楽)と考えますと、一切の存在に仏性が存するとも考えられると思います。神佛は、この世界、宇宙に偏在するのですから、犬や猫、植物いな道端の小石にも仏性は存在するという考えもまんざらバカにはできないかもしれません。
日本はすでに超高齢化社会です。犬や猫による「癒し」は仏性のあらわれと考えてもよいかもしれません。

投稿: 松上浩士 | 2006年12月 9日 16:00

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