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2006年11月23日

秋季大祭が終る (2)

 以下は、22日に行われた生長の家の秋季記念式典で、私が行なったスピーチの概要である。

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 本日は秋季大祭、ならびに谷口雅春大聖師御生誕と生長の家総裁法燈継承記念の式典に全国各地から、また海外からも多くの同信の皆様がお集まりいただき、誠に有り難く感謝申し上げます。毎年この時期になると日本では紅葉が美しくなりますが、日本列島は南北に長い形をしているので、北海道では秋が終り雪が見られても、九州ではまだ紅葉も最盛期とは言えないようです。つい数日前、滋賀県での生長の家講習会が大津市で行われましたが、会場周辺はまさに絶好の紅葉のシーズンでした。その紅葉を楽しもうと大勢の人々が全国から集まってきているようで、周辺のホテルは満室であり、京都駅は大混雑でした。
 
 こうして人間は、大自然の変化とその中に展開する美しさを限りなく愛する、ということが分かるのであります。しかしその一方で、人間は大自然の美を楽しむために道路や橋を建設したり、船を走らせたり、航空機を飛ばしたりすることで、大自然を自ら破壊している。このことはずいぶん前から指摘され、自然保護運動も全世界で行われているのですが、それでも全体としては、地球の環境悪化は着々と進んでいるのであります。ここに我々人間は、自然界との正しい関係を成立させる必要が、緊急に求められているのであります。そうしなければ、地球温暖化がますます進み、地球環境が不可逆的に変化する恐れがあるという指摘がなされています。「不可逆的」とは「もう後へもどれないほど根本的に」という意味です。
 
 これは、私がすでにブログにも書いたのですが、最近、イギリス政府が発表した「スターン・レポート」という環境問題への深刻な評価は、真剣に受け止められるべきものです。それによると、「気候変動をこのまま放置しておけば毎年、世界中でGDPの5~20%が失われていく」というのです。この値は、世界大戦や世界恐慌に匹敵する経済的損害であるから、二酸化炭素排出量の削減に向かって、ただちに「勇気をもって決定的行動」(bold and decisive action)をとらなければならないとしています。スターン報告書は、「我々の今後10年間の活動によって、今世紀後半と来世紀にかけて、経済や社会活動が重大な混乱を引き起こされる可能性を有しており、その混乱の規模は、20世紀前半に起こった世界恐慌と世界大戦に匹敵するものである」としています。だから、世界は炭素税、温室効果ガスの排出規制、炭素取引などの方法を使って、「低炭素の地球経済」(low-carbon global economy)へと急いで転換していかねばならないというのです。
 
 私は先ほど、人間は「自然を愛するけれども、同時に自然を破壊する」という不思議な行動をすると申し上げました。今回の秋の大祭に合わせて、私は『秘境』という長編小説を出版させていただきましたが、この中で、私は人間のこの不思議な生き方について考えてみようと思いました。この小説では、自然に対する2つの考え方を対立的に描いています。1つは、主人公の塚本敬三のもつ自然観で、これはいわゆる「自然主義」的な考え方です。人間は自然の一部だから、自然破壊をすることは自己破壊につながる。だから、できるだけ人間の欲望を抑え、自然と人間との共存共栄をはかるべしとする考え方です。

 これに対して、ライバル記者の金森達二は、「人間は自然の一部である」ことには賛同しますが、だから自然界を大切に保護すべきとは考えずに、「人間の自然破壊も自然の活動の一部だ」と捉えるのです。つまり、自然界は人間の力を使って自分自身を更新していると考えるのです。それは、かつて恐竜が地上に君臨したときのように、人間が環境破壊と自己増殖によって奪い合いを行い、お互いを殺しあって絶滅していく。その廃墟の中から、より高度な知性ある生物が進化する。自然はそのように弱肉強食が常態だから、自然破壊は自然な過程だ、と考えるわけです。

 小説の中では、どちらの考えが正しいか結論ははっきり書いていません。しかし、これまで私がいろいろの所で言ったり、書いたりしてきたことをご存知の方は、結論を推測することは容易だろうと思います。

 この小説に出て来る2つの自然観は、互いに大いに矛盾しているのですが、恐らくどんな人の心の中にも、バランスの違いこそあっても、両方とも存在しているのではないでしょうか。しかし、私たちは今日、この2つから二者択一をしなければならないのではありません。人類のこれまでの努力と技術開発によって、地球温暖化を進行させずに経済発展をする道は開かれています。もう議論する時期は過ぎているのです。なぜなら、地球温暖化を防ぐ技術はすでに目の前にあり、私たちの利用を待っているからです。それが利用されないのは、従来の技術に比べて少し不便で、少し値が張るからです。しかし、その「少し」を私たちは自分以外の人々や生物への「布施(物施)」だと思えばいい。その「少し」を大調和の世界実現のための「投資」だと思えばいい。次世代への「愛行」だと思えばいい。

 私はもう何年も前に、太陽光発電で日本の電力需要をすべて満たすためには「四国の3分の1」の面積の発電パネルがあればいい、という話を紹介したことがあります。しかし現在、太陽光発電の効率は当時の倍ぐらいになっています。また、これに風力を加えるとどうでしょうか? 最近、新聞に載った数字を紹介しましょう。11月19日の『朝日新聞』に編集委員の竹内敬二さんが次のように書いていました。

「1世帯の年間電力消費量は約3600kWh。3kWの太陽光発電設備があれば、量的にはほぼ間に合う。費用は200万円強だ。風力発電はどうか。風車の直径が約56mの大型風車なら出力1千kW。稼働率を20%とすると年間発電量は175kWh、約480世帯分だ。建設費は2億~3億円。480世帯で割れば高くても約62万円。適地さえあれば、地方の集落なら地区に1基あれば間に合う計算だ。太陽は昼しか照らないし、風は吹いたり吹かなかったりだから、もちろん電力会社の送電網のバックアップは必要だ。しかし、家庭消費だけなら、自然エネルギーで自給するのも夢ではない。将来は工夫してこうした分散型の電気を増やしたい」
 
 ここにあるデータは、私たちに何を示しているでしょうか? それは、現在の技術を正しく活用すれば、そして日本人全体がその気になれば、火力発電所も原発も使わないクリーン・エネルギー社会は実現可能ということです。問題は、我々が自己周辺の狭い、短期的な利益のみを考えていて、中・長期的な、我々の子や孫の世代、人間以外の生物や生態系のことを自分の問題として考えない、そういう“観点”“ものの見方”に捉われていることです。そして、自然界は弱肉強食の生存競争の世界だと考えて、他に「与える」ことは自分が失うことだという唯物論に陥っていることです。つまり、我々人間は自分で自分の可能性を制限してしまっている、一種の“自縄自縛”の状態にあるのです。それを破るためには、やはり理論やイデオロギーだけでは足りなくて、私は「信仰の力」が必要だと思います。宗教運動が、人類を自縄自縛から解放する必要があるのです。

 最後に、「日々の祈り」の中から『「生存競争」の迷いを去る祈り』の一部を引用して、私の言葉を終りたいと思います。
 
 (祈りの言葉は省略)

 環境運動は一種の「物施」でありますが、それが本当に効果を発揮するためには、どうしても「法施」としての伝道が必要です。また、法施のためには、神の御心を聞く神想観が必要です。大いに信仰を深めて、人類光明化はもちろん、人類と生物との共存共栄の実現に邁進しようではありませんか。

谷口 雅宣

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