神の国 (2)
『トマスによる福音書』は、いわゆる“正典(Canon)”の中に含まれない「外典」の1つで、グノーシス主義者の手になるものと言われている。この文書は「福音書」という名がついてはいるが、新約聖書の4福音書とは異なり、114の語録から成っている語録集である。成立年代は2世紀の中頃(荒井献氏)と推定され、主としてユダヤ人キリスト教者の間に伝承されてきたものをまとめたもので、共観福音書(『マルコ』『マタイ』『ルカ』の3つ)とは別の伝承系列に属するらしい。
新約聖書学では、『マタイ』と『ルカ』の双方に共通した語録集の形式の資料があると考え、それを「Q資料」と呼んできた。『トマス』は、このQ資料とかなりの部分が重なっていると考えられている。また、『トマス』の語録には『ヨハネ』(ヨハネによる福音書)と部分的に似た箇所があることも、興味深い。これは『トマス』と『ヨハネ』が思想的に近いからだと考えられる。荒井氏によると、『トマス』の語録にある「4福音書には存在しない、“知られざるイエスの言葉”の多くは、このグノーシス主義の立場から創作され、イエスの口に入れられた」とされる。
では、グノーシス主義とは何か? この質問に的確に答えるのは難しいが、荒井氏によると、これは元来キリスト教とは無関係に成立した独自の宗教思想で、「人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという認識を救済とみなす」(pp.102-103)ものである。むずかしい表現なので、噛み砕いて言いなおすと、現在の宇宙(現実世界)は否定的に乗り越えるべきものであり、それを達成した至高者が存在するが、その至高者と同じものが人間の本来の自己だ、と考えるのである。人間は本来至高者としての本質をもっているが、現実世界においてはそのことを忘れ去り、無知の虜となって苦しんでいる。そこへ至高者の“子”が降りてきて人間の本質を啓示する。これによって人間は自己の本質に目覚め、“子”と共に天界へと帰還する--ごく大雑把に言うと、こういう宗教哲学がグノーシス主義である。何となく生長の家の教えと似ているようだが、結論を急いではいけない。
グノーシス主義の「グノーシス」とは宗教的な知恵、叡知--仏教的には「悟り」に該当するものであろう。この知恵の内容は「人間の本質は至高者と1つ」と知ることである。それを得ることで人間は救われるとする。しかし、この「至高者」とは「神」とは必ずしも同じでない。なぜなら、キリスト教の「神」は天地創造をした「創り主」であるが、グノーシス主義では、こうして創られた宇宙は、感謝をもって受け入れられるものではなく、否定的に克服されなければならないからだ。
グノーシス主義の影響を受けた『トマス』は、したがって「神の国」という表現を避けて「御国」とか「父の国」という言葉を使うことが多い。本テーマで前回提示した1節では、「父の国」は「待ち望んでいるうちは来ない」し、「ここにある」「あそこにある」などとも言えない。それは、目に見えないにもかかわらず「地上に拡がっている」と『トマス』は説く。ただ、「人々はそれを見ない」だけなのである。グノーシス主義では、人間は内在の叡知によって自己の至高性に目覚めることができるとするから、単に受動的に「待ち望む」のでは足りず、自ら「覚醒し」、自らの努力で「見る」ことが大切だということだろう。こういう点は、仏教とも相通じるのが興味深い。
さて、それではグノーシス主義は、イエスとは無縁の非キリスト教的宗教思想であるかというと、そう簡単に言い切れないと私は思う。なぜなら、本テーマの前回で引用した『ルカ』の第17章20~21節は、キリスト教自身が「イエスの言葉」と認めているものだからだ。また、その際例示した「神の国」についての4つの喩えも皆、「神の国」を「現実に来るべき理想国家」として説いているとは思えない。そこでキリスト教は、これを終末論的にとらえるのだが、そうでない解釈も十分に可能であることを読者は知っておいてほしい。
谷口 雅宣
【参考文献】
○荒井献著『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、1994年)
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コメント
なるほど。 するとグノーシスなるものは、私自身に身についているものと同じですので、きわめて、キリスト教の核心となっていると実感できます。
投稿: LISA | 2007年1月25日 00:36