宙のネズミ
なまあたたかい夜だった。
田村宙は、K大の研究室から白い上衣のポケットを押さえながら出てきた。上衣はボタンをかけていないから、一歩踏み出すたびに長い裾が風に揺れる。上衣の下はTシャツとジーンズというラフな恰好だったが、歩き方は爪先から前に出るような摺り足で、体の上下動を極力抑えている様子だった。
大学構内には電燈は多く点いていなかったが、隣接する10階建ての白い建物から反射する街の光が、構内のアスファルトの道をぼんやりと浮かび上がらせていた。田村は、歩きながらゆっくりと体を回転させて、周りの様子を確かめると、自分の車のある駐車場へと向った。
「誰もいない……」という安心感が、彼の歩く速度を緩めていた。
ポケットの中の右手で胴体に押しつけて保持していた箱を、田村はそろそろと引き出してみた。透明プラスチックに囲まれた狭い空間の中で、白い小動物は何ごともなかったように動きながら、鼻をひくひくさせている。彼は立ち止まり、箱を目の高さに差し上げてその動物を見つめた。
「おまえにはすまんけど、医学の発展のために一肌脱いでくれや」
田村はそう呼びかけてから、箱をゆっくりと地面に置き、自分の白い上衣を脱いだ。エアコンのきいた研究室内は涼しかったが、8月の夜はやはり暑い。そう言えば、今晩も熱帯夜だとラジオが言っていた。2週間続けてでは、このか弱いマウスでなくても体が弱ってしまう、と田村は思った。この暑さの中に動物を長居させてはいけないのだった。彼は再び箱を手に取ると、冷蔵装置のある自分の車へと向った。
田村の車にある冷蔵装置は、理工学部の友人に頼んで特別に作ってもらったもので、トランクに収納されている。通常の冷蔵庫と違って密閉されていないから、中に生き物を入れられる。生物学者の田村にとっては、なかなか重宝していた。とは言っても、釣った魚などを入れるのではない。実験用の動植物を収納して運ぶのだ。その場合、外気やトランク内にいる細菌と触れないように、換気口の構造とフィルターに工夫が凝らしてあった。
今回のマウスの運搬に際しては、しかし特別な注意が必要だった。このマウスは「超免疫不全マウス」と言って、免疫機能が全く働かない。だから、大学でも無菌室で育てられ、直接外気には当らない。田村が手にしている透明プラスチックのケースも、二重構造になっていて、極細のフィルターを通して空気が中に入る。しかし、フィルターではすべての細菌を遮断できないから、早く無菌状態の場所に移す必要があった。
人間のガン細胞の研究には、昔は「ヌードマウス」という毛のない、裸状態のマウスが使われた。このマウスは、免疫系の一部が働かないように遺伝子操作がされているから、人間の腫瘍を移植しても拒絶反応を起こさず、マウスの体内で腫瘍が増殖する。その腫瘍に対して抗癌剤を処方することで、人体に処方する場合の適性や適量が判断しやすくなるのだった。
ヌードマウスの後に登場したのが、免疫機能をさらに阻害された「SCIDマウス」だった。これはT細胞とB細胞の双方が欠損しているので、人間の皮膚や頭髪を移植することができるだけでなく、人間の免疫系の一部であるリンパ球も移すことができた。田村が今手にしているマウスは、それよりさらに免疫不全が進み、NK細胞その他も機能しない「NOGマウス」という種類だった。ここまで来ると、マウスの体には腫瘍だけでなく、ほとんどすべての人間の細胞を移植して、分化や増殖をさせることができるのだ。
例えば、人間の血液は骨髄内にある造血幹細胞が分化して、T細胞、B細胞、NK細胞、顆粒球、血小板などになるのだが、この超免疫不全マウスに人間の造血幹細胞を移植すると、マウスの体内ですべての血液の細胞が分化して、完全な人間の血液となるのである。それと同様に、人間の臓器や組織の移植も可能だ。つまり、外形はマウスであっても、内部が実質的に人間である動物が、少なくとも理論上は作成できるのである。
そして今、田村が手にしているマウスは、彼自身の髪の毛にある幹細胞が移植されているのだった。 (つづく)
谷口 雅宣
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コメント
副総裁先生
ミステリアスで面白そうですね。
マウスが人間と同じ細胞だなんて
この後も拝読させていただきます。
投稿: 佐藤克男 | 2006年10月26日 14:55
佐藤さん、
コメント、ありがとうございます。
>>マウスが人間と同じ細胞だなんて<<
ここにある科学的事象はSFではなくて、事実だとご理解ください。「事実はSFより奇なり」です! もちろん「田村宙」という個人は作り物ですが……
投稿: 谷口 | 2006年10月27日 14:56
驚きました!
SFの世界ではなく現実に可能なのですか?
研究室の雰囲気といい、
田村宙といい、
つぶさに目に映るようです。
ところで、「宙」は何と読むのでしょうか?
投稿: 佐藤克男 | 2006年10月28日 13:38
佐藤さん、
>>ところで、「宙」は何と読むのでしょうか? <<
第2回を登録しました。そこでお答えしています。
投稿: 谷口 | 2006年10月28日 22:40