2年後の長岡
15日に開かれる生長の家講習会のために長岡市に来た。新潟県中越地震以来である。2年前の10月23日、私と妻は長岡市立劇場で翌日行われる講習会のために長岡入りし、午後5時56分にこの地を襲ったマグニチュード6.8の大地震に、長岡駅構内で遭遇した。そのときの体験は「旅人の被災」という文章に書いたが、今日の午後3時16分ごろ、長岡駅に降り立った私の脳裏には、2年前の記憶が甦ってきた。新幹線の改札口を出て、さらにもう1つある改札口を出た先に、土産物を売るワゴンが出ていたが、そこで妻が絵葉書を買おうとしていた時に、最初の揺れが来たのだった。私と妻は床に這いつくばって揺れがおさまるのを待ち、広告板や建材が落ちた駅の通路を足早に歩き、駅から道路へ逃れて、ホテルまでもどったのだ。その同じ途を2年後に歩きながら、私は「懐かしさ」にも似た感情を覚えていた。
2年という歳月が、その時の強烈な体験と興奮状態を薄め、そんな感情に変えてしまっているのだろう。それは、子どもの頃の苦しい体験が、大人になって懐かしく思い出されるのにも似ている。とにかく、余震を感じながら不安の暗い空を眺めた東口駅前広場も、花と花器が散乱したホテル内の花屋も、部屋に入れずに集まった宿泊客がテレビにかじりついていたロビーも、私にとっては役者のいない舞台装置のように感じられた。その“劇”はつい最近上演され、私も役者の一員だったのだが、今日はなぜか役者仲間は1人もいない。そんな気持でホテル内を歩いていると、フロントで笑顔で挨拶をするホテルマンが、役者仲間だったような錯覚に陥り、思わず笑顔を返したくなる。そして「やぁ、あの時は大変でしたね」などと言いたくなる。
私の心はそんな状態だったが、長岡駅前は2年前の痕跡をほとんど残していなかった。ただ、歩道や路肩の修復をしている場所がまだある。が、それも、地震の被害の修復なのか、別の理由の道路工事なのか旅人の私には分からない。『新潟日報』の「日報抄」欄には、連合艦隊司令長官、山本五十六氏らが眠る長岡市内の山本家の墓所の再建が始まった、と書いてあった。だから、地域によっては地震の被害がまだ残っているのだ。
ホテルの部屋でひと息いれた後、妻が「墓参りをしたい」と言い出した。これも2年前の文章に書いたことだが、妻の母方の祖母の実家が長岡市内にあり、その菩提寺がホテルから2キロほど離れた所にあった。私たちはホテル内の花屋で生花を買い、タクシーで寺まで行った。寺の庭には中年の男女と2歳くらいの女児がいて、住職一家のようだった。妻が花を持って近づくと墓参客だと合点したらしく、丁寧に応対してくれた。その人の話によると、寺には450ほどの墓があるが、地震で倒れたのは15ほどだったという。そのほとんどが、すでに修復されていた。
墓参を終えて、長岡駅方向へ少し歩いた。寺の境内にもセイタカアワダチソウはあったが、町の各所に、生命力にあふれたその黄色い花が誇らしげに頭を揺らしている。そんな中で、朱色の実を枝いっぱいにつけた1本のカキの木が、私の目を惹いた。「もうそんな季節なのか」と思った。人の営みも自然の営みも、地震の記憶をこうして和らげてくれる。忘れることと、繰り返すことで、生命は伸び続けるのだ。
谷口 雅宣
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