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2006年10月 3日

代理母をどう考えるか?

 タレントの向井亜紀さんと高田延彦さん夫妻が渡米して代理出産した子どもをめぐり、出生届の受理を命じた東京高裁の決定が話題になっている。向井さんを「母として認めろ」という決定である。日本では実質的に禁じられている代理出産をあえて海外で行ない、帰国して子どもを認知しろと裁判所に訴えるというのは、かなり強引な方法である。もし、国内法の中で代理出産が明確に禁じられていたならば、ありえない決定だ。裁判所は“法律の番人”であるはずだからだ。ということは、今回の決定(まだ最終とは言えないが)は、生殖補助医療をめぐる法律の未整備の間隙を突いて成り立った、かなり変則的な例と言える。
 
 9月30日の『朝日新聞』夕刊によると、今回の決定をした裁判長は、生まれてきた子どもの福祉を最優先に考え、出生届が受理されない状態では「子らは法律的に受け入れるところがない状態が続く」と指摘し、「子にとっては、(向井さん夫妻を)法律的な親と認めることを優先するべき状況で、(夫妻に)養育されることがもっとも福祉にかなう」と結論したらしい。このケースでは、代理母に移植した受精卵は向井さん夫婦のものであり、病気治療のために子宮摘出したという事情があり、さらに代理母に対する謝礼も高額でないことなどが考慮され、判決のような結論になったようだ。
 
 ところで、すでに報道されているように、日本の法務省の見解は「実際に出産した女性が母親」だというものであり、今回の高裁の決定とは正面から対立する。3日付の『産経新聞』によると、向井さんの出生届を受理しなかった品川区の担当者は、2日午後から法務局を訪れて、高裁の決定を不服として特別抗告するかどうかの協議を始めたという。この特別抗告の期限は10月10日だが、現在同区では前区長の死去に伴う区長選挙の真っ最中で、区長が不在だ。特別抗告をするかどうかの最終判断は法務省ではなく、区にあるそうだから、なかなか微妙な情勢にあると言える。
 
 私は、数年前に出した『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)の中では、代理出産に関してあまり書いていない。しかし、精子や卵子の提供、受精卵の提供、卵子の遺伝子融合などの生殖補助医療技術を含めて、倫理的にどう考えるべきかの基準を1つ示した。それは、「子を親の幸福追求の手段とする」べきでないということである。これは、すでに現在いる自分の子が、多少なりとも自分の幸福追求の手段となっているとの現実があったとしても、それ以上に“罪”を重ねるなという意味である。代理出産の場合は、生まれてくる子に加えて、代理母となる人間を自分の手段として利用するという側面があるから、倫理性はさらに疑わしい。

 私は男だから自分で子を産んだ経験はないが、妻の体験を聞き、想像力を駆使して考えてみる限りでは、次のように言えると思う。「腹をいためる」という経験が、その後に来る「子育て」から切り離されて、一種の“労働”として他人に提供されることの影響は、予測できない。これは主として、代理母の心に及ぼす影響のことだが、子を得る側の女性についても、心理的な問題が生じる可能性は否定できない。そのことは当然、育てられる「子」の心理にも反映されるだろう。生物学的に言えば、人間が属する哺乳動物は、「哺乳」という子育ての過程と「妊娠・出産」とは切り離せない。それを「一連の過程」として何十万年も繰り返しながら進化したという事実の背後には、人間としての必然性があると思うのである。もっと簡単に言えば、人間には他の哺乳動物と共通した肉体的、心理的に密接な母子関係が必要であるということだ。

 授乳に母乳を使うか牛乳を使うかで、医学的にも心理的にも母子双方に違いが出るのである。だから、妊娠・出産から哺乳へと続く、もっと大きな自然の一連の過程を切り離す行為が、母子双方に予測できない影響を与えると考えない方がおかしいと思う。代理出産は、「私の子がほしい」という欲望のために、そんな行為を他人に求める技術である。技術があり、金があれば、どんな欲望も実現されるべきだというのは、倫理でも宗教でもないだろう。
 
谷口 雅宣

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コメント

《「子を親の幸福追求の手段とする」べきでないということである》

とのことですが、私などはまだどうしてもわが子に期待をしたり、子供が何か活躍でもしてくれると自分のこと以上に嬉しくなってしまいます。

でも、これは人間である以上は当然ではないのでしょうか?
自分の子供の幸せは自分の幸せでもあるわけです。
また、これを望まない親がいるとしたら親子ではないと思いますが、いかがでしょうか?

高田、向井夫妻が何度か流産したときは、いい加減にしてもらいたいと私は思っておりました。
何故なら、自分たち夫婦の我がままで、無闇に子供を流産させて、幼い命を殺していると思ったからです。

暫くして、向井さんが子宮を摘出したとの報道を聞きこれで無垢のたましいが殺されなくなったと思っていたら、この度の代理出産でした。

副総裁先生は腹を痛めた子だからこそ「子育て」にも大きく影響があるとのお考えのようでありますが、子供のおられない夫婦が全くの他人から養子を向かえるケースを考えた場合、「生みの親より、育ての親」という諺はその通りであります。お腹を痛めなくても立派に育てておられるケースは、現に古今東西沢山あります。私の場合がそうでありました。勿論、生みの親も私を大切にしてくれたことは当然知っておりますが、記憶にあるのは育ての親の愛であります。

今回のこのケースは、他人の子供を養子に迎えることよりは、私は自然な形で育児が出来るような気がしますが、間違いでしょうか?

それと人間の大切な使命である、子孫繁栄を忠実に守られたような気がします。勿論、このご夫婦は自分たちの子を作りたいと言う思いだけで、人間の使命とかは考えていないと思いますが。

法律の問題は、条件付きで決めれば良い事と思います。
どうしても肉体的に生めなくなった夫婦に限るとか・・・・

法律が作用しなければいけない問題は、優性保護法だと思います。この夫婦の問題より、年間どれだけの数になるか判らないほどの無垢の命を葬っていることに焦点を当てて解決してもらいたいと思うのは間違いでしょうか。


投稿: 佐藤克男 | 2006年10月 6日 20:41

谷口雅宣先生

 私たち夫婦は、子どもが授かったら、胎内にいる子供とできるだけ話をしようと決めていました。そして子供に仮の名前を付け、私は帰ってから毎日、その日の出来事を話し、妻は起きてから寝るまで、まるでそこに赤ちゃんがいるかのように話しかけました。

 自分で言うのはとても気が引けますが、今2歳になった子供の気性が穏やかで、夜も良く寝てくれて、ほとんど風邪もひかず、笑顔の多い子に育ってくれているのは、“子宮内胎話”が果たした役割も大きいのではないかと思います。

>> 「腹をいためる」という経験が、その後に来る「子育て」から切り離されて、一種の“労働”として他人に提供されることの影響は、予測できない。<<

 この言葉の持つ意味の深さを考えるとき、「他から奪わない生活」「他に与える生活」を伝える重要性を一層感じます。

 阿部 哲也 拝

投稿: 阿部 哲也 | 2006年10月 7日 17:20

佐藤さん、

 お久しぶりです。

>> 今回のこのケースは、他人の子供を養子に迎えることよりは、私は自然な形で育児が出来るような気がしますが、間違いでしょうか? <<

 私は、そう思いません。「自然な」という言葉の意味にもよりますが、卵子や精子の凍結保存があったのかなかったのか。卵子を凍結保存する場合、恐らく排卵促進剤を使用し、母体に負担がかかること、さらにアメリカで代理母になった人のこと、入院のこと、入院中に代理母がどう考えるのか、そして手術のこと……。

 「養子」は、昔からどこの国にもある習慣で、双方の合意が成立します。

 それから「優生保護法」というのは、今は「母体保護法」に変わっています。

投稿: 谷口 | 2006年10月 7日 17:21

副総裁先生

≪卵子を凍結保存する場合、恐らく排卵促進剤を使用し、母体に負担がかかること、さらにアメリカで代理母になった人のこと、入院のこと、入院中に代理母がどう考えるのか、そして手術のこと……。≫

このようなことを考えたら、
私の勉強が足りないような気がします。
ご指導ありがとうございます。

佐藤克男

投稿: 佐藤克男 | 2006年10月 7日 19:50

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