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2006年10月 1日

表現者の悩み

 長崎県佐世保市で行われた生長の家講習会で、北松浦郡佐々町に住む16歳の女子高生から質問をいただいた。「なぜ、誰もが素晴らしい実相をもっていながら、悩んだり、他人を疑ったりしてしまうのでしょうか。何のために争いやまちがいが生まれてくるのでしょうか?」という内容である。これに似たテーマは、「実相の表現は簡単か?」という題でかつて本欄で2回(2005年11月13日同月16日)に分けて書いたことがある。千葉県での講習会で質問されたことに答えたものだが、その時の質問は「人間は神の子であり、実相は完全円満で、迷いは無いとすれば、いとも簡単に実相の完全円満さを現象界に表現できてよいはずなのに、なぜできないのでしょうか?」というものだった。

 前回の質問に対しては「実相」と「現象」との違いを明確にする答えを書いた。しかし、今回は少し角度を変えた質問であり、「仏である人間がなぜ迷うか?」という宗教的に重要な問題とも軌を一にする。講習会では、私は「表現」と「自由」という2つの側面からこの質問に答えたが、説明が十分だったかどうか定かでない。そこで、講習会に参加しなかった読者の理解にも供するため、この場で再び説明を試みることにしよう。
 
 生長の家では、我々が「現実」と呼んでいる現象世界は、一種の“表現の世界”であると捉える。何を表現するかと言えば、自己内在の本質である「仏性」や「神性」である。表現には一定の手続きが必要だ。例えば、「言葉を話す」ことも立派な表現活動だが、そのためには、言葉を覚え、それを正しく発音し、1つのアイディアを文法にもとづいて正しく配列しながら述べることが必要だ。「私は講習会へ行ってきました」という一見、簡単な日本語でも、「私」「講習会」「行く」という言葉(単語)をまず覚えなければ、話すことはできない。さらに言葉を覚えても、それらを文法にもとづいて正しく配列せずに「行ってきた講習会は私に」などと言っても、他人に言いたいことは伝わらない。相手に正しく伝わらないものは、厳密な意味では「表現された」とは言えず、まだ「表現の途上にある」ものである。

 この「表現の途上にあるもの」が、我々が“失敗”とか、“まちがい”とか、“悩み”とか、“疑い”と呼ぶものであり、宗教的には「迷い」や「罪」に該当する。ということは、表現の過程においては「途上」は必然であるから、“まちがい”や“悩み”や“疑い”も一種必然だと考えられる。しかし、そのことと、表現を目指しているものが「完全」であることとは、十分両立するのである。上記の例を使えば、「私は講習会へ行ってきました」と言うつもりの人が、誤って「行ってきた講習会は私に」と言った場合でも、その人の言わんとした元のアイディアは、間違いなく、完全な形で、彼または彼女の心中に存在しているのである。
 
 これと同じことが、すべての表現活動に言えるだろう。音楽家は音楽の法則を学び、それに厳密に従って自分の中にある曲想を表現する必要がある。画家や写真家は、人間の視覚に内在する法則(色や画面構成等)を学び、それを利用して自分の中のアイディアを視覚化することに努める。運動選手は、自分の打ち込むべき競技のルールを学び、技術を磨き、それにもとづいて作戦や戦略を考えたうえで、競技や試合に臨む。これらの練習や訓練の過程では、数多くの“失敗”や“まちがい”や“悩み”や“疑い”を経験するだろう。しかし、そのことと、これらの表現活動が目指しているものが「完成」であり、「完全」であり、「完璧」であることとは、十分両立するのである。これを音楽演奏に喩えて言えば、あるバイオリニストがモーツァルトの『春』を完璧に演奏しようとすることと、彼または彼女が練習の過程で何度もつまずいたり悩むこととは、十分両立するのである。いや、別の角度から言えば、演奏家がある楽曲を通して「完成」や「完全」や「完璧」の表現を目指すがゆえに、その人から見れば“失敗”や“まちがい”や“悩み”や“疑い”のように感じられる過程が経験されるのである。
 
「仏である人間がなぜ迷うか?」という問いに対しては、だから「仏であるがゆえに迷う」と答えることができるのである。
 
谷口 雅宣 

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