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2006年10月27日

宙のネズミ (2)

 田村宙は、K大医学部の若手の癌研究者としては、新分野である生命機能の研究に関する論文も多く、注目されていた。30歳で結婚して生活も安定し、仕事に打ち込める環境にあったが、1つだけ悩みがあった。現在33歳でありながら、髪の毛が薄いのである。普段は帽子を被ることで目立たないようにしていたが、夏場の帽子はやはり暑い。いっそのこと残りの頭髪も剃り落して坊主頭にする方が見栄えがいいかと何回も考えた。しかし、「眉が薄くて細い目のあなたには似合わない」と妻に言われると、髪を剃る決心ができないのだった。髪の毛の薄さはインテリジェンスとは関係ないと分かっていても、外貌は社会生活に重要である。形成外科の技術がこれだけ進んでいる現在、発毛や育毛の問題を医学が解決できないはずはない。田村はそういう信念のもとに、皮膚にある幹細胞の研究にも取り組んでいたのである。
 
 幹細胞とは、体の各部でそれぞれの役割をになう細胞になる前の“素の細胞”のことである。血液が作られるとき、骨髄中の造血幹細胞が分化して赤血球や白血球ができるように、体の表面を覆う皮膚ができるためには、その素となる幹細胞が表皮の奥から分化して、皮膚の細胞になって表面に押し出される。毛髪や体毛の場合も、これと同じ仕組みがある。それは「毛球」と呼ばれる髪の付け根部分にある幹細胞だ。専門的には「毛母細胞」と言う。新しい毛球は普通、3~4カ月の休止期間の後、2~6年間活動を続けて髪の毛を伸ばす。このあと退行期に入り、やがて脱毛する。髪が薄くなるのは、この毛球の成長期が数カ月から1年と短く、髪が十分成長しないうちに毛球の退縮が始まり、脱毛してしまうからだ。
 
 この脱毛部分にはDHT(ジヒドロテストステロン)という物質が高濃度に存在するため、これが髪の成長期を短くする原因物質と考えられていた。DHTは男性ホルモンのテストステロンから作られるから、男性ホルモンの多い人は髪が薄いと言われるのである。しかし、そういう人でも、頭皮には毛母細胞を含む毛球が残っていることがほとんどだ。だから、うぶ毛(毛包)は生えている。そのうぶ毛の毛球の活動を盛んにすることができれば、髪は再び成長する可能性が十分あるのだった。

 田村が持つ箱の中のマウスには、彼自身の数少ない髪が移植されて生えている。それは植毛のように1本ずつを植えるのではなく、頭皮の小片を毛根ごと剥いでマウスの腹部に移植したのだ。背中は目立つので避けた。同僚の医師が彼の頭皮を切り取り、それを洗浄して培養液の中に浸けるところまでをした。幹細胞の研究に毛包を使うことは珍しくないから、不審な点はなかった。その後、別の日に田村自身がマウスの腹への移植を行なった。こうして白いマウスは、腹にだけ黒い毛を帯状に生やすことになったのである。
 
 田村はこれに「チュー子」という名前をつけた。自分の名前を混ぜたのだ。マウスには文字通り自分の体の一部が混ぜてあるだけでなく、自分の願いを托しているからでもある。「チュー太」や「チュー吉」でないのは、雌のマウスだからだ。男性ホルモンの影響を受けにくい実験環境が必要だった。

 田村は、超免疫不全マウスであるチュー子の体を培養器として使うことで毛母細胞の増殖を行い、最終的には自分の頭髪の問題を解決できればと考えていた。そのことが、公私混同になるとは少しも思わなかった。なぜなら、日本では1260万人もが、この男性ホルモンによる男性型脱毛症(androgenetic alopecia)で、そのうち800万人は田村と同じようにそれを悩んでいて、うち600万人は何らかの治療法を試みたことがある、と言われているからである。マウスを使って確かな治療法が確立すれば、多くの人がこの忸怩(じくじ)たる悩みから解放されることは明らかだった。 (つづく)

谷口 雅宣
 

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コメント

高校時代の物理の先生に田村 忠という先生がおられ
「チュータ」というあだ名をつけて、親しみを込めて
影で呼んでいたのを思い出しました。

髪の毛の話もSFものじゃないのですね。
医学というか、科学はどこまで進むのでしょうか?

人間の世界で活用してよいものと、使ってはいけない
基準を設けなければいけませんね。

過日の代理母の件は
副総裁先生のお陰でいけないことが判りましたが、
情実に負けて、政府の方向は間違った方向にいきそうですね。

「宙のネズミ」楽しみです。

投稿: 佐藤克男 | 2006年10月29日 11:42

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