表現者の悩み (2)
前回の本欄で、「実相は素晴らしいのに、人間はなぜ悩み、他人を疑うのか?」という質問に対して、「人生は表現である」という側面から答えてみた。未だ表現されていない実相を表現する過程にある「から」悩むのである。英語的に言えば「人間は仏であるのに(despite)迷う」のではなく、「仏であるから(because)迷う」のである。仏でない犬や猫は迷わないのである。このことを、今回は「自由」の側面から考えてみよう。
NHKテレビで最近、屋外でマイタケ栽培をしている人が紹介されていた。マイタケは室内で厳密な温度・湿度管理を行う菌床栽培が多いと聞いていたが、この人は、ヒノキ林の中でナラの原木を使ってマイタケを育てていた。そのほうが「天然ものに近い香りが出る」のだそうだ。いずれにしても、マイタケ等のキノコ類は、ある一定の物理・化学的条件を環境に整えてやると、菌糸を発達させて生殖器であるキノコの“傘”を広げる。広げざるを得ないのである。菌類だけでなく、植物も動物もほとんどのものが、栄養素や食事を与え、ある一定の環境下に置くと生殖活動を始めるのである。それは、自らの意志で自由に生殖活動を選択するのではなく、必ずそういう状態になるように遺伝的に決定されている。そういう意味で、人間以外のほとんどの生物種の生き方には「自由」がないのである。
“高等”と呼ばれる哺乳動物のほとんども、外見から想像されるほど「自由」ではない。今日(2日)付の『日本経済新聞』の夕刊に、温暖化で海の氷が減ったため、ホッキョクグマが餌を捕れなくなって絶滅の危機にあるとの調査結果を、アメリカとカナダの政府機関が発表したことが報道されている。このことは、すでに7月6日の本欄で取り上げた映画『ホワイト・プラネット』で描かれていたが、それを学問的にきちんと調査したのだ。同紙の記事によると、「海氷はホッキョクグマが餌となるアザラシなどを捕らえるのに欠かせない。餌を食べる時期にクマは長時間を氷の上で過ごし、氷が少なくなる夏場にはクマは陸地の上でほとんど餌を食べずに過ごす」という。映画を見ると、氷が溶けてぬかるみ状態になった所では、クマは足を取られて速く走れず、氷上で寝ているアザラシを捕獲することができないのだ。
このように人間以外のほとんどの生物は、遺伝的に決まった食料を、環境条件に応じ、後天的に得た限られた方法によって捕食する。つまり、人間に比べて食品の種類が圧倒的に少なく、従って不自由である。「あの方法でアザラシを捕ろう」「この方法で魚を捕ろう」「また別の方法で鳥を捕ろう」などと、環境の変化に臨機応変に対応して食料を得ることができないから、逆に「どんな方法で何を捕ろうか?」などと悩むこともない。できることを全力で行ない、できないことはやらない。人間のように、工夫して何とかやりとげようと考えることもない。だから、環境が激しく変化するとたちまち絶滅の危機に陥るのである。人間はそれにひきかえ、発達した大脳のおかげで、道具を作り、環境に適応し、さらには環境さえも作り変えて、自分たちの生存を確保してきたのである。そのおかげで、人間の生き方の選択肢はほとんど無限にあると言っていい。しかし、そこから人生の悩みが生じるという面もあるのである。
実は、ここから善と悪の問題も出てくる。「選択の自由」のないものが、やむを得ずただ1つの選択肢を採用する場合は、それがどんな選択肢であっても、普通は善悪の判断の対象にはならない。例えば、銀行強盗の銃口の前で金を要求された女子銀行員が、強盗の意のままに大金を差し出すことがあっても、その行為は普通「悪い」とは言わない。彼女にとって、それ以外の選択肢は「死」であるかもしれないからだ。しかし、同じ銀行員が、自由な環境の中でボーイフレンドのために顧客の預金を横領すれば、それがたとえ少額であっても、彼女の行為は「悪い」とされるのである。なぜなら、彼女には「横領しない」という選択肢がありながら、そして横領が悪いと知りながら、それをしたからである。
こうして自由な表現者・人間は、自由なるがゆえに迷い、間違い、疑うことになる。そんな人生が嫌いだという読者は、自由を放棄して悩み苦しみのない“奴隷の生活”を望むだろうか? エデンの園に生える“善悪を知る木”の話は、こういう文脈で考えることもできるのである。
谷口 雅宣
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
合掌ありがとうございます。
僕は人間には発情期がないのはなぜかということを考えたことがあります。
他の動物にはこの時期がないと生殖活動を行いませんが、人間にはこれを営む自由も与えられているということなのでしょうね。
自由なるがゆえに恋愛し、また恋愛について悩むのでしょうね。
ご文章を拝読しながらフト思い出したのでコメントさせて頂きました。
玉西邦洋 拝
投稿: 玉西邦洋 | 2006年10月 3日 23:32
合掌ありがとうございます。
神の導きによる人間におけるひらめき・思考と苦悩・迷いは一致するのでしょうか?
前者は快楽を伴うものであるとおもいます。
人間は神の子であるがゆえに思考はするが、苦悩したり迷ったりする必要はないのではないでしょうか。
投稿: masaomi | 2006年10月 5日 10:50
玉西さん、
コメント、ありがとう。
人間に発情期がない……ということは、いつも発情できるということでもあるのでしょう。発情と恋愛は必ずしも一致しませんが、関係は深いと思います。恋の悩みは、しかし魂の成長には重要な一部ですネ。
鈴木さん、
>>人間は神の子であるがゆえに思考はするが、苦悩したり迷ったりする必要はないのではないでしょうか <<
「必要」という言葉の意味が今ひとつ明確でありません。何かに失敗をして、改善策を「思考」するのはいいが、その失敗を「悩む」のはオカシイという意味でしょうか?
投稿: 谷口 | 2006年10月 5日 11:53
なや・む【悩む】
[動マ五(四)]1 決めかねたり解決の方法が見いだせなかったりして、心を痛める。思いわずらう。「進学か就職かで―・む」「恋に―・む若者」「人生に―・む」2 対応や処理がむずかしくて苦しむ。困る。
[こうして自由な表現者・人間は、自由なるがゆえに迷い、間違い、疑うことになる。そんな人生が嫌いだという読者は、自由を放棄して悩み苦しみのない“奴隷の生活”を望むだろうか]
ここを読みますと「自由な表現」における過程ではは苦悩を伴うのが「常」であるとうけとってしまうのですが・・・
投稿: masaomi | 2006年10月 5日 12:38
「仏であるから迷う」先生の仰る理屈はわかりますが、信徒の皆さんはこの言葉に抵抗を感じないのでしょうか?できればブログをご覧になってる講師の皆様の意見をおききしたいのですが。
投稿: masaomi | 2006年10月 6日 20:25
鈴木さん、
「仏であるから迷う」というのは、もちろん逆説的表現です。きっと貴方のように抵抗感じる人もいれば、「そういう考え方もできる」と私の本意を理解してくれる人もいると思います。いろいろの人がいていいと思います。
投稿: 谷口 | 2006年10月 7日 17:13