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2006年9月23日

「死」は人生の“収穫”なり

 秋分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が執り行われ、私はお祭の斎主として奏上の詞を読み、ご挨拶を申し上げた。以下は、私の挨拶の概略である。

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 本日は恒例の秋季慰霊祭に大勢お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお彼岸の季節は、秋の到来がひとしお明らかに感じられます。「猛烈な」という枕詞がついた台風14号が日本に近づいていますが、幸い本土上陸はないとの予報です。私の家の庭にあるヒガンバナも白い花、赤い花が咲き乱れて実に美しいし、キンモクセイの香りがどこからともなく流れてきます。これからは日増しに秋が深まってきて、作物も、紅葉も、運動会も、遠足も、文化祭も……というように、自然界・人間界の活動は“収穫期”を迎えるわけで、私は個人的にはこういう「秋」が大好きです。
 
 自然界に収穫期があるのと同じように、我々人間の人生にも収穫期があります。ときどき人は、人生の収穫期とは退職金をもらう時期だとか、その後の自由な老年期だと考えることがありますが、本当は「死」が収獲をもたらすのです。「帰幽の神示」の中では、人生を音楽の1曲に喩えて次のように教示されています:
 
「すべての人の仮有(けう)は念の異なるに従って、その顕現を異にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今迄の念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の弦をもって1曲を弾じ終ってそれを止め、他の奏曲に移らんとするにも等しい」
 
「仮有」とは現象身のことです。肉体や霊体などの媒体によって現れている姿です。肉体をもって生活する時期が終ったならば、私たちは次の現象身を使った生命表現をしなければなりません。それを音楽に喩えれば、「1曲を演奏し終る」ということです。音楽の種類によっては、1曲のクライマックスが来ても必ずしも音楽は終らない。そして、クライマックスを上手に弾いても、最後の部分で音程を外してしまっては演奏の価値が下がってしまう。楽譜で言えば、最後の音符を弾き終わった後に、その演奏家の、その演奏の価値が決まりますね。それと同じように、我々も肉体生命が終ったときに、その人の、その人生の収獲が定まる。そういう意味で、「死」が到来することは必要であり、大変価値あることなのです。

 我々日本人は、仏教の考え方に親しんでいるので、人の生れ変わりについてあまり疑問をもっていません。生長の家でも、人間は何回も生れ変わってきて、様々な人生で異なった体験を積むことで、「神の子」としての実相をより明らかに顕現していくのだと教えています。ということは、死によって人間の生命は終らないということですから、死への恐怖は少ないのです。しかし、欧米では、生れ変わりを認めないキリスト教の教えが長いあいだ盛んだったため、「死」を極端に恐怖する人々もいて、そこから過剰な延命治療の問題も出てきているようです。科学は普通、物質的証拠を基本とするので、生れ変わりを否定するのですが、最近は心理学の分野から、「生れ変わり」を研究する人々が出て来ていることは興味あることです。私は、講習会などで「前世を記憶する子どもたち」の話をすることがありますが、最近、日本教文社から出た『転生した子どもたち』(ジム・B・タッカー著/笠原敏雄訳)という本の中に、面白い例が出ているので紹介します。
 
 (同書にある「戦死した日本兵の記憶をもつミャンマーの子どもの話」を紹介)
 
 日本では近頃、テレビや本を通じて“前世ブーム”があるようですが、生長の家では霊界の話や前世の話は「深入りしない」ようにお勧めしているのは、ご存知のことと思います。その理由は、そういう話は客観的な立証ができないので、“言いたい方題”という側面があるからです。つまり結局、霊能者を「信じるか信じないか」ということになるからです。生長の家は「人間は皆、神の子」という教えなのに、それを忘れて「霊能者は神の子だが自分はダメ」と考え、詐欺まがいのこと引っかかる“心の隙”が生まれる。さらに言えば、前世が気になって、現世を過ごすことに支障が出てくることもあるからです。
 
 しかし、我々が自分や他人の前世に捉われるのではなく、「生れ変わり」があることや「生命の不滅」を信じることは、大いに意味があることです。先ほど紹介した本の著者も、このことを次のように指摘しています:
 
「哲学的に聞こえるのをあえて承知したうえで推測を重ねると、(中略)人生の目的は生涯ごとに変わる可能性があることもわかる。私たちは、“人生の意味”をひとつしか持っていないわけではなく、生涯ごとに違う目的をいくつか持っているのかもしれない。ある人は、他の人とはまるで違う感情的問題に取り組んでいるかもしれない。そのため、全エネルギーを愛する人たちとのつながりに傾注することで満足する人たちもいる。また、人から離れて仕事の世界に没頭することで満足している人たちもある。おそらく私たちは誰しもが、自らのさまざまな側面に順番に取り組み、正しい認識に近づこうとするのだろう」(同書 p.270)

 この「正しい認識」について、科学者である著者は何も言っていません。しかし、我々はそれが人間は「神の子」であり「仏」であるという宗教的真理の把握である、と教わっています。それを得ることで、我々は現在の生を真に「意味あるもの」「価値あるもの」と知るとともに、他の人々の生がどんなものであっても、同様に「意味あるもの」「価値あるもの」であることが分かる。同書の著者はまた、「一度の人生であらゆる種類の経験や成功をしなければ、人生が価値あるものにならないということではないのだ」と言っています。このことは、経済的、社会的成功を急ぐあまり、かえって不幸な人生を送る多くの現代人に必要なメッセージと思います。

 皆さんは「人間は死なない」という生命不滅の教えをひろめることで、執着を放つ“ホトケの人生”の意義を、これからも益々多くの人々に伝えていただきたいと思います。本日は、お参りくださいまして誠にありがとうございました。
 
谷口 雅宣
 

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コメント

谷口雅宣先生、

昨日は、秋季慰霊祭にて、素晴らしいご挨拶をいただき、ありがとうございました。
前世のこと、霊界についてのお話を、たいへん、興味深く聞かせて頂きました。
私も、生長の家入信前に、霊界や超能力に興味をいだき、一時は、現実世界より、霊界の方が魅力的に思えて、早く行きたいなどと思っていたため、危うく、そのとおりになるところでしたが、母の愛と生長の家のみ教えのおかげで救われ、現実世界に戻ることが出来ました。
生長の家で、霊界も現象世界であり、実在の世界ではないと、明確に教えていただいたおかげで、今は、現実世界が楽しくなり、幸せに過ごさせていただいております。
谷口雅宣先生のご挨拶を拝聴しながら、その入信前のことを思い出し、生長の家という団体がこの世に存在していること、総裁谷口清超先生、副総裁谷口雅宣先生が、この素晴らしい団体の中心者として、愛深く、たゆみなく、ご指導くださっていることに、感動と感謝の思いを新たにさせていただきました。本当に、有り難うございました。

                                 佐柄英津子拝

投稿: 佐柄英津子 | 2006年9月24日 17:13

合掌 ありがとうございます。
最近のスピリチュアルブームの火付け役となったE氏の「いのちが危ない」(集英社)の文章の中にも死後の世界に強い興味を抱く人に忠告している文章があります。
「(P126)・・・・しかし心霊にまつわる本をあれこれ読みあさり、現実そっちのけでその方面にばかり知識を増やしてしまうのには疑問を感じてしまいます。それでは、この世という旅先にはるば来た意味がありません。・・・・・(中略)・・・この世にいながらあの世に憧れるのは、わざわざ行った旅先で、家のことばかり考えてすごすようなものです。いつかはかならず帰れるのです。帰りたくなくても必ずお迎えが来ます。人生などどのみち短い旅。焦って帰って後悔するのはとても惜しいことです。」

投稿: Masaomi S | 2006年9月25日 16:58

佐柄さん、
鈴木さん、

 コメント、ありがとうございます。
「現実世界を充実して生きよう」というのが、生長の家の生き方と思います。しかし、現実世界が忙しすぎると、「霊界へ行ってみたい」なんて誘惑が出てくるかもしれませんネ。私も、ちょっと霊界へ行ってきたので、コメントへのお返事が遅れてしまいました。いや、冗談です。(笑)

投稿: 谷口 | 2006年9月29日 13:33

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