聖者の生首 (2)
前回の本欄で触れたドイツ・オペラの公演中止決定が、私の予想外の方向へ動いているようだ。ベルリンで27日に行われたイスラーム関係者会議において、問題のオペラの公演を「中止しないことを望む」と合意されたからだ。28日付の『ヘラルド・トリビューン』(電子版)が伝えている。それによると、この会議は昨秋、メルケル首相が選ばれてすぐ後に計画されたというが、今回の好機にドイツ内相の呼びかけで、同国の政府とイスラーム社会から代表者30人が出席し、18世紀のバロック宮殿で行われたという。ドイツ国内のイスラーム人口は300万人以上と言われ、女性の権利、学校でのイスラーム教育、イスラーム指導者の教育訓練、モスクの建設等の多方面で、ドイツ社会との文化や価値観の違いを修復する必要に迫られていた。
この会議での合意を受けたドイツ・オペラは、一度中止を決定したモーツァルトの『イドメネオ』の公演を再検討することになったようだ。ただし、「警察から関係者の安全について新しい見解が出される必要がある」ことが条件だと、ドイツ・オペラのスポークスマンは28日、述べたそうだ。同オペラの公演中止は、メルケル首相を含む政府関係者など多方面から批判されたが、その批判の中には、フランクフルトの劇場では現在も『最後の処女』(The Last Virgin)が上演され続けているとの指摘があった。この劇は、パレスチナ問題を扱ったもので、そこにはイスラームとユダヤ教の双方に対して辛辣な表現が出てくるという。これが許されているのに、『イドメネオ』の公演が自粛されるのは表現の自由の“自殺”にも等しいというわけだ。
私は前回、「残忍さやドギツサを克服して、ドイツ・オペラを高い水準に維持し続けてほしい」と書いて、聖者の生首を陳列するシーンがどうにかならないか期待したが、ドイツのイスラーム社会の代表者たちは、そういう表現も「可」としたのだ。少し驚いたが、もしかしたらその「驚き」は、私がイスラーム信者を特別視していた証拠かもしれない。なぜなら私は、メル・ギブソンの映画に対しても『ダビンチ・コード』に対しても、「内容を変えてほしい」とは言わなかったからだ。これは一種の“甘やかし”だったかもしれない。
コラムニストのトーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)は30日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に書いた論説で、イスラーム社会に気がねして自分たちの抱く疑問をぶつけず、「触らぬ神にたたりなし」と言わんばかりの態度で言論を自粛することは、彼らを侮辱していることになるし、却って“文明の衝突”への道を進めることになる、という意味のことを言っている。フリードマン氏は、今回のドイツ・オペラの件でこれを言っているのではなく、ローマ法王のドイツでの発言について書いていて、ベネディクト16世を半分擁護しているのだ。「法王はイスラームの信仰とその社会を、まともに渡り合える大人として扱っているのだから、それは一種の尊敬だ」と書いている。なるほど、そういう見方もあるなと思う。ジャーナリストらしい意見である。
しかし、「大人として対等に渡り合う」方法は1つだけでなく、いろいろあるだろう。相手の“悪”や“不足”を指摘して、「そういう所を直すべきだ」と言う方法もあれば、相手の“善いところ”や“優れたところ”を指摘して、「そういう所を見習いたい」と言う方法もある。現代社会では、前者はむしろ頻繁に行われているのではないか。そして、それが「批判合戦」や「非難の応酬」につながりやすい点は、注意すべきだろう。私はむしろ後者の言論が、もっともっと表面に出てくるべきだと思う。それによって“文明の衝突”は回避され、“文明の融合”へと進むのではないだろうか。
谷口 雅宣
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