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2006年9月30日

聖者の生首 (2)

 前回の本欄で触れたドイツ・オペラの公演中止決定が、私の予想外の方向へ動いているようだ。ベルリンで27日に行われたイスラーム関係者会議において、問題のオペラの公演を「中止しないことを望む」と合意されたからだ。28日付の『ヘラルド・トリビューン』(電子版)が伝えている。それによると、この会議は昨秋、メルケル首相が選ばれてすぐ後に計画されたというが、今回の好機にドイツ内相の呼びかけで、同国の政府とイスラーム社会から代表者30人が出席し、18世紀のバロック宮殿で行われたという。ドイツ国内のイスラーム人口は300万人以上と言われ、女性の権利、学校でのイスラーム教育、イスラーム指導者の教育訓練、モスクの建設等の多方面で、ドイツ社会との文化や価値観の違いを修復する必要に迫られていた。

 この会議での合意を受けたドイツ・オペラは、一度中止を決定したモーツァルトの『イドメネオ』の公演を再検討することになったようだ。ただし、「警察から関係者の安全について新しい見解が出される必要がある」ことが条件だと、ドイツ・オペラのスポークスマンは28日、述べたそうだ。同オペラの公演中止は、メルケル首相を含む政府関係者など多方面から批判されたが、その批判の中には、フランクフルトの劇場では現在も『最後の処女』(The Last Virgin)が上演され続けているとの指摘があった。この劇は、パレスチナ問題を扱ったもので、そこにはイスラームとユダヤ教の双方に対して辛辣な表現が出てくるという。これが許されているのに、『イドメネオ』の公演が自粛されるのは表現の自由の“自殺”にも等しいというわけだ。

 私は前回、「残忍さやドギツサを克服して、ドイツ・オペラを高い水準に維持し続けてほしい」と書いて、聖者の生首を陳列するシーンがどうにかならないか期待したが、ドイツのイスラーム社会の代表者たちは、そういう表現も「可」としたのだ。少し驚いたが、もしかしたらその「驚き」は、私がイスラーム信者を特別視していた証拠かもしれない。なぜなら私は、メル・ギブソンの映画に対しても『ダビンチ・コード』に対しても、「内容を変えてほしい」とは言わなかったからだ。これは一種の“甘やかし”だったかもしれない。

 コラムニストのトーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)は30日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に書いた論説で、イスラーム社会に気がねして自分たちの抱く疑問をぶつけず、「触らぬ神にたたりなし」と言わんばかりの態度で言論を自粛することは、彼らを侮辱していることになるし、却って“文明の衝突”への道を進めることになる、という意味のことを言っている。フリードマン氏は、今回のドイツ・オペラの件でこれを言っているのではなく、ローマ法王のドイツでの発言について書いていて、ベネディクト16世を半分擁護しているのだ。「法王はイスラームの信仰とその社会を、まともに渡り合える大人として扱っているのだから、それは一種の尊敬だ」と書いている。なるほど、そういう見方もあるなと思う。ジャーナリストらしい意見である。

 しかし、「大人として対等に渡り合う」方法は1つだけでなく、いろいろあるだろう。相手の“悪”や“不足”を指摘して、「そういう所を直すべきだ」と言う方法もあれば、相手の“善いところ”や“優れたところ”を指摘して、「そういう所を見習いたい」と言う方法もある。現代社会では、前者はむしろ頻繁に行われているのではないか。そして、それが「批判合戦」や「非難の応酬」につながりやすい点は、注意すべきだろう。私はむしろ後者の言論が、もっともっと表面に出てくるべきだと思う。それによって“文明の衝突”は回避され、“文明の融合”へと進むのではないだろうか。

谷口 雅宣

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2006年9月28日

聖者の生首

 本欄では、イスラームの開祖モハンマドの悪口を引用して国際問題を起こした「ローマ法王の失言」について、過去3回にわたって触れた。その影響がまだ収まり切らないうちに、今度はベルリンで上演を予定していたモーツァルトのオペラ『イドメネオ(Idomeneo)』の一部に、モハンマドの生首が展示されるシーンがあることが分かり、警察当局から警告を受けたオペラハウスが公演を取りやめる決定をした。28日の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。ところが、それを知った西側の芸術家たちが「イスラームに遠慮しすぎだ」と反発し、ドイツの内務相も「上演中止はクレージーで容認できない」と批判するなど、論争が巻き起こっているという。

 本欄では何回(2006年2月4日2月6日2月25日)も触れたが、かつてモハンマドの風刺画がデンマークの新聞に掲載されて騒動を起こした際、ヨーロッパの多くの新聞がその種の諷刺画を掲載しないとの決定をした。これに対し、西洋社会はイスラームに妥協しすぎて自由を規制しているとの批判が出た。また、ベネディクト16世が最近の“失言”について謝罪したことも、ドイツでは「やりすぎだ」との声が上がっているらしい。そこへ来て“自主検閲”にも似た今回の公演中止である。ドイツではオペラの公演中止など過去に例がないため、不満の声が大きいという。例えば、同紙によると、前文化相のマイケル・ノーマン氏(Michael Naumann)は、「これは、芸術家自身が芸術表現の自由を取り下げるような、恥ずべき決定だ」と非難しただけでなく、「法王が、異常と思えるほど謝罪したことで、悪い前例を作ってしまった」と手厳しい。

 ドイツ・オペラの館長であるキルステン・ハルムス氏(Kirsten Harms)の説明では、『イドメネオ』が最初に上演されたのは1781年で、ドイツ・オペラでの最初の公演は2003年という。海の神、ポセイドンを描いた神秘的物語で、この神は人間の命をもてあそんで意地悪く犠牲を求めるという。問題のシーンはモーツァルトの原作にはなく、最終部に挿入されたものらしい。そこでは、クレテ王・イドメネオがモハンマド、イエス、釈迦、そしてポセイドンの首を舞台上へ引き出して、それぞれをスツールの上に置くのだという。原作のオペラの終幕では、イドメネオ王はポセイドンの機嫌をとるために王位を棄て、息子のイダマンテとギリシャの王女・イリアの結婚を祝福する。しかし、ここに血なまぐさいシーンを挿入することで、監督は「すべての宗教の創始者は世界に平和を持ち来たさなかった」ことを訴えようとしているらしい。

 このオペラは、最初の公演のときすでにイスラーム信者やクリスチャンの間に論争を巻き起こしたが、組織的な抗議運動は起こらなかった。だから、ドイツ・オペラでは11月に4回の公演を計画していたという。ところが、今年夏になって、ベルリンの警察に「あのオペラは宗教的感情を傷つけるものだ」という匿名の電話があったため、警察が調査を始めた。そして、何らかの騒ぎが起こる可能性を否定できない、との結論に達したという。

 宗教の聖者の血だらけの生首をオペラや演劇に登場させるというのは、正直言って「よい趣味」ではない。そんな方法を使わなくても、同じことを訴えることはできるはずだ。が、その一方で、イエスの磔刑をめぐっては、これまで何回も血なまぐさい表現が使われてきたことは事実だ。私は、メル・ギブソンの映画『パッション』(The Passion of Christ)を見て、なぜあれほどまでに残虐なシーンを次から次へと重ねるのか理解できなかった。今回のドイツ・オペラの件でも、聖者の“生首陳列”の価値はよく分からない。しかし、自由社会というものは、ある人が無価値、残虐、低俗、有害と思うものをも容認する“度量”(あるいは無関心)がなければ成立しないという難しさがある。

 願わくは、ドイツの人々の良識が、残忍さやドギツサを克服して、ドイツ・オペラを高い水準に維持し続けてほしい。

谷口 雅宣

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2006年9月27日

電子文書を読む

 読者が今、本欄を読まれているように、電子化された文書を読むことはすでに日常化し、当たり前の出来事になっている。しかし時々、その可能性に驚かされることがある。インターネットの発達で、「時間と空間の制約をほとんど受けずに情報が伝わる」とはよく言われる。私も、海外の出来事をほとんどリアルタイムで、衛星放送やニュース・サイトを介して見たり読んだり聞いたりしてきた。情報の電子化とインターネット技術によって、今や「空間」の問題は克服されつつある。しかし、「時間」がなくなる体験をすることは少ない。

 それを可能にしてくれるのが文書や映像の電子化なのだ。たぶん読者の中には、図書館や博物館のサイトを愛用している人もおられるだろう。その場合、古い文書や遺跡からの出土品の映像なども、手元で見ることができるに違いない。恥ずかしながら、私はそういう経験を今日までしたことがなかった。が、9月16日号の『New Scientist』誌をパラパラと見ていたら、「オンラインの伝説」(Legends online)という題の小さな記事の横に、曇天下に凧を揚げている紳士の絵が並んでいて、「電気から電子へ」(from electric to electronic)というキャプションがついているのが目に留まった。この絵は、ベンジャミン・フランクリン氏(Benjamin Franklin)が雷は電気であることを証明した、あの有名な実験を描いたものだとすぐ分かった。
 
 この絵そのものが、ニューヨーク市立博物館所蔵と書いてあったから、恐らく電子化されたものを同誌の版元がイギリスへ送信してもらったものだ。そのこと自体は驚くことはないが、私が興味をもったのは、記事の内容だった。それによると、ロンドンにある英国王立協会(the Royal Society)は所蔵文書の電子化に取り組んできたが、このほどその一部を期間限定でインターネット上に無料公開したという。その中には、“世界最初の科学雑誌”ともいえる『Philosophical Transactions』(哲学的往来、1665年創刊)誌も含まれていて、同協会のサイトへ訪れるとフランクリンの凧の実験(1752年)を初め、エドムンド・ハレー(Edmund Halley)のハレー彗星の発見(1705年)、ニュートンの反射望遠鏡の発明、スティーブン・ホーキング博士(Stephen Hawking)の最初の論文、DNAの構造を解明したワトソン(James Watson)とクリック(Francis Crick)の1954年の論文などが読める、と書いてあった。

「へぇー」と思った私は、さっそく同サイトへ行ってフランクリンの論文を探したが、見つけたのは当該論文ではなく、同協会に提出されたその論文をめぐるコメントや、フランクリンによる実験の補足説明などを含む4つの文書だった。当時の雑誌のページをスキャナーで読み込んだものを「PDF」の方式でファイル化してある。古いもので「1751年6月」という日付があったから、それを読むと、今から255年前にイギリスの科学者が電気についてどういう考えをもっていたかが伺い知れて、面白い。フランクリンは当時、電気が生体にどのような影響を与えるかを実験していて、ハトやニワトリに電気ショックを与えるとどうなり、同じ電気を七面鳥に与えた場合はどうなり、肉を食べると柔らかくておいしいとか、人間はどの程度の電気ショックに耐えられるかなどの推測をしている。

 こういう実験の過程で、フランクリン自身が誤って電気ショックを受けた話も出てくる。それによると、彼の手から伝わった電気は、直ちに頭から足の先まで全身をかけめぐり、その後数秒間、胴体全体が激しく震え続けたという。彼の意識が正常にもどり、何があったかに思い当たるまでには数分間(some minutes)かかった。感電時には閃光など見えず、音も聞こえず、感電した手にも痛みは感じなかったという。しかし、実験に立ち会った人は、その時大きな音がしたといい、フランクリンの電気を受けた手は事後に腫れあがったという。また、彼の両腕と背中は数時間しびれた状態になり、胸は打撲傷を受けたように1週間後も痛んでいたらしい。
 
 1752年10月1日付のフランクリンの手紙には、実験に使った凧を、どうやって作るかも書いてある。それによると、スギ材で十字形を組み、その上に絹のハンカチを張って凧を作るそうだ。これに尻尾と紐と糸をつける。凧の十字形の縦骨には先の尖った針金をつけ、凧の先から30センチほど上方に出るように固定する。手元側の凧糸には絹のリボンを結び、糸と絹の接点に鍵を結びつける。この手紙には、この凧をどう揚げて、電気をどう取り出すかも書いてあるが、それをここに書くと実験したくなる人が出てくると困る。私は、そういう人の生命を危険に晒したくないので、雷雲が出ている時は、凧揚げは絶対にしないようにお願いして、本稿を終ることにする。
 
谷口 雅宣
 
 

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2006年9月25日

イスラームの理性主義

 前回の本欄で、ベネディクト16世のレーゲンスブルク大学での講義の内容に触れ、そこで言われている「イスラームの神は理性を超えている」という理解は、概括的すぎて正しくないという意味のことを書いた。そして、イギリスのイスラーム研究者、タリク・ラマダン氏(Tariq Ramadan)の同様のコメントを紹介した。ラマダン氏が、その文章の中で理性主義イスラーム思想家として例示しているのは、アル・ファーラービー(al-Farabi, 950年没)、アヴィセンナ(Avicenna, =イブン・スィーナー、1037年没)、アヴェロエス(Averroes, =イブン・ルシュド、1198年没)、アル・ガザーリー(al-Ghazali, 1111年没)など6人である。

 イスラームは単なる狂信的な宗教ではなく、永い歴史の中でキリスト教に勝るとも劣らないような、理性にもとづく神学(カラーム)や哲学(ファルサファ)を生み出してきた。しかし、イスラーム研究家の中村廣治郎氏によると、イスラーム神学がイスラームの中に定着するまでには永い時間がかかったという。その理由は、イスラームの中では特にコーランとスンナ(預言者の言動)を重視する伝統が強く、それを超えた神学的思弁を“異端的革新”として排斥する傾向が根強かったからという。中村氏は、イスラームの伝統とは「テクストを文字通りに受け取り、それをそのまま実践すること」であり、「理性に対して啓示を絶対的に優位におく態度」が根深かったと言っている。つまり、イスラームの伝統の主流は「原理主義的」だったと言えるのだろう。そういう意味では、ベネディクト16世の講義の内容が全く見当外れだったわけではない。ただ、相当程度以上の「例外」があり、それが重要であることを付言すべきだったと思う。
 
 例えば、中村氏は上記のファーラービーとアヴィセンナについて、次のように描いている。
 
「彼(ファーラービー)はトルコ系の学者でダマスカスで没している。アリストテレスに続く『第二の師』といわれるように、プラトン、アリストテレスの著作の注釈者として、また論理学、倫理学、政治学、知識論についての研究者として多くの著作を残し、のちの学者に大きな影響を与えた。(中略)このファーラービーに導かれ、アリストテレスの哲学を完全にマスターして壮大な哲学体系を構築し、晩年にはさらにそれをこえて神秘主義への接近を試みる『東方哲学』を構想したのがアヴィセンナことイブン=スィーナ(1037年没)である」(p. 92)

『コーラン』の翻訳で有名な井筒俊彦氏は『イスラーム思想史』の中で、イブン=スィーナ(以下、ラテン名「アヴィセンナ」を使う)に関して1章を設けて彼の壮大な哲学の一端を紹介しているが、同氏の彼の理性への評価は最大級のものである。例えば、「イスラームのスコラ哲学は彼(アヴィセンナ)をまって、体系化された」(p.264)「アヴィセンナはファーラービーとラーズィーの両方の学風を一身に代表し、抽象的思想の側面と、具体的実験的研究の側面とのいずれにおいても優秀な才能を示した」(p.272)とある。また、彼の代表的著作の1つである『医学典範』については、「この大著は東洋諸国はもとより、西欧においてすら近世に至るまで全医学界を実際に支配したのである」(p.273)。さらに、彼のもう1つの代表作『治癒』については、「イスラームにおける最も完璧な古典哲学の経典」だと評価し、「回教徒の間では今なおその権威を保ち、また12世紀にラテン語訳されて中世のキリスト教スコラ哲学の発展に重大な影響を及ぼした」(同)と書いている。

 ラマダン氏が、ベネディクト16世のレーゲンスブルク大学での講義について「イスラームの理性主義の役割を消し去ったヨーロッパ思想史の読み方」だと批判したことを思い出してほしい。この批判には、アヴィセンナが中世ヨーロッパのキリスト教スコラ哲学に“重大な影響”を及ぼしたことを含めているに違いない。とにかく、イスラームの伝統を「反理性的」と捉えることは決してできないのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○中村廣治郎著『イスラム教入門』(岩波新書、1998年)
○井筒俊彦著『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)
 

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2006年9月24日

ローマ法王の失言 (3)

 9月16日18日の本欄でこの問題に触れてからしばらくたち、ベネディクト16世がレーゲンスブルク大学で行った講義の全文を読む機会にやっと恵まれた。私は、“問題発言”とされた部分をよく読み、それからヴァチカンのそれに対する説明(釈明)を読み、結局、ヴァチカン側の説明は嘘でも言い逃れでもないことを知った。法王の講演は、場所が大学であり、聴衆が専門家であるという関係から、哲学や神学に対して詳しくない者にとってはとても難解である。しかし、法王はイスラーム全体を攻撃しているのではなく、むしろイスラーム社会と西洋社会との対話のためには、「神への信仰」が共通項として必要であるという点を強調している。そして、批判の対象となっているのは、むしろ神の存在を否定する西洋の世俗主義なのである。が、その反面、「法王はイスラームを敵視しているに違いない」という“色眼鏡”をかけてこの講義を読めば、そう読める箇所がいくつか発見されることも事実である。

 だから、この件が国際問題になり、世界宗教の最高指導者が“釈明”しなければならない事態に至ったのは、マスメディアの報道姿勢が相当関与していると私は考えるのである。この場合のマスメディアとは、もちろん西側だけでなくイスラーム側も含む。つまり、「キリスト教とイスラームは対立関係にある」との一大前提のもとで取材し続けている人々の目から見れば、法王の大学での講義は「イスラーム批判」として映ったのだろう。「そう見えたから、そう伝えた」と彼らは言うかもしれない。が、それだけでは一流のジャーナリストとは言えない。いわゆる「裏を取る」というジャーナリズムの鉄則が、今回の報道の過程でどれだけ守られたか、私ははなはだ疑問に思う。
 
 私が上掲の日付で書いた2つの文章は、そんな誤解にもとづく記事を元にしているため、不適切な表現がいくつか見られた。その点は、カトリック教会関係者の方々に謝らねばならない。特に、9月16日の文章中、条件文ではあったけれども「勉強不足」などという失礼な表現を使ったことを申し訳なく思い、それを撤回する。(文章から削除しました)
 
 その上で、私は「しかし……」と言わねばならない。なぜなら、法王の講義文には、イスラームの教えに関して余りにも「概括的」な表現が見られるからだ。つまり、数多くある例外には触れずに、例外でないものが全体であるかのような包括的な表現があるのである。例えば、次の文章がそれである:

「すなわち、理性に従わない行動は、神の本性に反するということです。(中略)ギリシア哲学によって育てられたビザンティン人である皇帝にとって、この言明は自明なものでした。それに対し、イスラームの教えにとって、神は絶対的に超越的な存在です。神の意志は、わたしたちのカテゴリーにも、理性にも、しばられることはありません。クーリーはそこで、有名なフランスのイスラーム研究者のR・アルナルデスの研究を引用します。アルナルデスは、イブン・ハズムが次のように述べたことを指摘しています。『神は自分自身のことばにさえしばられることがない。何者も、神に対して、真理をわたしたちに啓示するよう義務づけることはない。神が望むなら、人間は偶像崇拝でさえも行わなければならない』」

 この文章は、どこからどこまでが引用で、どれが法王自身の考えであるかが不明確であり、そのことも誤解を招く原因の1つなのだが、全体として感じ取れるのは「イスラームの説く神は理性を超えている」というメッセージである。「超えている」という表現は何か素晴らしいようにも聞こえるが、場合によっては「神は理性的判断を拒否する」とか「神は理性の沈黙を要求する」と解釈することもできるのである。そういう解釈は、しかし事実に反すると私は強調したい。
 
 英国オックスフォードにあるセント・アントニーズ大学のイスラーム研究者、タリク・ラマダン氏(Tariq Ramadan)も、9月21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙の論説欄でそのことを指摘している。ラマダン氏は、ローマ法王の今回の講義の中に「イスラームの理性主義の役割を消し去ったヨーロッパ思想史の読み方」があるとし、そこでは「アラブとイスラームの貢献は、ギリシャ、ローマの偉大な功績の単なる翻訳に矮小化されている」と抗議している。そして、イスラーム信仰者に対して、自分たちはヨーロッパと西洋の基盤となる中心的価値を共有していることを理性的に、感情に走らないやり方で、実際に示して見せるべきだと提言している。
 
 簡単に言えば、「イスラーム=信仰(狂信?)」「西洋=理性」というような単純な2分法は間違いなのである。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○カトリック中央協議会、司教協議会秘書室研究企画訳「教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演」(2006.9.19)

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2006年9月23日

「死」は人生の“収穫”なり

 秋分の日の今日は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が執り行われ、私はお祭の斎主として奏上の詞を読み、ご挨拶を申し上げた。以下は、私の挨拶の概略である。

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 本日は恒例の秋季慰霊祭に大勢お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。このお彼岸の季節は、秋の到来がひとしお明らかに感じられます。「猛烈な」という枕詞がついた台風14号が日本に近づいていますが、幸い本土上陸はないとの予報です。私の家の庭にあるヒガンバナも白い花、赤い花が咲き乱れて実に美しいし、キンモクセイの香りがどこからともなく流れてきます。これからは日増しに秋が深まってきて、作物も、紅葉も、運動会も、遠足も、文化祭も……というように、自然界・人間界の活動は“収穫期”を迎えるわけで、私は個人的にはこういう「秋」が大好きです。
 
 自然界に収穫期があるのと同じように、我々人間の人生にも収穫期があります。ときどき人は、人生の収穫期とは退職金をもらう時期だとか、その後の自由な老年期だと考えることがありますが、本当は「死」が収獲をもたらすのです。「帰幽の神示」の中では、人生を音楽の1曲に喩えて次のように教示されています:
 
「すべての人の仮有(けう)は念の異なるに従って、その顕現を異にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今迄の念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の弦をもって1曲を弾じ終ってそれを止め、他の奏曲に移らんとするにも等しい」
 
「仮有」とは現象身のことです。肉体や霊体などの媒体によって現れている姿です。肉体をもって生活する時期が終ったならば、私たちは次の現象身を使った生命表現をしなければなりません。それを音楽に喩えれば、「1曲を演奏し終る」ということです。音楽の種類によっては、1曲のクライマックスが来ても必ずしも音楽は終らない。そして、クライマックスを上手に弾いても、最後の部分で音程を外してしまっては演奏の価値が下がってしまう。楽譜で言えば、最後の音符を弾き終わった後に、その演奏家の、その演奏の価値が決まりますね。それと同じように、我々も肉体生命が終ったときに、その人の、その人生の収獲が定まる。そういう意味で、「死」が到来することは必要であり、大変価値あることなのです。

 我々日本人は、仏教の考え方に親しんでいるので、人の生れ変わりについてあまり疑問をもっていません。生長の家でも、人間は何回も生れ変わってきて、様々な人生で異なった体験を積むことで、「神の子」としての実相をより明らかに顕現していくのだと教えています。ということは、死によって人間の生命は終らないということですから、死への恐怖は少ないのです。しかし、欧米では、生れ変わりを認めないキリスト教の教えが長いあいだ盛んだったため、「死」を極端に恐怖する人々もいて、そこから過剰な延命治療の問題も出てきているようです。科学は普通、物質的証拠を基本とするので、生れ変わりを否定するのですが、最近は心理学の分野から、「生れ変わり」を研究する人々が出て来ていることは興味あることです。私は、講習会などで「前世を記憶する子どもたち」の話をすることがありますが、最近、日本教文社から出た『転生した子どもたち』(ジム・B・タッカー著/笠原敏雄訳)という本の中に、面白い例が出ているので紹介します。
 
 (同書にある「戦死した日本兵の記憶をもつミャンマーの子どもの話」を紹介)
 
 日本では近頃、テレビや本を通じて“前世ブーム”があるようですが、生長の家では霊界の話や前世の話は「深入りしない」ようにお勧めしているのは、ご存知のことと思います。その理由は、そういう話は客観的な立証ができないので、“言いたい方題”という側面があるからです。つまり結局、霊能者を「信じるか信じないか」ということになるからです。生長の家は「人間は皆、神の子」という教えなのに、それを忘れて「霊能者は神の子だが自分はダメ」と考え、詐欺まがいのこと引っかかる“心の隙”が生まれる。さらに言えば、前世が気になって、現世を過ごすことに支障が出てくることもあるからです。
 
 しかし、我々が自分や他人の前世に捉われるのではなく、「生れ変わり」があることや「生命の不滅」を信じることは、大いに意味があることです。先ほど紹介した本の著者も、このことを次のように指摘しています:
 
「哲学的に聞こえるのをあえて承知したうえで推測を重ねると、(中略)人生の目的は生涯ごとに変わる可能性があることもわかる。私たちは、“人生の意味”をひとつしか持っていないわけではなく、生涯ごとに違う目的をいくつか持っているのかもしれない。ある人は、他の人とはまるで違う感情的問題に取り組んでいるかもしれない。そのため、全エネルギーを愛する人たちとのつながりに傾注することで満足する人たちもいる。また、人から離れて仕事の世界に没頭することで満足している人たちもある。おそらく私たちは誰しもが、自らのさまざまな側面に順番に取り組み、正しい認識に近づこうとするのだろう」(同書 p.270)

 この「正しい認識」について、科学者である著者は何も言っていません。しかし、我々はそれが人間は「神の子」であり「仏」であるという宗教的真理の把握である、と教わっています。それを得ることで、我々は現在の生を真に「意味あるもの」「価値あるもの」と知るとともに、他の人々の生がどんなものであっても、同様に「意味あるもの」「価値あるもの」であることが分かる。同書の著者はまた、「一度の人生であらゆる種類の経験や成功をしなければ、人生が価値あるものにならないということではないのだ」と言っています。このことは、経済的、社会的成功を急ぐあまり、かえって不幸な人生を送る多くの現代人に必要なメッセージと思います。

 皆さんは「人間は死なない」という生命不滅の教えをひろめることで、執着を放つ“ホトケの人生”の意義を、これからも益々多くの人々に伝えていただきたいと思います。本日は、お参りくださいまして誠にありがとうございました。
 
谷口 雅宣
 

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2006年9月22日

温暖化ガスの排出が訴訟対象に

 アメリカは“訴訟社会”とは聞いていたが、意外なところが意外な相手を提訴するものだと驚いた。カリフォルニア州が、トヨタ、GMなどの自動車メーカー6社を同州連邦地裁に提訴したのである。理由は、自動車の排気ガスが地球温暖化をもたらし、同州に損害を与えているからというもの。22日の『産経新聞』が伝えている。それによると、同州は、地球温暖化にともなう海岸の浸食や洪水の頻発、オゾン層の減少などへの対策に巨額の費用を支出してきたから、その原因をつくった自動車会社に損害賠償を求めるという。
 
 同日付の『ヘラルド・トリビューン』紙はさらに詳しいが、それによると、提訴されたのはトヨタ、GMのほかフォード、ホンダ、クライスラー、ニッサンの6社。同州は、これらのメーカーが製造した自動車が全体で2億8900万トンのCO2を大気中に排出したため、公共の利益を阻害しているとしている。同州の司法長官、ビル・ロッキヤー氏(Bill Lockyer)は、「地球温暖化はカリフォルニアの環境、経済、農業、州民の健康に相当の害を与えている」と言い、「自動車からの排気ガスは、排出されたCO2の中で最も急速に増加している分野だが、連邦政府も自動車メーカーも対策を講じようとしていない」と非難している。ロッキヤー氏によると、6社の製品はアメリカが排出するCO2の全体の5分の1に責任があり、カリフォルニア州だけでも3分の1を排出しているという。

 これに対し、自動車メーカーを代弁するアメリカ自動車製造会社同盟(Alliance of Automobile Manufacturers)は、「自動車会社は、よりクリーンで、効率のよい自動車をすでに生産している」とし、「現代の自動車は、1世代前のものと比べると99%もクリーンであり、現在のモデルのすべてに、何らかの形で燃費効率を向上させる技術が取り入れられている」から、きちんと対策を講じているのだと主張する。
 
 9月1日の本欄で書いたが、同州は先月末、州議会で温暖化ガスの排出量を2020年までに25%削減する法案を成立させた。これができれば、温暖化ガスの量は京都議定書の基準年(1990年)のレベルまでもどることになるが、同議定書では、先進国はそこからさらに6~7%削減することを義務づけられている。アメリカは国としては同議定書に参加していないが、州レベルでは、このカリフォルニアのように参加しようとする動きが出ているのだ。
 
 アメリカで州がメーカーを提訴するというのは、タバコ会社に対して医療費増大の損害賠償を要求する例があった。自動車メーカーに対する損害賠償請求でも、カリフォルニアに同調する州が増えてくれば、連邦政府を足元から動かす力になりえるかもしれない、と私は密かに期待している。
 
谷口 雅宣

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2006年9月20日

グーグル・ニュースに“待った”

 私は8月4日の本欄で「ニュース配信の新潮流」と題して、アメリカの新聞や雑誌社のサイトに、他社のニュースや記事の見出しを表示する“潮流”のことを紹介した。「ロボット検索」を得意とするグーグルやヤフーのニュース・サービスに対抗する新潮流だと思ったのだが、ここへ来てこの種のサービスに対して著作権問題で“待った”がかかった。ベルギーの裁判所がこのほど、グーグルに対してグーグル・ニュースのサイトからベルギーの新聞のコンテンツをすべて削除させる決定を下したからだ。それに従わない場合は、1日当たり100万ユーロ(127万ドル=約1億5千万円)の罰金が科されるという。今日(20日)付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 それによると、この決定に伴い、グーグルはグーグル・ニュースのサイトからベルギーに本部をもつフランス語とドイツ語の新聞のコンテンツを削除したという。グーグルを提訴していたのは、ベルギーの主要な新聞の著作権保護を支援している「コピープレス」(Copiepresse)という組織。ベルギーでの第1審法廷は今月開かれたが、グーグルの言い分では、そのことと判決内容を知ったのは15日になってからという。グーグルのロンドン駐在スポークスマンは、この決定に対して控訴する意向を示しているが、ベルギーの新聞のコンテンツは、18日からグーグルのサイトから消えているらしい。

 コピープレスのマーガレット・ボリボン氏(Margaret Boribon)がロイター通信に語ったところでは、訴訟を起こしたのは、グーグルが新聞社の仕事から利益を得ているためであり、コピープレスはグーグルに対して記事の使用許諾をきちんと得て、使用料を払うように求めているのだという。これに対しグーグル側は、「我々はユーザーが記事を探しやすくし、また多くのユーザーを新聞社のサイトへ導くことで、新聞社に利益を与えている」と反論している。グーグルはさらに、「新聞社は、自社の記事がわが社のサイトに掲示されることに反対ならば、そう言ってくれれば削除するという方針を明確にしている」として、訴訟など全く不要だと主張している。しかし、新聞社や通信社に言わせれば、「本当の問題は、我々が大金を使って世界中から集めたニュースの見出しや写真、記事の価値を、彼らが認めないことにある」という。

 どちらの言い分にも一理があると思う。双方の言い分の中で明確になっていないが、この問題の基本にあるのは、インターネットによる広告収入だ。ネット上でニュースが読めることになって、新聞や雑誌の売り上げが減っている。ネット上の記事の多くが無料で簡単に入手できるのに対し、新聞や雑誌は有料だからだ。部数が減れば当然、広告収入は減る。これに対しネット上の広告収入は増加しているが、パソコンの1画面に「多種のニュースを一覧する」という機能には限界がある。物理的な限界に加え、ライバル社のニュースまで表示するわけには行かない。しかしユーザーの立場から言えば、「複数のライバル同士の記事を読み比べられる」というメリットは、1社からは得がたい新しい価値だ。そういうサイトへ行くユーザーが増えれば、そこの広告収入が増加する。

 インターネットという便利で新しい媒体が登場することで、従来より高度な情報を得られる価値は棄てがたい。しかし、その一方で、従来型の情報収集の質が落ちるようでは、元も子もない。時間がかかっても、両者が共存する道を見つけ出してほしい。
 
谷口 雅宣

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2006年9月19日

サハリン2の事業停止

 日本企業も参加するロシア極東の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」に対し、ロシア天然資源省が事業化の調査承認を取り消すと発表し、事実上の事業停止命令となった。今日(19日)付の新聞各紙が一斉に報じている。理由は、環境対策が不十分ということだが、同省は2003年7月に環境や採算性などの問題を検討した専門家による事業化調査をもとに、この計画を一度承認していたし、石油生産はすでに99年から始まっているから、妙な“言いがかり”のようにも見える。このため、プーチン政権の資源外交の一環として、ロシア国営天然ガス独占企業であるガスプロムの権益獲得と国家統制強化をねらったものと思われる。
 
 今年1月7日の本欄で、「エネルギーの政治力」という題でロシアの強引な天然ガス値上げ策について書いたのを、読者は覚えているだろうか? ロシアは、ウクライナ向けの天然ガスの供給を突然止めてしまい、ガスプロムを経由する方法で一挙に何倍もの値上げを達成した。その過程で、ウクライナと同じパイプラインを使っていた西ヨーロッパ諸国を一時、大混乱させたのである。私はその時、「ロシアが各国の“忠誠心”を天秤にかけて価格を操作する可能性が大きい」と書き、さらにこのことが「サハリンの石油・天然ガス開発に期待している日本や中国との関係にも言える」と述べた。今回は直接「価格」を吊り上げはしないが、開発事業全体を“人質”に取ることで、間接的にロシアの取り分を増やすことを狙っているようだ。
 
 このプロジェクトは、エリツィン時代の1994年に契約が締結され、99年から石油生産が始まり、天然ガスはパイプラインで南部へ輸送し、LNG(液化天然ガス)に加工して2008年にも輸出開始が見込まれていた。ロシアが外資導入を目的として計画したため、事業主がロシア政府に利益の6%を支払えば、投資回収まで石油・天然ガスの所有権がすべて事業主に帰属するという“資本有利”の契約だった。資本比率はロイヤルダッチ・シェルが55%、三井物産25%、三菱商事20%という外資のみの出資だった。そこへ、近年になってロシア側から「契約内容への不満」が表明されるようになり、国営企業ガスプロムを割り込ませる交渉が進み、昨年7月には、シェルの保有分から25%の権益を獲得することで合意していた。ロシアは、今回の強硬策を打ち出すことで、外資側からさらに譲歩を引き出そうとしているのだろう。

 19日付の『ヘラルド朝日』によると、このロシアの決定により影響を受けるのは、「サハリン2」だけでなく、その北部の「サハリン1」と「カリアギンスク」の2プロジェクトも含まれ、エクソン・モービルとトータルという2つの外資も影響されるようだ。「サハリン1」にはロシア国営企業ロズネフトが20%の権益をもっている。また「サハリン2」の油田からは、すでに日量7万バレルを超える石油が生産されており、プロジェクト完成の暁には生産量は倍増する予定だった。同プロジェクトの総事業費は200億ドル(約2兆3千億円)で、そのうち三井物産は約5700億円、三菱商事は約4600億円を負担する見込みだが、問題が長期化すれば当然、負担は増大する。

 日本政府は、中東に依存していた化石燃料の輸入先を多様化する政策の一環として、「サハリン2」への日本企業参加を支援してきたが、ロシアの強硬な資源外交に振り回される形になった。19日付の『日本経済新聞』夕刊によると、政府は斎藤泰雄・駐ロシア大使を通じて18日に同事業の円滑な実施を求めたといい、二階俊博・経済産業相は同日午後にも、ロシアのロシュコフ駐日大使をロシア大使館に訪ね、説明を聞く予定だという。

 海外の化石燃料に執着すれば、日本は今後ますますこの種の政治的摩擦に巻き込まれることを覚悟しなくてはなるまい。国内に豊富にある自然エネルギーの開発促進が急務のゆえんである。

谷口 雅宣

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2006年9月18日

ローマ法王の失言 (2)

 前回(9月16日)の本欄で書いたローマ法王、ベネディクト16世の問題発言について、法王自身が“遺憾の意”を表明したことは幸いだった。ヴァチカンは14日に「法王は宗教的な動機による暴力を明確に、完全に否定することが最も大切だと考えている。ジハードやイスラム教の教義に関する踏み込んだ議論を意図した発言ではない」(16日『朝日』夕刊)という声明を発表したそうだが、これでは不十分だった。18日付の『朝日』の報道によると、法王は日曜日の17日、ローマ郊外の夏季離宮で恒例の「正午の祈り」を行った際、ドイツ訪問中の発言について、「一部の国々であった反応を非常に残念に思う」と述べ、預言者モハンマドに対するビザンチン皇帝の言葉を引用したのは、「古い文献からの引用であり、決して私の個人的な考えを表現したものではない」と釈明したという。同紙は、法王本人による後日の釈明は「極めて異例」としている。
 
 18日付の『ヘラルド・トリビューン』は、法王の弁明の言葉から3箇所を括弧でくくって次のように書いている。
 
「私がレーゲンスブルク大学で行った講義の一部について、いくつかの国で起こった反応に対して非常に申し訳なく思う。それはイスラーム信者の感情を傷つけると見なされたからだ」「これらは実際は中世の文献からの引用であり、いかなる意味でも私の個人的考えを表明したものではない」「これによって人々の心が和らぎ、私の発言の本当の意味が明らかになることを希望する。それは、全体を捉えれば、相互の尊敬を通して率直で真剣な対話を呼びかけるものである」

 さて前回、私はこのような不注意な発言がどうして起こったか分からないと書いたが、パリ発の『産経』の記事(18日付)に1つの答えらしいものがあった。それによると、「法王は1人で演説原稿を起草し、他の枢機卿などが目を通すこともないという」のだ。この情報の出所は明示されていないが、法王の立場と仕事量を考えると、私にはにわかに信じられないことである。が、世界宗教のトップの指導者で、信者から“神”のように慕われている人が、自分の発言に対して「非常に申し訳ない(I am deeply sorry)」と述べることは、とても勇気がいることであり、称賛に値すると思う。だから、イスラーム圏の人々も怒りを静めて、キリスト教との「率直で真剣な対話」を進めてもらいたい。

 ところで、本件に関する17日付の解説文が「カトリック中央協議会」のウェッブサイトに掲げられているが、それは新聞記事とは多少違うニュアンスをもっている。翻訳調の日本語が気になるが、「信者向け」の解説文なのかもしれない。以下にその一部を引用しよう:

「教皇は、自分の講演の中のある表現が、イスラーム教徒の感情を害する意味でとられる可能性があったこと、また、それが自分の意図とまったく違ったしかたで解釈される恐れがあったことについて、心から遺憾に思っています。実に、教皇は、イスラームの人びとの熱心な宗教性を前にして、『神をないがしろにする態度、また、聖なるものを馬鹿にすることを自由の行使とみなすような冷酷な思想』をもつことを避けるよう、世俗化した西洋世界に警告したのです」

「聖なるものを馬鹿にすることを自由の行使とみなす」という件を読むと、かつて大問題を起こしたモハンマドの風刺画事件のことを思い出す。そういう西側メディアの風潮については、カトリック教会もイスラーム世界も同じ考えであるということだろうか。

谷口 雅宣

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2006年9月16日

ローマ法王の失言

 ローマ法王、ベネディクト16世が故郷のドイツに“里帰り”し、かつて自らが教えた大学で講演をした際、イスラームのジハード(聖戦)の思想を批判した言葉が、イスラーム社会で反発を招んでいる。法王は、「ジハードの思想に体現された暴力は、理性と神の意志に反する」という意味の発言をしたらしい。

 私は法王の講演の全文を読んでいないので確かなことは分からないが、9月14日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、法王は理性(reason)を信仰よりも重視した世俗化(secularization)がヨーロッパの社会と思想・哲学に広がりつつあることを憂慮し、このように理性を至上化するだけでは、世界の真の姿を知ることはできないし、信仰を最大の価値とする他の文化と対話することはできない、と述べたかったようだ。ところが、イスラームについて言及する際、法王は14世紀のヴィザンチン皇帝、マニュエル2世パライオロゴスの言葉--「モハンマドの教えで何か新しいものがあるとしたら、それは自分の説く教えの宣布を暴力と剣によって行うというような、悪と非人間性しか見当たらない」を引用し、暴力によるイスラームへの改宗は理性に反するものであり、したがって神の本性に反するものだ、と述べたという。

 法王の講演でイスラームに触れた部分は、段落にして3つ分の長さだったが、この箇所がメディアを介して世界中に伝わったため、イスラーム社会の怒りを買っているのだ。

 16~17日付の『ヘラルド・トリビューン』は、イスラマバード発のAFP通信の記事を掲載し、パキスタン議会が法王に対してイスラームと暴力を結びつけた発言を撤回するように、全会一致で決議したと伝えている。この決議文で、パキスタン議会は「宗教間の平和のために法王は発言を撤回すべきだ」とし、「ジハードの思想と預言者モハンマドに対する法王の侮蔑的発言は、イスラーム世界全体の感情を傷つけ、2つの宗教間に悪感情を広げる危険を生んでいる」と非難しているという。
 
 同紙はこのほか、1989年以来、インドからの分離独立を目指すカシミール地方のイスラーム武装組織がストライキを呼びかけたことや、イギリス北部の都市、ロシデールを拠点とするイスラーム組織「ラマダン基金」(Ramadan Foundation)が反対声明を出したことを報じている。同基金は声明で、「故ヨハネ・パウロ2世は、25年をかけてイスラーム社会との橋を築き、世界が抱いていたイスラーム観は間違いであり、イスラーム信仰者は平和を愛する人々だと示してきた」にもかかわらず、「現在の法王は、前任者を模範としないことに我々は落胆した」と述べているという。
 
 法王のスポークスマンであるフェデリコ・ロンバルディ師(Reverend Federico Lombardi)は、「法王は宗教による暴力に反対しただけで、イスラームの教えを尊敬している」という意味の声明文を事後に出したというが、それだけでイスラーム社会の不満が収まるとは思えない。
 
 本欄ではイスラームについて何回も触れているが、イスラームの信仰が理性とはかけ離れていると見るのは、明らかな間違いだ。8月12日の本欄でスンニ派イスラームのワッハーブ主義の考え方を説明した際、「ワッハーブ主義は(…中略…)理性を重んじるシーア派の考え方もスーフィズム(神秘主義)も敵視して、コーランその他の聖典に書かれた言葉を唯一の根拠として、公私すべての問題の解決を図ろうとするもの」と書いた。だから、シーア派のイスラームは理性を尊重しているのであり、「理性」を明確にイスラームの法源として認めている。ローマ法王がそれを知らないとは考えられず、もし見落としていたならば、それを法王のスピーチ・ライターや側近がダブルチェックできなかったのだろうか? とにかく今回の法王の失言の原因が、私には理解できないのである。

谷口 雅宣

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2006年9月15日

バイオ燃料は来夏から首都圏で

 日本でのバイオ燃料の利用計画が具体化してきた。これはいいニュースだが、問題が1つある。それは、政府推奨と業界推進のバイオ燃料の種類が違う点だ。当面は2本立てで行くことになるかもしれない。
 
 農水省は、5年後に年間5万キロリットルのバイオ燃料の生産を目指し、来年度予算の概算要求に106億円を盛り込んだ(9月8日『朝日』夕刊)。ここで言う「バイオ燃料」とは、規格外の麦、くず米、サトウキビなどから作るバイオエタノールと、ナタネ油や大豆油等の食用油の廃油から作るバイオディーゼルである。一方、環境省は、4年間で約12億円の予算を見込み、沖縄産のサトウキビを原料としたバイオエタノールの振興を図る(9月9日『日経』)。来年度はガソリンに3%直接混合した「E3」を宮古島の車1千台に供給する計画だ。これに加え、経産省は8億円の予算で燃料供給設備などを整え、同島内の流通を図る。環境省は2010年には、この動きを全国に広げ、新車すべてをエタノール10%混合の「E10」対応にし、2030年には全車へのE10導入を目指すという。

 この政府の計画に対して、石油業界は「ETBE」という別の方式のエタノール混合ガソリンの導入を計画している。これは、「イソブテン」という添加物をバイオエタノールに加えたもので、エタノール直接混合型よりも雨水や湿気に強いから、現存の貯蔵設備にあまり手を加えなくてすむ。しかし、大気中にETBEの排気が混ざると、人間の呼吸機能や生殖機能に有害な影響を与えるとの指摘もあり、オーストラリアでは使用が禁止されているという(同上の『日経』)。
 
 9月13日の『日経』は、石油業界の計画をもっと具体的に報じている。それによると、新日本石油や出光興産などの石油元売り10社は、来年初夏から首都圏のガソリンスタンド50店で、ETBEを混合したガソリンを販売するという。混合ガソリンは、横浜にある新日本石油の根岸製油所で一括生産し、加盟各社に出荷。初年の販売目標は14万キロリットルで、値段は普通のレギュラーガソリンと同程度に抑える計画。2009年には、販売店を首都圏外ににもひろげて合計1000店舗を目指し、2010年には国内ガソリン販売量の2割(約1200万キロリットル)をETBE混合ガソリンに切り替えるという。
 
 バイオエタノールの製造技術についても、明るいニュースがある。地球環境産業技術研究機構(RITE)とホンダが、イネのわらなどの食べられない繊維質からバイオエタノールを製造する基礎技術を開発したという(9月15日『産経』)。来春にも共同で試験工場を立ち上げ、2~3年以内に実用化する計画。イネの籾殻からバイオエタノールを製造する技術はすでにある(5月13日の本欄参照)から、イネは実だけでなく、すべてを利用できるようになる。また6月26日の本欄では、三井造船が木屑からエタノールを製造する実験工場を昨年6月から稼動させていることを紹介した。日本の森林資源とイネ、さらに雑草類が自動車の燃料として有効利用される日も近づいてきたようだ。
 
 本欄ではバイオエタノールの利用計画について、「過渡的」ではあるが「有効」として評価してきた。「過渡的」という意味は、原料となるサトウキビやトウモロコシ等が人間の食料でもあるから、将来的には人間と機械が“燃料”の奪い合いをする可能性があるからである。しかし、化石燃料を燃やしてCO2を出すよりはいいので、燃料電池車などが普及するまでの緊急避難的温暖化防止対策としては「有効」と言えるだろう。

谷口 雅宣

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2006年9月14日

色覚の起源

 私は各地で行う生長の家講習会の講話で、「人間は世界の本当の姿を感覚では捉えられない」という話をよくする。いわゆる「実相」と「現象」は違うということだ。そんな時、「空は本当は何色ですか?」などとトリッキーな質問をすることもある。常識的には「空は空色だ」と考えるが、空に特別な色などついていないことは、航空機に乗ったことのある人はよく知っている。航空機の窓に何色かがべったり付くことはないからだ。空には一定の色などない。様々な波長を含む太陽光の中で、どのような波長のものが人間の視覚に入りやすいかによって、空の色は変化する。いや、もっと正確に言えば、人間の視覚の中で発生する色の感覚に変化が生じる、のである。変化するのは「空の色」ではなく、「人間の色の感覚」である。--このへんの解説は結構わかりにくいので、上記の説明に納得できない人は拙著『心でつくる世界』の第2章を参照されたい。
 
 ところで、我々のもつような色覚を哺乳動物のほとんどの種はもっていない、と言うと驚く人がいるだろうか? 犬、猫、牛、馬、山羊、羊、ネズミ……などは、ほとんど色盲であるという。哺乳動物では、人間と人間の属する霊長類--ゴリラ、チンパンジー、ヒヒ、オランウータンなど--そしてサルにだけ色覚が発達している。科学者の間では、その理由がいろいろ考えられてきたが、なかなか決定的なものがなかったそうだ。そこへ最近、有力な新説が提示されたらしい。9月12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に、カリフォルニア大学の人類学者、リンヌ・イスベル博士(Lynne A. Isbell)がその説を紹介している。

 まず“旧説”を振り返ると……これらのサルたちは熱帯の樹上で生活してきたから、そこから落ちたり滑ったりしないために優れた視覚が必要だった、というのが初期のものだ。この説は20世紀初頭から半世紀にわたって使われてきたが、1970年代になって、リスなどサル以外の多くの哺乳類が樹上生活をしていて色覚が発達していないことが指摘され、権威を失った。次に登場したのが、サルは昆虫を捕食するために色覚を発達させた、という説である。昆虫のように動き回り、保護色などを使う動物を捕らえるためには、優れた目が必要と考えられたからだ。しかし、昆虫を捕らえるためには、聴覚や嗅覚だけでも十分役に立つ。そこで90年代に発案されたのが、「何でもできるため」という説だ。つまり、昆虫も果実も食べ、遠くの枝につかまるためにも目がよくなければならない、というわけだ。

 これらの説は皆、「食べる」ことに有利な方向に感覚が発達するという前提で考えられた。しかし、動物にとって「食べる」ことと同じように重要なのは「食べられない」こと--つまり「捕食者から逃れる」ことである。その視点から霊長類やサルの色覚について研究したことが、新説登場の契機となったようだ。霊長類の脳を研究してみると、視覚を担当する脳の部分で最も発達しているのは、「目で見てものを捕らえる」ための領域らしい。具体的には、前方を注視し、近くのものを背景から浮き上がらせ、また保護色によって隠されたものを見つけるための部分だ。新説は、このような脳の領域は、「誤ってヘビを踏みつけないため」に発達したというのである。

 イスベル博士は、人間を含めたほとんどの霊長類はヘビを極度に嫌うこと、加えて毒ヘビのいないマダガスカル島のキツネザルはヘビを恐がらず、その視覚は最も単純であることなどを証拠に挙げて、新説を擁護している。簡単に言ってしまえば、我々人間が現在、“天然色”の自然を見て「美しい!」と感動できるのは、大昔にヘビの祖先が我々の祖先の生存を脅かしてくれたおかげ……ということになる。

 ところで、私はヘビを好きではないが、姿を見て「恐怖」するようなことはない。しかし私の妻は、ヘビを見ただけでムシズが走るらしい。一方私の息子の1人は、小さい頃、どこかの動物園でヘビを肩から掛けて大騒ぎを起こしたことがあるが、私はヘビと接触したいとは思わない。私もその息子も視力が良いとは言えないが、妻の視力は長いあいだ左右とも「2.0」で、ほとんど完璧だった。この事実は、何かを説明しているだろうか?

谷口 雅宣

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2006年9月13日

夫の死後に妊娠する (3)

 9月5日の本欄で、夫の凍結精子を使って夫の死後に妊娠した子を夫の子として認知する訴えについて、初めての最高裁判決が出たことを書いた。その後、9月8日以降、同様の趣旨の2件の訴えについて最高裁判決がたて続けに出た。3例すべてが認知を認めない判決であり、これで最高裁に係属中の同趣旨の請求訴訟はすべて終結したことになる。
 
 『朝日新聞』は12日付の紙面の「ニュースがわからん」というQ&A形式の欄でこの判決を取り上げて、解説している。それによると、現在の日本の民法は、夫の死後300日より後に生まれた子には父子関係を認めていない。だから、このようなケースでは戸籍も父の欄は空欄となり、結婚や就職の際に不都合が生まれる可能性がある。また、扶養も相続も受けられず、祖父の財産を代襲相続する権利も発生しない。つまり、夫の死後に凍結精子を使って妊娠・出産しても、その子に父親から得られる法的なメリットは何もない。したがって、裁判所は父子関係を認める意味がないと判断した、というのだ。
 
 問題の核心には、科学技術の発達が法律の想定外の事態を生み出しているという現実がある。つまり、「凍結精子は半永久的に保存できる」という事実があり、この技術を利用して実際に凍結精子が保存され、それを使った夫の死後妊娠を医師が妻に行っているのである。9月5日に書いた例では、夫は白血病の治療のための放射線照射で無精子症になる危険を考えて精子を凍結したが、病状が悪化して死亡、妻が夫の死後、妊娠を希望したのだろう。この時、医師は妻の要望を拒否することもできた。なぜなら、政府の審議会の提言や日本生殖医学会の見解では、「凍結精子は死亡後に廃棄する」ことになっているからだ。担当の医師がそのことを知らないはずはない。が恐らく、妻の要望に同情したのだろう。あるいは、妻は夫が死亡したことを言わずに、医師に妊娠を希望したのだろうか。仔細はわからないが、凍結精子による懐妊について、医師と妻(患者)との間に情報の行き違いがあったような気がする。

 この3例の子は結局、法的には“父のいない子”としての人生を歩むことになる。これを母親の責任とするか社会の責任とするかは、見解が分かれるだろう。私は、この件を含む生殖補助医療全般についての法整備を早く進めるべきと思う。このことは、もう何年も前から諸方面から指摘されてきたことだが、社会的な合意形成が進んでいない。全般的な法整備が難しいのなら、この件のような「夫の死後の凍結精子による妊娠」に限って立法化できないものだろうか。上述した9月5日の本欄で外国の立法例に触れているが、私は現在、個人的にはイギリスのように「夫の同意書があれば認められる」とすることがいいように感じている。ただし、夫の死後いつでもいいとするのは問題なので、スペインのように「半年以内」とかイスラエルのように「1年以内」などと、期限を切って認めるのはどうだろうか。

 ところで、9月9日の『朝日』には昨年、40歳以上の女性が産んだ子供の数が47年ぶりに2万人を超えたことが報じられていた。47年前にも2万人を超えていたということは、当時は出生数全体が多かったのだろう。割合で言うと、昨年の新生児の約50人に1人は40歳以上の女性から生まれたことになるという。同じ数値が、1995年には「約90人に1人」だったというから晩婚・晩産化は急速に進んでいる。このことが何を意味するかを考えてみると、今回のようなケースを含む生殖補助医療全般への需要が拡大しているということだろう。凍結精子による妊娠が可能ならば、卵子の凍結保存による妊娠も可能である。特に卵子は、加齢とともに妊娠の確率が下がっていくから、晩婚・晩産を考える女性は、若い未婚時に自分の卵子を凍結保存し、結婚後にそれを使って妊娠することも選択肢に入ってくる。男も同じことを考えれば、セックスレスで子をつくる夫婦が増えることになる。技術の一人歩きを、いつまでも放任しておけないと思う。

谷口 雅宣

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2006年9月11日

受精卵を壊さないES細胞の道 (3)

 8月24日の本欄で、アメリカのバイオ企業が初期の受精卵から細胞1個を取り出して培養し、これをES細胞にする実験に成功した話を伝えた。これは“受精卵を壊さないES細胞”としてメディアに大々的に報道されたが、実は「受精卵を壊していた」ことが分かった。9月12日付のイギリスの科学誌『New Scientist』が伝えている。
 
 この研究はイギリスの科学誌『Nature』の8月21日号に発表されたものだが、その際、これを発表したアドバンスド・セル・テクノロジー社(Advanced Cell Technology)のボブ・ランザ氏(Bob Lanza)らは、ES細胞を得る一方で「受精卵には傷をつけなかった」と説明した。ところが、発表された論文を細かく読んで分かったことは、この研究では、着床前遺伝子診断(PGD, preimplantation genetic diagnosis)と同様に、8分割の状態になった受精卵から細胞を取り出すのだが、PGDが細胞を1個だけ取り出すのに対して、この研究では、同じ受精卵から何回も細胞を取り出していて、その結果、受精卵は死んでしまっていたことだ。ランザ氏の言い分は、「PGDは普通に行われている手法であり、受精卵は死ぬことはない。我々は、それと全く同じ方法で細胞を取り出しているから問題はない」というものらしい。
 
 だからこの研究では、厳密には、受精卵を壊さないでES細胞を得たとは言えない。『Nature』誌も報道発表を2回も訂正することになり、不名誉な結果となったらしい。受精卵の利用に反対するカトリックの側からは、「この研究で分かったことは結局、受精卵はより早期に殺すことができるということだけだ」と手厳しく批判されたそうだ。
 
 同じ『New Scientist』は、成人(体性)幹細胞を使った興味ある研究結果を伝えている。これまでの研究では、幹細胞を分化させるには化学物質を加えることが考えられていた。ところが、最近の『Cell』誌(vol 126, p.677)に載ったペンシルバニア大学のアダム・エングラー博士(Adam Engler)らの論文によると、骨髄から採った幹細胞は、それが置かれた環境の物理的な硬さの違いによって、柔らかい環境では神経細胞に、中間的硬度の環境では筋肉細胞に、そして骨と似た硬さの環境では骨の細胞に分化したという。骨髄の幹細胞は、軟骨、骨、筋肉、腱、靭帯(じんたい)、脂肪、そして一部の神経に分化することが分かっているが、今後の研究ではポリマーなどの硬度を工夫し、その環境下に幹細胞を置くことで、様々な細胞を作り出せる可能性が出てきたようだ。
 
 これらのことから分かるように、ES細胞の研究では「受精卵を壊す」あるいは「受精卵を傷つける」という倫理問題がまだ完全に解決していないのに対し、成人幹細胞の研究では、すでに様々な細胞に分化させる方法が確立しつつある。また、ES細胞から種々の細胞を分化したとしても、それを患者に移植する際には拒絶反応の問題が残っている。これを解決するために人クローン胚の作成が数年前から試みられているが、いまだに成功例はない。再生医療の分野では、倫理的、医学的問題の多いES細胞の研究より、それらが少ない成人幹細胞の研究を集中して行うことを提言する所以である。

谷口 雅宣
 

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2006年9月 9日

大悪が大事件を起こすのか?

 アメリカの時事週刊誌『TIME』が9月11日号で、「世界を変えた」と言われる5年前のこの日に起こったテロ事件の特集をしている。それを読んで、あの事件は実は米政府高官の陰謀だという説を相当数のアメリカ人が信じていることを知って驚いた。先の大戦への日本の参戦、ケネディー大統領暗殺など、歴史的な大事件をめぐっては、この種の“陰謀説”がよく出るものだが、人間心理の複雑さと想像力の多様さを表しているのだろう。

 同誌に載ったレヴ・グロスマン氏(Lev Grossman)の記事によると、ある調査機関がこの8月にアメリカの成人1,010人に聞いたところ、政府高官があの事件が起こることを知っていて放置したか、あるいは政府高官自身があの事件を起こしたという説について、「多分そうだ(very likely)」と答えた人と「あり得ることだ(somewhat likely)」と答えた人の合計は、対象者全体の36%に達したという。もしこの調査がアメリカ国民の考えを正しく反映しているならば、アメリカ人の3分の1以上が9・11のテロを「自国の政府の陰謀によるかもしれない」と考えていることになる。アメリカ国民の政府不信がそこまで達しているとは、私は知らなかった。

 ところで、グロスマン氏が伝える陰謀説の根拠は、次のようなものである。当時、撮影された世界貿易センタービル崩壊直前の映像を見ると、航空機が突っ込んで破壊されたフロアーより下方で、ビルの側面から白い煙のようなものが吹き出している。これは、事件前に何者かが注意深く仕掛けた爆発物による煙で、この爆発によって、あの頑丈な高層ビルは崩壊したのであって、航空機の衝突と上層部の火災程度で、ビル全体が崩壊することなどあり得ないというのである。

 また、国防総省ビルの破壊は、ハイジャック機によるのではなく、ミサイルあるいはもっと小型の飛行機によるものだ、と陰謀説は考える。なぜなら、建物の外壁に開いた穴の横幅は約23メートルだが、ハイジャック機の両主翼を拡げた幅は38メートルある。この幅より広い穴が開くのならまだ分かるが、それより15メートルも狭い穴がどうやって開くのか。また、事件直後の現場付近の状況は、大型機が墜落したにしては機体の散乱などがなく、きれいに整っている。衝突前に機体が滑ったはずの芝生もほとんど無傷だし、大型機は5本の街燈をなぎ倒すはずだが、これも驚くほど被害が少ない。そして最後に、国土防衛のための28の空軍基地から戦闘機が1機も発進しなかったのはなぜか。それは、発進命令が上層部から出されなかったからである。すなわち、政府上層部には戦闘機が飛んでは困る理由があった、というのである。

 一見つじつまが合わない現象を見つけて、そこから想像力を働かせ、次のつじつまの合わない現象を探し、さらに想像を広げる。一枚の写真、ワンカットの映像は、めまぐるしく遷り変わる無数の現象の中のさらに細かい一部である。それをもとに壮大な物語を組み立てるのは、小説家のよくやることだ。芸術や表現活動では、これもいいだろう。しかし、それによって現実世界を解釈するのは間違いである。とりわけ、様々な文化や価値観が複雑に関わり合っている国際問題を、そういう“微視的”“単眼的”なメンタリティーで捉えることは危険である。にもかかわらず、そういうものの見方に一国の3分の1以上の国民が影響されるのは、きっと理由があるだろう。
 
 グロスマン氏もそのことに触れ、この記事の中で心理学的視点からこんな説明をしている--人間には「大きな出来事の背後には大きな原因がある」と考える傾向がある。だから、21世紀初頭の世界を変えた9・11事件は、決意に燃えた少数のテロ集団が起こしたと考えるよりも、超大国の政府高官が、中東の油田独占等をねらい、綿密なる計画によって、国民の犠牲など構わずに起こした陰謀である、と考える方が納得がいくのである。もっと簡単に言えば、「大きな悪現象の原因は大きな悪である」ということだ。そう考える方が、心が落ち着く。その反対に「大きな悪も小さな悪から起こる」と考えることは、我々の心を不安にさせる。

 ここまで書いてきて思い出したのは、ブッシュ大統領が最近始めた演説キャンペーンのことである。9月4日の本欄でも書いた通り、彼は自分が始めたイラク戦争を正当化するために、「イデオロギーの戦い」という言葉を使い、ナチスや冷戦まで引き合いに出して、戦う相手を巨大化し、悪魔化している。この行動の背後にも「大きな悪現象の原因は大きな悪である」と信じる心理的傾向が潜んでいるようだ。しかし、私はこう訴えたい。小さなボタンの掛け違いからでも大きな誤解は生まれ、大きな対立へ向うことはある。夫婦ゲンカのきっかけは、大抵小さなものだ。それが普通「夫婦ゲンカ」で終り、裁判沙汰や殺し合いに発展しないのは、夫婦が基本的に相手を信頼し、愛しているからだろう。あるいは、少なくとも相手を“悪”と見ていないことは確かだ。しかし、相手を“悪”として全面否定することになれば、小さな誤解が大きな事件に発展する。“悪”を認める者は結局、自ら“悪”を現すのである。

谷口 雅宣

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2006年9月 7日

皇孫殿下のご生誕を奉祝する

 待ちに待った皇孫殿下のご生誕を、心から喜び、感謝申し上げます。
 天皇皇后両陛下、皇太子皇太子妃両殿下にあらせられては、ご皇室ご安泰の道が広がりつつあることに、心からお慶び申し上げます。
 秋篠宮文仁親王殿下、同妃紀子殿下にあられては、諸方へのご配慮、ご心労も多かったと拝察される中で、第3子をご無事に迎えられたことを心からお目出度く、ありがたく思います。

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 さて、本欄ではかつて「皇室制度の議論を深めよう」という題で3回シリーズ(3月22日4月1516日)を書き、それと関連して「天皇の人権について」(7月21日)も書いた。「皇室制度……」の第1回で、私は「国民全体での開かれた議論をさらに深める必要がある」と述べたが、親王さまのご誕生で、このことが時間的余裕をもって可能になったことは大変ありがたいことである。同シリーズ第2回では、現在の天皇皇后両陛下が、かつての皇室の伝統の一部を変革して来られたという事実を述べ、先に出された「皇室典範に関する有識者会議」の報告書の内容には、両陛下と皇太子殿下、同妃殿下のお考えがいくばくかでも反映されている可能性を述べた。次に第3回では、その根拠を例示し、天皇皇后両陛下、皇太子殿下同妃殿下の御心は単なる伝統墨守ではなく、世間や世界に開かれた“新しい皇室”像へ向われていることが拝察できる、と結論した。
 
 私は、この“新しい皇室像”について、誠に畏れ多いことではあるが、両陛下、両殿下ご自身のお言葉をもって国民に語っていただきたいと密かに願うものである。今すぐにとは申し上げないが、機会を見て、段階的にでも、また、直接的なお言葉で表現されなくても、実際のご行為によって、あるいは御歌などを通して、国民にご意思を明確にお伝えいただきたいのである。なぜなら今日、皇室制度に関して、ご皇室を尊敬する国民の中にも考え方の食い違いがある大きな原因は、現在のご皇室が抱かれる“新しい皇室像”が、国民にとって必ずしも明確ではないからだと思うからである。
 
 親王さまのご教育はまもなく始まると推察されるが、例えばこの場合でも、次世代の皇位継承候補者として、親王さまのご人格ご資質のどのような側面を伸ばしていただけるかは、ご皇室の一大重要事であることはもちろん、国民最大の関心事でもある。このことに関し、ご皇室と国民の間に大きな齟齬が生まれると、次代の日本が危機を迎える可能性さえある、と私は考える。かつての時代には、昭和天皇の本当のご意思が国民に伝わらずに、時の政治家や軍部の政策が恰も陛下のご意思であるかのように喧伝されたことが、悲劇への坂道を転がり落ちる1つの大きな原因になったと思われる。「ご皇室のため」「陛下のため」と声高に唱える人が、必ずしも陛下のご意思を体現していなかった。このことは歴史の教訓として、今日においても十分留意しておかねばならないことと思う。
 
 皇室制度をどうすべきかの議論は、まずご皇室が抱かれる“新しい皇室像”について国民が理解し、その方向に向って合意形成を目指すところから始まるべきではないか。現在のように、ご皇室のご意思をひた隠しにしていては、皇室制度の改革がうまく進むはずがない。なぜなら、「国民統合の象徴」が沈黙されていて国民が統合するはずがないからである。確かに、ご皇室が政治に直接関わることはよくない。しかし、親王さまが誕生された今、皇室制度の改革問題からは政治色が最も失われていると思うのである。

谷口 雅宣

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2006年9月 6日

映画『ユナイテッド93』

 妻と2人で日比谷に映画を見に行った。『ユナイテッド93』である。これは一度、8月の公開直後に見ようとして映画館まで行ったが、あまりの混雑で席が取れなかったものだ。が、今回は館内の人は疎らだった。9・11の5周年までに見ておきたかったのである。映画が現実を正確に反映しているかどうかの問題はあったが、ブッシュ氏の“テロとの戦争”を批判してきた私としては、そのテロの“現場”を知らないことに負い目を感じていた。映画の感想をひと言で表せば、「大統領の気持はよく分かる」ということか。あれだけの“奇襲”を受け、大統領自身、身の危険を感じて専用機で空へ逃れたのだが、その後、彼がアメリカ国民の怒りを体現して武力行使に出たとしても、無理はないと感じた。座席に釘付けになったまま、1時間51分がたちまち過ぎた。
 
 9・11にはアメリカ国内で4機がハイジャックされたが、そのうちテロリストの目標を外して墜落した唯一機が「ユナイテッド航空93便」である。乗客乗員が一丸となってテロリストと戦い、目的達成を阻んだのである。機内での心身両面の戦いはもちろん壮絶だったが、私の印象に残ったのは、連邦航空局指令センター内の様子である。ここでは、アメリカ上空を飛ぶ約4500機の航空機の情報をリアルタイムでモニターし、全米20ヵ所以上の航空交通官制施設と連絡を取りながら、安全運行のために必要な措置をとる場所だ。そこに並ぶ何十台ものスクリーンから、機影が1つ消え、2つ消える。その理由を知ろうと管制官がマイクを握る、叫ぶ、連絡に走る。まったくの混乱が、後に続く。

 映画では当時、同センターの総指揮をとっていたベン・スライニー氏本人が、自分役で出演している。それだけでなく、他の管制官や軍関係者が何人も出演しているから、ポール・グリーングラス監督(Paul Greengrass)の意図が、当時の実際の状況をできるだけ忠実に再現することにある、と分かる。スライニー氏も、「監督からの要求は正確さを極めることでした。ですから内容は事実そのままです」と言う。そして、このシーンで描かれているのは、当時、アメリカ中の管制官も、空軍関係者も、ハイジャックの目的が身代金ではなく、自爆テロであることを全く予想できなかったという点だ。

 映画中のテロリストのことに触れよう。9月4日の本欄にも書いたが、ブッシュ氏は、これまで一貫して“善”と“悪”を対立させた世界観を披露してきたが、この映画は違っていた。別の言い方をすれば、グリーングラス監督はテロリストを“悪魔化”していなかった。私はこの点に好感がもてたのだが、反面、その暗示することの重大さに震撼させられた。ユナイテッド93便のハイジャック犯は4人だが、みな敬虔でストイックなイスラーム信者として描かれている。また、上官の指令通りに任務を実行しようとする兵士の趣きもある。乗っ取りの際は、迅速、無慈悲に行動するが、乗っ取り機が任務を完遂できるかどうかに不安を感じ、神に祈り、恐怖に顔を引きつらせる。彼らが乗っ取り機の前方で身を震わせて神に祈るとき、同じ機内の後方では、テロリスト制圧の成功を神に祈る乗客乗員の姿がある。

 神への信仰が、人間の不安を和らげ、希望を与えるために大きな役割を果たしていることがよく分かる。しかし、善悪の対立が先鋭化した状況においては、神への信仰は戦いを正当化し、必然化する大きな力となる。だから、単に「神を信じる」だけでは、平和は必ずしも実現しない。神が人間の良心や理性を認め、祝福される存在か、あるいは人間の良心や理性に対して沈黙を要請する存在か、この点を信仰者は深く考察する必要があるのである。
 
 最後に、この映画に日本人が出てくることについて。彼はもちろん俳優だが、実際のユナイテッド93便にも「久下季哉(くげ・としや)」という日本人の青年が1人乗っていた。当時、早稲田大学理工学部2年生で、2000年2月に英語研修でユタ大学に1ヵ月学び、翌年8月、周遊旅行のため再び渡米してカナダへも足を延ばした。現地の大学の様子を見聞する目的もあったといい、9月11日、帰国のためにニューヨークからサンフランシスコへ向うこの機に乗った。1970年代の後半、アメリカを1人で旅した私自身の記憶が蘇ってきて、胸が締めつけられる。私がその機に乗っていたら、いったい何を考え、何をしただろうか……。
 
谷口 雅宣

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2006年9月 5日

夫の死後に妊娠する (2)

 凍結保存した夫の精子を使って、夫の死後に妊娠して子を生み、それを夫の子と認知するように求めた裁判の最高裁判決が初めて出た。今朝の新聞各紙が伝えている。それによると、最高裁第二小法廷は「民法は父親の死後の妊娠・出産を想定していないことは明らかで、死亡した父との法律上の親子関係は認められない」として、認知を認めた二審判決を4裁判官の全員一致で破棄、請求を棄却した。逆転敗訴である。私は昨年10月3日の本欄でも、東京地裁であった同様の判決について触れている。この場合は、内縁の夫の死後、体外受精によって妻が女児を生んだケースだったが、今回は、正式に結婚した夫の死後、体外受精で出産した5歳の男児の認知が否定され、確定した。

 この男児の(生物学上の)父親は、白血病にかかって放射線治療を受けていたが、その副作用で無精子症になる恐れがあったため、治療に先立って精子を凍結保存していた。この方法は、受精卵の凍結より容易のため、不妊治療でも広く使われているという。精子を保存液と混ぜ、マイナス196℃の液体窒素で凍結することで、半永久的に保存できるらしい。父親は1999年に白血病で死亡、その後に母親が凍結精子で妊娠し、2001年5月に男児を出産、嫡出子として出生届を出したが認められず、2002年6月に提訴したという。一審の松山地裁は2003年、母親の請求を棄却。二審の高松高裁は2004年に「自然血縁的な親子関係が存在するうえ、夫は生前、死後の凍結精子の利用に合意していた」と認定して、認知を認める判決を下していた。

 『日本経済新聞』によると、日本受精着床学会は2004年に、凍結精子を使った体外受精や人工授精に際して「現状では、実施者がその都度、婚姻中であること、夫が生存していることを確認する必要がある」との見解を出しているため、夫の死後の妊娠と出産は現在、事実上禁止されているという。その一方、見解には法的拘束力がないから、実際の医療現場では今回のような事態が今後も起こる可能性はある。フランスやドイツでは、夫死後の体外受精は法律で禁止されているが、イギリスでは夫の同意書があれば認められるという。さらに『産経』によると、スペインは夫の事前同意と死後6ヵ月以内を条件に容認し、イスラエルでは保管後1年以内で裁判所の許可があれば認めているという。アメリカとギリシャは、夫の事前同意だけを条件としている場合が多いという。(アメリカは州法で規定のため)
 
 この問題は、なかなか複雑である。私がよく分からないのは、死後の夫の子として認知されることが、その子に法律上どのようなメリットを与えるかという点である。今回の判決でも「父から扶養を受けることはあり得ず、父の相続人にもなり得ない」としているから、祖父母が死んだ時の相続権の問題を考えてのことなのだろうか。『朝日新聞』によると、認知を求めた母親は「この子に父親がだれかを教えてやりたい」と訴えていたというが、教えるだけだったら、母親が「あなたのお父さんはこの人よ」と写真やビデオを見せてあげれば済む話のようにも思える。しかし、この子の戸籍の父親欄が空欄であるという問題を考えての提訴であれば、これは法整備を促す提訴でもあるのだろう。

 夫婦の晩婚化と少子化が進む中で、生殖補助医療の需要はますます拡大している。少子化対策という面では、できるだけ子を持てるような方向に法整備をすることになるだろう。しかしその反面、精子、卵子、受精卵、胎児という“生命の萌芽”に対しては、それを他人の目的に利用する動き--つまり“道具化”が広がるだろう。私は、この“道具化”に反対している。なぜなら「人間の生命発達のどの段階から人権を認めるか」という問いへの答えは、科学技術の発達によって変化するからである。アナログ的な生命発達の過程を扱うのに、デジタルな考えで「ある一点」から人間が始まると考えることには、無理がある。受精卵形成後から「人」として尊重する生命倫理の確立が望ましいと思う。
 
谷口 雅宣
 

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2006年9月 4日

イスラームを悪魔化してはならない

“テロとの戦争”を指揮するアメリカ大統領ブッシュ氏は現在、9・11の5周年記念日を前に、11月の議会中間選挙を共和党有利に運ぶための演説キャンペーンを行っている。通常の場合、私は他国の大統領や首相が自分の選挙運動をどう戦うかについて注文をつけるつもりはない。しかし、その「他国」がわが国の最重要同盟国であり、さらに世界唯一の超大国である場合、その国の動向がわが国と世界の将来に大きな影響を与える可能性があるため、苦言を呈することは許されると思う。また、逆に沈黙することは、その可能性を容認することになるから、責任ある立場にある人間は発言する義務があると思うのである。だから、これまでもブッシュ氏の世界観・戦争観や地球環境問題への姿勢について、私は繰り返し発言してきた。

 国際政治でよく指摘されるのは、一国の大統領や首相が内政で困難に直面する時、“敵”を外に作って危機感を煽ることで、国内を団結させ困難を乗り越えようとする手法である。これは政治の邪道であることは言うまでもないが、悲しいことに常道でもある。そしてこの手法は、国際関係だけでなく、企業や団体の運営にも使われることがある。これが問題なのは、本当の問題は内政(つまり、自分の失政)にあるにもかかわらず、国民の目を外へ向けさせ、“外敵”を作り上げることによって、その外敵が“仮構”から“本物”になる道を開くことになるからである。生長の家の用語を使えば、これは言わば「心の法則」の逆用である。“敵”や“悪”を心で認めれば、それが如何に仮の存在であっても、現象的にはいよいよ明らかに現れてくるのである。

 私は昨年6月2日の本欄で、その手法の1バリエーションを“悪魔化”という言葉で表現した。これは私の造語ではなく、demonization という立派な英語の翻訳である。その際、アメリカ国内でこの悪魔化が北朝鮮に対して行われていることを指して、それは心理的な戦争準備だから、危険信号であると言った。なぜなら、「悪魔化は、自分と同類の人間を攻撃することに対する心理的抑制のタガを緩める。それは国民の心を戦争へ、戦闘へと向わせる。相手に対する同悲同慈の思いを弱める」ための心理的操作だからだと書いた。そして、かつての日米戦争の前にも同じことが行われたことを指摘した。

 第二次大戦後に起こった「冷戦」の前にも、外敵を作り、危機感を煽る動きが起こった。それはジョージ・ケナン氏(George Kennan)がアメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』に書いた論文で、ソ連とアメリカの奉じるイデオロギーと価値観は互いに相容れないから、アメリカはソ連を囲い込み、長期にわたってその膨張を封じ込める必要がある、と説いたのだった。つまり、“外敵”をまず心で作ることで、本当に外敵が現れたのである。これと似たことが、前世紀末から起こっている。それは、同じ外交専門誌の1993年7月号にハーバード大学のサミュエル・ハンチントン教授(Samuel P. Huntington)が書いた「文明の衝突論」を端緒にして、「西欧」「イスラーム」「儒教」などの“文明”間で衝突が起こるとする考え方が打ち出されたからである。そして、今日の現実がこれに続いている。
 
 前置きが長くなってしまったが、ブッシュ大統領の演説キャンペーンの問題点を述べよう。ブッシュ氏は8月31日、ユタ州での保守派の集まりである在郷軍人会で演説を行ない、「西欧」と「イスラーム」をイデオロギーの対立という視点でとらえ、さらにこの2大勢力の関係を「民主主義」と「ファシズム」、あるいは「自由主義」と「共産主義」に対応させた。そして今日、“テロとの戦争”をやめよと言う者は、ナチの台頭を前にして手を打たなかった昔の過ちの二の舞いを踏む、と批判したのである。

 もちろんブッシュ氏は、イスラーム信奉者すべてを「ファシスト」と呼んだのではなく、「自由社会はイスラームの曲解者(their twisted view of Islam)にとって脅威である」という表現を使った。しかし、8月11日の本欄でも述べたように、イスラーム社会には何が“正統”で何が“曲解”かを判別する基準も機関もない。とすると、ブッシュ演説を聞いたイスラーム信奉者たちは、直接自分のことを言われたと思わなくても、自分の仲間を敵視されたと思うだろう。さらにこの演説の中では、“自由の敵”として「アルカイーダ」「レバノンのヒズボラ」「イラクの反乱者」が名指しされているが、第1はスンニ派(ワッハーブ主義者)、第2はシーア派、第3はスンニ派とシーア派の双方を含む。つまり、現代のイスラームの主流全体を指しているとも解釈できるのである。

 今回の演説キャンペーンは、国内で評判が悪いイラク戦争を正当化し、イラクからの撤退を唱える民主党に対抗して、過去の“テロとの戦争”が第二次大戦や冷戦と同様に“善”と“悪”との必要な戦いであるとして過去の記憶を喚び起こさせ、中間選挙を有利に戦おうとする「内向き」のものだろう。しかし、「内部を固めるために外部に敵を作る」という愚策を用いてしまった。そのため、この道をさらに進めば、外部に本当に“新たな敵”を作ることになるかもしれないのである。「現象世界は心でつくる」という事実を、ブッシュ氏に伝える方法はないのだろうか?
 
谷口 雅宣

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2006年9月 2日

二千円札の悲哀

 9月に入って初めての旅で羽田空港へ行くと、1週間前とは打って変わり、混雑のない快適な空港がそこにあるのを知った。レストランにしても、ロビーにしても人は半減し、テロ対策で厳しくなったセキュリティー検査所も、入口の半分以上が閉鎖している。「あぁ、夏は終ったのだ」との感を深くした。生長の家の講習会で広島へ飛ぶJAL機の中も、席はゆったりと空いていた。座席前のポケットに収まった機内誌は「9月号」に変わったばかりで、手が切れそうに新しく、インクの匂いがほのかにする。

 最初のページからゆっくり繰ると、懐かしい名前が目に飛び込んできた。「写真家 森山大道」「山形 酒田」「コン・リー」……森山氏は、私が学生時代に憧れてその写真をマネて撮影していた。山形県酒田市は数年前、小説の取材で妻と訪れた町。コン・リーは映画『SAYURI』で主役の向うを張って熱演した中国人女優……そして「浅田次郎」……この雑誌のレギュラーの書き手で、私も妻も彼のエッセーを読むのを楽しみにしている。9月号のエッセーの題は「消えた二千円札」である。
 
 “奇妙な一致”というのは、世の中にはあるものである。実は、私はちょうど1週間前、北海道滝川市へ行ったとき、ホテルでの夕食の釣り銭の中に二千円札が入っていたので驚いたのだった。この紙幣は、もうとっくに使われなくなっていたと思っていたからだ。それを目の当たりにして、私は一瞬困ってしまった。「この紙幣を受け取るべきかどうか……」と考えたのである。結局、受け取って札入れの中に注意深くしまった。折り目もついていない“新品同様”の札だったからだ。妻がそれを知って「珍しいからほしい」と言った。私は持っていても使わないだろうと考え、妻との両替えに同意したが、あいにく彼女はそのとき細かい金を持っていなかった。そこで、その二千円札は数日、私の札入れの中に納まっていて、つい数日前、彼女の手に渡ったばかりだった。
 
 浅田氏は、エッセー中で二千円札が流通しない理由を、ユーモアあふれるタッチで分析していた。①「発行手数料がかからない」との噂からタンス預金になっている、②肖像画がないから有難味に欠ける、③勘定しにくいので銀行員が流通させない……の3つを指摘するのだが、私は2番目の理由が最も説得力があるように思う。ただし、紙幣の流通には「有難味」よりは「親しみ」が重要ではないか。ところで、二千円札を忘れてしまった読者のために確認しておけば、この札には人間がまったく描かれてないわけではないが、いわゆる肖像画ではなく、細い線画で屏風絵風の「紫式部」が小さく描かれている。が、パッと見の感じでは、それは人物ではなく模様のように見える。そして裏面には、琉球王朝時代の沖縄の立派な門が描かれている。

 私は、昨年6月11の本欄で“顔細胞”のことに触れた。後頭部の視覚情報を処理する脳の一部に、「顔」のような形のものを見ると敏感に反応する細胞のことである。これがあるおかげで、我々は素早く相手の表情を読み、相手の感情を推測し、人間関係を成立させることができる。相手が口では「はい」と言っていても、表情は「いや」と言っている……などという複雑な理解が、これによって可能となる。社会的動物である人間にとって、この能力の発達如何が、その人の生存を左右したことが容易に想像できる。だから我々は、人間を「顔」によって憶えるのである。もちろん「名前」によっても憶えるが、恐らく「顔」が先で「名前」は後だ。「顔と名前が一致しない」という時は、「顔」の方が頭に浮かんでいる場合が多いだろう。
 
 このことを裏返しにすれば、我々は「顔のない紙幣」よりも「顔のある紙幣」の方を素早く識別し、自分との関係を成立させる。これは「嫌いな顔」であっても、である。浅田氏は「500円札の岩倉具視は誰も好きになれない悪役顔ではあった」と書いているが、我々は「悪役顔」であっても「顔がない」よりも親しみを抱くだろう。だから、二千円札の流通の失敗は、当時の財務省印刷局の幹部が“顔細胞”のことを知らなかったことが原因ではないか、と私は疑うのである。

 さて、浅田氏はこのエッセーに「ATMから二千円札が出てくるためしはめったになく、両替機にも二千円札が入っていないものは多い」とも書いている。しかし、私の娘の言によると、コンビニ大手のローソンの機械からは二千円札がよく出て来るそうだ。真偽のほどは定かでないが、興味のある方は試してみては?
 
谷口 雅宣

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2006年9月 1日

カリフォルニアよ、ありがとう!

 アメリカ西海岸にあるカリフォルニア州が、温室効果ガスの排出削減を義務づける地球温暖化解決法案を可決した。これにより同州は、2020年までに温室効果ガスの排出量を現在のレベルから25%削減し、1990年のレベルまで戻すことになる。ブッシュ大統領の決定により京都議定書を“袖”にしたアメリカだが、ブッシュ氏と同じ共和党のシュワルツェネッガー知事率いる米最大の州が同法案を可決した。私が驚いたのは、同州議会の共和党は反対に回ったため、民主党の協力で可決したこと。これにより、アメリカは同議定書に“半分復帰”したことになるかもしれない。

 同州はアメリカで最も“先進的”と言われる州で、すでに自動車排気ガスを厳しく規制している。この動きにも“後続部隊”が見込めるかもしれない。その候補として考えられるのは、ニューヨーク、ニュージャージー、デラウェアと、ニューイングランド4州。これらの州はすでに、火力発電所から排出される温室効果ガスを2019年までに1割減らすことで合意しているという。

 9月1日の『日本経済新聞』夕刊によると、同法で削減義務を負うのは、温室効果ガスを多く排出する発電所や石油精製所、セメント工場などの主要産業。さらに、排出権取引などの京都議定書のメカニズムも活用して排出削減を図るという。8月2日の本欄に書いた通り、同州は温室効果ガスの排出権取引に関して、今年7月末にすでにイギリスと協定を結んでいるから、国の先を越して、同州が単独でヨーロッパの排出権市場に参加する可能性もある。1日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、最初の大規模削減は、温室効果ガスを1990年のレベルにまで減らすことを目標として2012年から始まる。また同紙は、カリフォルニア公共政策研究所(Public Policy Institute of California)が最近実施した意識調査を紹介しており、州民の8割近くが気候変動に対する緊急措置が必要だと考えているという。

 こういう考え方は、今年7月の山火事多発と熱波襲来の経験から来ているのだろう。詳しくは7月7日同25日の本欄を参照してほしいが、同州は雨が少なく、水源の多くを内陸部のシェラネバダ山脈の積雪に負っている。その雪が今、温暖化で減少しているのだ。また昨秋、南部諸州であった大型ハリケーンの被害を温暖化と関連づけて捉えているアメリカ国民も数多い。ルイジアナ州のニューオーリンズは先日、ハリケーン「カトリーナ」の襲来1周年を迎えたが、同市の人口は被災前より25万人も減った。アメリカ各地へ移住した被災者たちは、その悲惨な経験を直接、多くの人々に伝えていることだろう。

 長く続けてきた生活スタイルや習慣を変えることは、人間にはなかなか難しい。特に、昔より困難な方向へ変化を求められると、いろいろな理由をつけてそれを拒否するものだ。変化の方向が正しいと頭で分かっていても、である。そんな中で起こる“天災”は、しだいに“人災”の色彩を帯びていく。科学が発達した現代では、天災は「忘れたころにやってくる」のではなく、予測され、警告されても、「分かっているけど避けられない」ものへと変わりつつあるようだ。そんな時には、強い指導力をもった政治家が登場するか、あるいは大型災害が社会を襲って人々の意識に変化をもたらすか、いずれかが必要なのかもしれない。前者は、民主主義の危機である。後者は、人間社会の不幸である。しかし、第3の道もある。それは、「変化は困難であるがゆえにやる価値がある」と考える人々によって切り拓かれる可能性がある。そして、そういう人々が活躍する余地が大きい社会が、必要な変化をなしとげていく。
 
 日本には、温室効果ガスの排出削減を義務づける法律はまだない。私は、そういう制度的な変化を早急に実施する必要があると考えるが、自民党の総裁候補でそれを言う人は皆無である。「京都議定書に責任をもつ」と言う有力政治家が1人もいないことが、私には理解できない。アメリカの経験から学ぶことがなければ、いずれ「カトリーナ」級の被害を日本が経験するだろう。大型台風12号が近づいているが、これは元々、アメリカ西海岸から来たハリケーンであることを、私はとても示唆的だと考えている。

谷口 雅宣

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