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2006年9月24日

ローマ法王の失言 (3)

 9月16日18日の本欄でこの問題に触れてからしばらくたち、ベネディクト16世がレーゲンスブルク大学で行った講義の全文を読む機会にやっと恵まれた。私は、“問題発言”とされた部分をよく読み、それからヴァチカンのそれに対する説明(釈明)を読み、結局、ヴァチカン側の説明は嘘でも言い逃れでもないことを知った。法王の講演は、場所が大学であり、聴衆が専門家であるという関係から、哲学や神学に対して詳しくない者にとってはとても難解である。しかし、法王はイスラーム全体を攻撃しているのではなく、むしろイスラーム社会と西洋社会との対話のためには、「神への信仰」が共通項として必要であるという点を強調している。そして、批判の対象となっているのは、むしろ神の存在を否定する西洋の世俗主義なのである。が、その反面、「法王はイスラームを敵視しているに違いない」という“色眼鏡”をかけてこの講義を読めば、そう読める箇所がいくつか発見されることも事実である。

 だから、この件が国際問題になり、世界宗教の最高指導者が“釈明”しなければならない事態に至ったのは、マスメディアの報道姿勢が相当関与していると私は考えるのである。この場合のマスメディアとは、もちろん西側だけでなくイスラーム側も含む。つまり、「キリスト教とイスラームは対立関係にある」との一大前提のもとで取材し続けている人々の目から見れば、法王の大学での講義は「イスラーム批判」として映ったのだろう。「そう見えたから、そう伝えた」と彼らは言うかもしれない。が、それだけでは一流のジャーナリストとは言えない。いわゆる「裏を取る」というジャーナリズムの鉄則が、今回の報道の過程でどれだけ守られたか、私ははなはだ疑問に思う。
 
 私が上掲の日付で書いた2つの文章は、そんな誤解にもとづく記事を元にしているため、不適切な表現がいくつか見られた。その点は、カトリック教会関係者の方々に謝らねばならない。特に、9月16日の文章中、条件文ではあったけれども「勉強不足」などという失礼な表現を使ったことを申し訳なく思い、それを撤回する。(文章から削除しました)
 
 その上で、私は「しかし……」と言わねばならない。なぜなら、法王の講義文には、イスラームの教えに関して余りにも「概括的」な表現が見られるからだ。つまり、数多くある例外には触れずに、例外でないものが全体であるかのような包括的な表現があるのである。例えば、次の文章がそれである:

「すなわち、理性に従わない行動は、神の本性に反するということです。(中略)ギリシア哲学によって育てられたビザンティン人である皇帝にとって、この言明は自明なものでした。それに対し、イスラームの教えにとって、神は絶対的に超越的な存在です。神の意志は、わたしたちのカテゴリーにも、理性にも、しばられることはありません。クーリーはそこで、有名なフランスのイスラーム研究者のR・アルナルデスの研究を引用します。アルナルデスは、イブン・ハズムが次のように述べたことを指摘しています。『神は自分自身のことばにさえしばられることがない。何者も、神に対して、真理をわたしたちに啓示するよう義務づけることはない。神が望むなら、人間は偶像崇拝でさえも行わなければならない』」

 この文章は、どこからどこまでが引用で、どれが法王自身の考えであるかが不明確であり、そのことも誤解を招く原因の1つなのだが、全体として感じ取れるのは「イスラームの説く神は理性を超えている」というメッセージである。「超えている」という表現は何か素晴らしいようにも聞こえるが、場合によっては「神は理性的判断を拒否する」とか「神は理性の沈黙を要求する」と解釈することもできるのである。そういう解釈は、しかし事実に反すると私は強調したい。
 
 英国オックスフォードにあるセント・アントニーズ大学のイスラーム研究者、タリク・ラマダン氏(Tariq Ramadan)も、9月21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙の論説欄でそのことを指摘している。ラマダン氏は、ローマ法王の今回の講義の中に「イスラームの理性主義の役割を消し去ったヨーロッパ思想史の読み方」があるとし、そこでは「アラブとイスラームの貢献は、ギリシャ、ローマの偉大な功績の単なる翻訳に矮小化されている」と抗議している。そして、イスラーム信仰者に対して、自分たちはヨーロッパと西洋の基盤となる中心的価値を共有していることを理性的に、感情に走らないやり方で、実際に示して見せるべきだと提言している。
 
 簡単に言えば、「イスラーム=信仰(狂信?)」「西洋=理性」というような単純な2分法は間違いなのである。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○カトリック中央協議会、司教協議会秘書室研究企画訳「教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演」(2006.9.19)

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