子殺しは避妊手術と同等?
作家の坂東眞砂子さんが「飼い猫に避妊手術をするのと、生まれてきた子猫を殺すのは同等」という趣旨のエッセーを『日本経済新聞』に書いたことから、それへの抗議や反論が同紙に殺到している、と『産経新聞』が25日付の紙面で報道した。不祥事でもないのに他紙の内部の問題を掘り起こして記事にするのは異例だが、作家個人の考えを新聞社が名指しで批判するのも異例だ。私は「子猫殺し」が正しいとは思わないが、「言論の自由」を存在基盤とするジャーナリズムが、他紙誌に掲載された人の意見を批判し合うこと、さらには他紙誌の編集方針を批判し合うことが、社会の建設的な力になるかどうか……と考え込んでいる。結論はまだ出ていない。
問題のエッセーは、坂東眞砂子さんが8月18日の『日経』夕刊に「子猫殺し」という題で書いたもので、1400字弱の5段組の記事。坂東さんが言わんとすることを本当に知るためには、全文を読んでいただくのが一番だが、サワリの部分だけ引用すると--
「子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭(いや)なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての『生』の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない。」
こういう理由から、坂東さんは3匹いる雌猫が子を産むと「家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである」と書いている。猫は1回に3~5匹の子を産むから、3匹の猫が子を産めば、1シーズンに最大で15匹の子猫を殺すことになる。坂東さんは仏領タヒチ島に住んで8年になるそうだが、『産経』は「日本の動物愛護管理法は、猫などをみだりに殺した場合『1年以下の懲役または100万円以下の罰金』を科すと規定しており、フランスの刑法でも違法だ」と指摘する。坂東さんもそれを承知で、エッセーの冒頭に「動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない」と書いている。
私が思うに、坂東さんが自分の飼い猫に避妊手術をしないと決めた理由は、次の文章の中にある--「獣の雌にとっての『生』とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか」。それはいけないと考えたから、坂東さんは「産まれた子を殺す」方を選んだ。「私は自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」というのである。彼女はその選択を「正しい」とは言っておらず、避妊手術と同等に正しくないと言っているのだ。この論の立て方が多くの人の納得を得ることができなかったようだ。
単純に考えれば、避妊手術は猫を1匹も殺さないから、毎年10数匹の子猫を殺すよりよほど罪が少ない、という結論になるだろう。これに対し坂東さんは、1匹の猫が子をもたずに肉体的に長生きをするよりも、セックスし、妊娠し、子を産むという過程を経験することの方が「生の充実」を味わうことになる。だから、子猫には犠牲になってもらおう、と決めたのだろう。私は猫を飼っていないのでよく分からないところがあるが、この選択肢の作り方には何か不自然な偏りがあると思う。もし猫が人間のように「生の充実」を味わうことに人生ならぬ“猫生”の価値を置いているならば(これには疑問の余地がある)、「子育て」も生の充実に多大な貢献をするはずである。その機会を奪う「子殺し」が猫の生の充実だという論法は、いかにも無理がある。また、「セックス」が生の充実であっても、避妊手術をした猫はセックスをしないのだろうか。私はこの点をよく知らない。もし人間と同様ならば、避妊手術はセックスをしない原因ではない。すると、坂東さんの言う「生の充実」とは「妊娠」「出産」の2項目だけに限定されてしまう。そのために子をすべて殺さなければならないという論理は、いかにも飛躍している。
ところで、わが家の野良猫のことだが、私は彼らの「生の充実」などに悩んだことはないし、彼らの子を殺そうと思ったこともない。もし彼らを自分の所に「取っておこう」と思ったならば、多分、情が移って坂東さんのように悩むことになるだろう。子猫は実に可愛らしい。しかし彼らは皆、親猫になる。そして、飼い主を悩ませるのである。人間が動物を「飼う」という行為の背後に、問題の本質が隠されているような気がする。
谷口 雅宣
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