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2006年8月17日

イスラームはどうなっている? (6)

 本シリーズの第3~4回目で、私はワッハーブ派の原理主義的考え方がオサマ・ビンラディンの思想の基盤にあることを説明した。が、実際にオサマが自分に影響を与えた人物として名前を挙げているのは、ワッハーブ思想を現代に適用した人々である。先に挙げた保坂修司氏と中東研究家の藤原和彦氏によると、それらはムハンマド・クトゥブとアブドゥッラ・アッザーム、それからイブン・タイミーヤである。今回は、この中の最初の人物について重要だと思う点を述べてみる。以下、藤原氏の言葉の引用は、『イスラム過激原理主義--なぜテロに走るのか』(2001年、中公新書)からである。

 ムハンマド・クプトフについて重要なのは、彼自身というよりは彼の兄、サイイド・クトゥブ(1906-1966, Sayyid Qutb)という有名なエジプト思想家のことである。サイイド・クトゥブはムスリム同胞団の理論家で、1954年のエジプトのナセル大統領暗殺未遂事件をきっかけに捕らえられ、1966年に処刑された。オサマは、サウジアラビアのアブドゥルアジーズ国王大学でサイイドの弟のムハンマドから教えられたか、あるいは著書を読んだらしい。そのサイイドの思想で有名なのが「ジャーヒリーヤ論」である。これはサイイドが長期の獄中生活の中で煮詰めた思想で、藤原氏によると「今や過激原理主義運動全体の中核思想となった」(p.51)という。
 
「ジャーヒリーヤ」とは、「無知」「無明」という意味のアラビア語である。イスラーム社会にあっては、この言葉は開祖ムハンマドが教えを立てる以前のアラビア社会のことを指す。7世紀のアラビアは部族社会で、部族の構成員はそれぞれの部族に忠誠を誓い、その部族の神を崇拝して現世的価値を求めていた。唯一絶対神を掲げるムハンマドにとっては、これは「偶像崇拝」以外の何ものでもない。ムハンマドは、こういう社会を否定し、唯一アッラーのみに帰依し信仰するイスラーム社会を建設したのだった。だから「ジャーヒリーヤ社会」は1200年前に消滅したというのが、イスラームでの常識だった。ところがサイイド・クトゥブは、世俗主義のナセル大統領支配下に投獄される中、自分のようなイスラーム信奉者が弾圧される社会は、神を畏れぬ堕落した「ジャーヒリーヤ」社会だと断じたのである。この宣言により、イスラム教徒は、現代のイスラーム社会を「ジャーヒリーヤ」と認めるか認めないかの選択を迫られることとなり、もし認めれば、預言者に従って社会打倒の実際行動を起こす義務を負うことになるのである。

 クトゥブの思想でもう一つ有名なのは「神の主権」という考え方である。これは、近代以降の西洋型民主主義の「主権在民」の考え方をまっこうから否定するものだ。藤原氏は、エジプトの原理主義思想家、アイマン・ザワヒリを引用して、この考え方を次のように説明している:

「唯一神教(タウヒード)においては神に主権があり、立法は神の専権事項である。一方、民主主義は人民に主権があり、人民が立法者となる。したがって、民主主義とは、全権の神から立法権を簒奪(さんだつ)し、それを人民に与えているものにほかならない。また、民主主義は至高の神の権威に縛られることなく、神の専権である立法権を人民に付与することによって人民を神格化している。まさに偶像崇拝だ。民主主義とは、偶像崇拝の新しい宗教なのだ」(p.56)

 ウーム……と考え込んでしまう読者もいるだろう。一応、理論としては筋が通っているが、何か大切なものが欠けている。それは、神と人間との関係についての考察である。また、原理主義に特徴的な「二者対立」「善悪対立」の考え方が徹底している。「真正なイスラーム社会」は善であるが「ジャーヒリーヤ社会」は悪である。「神の主権」は善であるが、「人民主権」は悪である。善を実現するために悪を破壊せよ、という考え方である。

 藤原氏によれば、クトゥブは信仰の篤い富農の家に生まれ、カイロ大学付属の高等師範学校で西洋型の教育を受けた後、教育省に就職、かたわら詩作や評論で活躍した。ところが43歳の時から2年間、アメリカへ留学したことが転機となって、急速に反西洋志向となり、ムスリム同胞団に加入した。これに加え、10年に及ぶ獄中生活の中で服役囚の虐殺事件などを目撃し、西洋と世俗社会への態度を硬化していったと思われる。彼の心中の二者対立の葛藤が、過激な二者対立の革命思想を生んだと見ることができる。

谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
神の主権のところを読んで感じたのですが、彼らには「政教分離」という言葉は理解できないでしょうね。
絶対者なるところの神に主権がある政治体制は、政治責任を神に押し付けるもので、それこそ神への冒涜ではないのかなと私は思います。
かつての日本の歴史を振り返ってこのような考えを持っているのですが。
玉西邦洋 拝

投稿: 玉西邦洋 | 2006年8月18日 00:57

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