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2006年8月13日

イスラームはどうなっている? (3)

 さて前回、イスラム原理主義組織アルカイーダの思想的基盤であるワッハーブ派の考え方を概観した。イスラームの開祖、モハンマドが誕生したのが西暦570年、40歳で啓示を受けて23年間を預言者として活動し、63歳で没した。それから1400年近く経過した21世紀の現代に於いて、原理主義を唱えることが本当に可能かという問題がある。これと同じことは、仏教にもキリスト教にもユダヤ教にも言えるだろう。千年以上も前に成立した「聖典の無謬性と文字通りの解釈」は、言葉の厳密な意味では不可能である。しかし、自分たちはそれを実行していると「主張する」ことはできる。「では、実行している証拠を見せろ」と言われれば、「ここにこう書いてあるから、我々はこうしている」と指し示すところまではできるだろう。しかし問題は、そこから先である。

 世界宗教と呼ばれるものは皆、千年以上の歴史がある。その間、開祖が直面しなかった問題が無数に発生している。しかし、開祖が説かなかったからという理由で深刻な問題を無視することはできない。だから、その時々の宗教指導者たちは、開祖の説いた教説から「類推」して、新しい問題への対処の仕方を導き出し、それを宗教の教えの中に組み入れていく。また、開祖が説いたとされる教説や開祖や直弟子の言行録の中にも、文字通りに解釈すると互いに矛盾するものも多く存在する。その場合、時々の宗教指導者たちは、「文字通りの解釈」から離れて教説に矛盾しないような「新しい解釈」を導き出し、現実に起こる具体的問題に対処するのである。そういう、地道で困難な作業を世界宗教は延々と継続しながら、人々の要望にできるだけ応えてきた。原理主義とは、このような「開祖」と「現代」の間に横たわる千年以上の宗教的営みを省略して、いきなり現代の要望に応えようとするものだから、大変無理が多い運動であると言える。
 
 この無理な点を無理なく見せるために使われるのが「聖典の選択的利用」である。「聖典のここにこう書いてあるから、こうしている」と指し示すことができたとしても、「別のところには別のことが書いてあるが、どうすればいいか?」との質問には答えないか、または「その箇所は今回の問題と関係がない」と言って無視するのである。これをエルファドル氏は「聖典の文献的証拠を選択的に読むこと」(selective reading of the textual evidence)と言っている。原理主義者にそれが可能なのは、これまでの長い歴史の中で積み上げられてきた宗教の伝統の大半を否定することで、そこから自由になり、恣意的に聖典の“つまみ食い”ができるからである。
 
 もっと具体的に言うと、ワッハーブ派のイスラームは、18世紀にはオスマントルコに反対してアラビア的でないものはすべて真のイスラームではないと主張したが、その実、イスラーム国であるオスマントルコの勢力を弱めようとするイギリス植民地主義者の支援を受け、その手の中に落ちていた、とエルファドル氏は指摘する。ワッハーブ主義者の言う“純粋性”とか“純潔”というのは、結局、その思想が生まれたアラビアの一部(現在のサウジアラビア)のベドウィン的文化を意味するのだ、と彼は次のように言う。
 
「根本的なことを言えば、18世紀のワッハーブ主義はナジディのベドウィン文化を採用し、それを普遍化して“本当のイスラーム”だと主張したのに対し、今日のワッハーブ主義はサウジアラビアの文化を摂ってそれを普遍化し、“唯一の真のイスラーム”だと主張しているのである」。(p.53)
 
 18世紀のワッハーブ主義とイギリス植民地主義の関係を聞いて思い出すのは、現代のワッハーブ主義の尖兵であるオサマ・ビンラディンが、忌み嫌ったはずのアメリカの支援を受けてアフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦ったという事実である。それが次には9・11などでアメリカを攻撃し、今はアメリカから命を狙われている。これが「平和を愛する」はずの“唯一の真のイスラーム”だと主張する不毛さは、誰の目にも明らかである。いったい何が問題なのか--この問いへの答えの1つが「原理主義」であることも明らかだろう。
 
谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
ご文章を拝読しながら、7年前に当時勤めていた会社の仕事でエジプトに言ったときに早稲田の学生から聞いた話を思い出しました。

私はコーランを読んだことがないのでどういうことが書いているのかは存じ上げないのですが、コーランは要するに教祖の口述筆記の様な内容らしいですね。
「あの時このようにおっしゃった」というような・・・。

そうすると、その時々の状況に応じて教祖が感じた言葉なので、その言葉どおりを教義として奉るというのは無理があるのだなとその話を聞いて思ったのですが、結局いわゆる原理主義というのはそういった誤った信仰をさすということなのですね。およそ字義とは程遠い信仰と感じてしまうのは私だけでしょうか?

玉西邦洋 拝

投稿: 玉西邦洋 | 2006年8月14日 21:39

玉西さん、

>>コーランは要するに教祖の口述筆記の様な内容らしいですね<<

 岩波版『コーラン』の翻訳者、井筒俊彦氏は、「解説」の中で次のように書いています。

(…前略)直接じかに神自身がマホメットにのりうつって、その口を借りて話しかけて来るその言葉をその時その場で記憶に留めたものである。

>> 結局いわゆる原理主義というのはそういった誤った信仰をさすということなのですね。およそ字義とは程遠い信仰と感じてしまうのは私だけでしょうか? <<

 「字義通りの解釈」とひと言でいっても、聖典の文章を文脈から切り離して取り出せば、とんでもない表現を“教義”として信奉することにもなりかねません。例えば……

「さて、お前たち、信仰なき者どもといざ合戦という時は、彼らの首を切り落せ。そして向うを散々殺したら、枷(いましめ)かたく縛りつけよ。」(『コーラン』47「ムハンマド」の章)

投稿: 谷口 | 2006年8月15日 13:03

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