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2006年8月24日

受精卵を壊さないES細胞の道 (2)

 24日の新聞各紙は「受精卵壊さずES細胞」という見出しで、人間の初期胚の一細胞からES細胞を育てる技術を、アメリカのバイオ企業が開発したことを伝えている。前回の本欄の最後で、「科学技術の研究からは、本当に何が飛び出すか分からない」と書いたばかりなのに、またまた新しい展開である。この研究は、昨年10月17日の本欄で「受精卵を壊さないES細胞の道」と題して書いたマウスの実験を、人間で成功させたものだ。マウスで開発した技術を、10ヵ月後に人間で成功させたことは特筆に値する。
 
 この技術を開発したのは、アドバンスド・セル・テクノロジー社の研究者たちで、人間の受精卵を数回分裂させ、ちょうど8個の細胞塊になった時点で1個を分離して採取、これを既存の人間のES細胞やマウスの繊維芽細胞などと一緒に培養することで、ES細胞株を作り出した。使用した受精卵は、不妊治療のために凍結保存されていたものという。この凍結受精卵16個を使い、そこから合計91個の細胞を取り出して培養処理したのちに、2つのES細胞株を樹立したという。

『ヘラルド・トリビューン』(25日付)紙は、第1面で大きな図解と写真入りでこれを“大成果”(breakthrough)として報じているところが、『朝日』や『産経』(いずれも中面3段見出し)と少し違う。“大成果”という言葉を使ったのは、受精卵を壊さないでES細胞が樹立できれば、「他人のために人の命を犠牲にする」というこの技術が抱えていた基本的倫理問題が解消するか、少なくとも相当緩和すると考えたからだろう。これによって、ブッシュ大統領が拒否したこの分野への連邦政府の資金援助が、実現する可能性を見ているのかもしれない。その一方で、同紙の記事はホワイトハウスのエミリー・ローリモア報道官(Emily Lawrimore)が「人間の受精卵を研究目的に使うことは、どんな方法であっても深刻な倫理問題を生み出す。この技術もそういう心配を解消していない」と言ったと書いている。大統領の心中はなかなか穏やかでないのだろう。
 
 ところで、受精卵が8分割した状態の時に細胞1個を取り出す技術は、ダウン症の有無などを妊娠前に調べる着床前遺伝子診断(PGD, preimplantation genetic diagnosis)によってすでに確立している。ただし、まったくリスクがないわけではない。採取時の技術的リスクと、残りの7個の細胞が胎児に成長し、生まれて大人になっても、まったく異常がないとは断言できない。PGDは過去10年ほど前から使われているが、それを経て生まれた子供たちに今のところ異常は出ていないという。しかし、肉体の発病は中年以降が多いのである。

『朝日』の記事には、京都大学再生医科学研究所の中辻憲夫所長の談話が付いていて興味深い。曰く--「今回の成果はこうした宗教的問題を解消できる可能性があるが、逆に、受精卵に余計なリスクとストレスを負わせることになる。ES細胞株を子供の誕生時に作っておく、ビジネスにつなげたい考えもあるのではないか」。昨年10月の本欄でも触れたことだが、これは人工授精で受精卵を作った後、8分割時に細胞1個を取り出して、これから子と全く同じ遺伝子情報をもつES細胞株をつくることができることに言及しているのだ。なぜこれがビジネスになるかは、ES細胞の性質を考えれば分かる。この子が成長してから肉体的な故障が出ても、自分のES細胞から組織や臓器を作り出して拒絶反応のない、安全な治療が理論的には可能になるからである。
 
 さて、今回の技術への私の感想だが、溜息……ばかりである。昨年10月にも述べたが、こんな高度技術を利用できるのは高額所得者に決まっている。そういう人々が“優良な子”をもつためにPGDを行ない、さらにES細胞まで作っておく時代を、私は「素敵だ」とか「美しい」とは感じない。感覚的な表現で申し訳ないが、そういう自己本位の社会実現のために科学は進歩すべきなのか、と疑問に思う。私には、どうしても成人(体性)幹細胞の研究の方が価値ありと思えるのである。
 
谷口 雅宣

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