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2006年7月22日

「偶然はない」ということ

 ハイテク社会、インターネット社会は「偶然に満ちている」と感じることが多い。国際線の航空機で前の座席にすわる人、ホテルでの隣室のカップル、エスカレーターを降りてくるあの顔、この顔、ネット検索で見つけた店、出会ったサービス、興味をもった広告……これらは皆、突然我々の目の前に現われ、こちらから何もアクションを起こさなければ、そのまま消えていく。これが「偶然」でなくて何だろう? そんな実感をもった読者も多いに違いない。

 私は最近、ネット検索でプロ/アマの写真家が集まるサイトを見つけた。特段、目的の写真があったわけではない。特定の写真家を探していたのでもない。何となく「人の写真でも見てみようか」と思いながら「photoblogs」という言葉に引かれて、マウスを動かした。「photo」は写真であり、「blogs」はこのブログのようなウェブ上の日記(複数)だから、「ウェブ写真日記集」という意味だろう。2~3回のマウス・クリックの後、画面に現われた写真を見て、私は息を呑んだのである。誤解しないでほしい。何かマズイ写真が出たのではなく、帽子を被って横断歩道を行く1人の老人のカラー写真が現われただけだ。しかし問題は、その人が私の父とそっくりだったのだ。

 老人は、目の覚めるようなスカイブルーの半袖シャツを着て、白っぽいベージュの帽子を被り、左手をズボンのポケットに入れ、右手は黒い色の傘かステッキのようなものを持ち、横断歩道を渡っている。やや上方から撮った写真で、目から下の顔の左半分が見える。年齢は70~80代だろうか。帽子のツバぎりぎりに見える目と口元、そして、やや前屈みになった上半身の感じが、私の父と瓜二つなのである。しかし、多くの読者はご存じのとおり、父は今自宅で療養中である。とすると、かなり前に撮られた写真かもしれないと思い、写真掲載の日付を見ると今年の7月18日--つい最近である。私は考え込んでしまった。

 私が“偶然”に出会った写真ブログは、アンディー・グレイ(Andy Gray)という人が運営している「JapanWindow.com」というサイトだった。「窓から見た日本」というような意味だろう。東京などの日本の街中で撮ったスナップを主体にした写真が掲載されており、それぞれに簡単なコメントがついている。私の父に似た人の写真には、「帽子、シャツ、男 (Hat, Shirt, Man)」という題がついていて、その下に次のようなコメントがある--「男が1人、大きな帽子を被り、下ろしたてのシャツを着て東京の通りを渡っている。群衆の中から飛び出すような力強さがある。奇妙な話だが、アメリカではこういう人に会ってもユニークだと感じない。しかし、時と場所によるのだ」。

 グレイ氏は、恐らく渋谷のハチ公前の交差点かどこかでこの写真を撮った。被写体の「何か」が撮影者を惹きつけたのだ。その写真を、世界中の人が見ることのできるインターネット上に置いた。インターネット人口は数十億人とも言われるから、その中のウェッブページが合計で何枚になるのか、見当もつかない。その無数のページの中からある日、私がこの写真を見つけた。その確率は正確には私に分からないが、かなり稀であることは確かだ。これが「偶然」でなければ、何を偶然と呼べるだろう。
 
 しかし、翻って考えてみると、我々は「常に」「何か」に出会っているが、それを「偶然だ!」とは驚かない。例えば、朝の出勤時に、玄関から出たときに出会う1匹のアリを見て、「このアリと自分が出会う確率は?」などと計算することはない。大体、そんなものが視野に入っていても注目しないから、意識の表面に上らないのが普通だ。だから、「アリに出会った」とも思わないのである。意識に刻印されるものは、自分がその時関心をもっているものだけだ。我々はインターネット上で数多くの写真に出会っていても、ほとんどのものは「見過ごす」のである。注目するのは、自分に関心のあるものだけだ。「あの老人」の写真も、だから“偶然”私の目の前に現われたのではない。私の意識が、インターネットの大海の中を“関心の緒”をたどって探り当てたものである。端的に言えば、父への関心がなければ、あの写真を画面に出すことはなかったのである。
 
 ところで、問題の写真を見たい読者は、このリンクをたどってグレイ氏のサイトへ行ってほしい。そこでのやりとり(ただし英語)を読めば、それが本当に父の写真であるかどうかが判明するに違いない。
 
谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 写真を拝見して、「あっ本当だ、谷口清超先生だ!」と思い、先生のステキな低音のお声までもが聞こえてくるようでした。しかし、人違いなのですね……。表情、帽子のかぶり具合、ポケットへ手を入れた感じまでも先生そっくりで、本当にびっくりです。この写真の方はおいくつで、どういう職業で、どういう信仰を持っているのだろう、などと想像が膨らんでしまいます。

私には現在、1歳と10カ月になる娘がいますが、たとえ一時期であっても親子としてこれだけ密接に関わり合う人が世界中の60億人もの中から選ばれているということは、何と神秘的なことだろうと、先生の記事を読ませていただいて改めて思いました。

阿部 哲也 拝

投稿: 阿部 哲也 | 2006年7月23日 13:02

阿部さん、

 コメントありがとう。

>> 私には現在、1歳と10カ月になる娘がいますが、たとえ一時期であっても親子としてこれだけ密接に関わり合う人が世界中の60億人もの中から選ばれているということは、何と神秘的なことだろうと……<<

 毎日、“奇蹟の生活”をされているわけですね。スゴイ、うらやましい……。(もと1歳児の父親より)

投稿: 谷口 | 2006年7月24日 16:15

谷口雅宣先生

>> 毎日、“奇蹟の生活”をされているわけですね。

毎日そういう自覚を持って生活していきたいと思います。

 阿部 哲也 拝

投稿: 阿部 哲也 | 2006年7月25日 10:00

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