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2006年7月 5日

肉食を考える

 7月4~5日の2日間、東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで行われた生長の家教修会の諸準備で、本欄の執筆ができなかった。今日、それを終えて一息ついている。この教修会は、生長の家の「本部講師」と「本部講師補」という講師資格をもつ人たちを主な対象として行われる“勉強会”のようなもので、これで4年目だ。海外では今年1月にサンパウロで「世界平和のための生長の家国際教修会」が行われたことを、1月23日の本欄で報告したが、その国内版である。今回は、海外からの8人を含む284人の講師諸賢が参加し、4人の研究発表に熱心に耳を傾けてくださった。
 
 今回のテーマは「肉食」である。「肉を食べる」という人類の食習慣が、世界の宗教の中で歴史上、どのように扱われてきたかを「一神教」と「多神教等」(仏教を含む)に分けて概観し、その世界的な拡大が21世紀初頭の現代において、どのような問題を引き起こしているかを学び、今後の指針とすることが目的である。私は1日目の「肉食の世界史的・宗教的背景」についてのまとめと、2日目の「日本における肉食の歴史的・宗教的背景と現代の問題」について、まとめの講話を担当した。発表者は皆、ふだんの業務の合間を縫って諸文献に当たり、調査に出かけるなど努力された結果、膨大な情報をパソコンからの映像を通して、限られた時間内に上手に発表してくださった。私の妻も、テーマに沿って、発表者とはひと味違って“パーソナル”な角度から話し、問題意識を盛り上げてくれた。

 今回の研究発表で明らかになったことの1つは、信仰者が何を食べるべきかという「食物規定」は、主要のどの宗教においても「変遷してきた」という事実である。つまり、それらの食物規定は、多くの宗教にあっては“開祖”が定めた不動の教えというよりは、もともとあった食習慣を踏襲したり、開祖の没後、ライバル宗教との関係の中で“独自性”を打ち出す目的で採用されたり、時代や環境の変化に応じて決められてきたのである。宗教の教えはすべてが不変ではなく、一部には時代や環境に応じて変化する部分(周縁部分)がある、との考え方の正しさが証明されたかたちになった。
 
 例えばヒンドゥー教の伝統では、動物の中では牛を“聖牛”として神聖視し、牛肉を食べるなど考えられないのだが、古代のヴェーダーの教えにも、バラモン教にも“聖牛”の考えはなく、牛はバラモンによって供犠されたあと、人々に食べられていたという。その習慣が、仏教の成立後、紀元前5世紀ごろ、アーヒンサー(不殺生、非暴力)の考えのもとに批判されるようになると、仏教やジャイナ教との対抗上、バラモンが牛の供犠をやめ、牛肉を食べなくなると、その動きが一般にも広まっていったらしい。そして、11世紀になってイスラム教と接触するようになると、それとの対抗上、“聖牛”の観念が強化されていったという。

 また、仏教においても不殺生の考え方が説かれていたものの、原始仏教教団や上座部(小乗)の仏教では、一定の条件が満たされれば動物の肉を食することは認められていたという。それが、釈迦滅後100年以上たって生まれた大衆部(大乗)の分派運動の中で、肉食を厳しく制限する考え方が生まれ、それが中国や日本にもひろまったという。だから、上座部の仏教が伝わったタイでは、現在でも僧侶は肉食を禁じられていないらしい。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教での肉食については、もう少し複雑な経緯があるので、ここでは全部書けないが、肉食に関して旧約聖書(三者の教典)の記述が互いに矛盾している一方、ブタを食べるか食べないかに関しては、三者の競争関係の中で決まってきたと言えるようだ。イエス自身が肉食をどう考え、実際に何を食べたかについては、いろいろな研究の結果、興味深い考え方がいくつも提出されているが、別の機会に触れたいと思う。

谷口 雅宣

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コメント

 昨日丁度講師会長先生から教修会の内容を教えて戴きました。素晴らしい内容でらしたそうですね。

 ビーガンを決意して5年ですが、
 最初、動物性のダシが無い味付けというものは、食べても食べた気がしないほどでした。
 いかに今まで自分が、動物の肉汁(カツオ出汁含む)を舌先で楽しんでいたかということが分かり、自分が恥ずかしくなりました…

 最近、”愛”という感情そのものを感じてからと言えばいいでしょうか。
すると心が満たされて、不思議と余計なものは食べたくなくなってしまいました。
 あれほど好きだった甘いものにも興味がなくなってしまいました。

 そこにおいてやっと、今まで積み重ねてきた、本当の自分の心にふれることが出来たように感じます。
 自分が自分についてきた嘘や…(バーバラ・アン・ブレナンさんの著書等も参考になったと思います。)
 自分は現時点でいかなる人物か、(全く実相に程遠い人間!)
地球と自分との関係…自分は地球だったのだと知りました。
 

 私たちは、食物によって、かなりの人格を左右されているように思います。
 もっと直接的に表現すると、食物によってかなりの部分、心の感覚を誤魔化されているように感じます。
 本当は悲しいと感じないといけないところを、麻痺させて、それだけで人生を終了させるのは、あまりにももったいない話です。

 食物が溢れて処理に困るくらいの時代になったので、何でも有難いで片付けるのではなく、
食事ということについて正しく知り、正しく実行して行くことをしないことには、生物として成り立つはずもないばかりか、全てにおいて影響が出ますので、
 先生が”知る”ということは大事と仰られたことは、本当に素晴らしいことだと思わせて戴きました。

 谷口雅宣先生、ありがとうございます。 

投稿: 松尾かおり | 2006年7月 7日 00:31

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