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2006年7月31日

水で車が走る?!

 科学によって何が可能となるかについては、門外漢の私はしばしば目を見張らされる。昨年10月31日の本欄では、「鉄を自動車の燃料に使う」という科学者の構想を紹介したが、今度は「水を自動車の燃料にする」話があるそうだ。もっと正確に言うと、自動車に水タンクを積み、そこから水素を取り出しながら燃料電池を動かす。すると排出されるのは水だけだから、その水をリサイクルして再び水素の原料にすれば、文字通りのゼロ・エミッション(廃棄物ゼロ)の社会が実現する。こんな夢のような計画と真面目に取り組んでいる科学者がいる。イギリスの科学誌『NewScientist』が7月29日号で伝えている。

 現在、開発されている燃料電池車がなかなか普及しない理由の中には、①水素の生産にエネルギーを要するので非効率的、②水素の運搬や貯蔵が困難、の2つがある。また、現在のガソリンと同様の「中央集中的」な生産と流通方式が考えられていて、大量の化石燃料から大量の水素を取り出し、それを圧縮・液化して各地の需要先に運搬しようとしている。これだとインフラの整備に大きなコストがかかるし、水素は引火性なので危険だ。しかし、地上に最も豊富にある「水」の化学式はH2Oだから、これから酸素(O)さえ除けば純粋な水素(H2)が入手できる。この過程を自動車の外でなく内部で実現できれば、インフラ整備など不要になってしまう。

 それを狙う科学者たちは、ホウ素(原子記号=B)に目をつけたという。これを水と反応させることで水素が取り出せ、酸化ホウ素が残る。ミネソタ大学のタレク・アブハメド氏(Tareq Abu-Hamed)とイスラエルのワイズマン研究所の研究チームの計算によると、この方式だと、自動車1台に積むホウ素は18kgですみ、これに45リットルの水を反応させると水素が5kgできる。これだけの水素があれば、燃料電池車は、40リットルのガソリンを積んだ普通車と同様の距離を走れるという。現在、あるイスラエルの会社がエンジンを設計中だが、韓国のサムスン社は、これと似た考えにもとづいたスクータの実験モデルをすでに製作ずみという。

 ナトリウムやカリウムを水と混ぜると激しく反応し、水から水素を引き剥がすことはよく知られていた。ホウ素も同様のことをするが、反応はもっと緩やかなため、特別の防護容器はいらないそうだ。この種の研究は上記のイスラエルの研究者が始めたわけではなく、すでにダイムラー=クライスラー社が「ナトリアム」という名のコンセプト・カーを造っている。この車は水をそのまま使わずに、水素を多く含む液体化合物を使い、触媒によって水素を取り出して燃料電池に供給する。これによって時速130kmのスピードと500kmの走行距離を達成したのだが、2003年に計画をやめてしまった。現在は、ワイズマン研究所出身の科学者が経営する「エンジニュイティ」(Engineuity)というイスラエルのベンチャー企業が、水を使った燃料電池車を開発中で、「あと数年のうちに」商業化ができると言っているそうだ。
 
 最後に、水から水素を取った残りの酸化ホウ素の処理だが、アブハメド氏はマグネシウムを使ってこれをホウ素に還元することを考えていて、その工程で使用するエネルギーは太陽光から得ればいいとしている。だから、今のところ「全く水だけ」では車は動かない。しかし、触媒であるホウ素もリサイクルできるから、温暖化防止には大いに役立つと考えられる。こういう新技術の開発には、しかし時間と費用がかかる。有望な技術を国が積極的に支援していく態勢が必要だ。時間はあまりないのだから……。
 
谷口 雅宣

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2006年7月30日

アマゾンは雨を作っている

 2日前の本欄で、関東地方の梅雨明けは8月になるかもしれないと書いたら、気象庁が今日、あっけなく梅雨明けを宣言してしまった。それでも、平年より10日遅れである。昨日の『日本経済新聞』が夕刊の1面で「異常気象 世界で猛威」と書いていたが、アメリカやブラジルだけでなく、ヨーロッパや中国大陸でも熱波や台風の襲来で被害が多く出ているという。7月19日にはロンドン近郊で36.5℃という95年ぶりの暑さを記録し、ドイツの7月の平均気温は平年を約5℃上回る過去最高となる見通しで、フランスでも7月の全国の平均気温が平年を3~4℃上回る暑さという。
 
 ご存じの読者も多いと思うが、日本でお馴染みのヨーロッパの都市は、緯度で比べると北海道以北に位置しているものが多いのだ。例を挙げると、ベルリン(北緯52.5度)、ロッテルダム(52度)、ロンドン(北緯51.5度)、パリ(49度)、ミュンヘン(48度)、ローマ(42度)、バルセロナ(41.5度)、マドリード(40.5度)である。日本の各地の緯度を挙げると、稚内(46度)、網走(44度)、札幌(43度)、襟裳岬(42度)、八幡平(40度)である。ロンドンの緯度は、南北樺太を分ける中間線(北緯50度)より北である。ここが36℃を超える気温になったのだから、異常ぶりがよく分かると思う。

 28日の本欄で、南米のイグアスの滝が渇水に見舞われていることを書いた。同日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、アマゾンの自然の専門家であるトーマス・ラブジョーイ氏(Thomas E. Lovejoy)が、「森林が雨をつくる」メカニズムに関して興味ある話を書いていた。このメカニズムは25年前から分かっていたそうだが、それによると、南米大陸の西側に聳えるアンデス山脈に、大西洋から運ばれてきた湿った風が当るとアマゾンに雨が降るという。その雨は、熱帯雨林を構成する何層もの植物群の葉に当って、その大半は地面に浸み込む前に大気中に蒸発する。その水分を含んだ空気は、さらに西へ運ばれるにつれて雲となって濃縮され、そして再び雨となって地上に落ちるのだという。このメカニズムが、アマゾンを除くブラジルに降る雨の40%と、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンに降る雨の相当の割合を作るらしい。
 
 イグアスの滝は、ブラジル南部の、パラグアイとアルゼンチンとの国境を接する場所にある。そこへ流れ込む川は、上記のメカニズムによって降る雨が流れているから、この滝の水もアマゾンの熱帯雨林の恩恵を受けていることになる。イグアスとアマゾンは2千キロ以上も離れているのに--である。アマゾンの森林伐採は、こうして広大な地域に渇水状態をもたらすことになる。ブラジルが把握している数字では、アマゾンの森林の17~18%はすでに伐採され、さらに毎年2万平方キロが消えている。これにアマゾンを共有する他の国々(コロンビア、ペルー、ボリビア)での開発行為を含めると、アマゾンの森林伐採の勢いは深刻だ。だからラブジョーイ氏は、上記の2重の降雨メカニズムが働かなくなる時期が迫っている、と警鐘を鳴らしている。今年のイグアスの滝の渇水が、その前兆でなければ幸いだ。
 
谷口 雅宣

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2006年7月29日

遺伝子組み換えアイスが登場

 梅雨明け宣言を待たずに、関東地方は一気に真夏の気温になった。冷たいものが美味しい季節である。ちょうど今日の『日本経済新聞』は、別冊の「NIKKEI プラス1」で日本の“ご当地アイス”の品評会をやっていた。“アイスクリームの専門家”という10人に、各地の特産品を材料に使ったアイスクリームの中から美味しいものを10位まで挙げてもらい、ランクを決めたそうだ。

 その結果は、①吟果膳 清水白桃(岡山県)、②夕張メロンアイス(北海道)、③だだちゃ豆アイス(山形県)、④本生わさびアイス(静岡県)、⑤黒豆アイス(兵庫県)、⑥サトウキビアイス(沖縄県)、⑦ドラキュラ・ザ・プレミアム(青森県)、⑧いもアイス(埼玉県)、⑨トマトアイス(熊本県)、⑩焼きなすアイス(高知県)、になったという。選にはもれたが、珍しいものでは牛タン(宮城県)、カニ(北海道)、ウナギ(静岡県)を原料に使ったアイスクリームもあり、合計するとご当地アイスは千種類を超えるというから驚きだ。

 これは日本人が特別アイスクリーム好きということか?……と思ったら、そういうことでもないようだ。7月27日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、先進国における昨今の健康志向とアイスクリーム好きを両立させるために、ついに遺伝子組み換え技術を使ったアイスクリームが登場した、と伝えている。「バターのように官能的でありながら、ブロッコリのように健康的」であろうとして探し当てたのが、北極海の魚がもつ特殊な蛋白質なのだそうだ。これを利用して、こってりとクリーミーで密度が濃いにもかかわらず、ローファットで、添加物も少ないアイスクリームができるらしい。

 今年の6月、ユニリーバ社(Unilever)は、氷菓類に新しい原料を入れる許可申請をイギリスの食品基準局(Food Standards Agency)に提出した。その原料とは、北極海に棲むウナギのような魚が産生する蛋白質である。この蛋白質は、凍てつく極地の水から魚を護るために、氷の結晶の成長を妨げる機能があるという。アイスクリーム中の水分が凍らずに、クリームのような食感が得られるわけだ。これを魚から直接取り出すのではなく、この蛋白質を作る遺伝子をイースト菌の中に組み込んで、発酵の過程でそれを産生させるようにしたという。この蛋白質-氷組織化蛋白質(ice-structuring protein)--は、アメリカの食品医薬品局(Food and Drug Administration)の認可もすでに下りていて、一部の製品に使われているという。

 果物や野菜、動物の肉をアイスクリーム中に錬りこむ方法と、魚由来の蛋白質を混ぜる方法では、背後にある考え方が少し違うような気がする。前者は、新奇の香りと味を楽しむためだろうが、後者はクリーミーさと脂肪分削減の両立が目的だ。脂肪分を摂り過ぎないためには、アイスクリームを食べ過ぎなければいいのだ。そういう当たり前の論理は、メーカーの利益にならない。メーカーとしては、どんどん食べてほしい。だから、“ローファット”とか“ヘルシー”などの種類を作り、「食べ過ぎても太らない」という印象を作り出して数を売ろうとする。何となく、“ライト”とか“マイルド”などの言葉をつけたタバコと似ているではないか。
 
 アイスクリームはすでに過剰生産なのだろう。それを、さらに売るための新手の方法だ。そういう点が、いかにも欲望満足を優先させる現代の価値観を表していると思う。そんな目的のために、遺伝子組み換え技術が使われていることも憶えておこう。
 
 谷口 雅宣

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2006年7月28日

記録的な長梅雨

 九州・四国地方の梅雨は明けたが、関東以北はまだ雲が覆う。九州南部は過去30年で最長(60日間)の梅雨だった。関東・甲信の梅雨明けは平年(7月20日)よりすでに1週間遅れており、8月にずれ込む可能性も出てきた。過去、この地方の梅雨明けが最も遅れたのは8月4日(1982年)だというから、この記録も塗り替えるかもしれない。気象庁は、梅雨が長引く理由を2つ挙げる:①偏西風の蛇行が強まって日本上空に寒気が流れ込み居座った、②太平洋高気圧の影響で中国南部の湿った空気が流れ込んだ。専門家でないのでよく分からないが、梅雨が長かっただけでなく降水量の異常の多さは、それだけで説明できるのだろうか。
 
 27日の『産経新聞』によると、25日までの集計で、東日本の降水量は日本海側で平年の251%、太平洋側で同213%に達し、西日本でも日本海側は平年の213%、太平洋側が同171%だったという。すさまじい豪雨は各地で被害を出し、死者・行方不明者が28人、住宅の浸水は9千棟を超えた。気象庁は、大きな被害を出した豪雨災害に名前をつけてきたが、今夏の一連の豪雨を「平成18(2006)年7月豪雨」と命名した。同庁によると、今週に入って偏西風の蛇行が解消し始めたため、西日本は31日ごろまでに、東日本は来週以降に梅雨明けするとの見通しだ。(26日『日経』)

 本欄では昨年7月25日にも気象のことを書いている。それを読むと、昨年の7月も曇り空が多く、わが家の太陽光発電量は一昨年の3分の2ぐらいだった。ちょうど大型台風7号が名古屋から上陸して、時速25キロの遅さで大量の雨を降らせていた。今年の台風は、まだそれほど多くない。それでも2倍の雨が降ったということだ。今年の7月25日には、カリフォルニア州を熱波が襲ってることを書いたが、暑いのは同州だけではなく、ほぼ全国的だ。去年の同じ日にも同様のことに触れている。だから近年になって、7月は東アジアがずぶ濡れとなり、アメリカは熱波に襲われるというパターンができつつあるような気がする。
 
 地球温暖化は、地殻の表面と大気中を循環する水の量を増加させる。温暖化前には、極地や高山で凍結したまま循環しなかった水(氷)が、河川や海中に溶け出すからだ。そのことと降水量の増加との関係は分かりやすい。これに対して、熱波や旱魃との関係は分かりにくいかもしれない。が、7月7日に本欄に書いたことを読み返していただけば、①早期の雪解け、②夏季の高温、③乾期の延長、という3つの要因が(少なくとも米カリフォルニア州では)働いていることが分かる。このことが、南アメリカにも当てはまると思わせるような写真が、27日の紙面に載っていた。
 
 それは、南半球最大の瀑布「イグアスの滝」が、70年ぶりの渇水に見舞われているとして、今年7月の写真と、2004年1月の写真を並べている記事だ。(『産経』と『日経』)ブラジル南部では旱魃が続いていて、滝の水量は年間平均の2割以下に激減してしまったそうだ。ブラジルは今冬だが、24日にはサンパウロ市の気温は30.2℃に達し、7月としては観測史上最高を記録したそうだ。しかし考えてみると、南米の雪解けはまだこれからだから、上記の3要因はそのまま当てはまらない。『日経』の記事では、地元の気象研究所が、海水温が平年より低くなる「ラニーニャ現象」のため降水量が極端に低下した、と分析している。
 
 それにしても、昨今の世界的な気象の変化は急激すぎないだろうか。中東の戦闘も激化している。戦争は、最も激しい温暖化要因だ。大量の火器が使われ、航空機が飛び回り、重厚な車両が疾走する。それは人間の憎悪の表れだ。早く戦闘をやめ、憎悪を消す努力をしなければならない。

谷口 雅宣

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2006年7月27日

幹細胞は体中にある

 本欄では、受精卵や卵子を使うES細胞(胚性幹細胞)の研究に反対し、患者本人の体にある成人幹細胞を治療に利用する研究を「より倫理的」と考えて推奨してきた。そして、7月17~18日にかけて、成人幹細胞の研究例を振り返ってみた。そういう有望な幹細胞が存在することが分かっている体の部位を列挙すると、脳、骨髄、髪、皮膚、脂肪、歯胚、臍帯血,生殖器……など相当の種類に及ぶ。最近では、「間葉系幹細胞」と呼ばれる幹細胞が注目されているようで、これは骨髄だけでなく子宮内膜にもあることが分かり、研究が進んでいるらしい。成人幹細胞は、だから「全身に散在している」と表現してもいいだろう。

 7月25日付の『朝日新聞』の夕刊によると、国立成育医療センター研究所などは、難病の筋ジストロフィーの治療に子宮内膜の細胞に含まれる幹細胞が効果的であることを、マウスの実験によって証明したという。また、同24日に『日本経済新聞』が伝えたところでは、京大の研究グループは、急性心筋梗塞のために、骨髄中の幹細胞移植に遺伝子治療を組み合わせた効果的な治療法を開発したそうだ。また、今年3月に発表された例では、独立行政法人の産業技術総合研究所で、抜歯した親知らずにある歯胚から取り出した幹細胞から、骨、肝臓、神経の細胞を分化させることに成功している。同研究所では、2001年から患者の骨髄内の幹細胞を使って骨や関節疾患、心疾患の患者の治療を行ってきた。しかし、骨髄液の採取は患者への負担が大きいため、歯科で抜歯され廃棄された親知らずに注目し、幹細胞の利用技術を開発したという。

 さらに25日付の『日経』には、神戸のベンチャー企業「ステムセルサイエンス社」が、フランスのニース大学と国立科学研究センター(CNRS)から人の幹細胞を培養し、独占販売する権利を取得したと書いてある。この幹細胞は「ヒト脂肪細胞由来多能性幹細胞」(hMADS細胞)というらしい。同社によると、これは人間の脂肪組織中に存在する細胞で、試験管内で容易に培養でき、医薬品の開発に有効な研究材料として価値があるそうだ。具体的には、脂肪や骨に効率よく分化することが確認されていて、糖尿病や肥満や骨粗鬆症等の疾患に対する治療薬の研究に適しているという。こういう成人幹細胞が、すでに国際的取引の対象になっているのだ。同社は、昨年11月にニース大からこの幹細胞を筋ジストロフィーの治療に使う権利を得ていて、この研究をさらに進める過程で高品質の細胞を得られるため、その細胞自体を外部に販売することにしたという。2年後には5千万円の売り上げを目指すというから、将来の需要を見込んだビジネスと言えよう。

 私がここで強調したいのは、人間のES細胞を使った再生医療の成功例はまだ存在しないのに対し、成人幹細胞を使った治療はすでに普通に行われており、成功例も数多いということだ。前者では卵子や受精卵を入手する際に倫理問題が多く、その影響もあって提供数が絶対的に少ない。これに対し後者では倫理問題はそれほどなく、患者自身の細胞を使う点でより安全であり、また臍帯血や皮膚、歯胚など、提供者の負担が少なく入手が簡単である。これだけ有利な方法が現に存在し、成果を出しつつあるのに、問題の多いES細胞の研究に力を注ぐ意義が、私にはよく分からない。医学はかつて「医道」とも呼ばれ、倫理性が前提となっていたのだから、21世紀の医療も倫理を尊ぶ伝統を堅持してほしいものだ。

谷口 雅宣

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2006年7月25日

植林の考え方

 ノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣、ワンガリー・マータイさんと、植物生態学者の宮脇昭氏の対談を読んだ。昨年の3月中旬に『毎日新聞』に載ったものだが、私は読む機会がなかった。題して「緑の対談-- 木を植えよう、今すぐ」。その中で、ケニアに3千万本の植林をしてきたマータイさんが、宮脇氏の植林の考え方と一致した点が印象的だった。

 宮脇氏と、彼の推進する「潜在自然植生」の考え方については3月11日の本欄で紹介したので、詳しくはそちらを参照されたい。ごく簡単に言えば、世界中の森は今、ほとんどが人工の森で、その土地の気候や土壌、動植物との関係を軽視して造られてきたから、災害に弱く、砂漠化の原因にもなっている。しかし、もともとその土地で長い歳月をかけて進化・発達してきた木々を植えれば、緑の成長は早まり、根もよく張って砂漠化を防ぎ、人間や動物にもより大きな恩恵を与える--こういう考え方である。

 マータイさんも、女性を組織して植樹運動を始めたころは、女性が好む樹種--例えばユーカリのように、燃料の薪や家畜を飼う際のフェンスの材料になり、あるいは土壌の流出を防ぎ、木蔭を提供するような樹種--を選んで植林をしたが、こういう木は外来種が多く、地域に生息していた他の野生の動植物との共存ができずに、生物多様性が維持できなかったという。マータイさんはだから、それ以来、「外来種を植えることには強く反対し、ずっとその土地に根づいている原種の重要性を、ことあるごとに市民に伝え、啓発してきました」と言っている。この仕事は、まだ途中なのだそうだ。それは、宗主国のイギリスが、かつて国有林にユーカリやマツなどの外来種を植えたため、今でも森林破壊が急速に進んでいるからだ。宮脇氏とマータイさんが最初に会ったのはこの時で、それ以来、2人は協力して植林活動を続けているそうだ。

 宮脇氏はこの対談の中で、「地球に住む60億の人たちが1人10本の苗木を植えたら、どうなりますか。荒れ地や砂漠は、多様な防災環境保全林に変わり、地球規模の温暖化にも十分対応できると思います」と言っている。なかなか楽観的で勇気づけられる。しかし、植樹の効果が現われるのは20~30年先だろうから、それまでに温暖化が不可逆的(後もどりできないほど)に進行しなければ、との条件が必要だ。

 7月7日の本欄で、アメリカ西部が温暖化の影響で山火事の頻発に悩まされている話を書いたが、その後はかの地は“猛暑”に襲われている。今日の『日本経済新聞』夕刊によると、カリフォルニア州の電力管理委員会は、エアコンなどの電力需要の急増に対処するため、非常警報の「ステージ2」というのを発令し、州内の一部の企業への電力供給を制限し始めたという。同州の内陸部ではこのところ連日、40℃前後の記録的な猛暑が続いているため、送電施設の変圧器が耐えられず、23日にはロサンゼルス地区の17万5千世帯への電力供給が一時止まったそうだ。今日放映されたABCニュースでは、同州の首都サクラメント市は38.9℃、中部のフレズノ市は43.3℃、南部のサンタクラリタ市は42.8℃になったという。こういう38℃を超える猛暑が、もう19日間も続いているというのは尋常のことではない。

 植物にとって、こんな猛暑がいいはずがない。特に同州はワインの産地だからブドウ栽培が盛んで、北部のナパ・バレーには約200のワイン醸造所があるという。7月15日付の『New Scientist』誌によると、最近、プルドゥー大学の研究者が発表した論文は、今世紀末までに、アメリカのブドウ生産地の80%は高温のためにブドウ栽培ができなくなると予測している。ブドウの木は、気温が35℃を超えると衰弱してしまうからだ。猛暑続きで、今年のカリフォルニア・ワインの出来がどうなるか分からないが、地球温暖化の被害は確実に広がりつつあると考えるべきだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年7月24日

「偶然はない」ということ (2)

 前回の本欄では、出勤の玄関先で1匹のアリに出会う話をした。読者は実際に今朝、玄関先でアリに出会っただろうか? もし出会った人がいたならば、その人は「何という偶然か!」と驚いただろうか?--つまり、「インターネットでアリと会う話を読んだ翌日に、本当にアリに会った!」と驚いただろうか? もし驚いたならば、その人は、私が前回書いた内容をよく理解されていないかもしれない。私が言いたかったことは、「人間の意図や関心が介入せずに、何ごとかが“偶然に”起こると認められることはない」ということだ。表現に正確さを期すために、まわりくどい表現になっているが、これを思い切って端的に言えば「偶然はない」ということになる。
 
 例題をもう一つ挙げよう。私は昨日の朝、JR原宿駅前にある竹下通りから東郷神社側へ道を折れ、神社境内へつづく石段を上ろうとしたところで、石段上にクリーム色の折り畳み傘の袋を見つけた。これを普通「偶然に見つけた」と形容するだろう。「偶然」という日本語には「予期せずに」という意味があるから、その意味ではこの用法は正しい。しかし、「偶然」のもう一つの意味は、「因果律によってあらかじめ知ることができない事が起こること」(『新潮国語辞典』)であり、その反対語は「必然」である。この2番目の意味では、私は傘の袋を「偶然見つけた」と言えるかどうか、疑問である。なぜなら、私はそれを見つけた瞬間、「ああ、これは折り畳み傘を急いでバッグから出した人が、その袋をきちんとしまいそこねたな」と思ったからだ。小雨が降ったりやんだりする日には、折り畳み傘のケースがよく道路に落ちていることは、読者も気づいておられるだろう。つまり、この出来事は、事前にある程度予期できていたから、私は驚かなかったのである。
 
 上に書いたように、予期できることが起こるのを「偶然に起こる」とは言わない。少なくとも、上に書いた2番目の意味では正しい用法ではない。しかし、1番目の、単に「予期せずに」の意味では、「偶然に傘の袋を見つけた」と言ってもいいのだろう。この違いは微妙だから、間違いやすい。1番目は、「そのとき傘を見つけた人がそのことを予期していなかった」という軽い意味である。「予期していなかった」理由は、別のことを考えていたからでも、アイポッドの音楽を聴いていたからでもいい。しかし、いったんそれを見つけて「アッ、あの袋は傘の袋だから、誰かが傘を開いたあとで落としていったな」と、その出来事の因果関係を推測できた場合は、「予期できること」が起こったのである。だから、2番目の意味では「偶然見つけた」ことにはならない。
 
 ずいぶんメンドーな議論だ、と怒らないでいただきたい。結局私が言いたいことは、1の場合も2の場合も、「予期する」という人間の心の動きが関与している、ということだ。つまり、「偶然」という現象は、人間の心と離れた場所--いわゆる“外界”で客観的に起こるものではなく、ある現象と遭遇した人の心の中で起こる一種の“解釈”なのである。Aという出来事に対して「それは偶然だから仕方がない」と考える人は、Aが起こるにいたるまでの因果関係を認めないから、Aが再び起こることを防止できない。しかし、Aが起こったことは「偶然でなく、何か原因がある」と考える人は、その背後の因果関係を探ろうとするから、Aの再発防止に成功するかもしれないのである。どちらが賢い生き方かは、説明する必要はないだろう。

 生長の家で「偶然はない」というのは、それは人間の心の中の現象(解釈)であるから、神の創造ではないという意味である。「現象はない」というのと似た意味だ。我々の人生には常に何かが起こっているのだから、それを「善」の方向へ導くための努力は、大変重要である。“偶然起こる”と感じられることには悪事もあれば善事もある。悪事は再発を防止しなければならないが、善事は何回起こってもいいはずだ。そういう意味でも、出来事の背後にある因果関係を考えずに「偶然だ」ですませる生き方は、あまりお勧めできないのである。
 
谷口 雅宣

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2006年7月22日

「偶然はない」ということ

 ハイテク社会、インターネット社会は「偶然に満ちている」と感じることが多い。国際線の航空機で前の座席にすわる人、ホテルでの隣室のカップル、エスカレーターを降りてくるあの顔、この顔、ネット検索で見つけた店、出会ったサービス、興味をもった広告……これらは皆、突然我々の目の前に現われ、こちらから何もアクションを起こさなければ、そのまま消えていく。これが「偶然」でなくて何だろう? そんな実感をもった読者も多いに違いない。

 私は最近、ネット検索でプロ/アマの写真家が集まるサイトを見つけた。特段、目的の写真があったわけではない。特定の写真家を探していたのでもない。何となく「人の写真でも見てみようか」と思いながら「photoblogs」という言葉に引かれて、マウスを動かした。「photo」は写真であり、「blogs」はこのブログのようなウェブ上の日記(複数)だから、「ウェブ写真日記集」という意味だろう。2~3回のマウス・クリックの後、画面に現われた写真を見て、私は息を呑んだのである。誤解しないでほしい。何かマズイ写真が出たのではなく、帽子を被って横断歩道を行く1人の老人のカラー写真が現われただけだ。しかし問題は、その人が私の父とそっくりだったのだ。

 老人は、目の覚めるようなスカイブルーの半袖シャツを着て、白っぽいベージュの帽子を被り、左手をズボンのポケットに入れ、右手は黒い色の傘かステッキのようなものを持ち、横断歩道を渡っている。やや上方から撮った写真で、目から下の顔の左半分が見える。年齢は70~80代だろうか。帽子のツバぎりぎりに見える目と口元、そして、やや前屈みになった上半身の感じが、私の父と瓜二つなのである。しかし、多くの読者はご存じのとおり、父は今自宅で療養中である。とすると、かなり前に撮られた写真かもしれないと思い、写真掲載の日付を見ると今年の7月18日--つい最近である。私は考え込んでしまった。

 私が“偶然”に出会った写真ブログは、アンディー・グレイ(Andy Gray)という人が運営している「JapanWindow.com」というサイトだった。「窓から見た日本」というような意味だろう。東京などの日本の街中で撮ったスナップを主体にした写真が掲載されており、それぞれに簡単なコメントがついている。私の父に似た人の写真には、「帽子、シャツ、男 (Hat, Shirt, Man)」という題がついていて、その下に次のようなコメントがある--「男が1人、大きな帽子を被り、下ろしたてのシャツを着て東京の通りを渡っている。群衆の中から飛び出すような力強さがある。奇妙な話だが、アメリカではこういう人に会ってもユニークだと感じない。しかし、時と場所によるのだ」。

 グレイ氏は、恐らく渋谷のハチ公前の交差点かどこかでこの写真を撮った。被写体の「何か」が撮影者を惹きつけたのだ。その写真を、世界中の人が見ることのできるインターネット上に置いた。インターネット人口は数十億人とも言われるから、その中のウェッブページが合計で何枚になるのか、見当もつかない。その無数のページの中からある日、私がこの写真を見つけた。その確率は正確には私に分からないが、かなり稀であることは確かだ。これが「偶然」でなければ、何を偶然と呼べるだろう。
 
 しかし、翻って考えてみると、我々は「常に」「何か」に出会っているが、それを「偶然だ!」とは驚かない。例えば、朝の出勤時に、玄関から出たときに出会う1匹のアリを見て、「このアリと自分が出会う確率は?」などと計算することはない。大体、そんなものが視野に入っていても注目しないから、意識の表面に上らないのが普通だ。だから、「アリに出会った」とも思わないのである。意識に刻印されるものは、自分がその時関心をもっているものだけだ。我々はインターネット上で数多くの写真に出会っていても、ほとんどのものは「見過ごす」のである。注目するのは、自分に関心のあるものだけだ。「あの老人」の写真も、だから“偶然”私の目の前に現われたのではない。私の意識が、インターネットの大海の中を“関心の緒”をたどって探り当てたものである。端的に言えば、父への関心がなければ、あの写真を画面に出すことはなかったのである。
 
 ところで、問題の写真を見たい読者は、このリンクをたどってグレイ氏のサイトへ行ってほしい。そこでのやりとり(ただし英語)を読めば、それが本当に父の写真であるかどうかが判明するに違いない。
 
谷口 雅宣

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2006年7月21日

天皇の人権について

 昭和天皇の“発言メモ”と称するものが突然現われ、その内容が「靖国神社へのA級戦犯の合祀に反対」だったとして『日本経済新聞』が7月20日付で報じたことが、波紋を広げている。何かとても「政治的」な臭いがすると感じるのは、私だけではあるまい。同紙の記事によると、これは1988年当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)が書いたメモで、本人の使った20数冊の手帳の1つに貼りつけてあったものを、同紙記者が「入手した」ということらしい。それが昭和天皇の“本心”だというのである。

 時あたかも“ポスト小泉”をめぐる政権党の動きが表面化し、「A級戦犯分祀」が争点の1つになっているばかりか、外国からも「分祀賛成」などの意見が飛び出している。その時に合わせて“決定打”を放つ--そういう効果をねらったとしか思えないタイミングである。これらのメモや手帳や日記類は、もう20年近くどこかの家の片隅かどこかにしまわれていたのである。それが突然、空を飛んで新聞記者の手中に落ちたわけではない。誰かが、明確な意図をもって今、この時をねらい、数多の記録の中から、靖国神社合祀に関する部分を強調して、「天皇の御心はこれぞ!」と記者に書いてもらったのである。その「誰」かは、記事の背後に身を低くして隠れている。私は「あなたはなぜ今、この記録を出す決意をしたのか?」と問いかけたい。

 ここで「A級戦犯分祀論」あるいは「分祀不可能論」を展開するつもりはない。それは明らかに政治問題中の政治問題で、誰か別の人の仕事である。また、「陛下の御心はこうだから、政治をこう処理すべきだ」という言い方は、陛下を“政争の具”に利用することである。戦前はこれが盛んに行われたが、戦後の人間はその大罪から学ばなければならないだろう。それよりも、今日は少し別の角度から、この問題の背後にある重要なことに触れたい。
 
 それは「天皇の人権は制限されている」ということである。戦前の大日本帝国憲法の下では、それでも公的な面で大きな権限が認められていたが、戦後の象徴天皇制下では、相当の制限がなされていると言えよう。例えば、今回の“発言メモ”のことでも、『日経』紙上でコメントしている専門家の多くは、富田元長官の人柄について「話を面白くするとか、誇張するとか、そんなことは絶対できない」とか、「ものごとを脚色したり、ねじ曲げて語る人ではない」などと昭和天皇の発言の信憑性を強調しているが、そういう記録者側の忠誠心や誠意が強調されればされるほど、「なぜ陛下は、他にご自身のお考えを率直に表明する場がなかったのか」との疑問が湧いてくる。また、「人に記録させるのではなく、ご自身で日記を書かれたらよほど信憑性がある」とも思ってしまう。
 
「信頼している側近にだけご自身の意思を表明される」ということを言い換えれば、公的な発言は制限されているということだ。これを20日の『日経』は「昭和天皇の公式発言は極めて少なかった。天皇の言葉が持つ力を自覚し、また自らを立憲君主と規定し“輔弼(ほひつ)の者の進言に従う”のを信条としたため、自分の考えを表明することは自然と抑制された」と書いている。しかし、陛下ご自身の「個人的信条」がそうだったのではなく、憲法上の制約により陛下の基本的人権の一部が制限されていたと考えるべきだろう。制限のある人権の中には「表現の自由」も含まれており、したがって自由な発言は許されないのである。

 21日付の『朝日新聞』は、1987年8月15日に昭和天皇が詠まれた御製--この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし--が、実は徳川義寛元侍従長(故人)の要望で、「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるような歌にしていただいた」ものだと書いている。これはかなり“眉ツバ”的な内容だが、前日の同紙夕刊では、この取材は『朝日』独自で95年に行われ、この時徳川氏は「靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祭るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう」と語ったそうだ。このことは、受け取り方しだいでは、陛下は最初、「合祀反対」の意思が伝わるような御製を作られたが、「それでは政治的な発言になる」と考えた侍従長から修正の要望があり、陛下はそれを受け入れられた、とも解釈できる。もちろん、真相は不明である。

 御製についてはともかく、「制度」として人権に一部制限があるのだから、同様のことは昭和天皇だけでなく、今上陛下や皇太子殿下についても当てはまるだろう。もし、昭和天皇のみが個人的信条から発言を控えておられたというのであれば、その後継ぎとなられるお二方は、別の信条からもっと自由な発言をされてもいいはずだが、事実はそうでもない。このことから考えると、現在の皇太子殿下が雅子妃殿下の“人権否定”について取材記者の前で率直な発言をされたことは、驚くべきことなのである。それほどのことが両殿下の周囲で今起こっている--そういう問題意識を私はもっている。

谷口 雅宣

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2006年7月20日

ブッシュ氏、ES細胞研究支援にノー

 米大統領のブッシュ氏が、胚性幹細胞(ES細胞)の研究に対する国の財政支援拡充法案に拒否権を発動した。この法案は昨年5月に連邦下院で可決しており、上院では18日(現地時間)に「63対37」で可決した。ブッシュ氏は少数意見に与し、しかも就任以来初めての拒否権発動といことだから、実に明確な「ノー」の意思表明である。ブッシュ氏は、イラク戦争などで“単独行動”を批判され、最近は態度軟化が言われてきたが、「正しい」と思うことは多少の反対を押し切って強引にやるところは、まだ変わっていないようだ。私は、ブッシュ氏の環境問題やテロに対する態度には批判的だが、ことES細胞に関しては、氏の決断を声を大にして讃えたい。

 ブッシュ大統領の拒否権発動について、新聞などは「11月の中間選挙を前に、支持基盤の宗教右派へ配慮した」(19日『朝日』)などと分析しているが、本欄でも書いたように、宗教右派の一部は環境問題への取り組みでブッシュ氏を批判しているし、共和党も、19人がこの法案に賛成するなど分裂している。だから、この問題で内部分裂した自派への“配慮”というよりは、彼の“信仰心”が法案拒否の最大の動機ではないだろうか。
 
 今日(20日)に放映されたABCニュースでは、大統領は拒否権発動の理由をこう説明した--「この法案は、他の人々の医療上の利益を見つけるために無辜の人命を奪うことを支援することになります。それは、健全なアメリカ社会が敬うべき道徳的境界を越えるものだから、私は拒否しました」(This bill would support the taking of innocent human life in the hope of finding medical benefits for others. It crosses a moral boundary that our decent society needs to respect, so I vetoed it.)
 
 この法案の内容を私は詳しく知らないが、大統領は「受精卵を破壊してES細胞を作る」ことを指して「無辜の人命を奪う」と言っているのだろう。ES細胞の“出所”としてよく候補に上がるのは「不妊治療で作られた受精卵のうち、不要になったもの」(凍結余剰胚)だから、「どうせ廃棄されるものなら、人助けに使ってもいいだろう」と考える人が多いのである。ところが大統領は、この日、そういう凍結余剰胚を“養子”として引き取り、妊娠後に健康な赤ちゃんとして産まれた子供と、その親たちを会見場に招待して、次のように言った:
 
「ここにいる子供たちは皆、人工授精による凍結受精卵として人生を始めました。この凍結受精卵は皆、不妊治療が終ったあと使われなかったものです。この子たちは皆、受精卵である時に養子となり、愛に満ちた家庭で育つ幸せに恵まれました。この子たちは、予備の部品なんかじゃありません。この子たちを見れば、研究目的で受精卵が破壊される時に何が失われるかが分かります。この子たちを見れば、我々は皆、最初は小さな細胞の塊として命を始めることが分かります。そして、この子たちを見れば、我々が新しい治療法を探すことに熱心なあまり、わが国全体が根本的な道徳を放棄してはいけないということが分かります。」

 大統領はこの日、別の一団の人々も会場に招いていた。それは、受精卵を破壊しなくても利用できる成人幹細胞(adult stem cells)や、ヘソの緒中にある臍帯血幹細胞による治療で健康になった人々である。そして、「この人たちは、効果的な医療は倫理的でありえると教える生きた証人です」と紹介した。続いて大統領は、成人幹細胞がES細胞と同様に効果的な治療法を生む可能性に触れ、「科学者たちが研究中のある治療法では、通常の体細胞をプログラムしなおす」技術があるとし、その例として、「皮膚の細胞がES細胞と似たように機能する」ことを挙げた。これはまさに、18日の本欄で扱った「人工幹細胞」のことである。
 
 このように、国の中心者が倫理基準を明確にしたうえで政策決定をするという点を、わが国も見習うべきだと思う。特に生命倫理の分野での国の対応の「あいまいさ」と「遅さ」は、早急に改善してほしいものだ。
 
 谷口 雅宣

【参考資料】
○"President Discusses Stem Cell Research Policy," http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/07/20060719-3.html

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2006年7月18日

人工幹細胞と毛包細胞

 前回の本欄では、京都大学の山中伸弥教授が、マウスの皮膚細胞の遺伝子を操作することで、ES細胞に酷似した状態を実現した話を書いた。このことと、同大再生医科学研究所の中辻憲夫所長がヒトクローン胚研究を中止したことが、何か関係があるように書いたが、これはあくまでも私の勝手な憶測である。しかし、中辻所長の発表を伝える『京都新聞』の記事には、研究中止の理由として、「ヒトクローン胚を使わないで移植治療の拒絶反応を回避する方法にも可能性がある」ことが挙げられており、その方法の例として「体細胞の遺伝情報を初期化・再プログラム化して作成する人工幹細胞」と書かれているのが、私の目に留まったのである。この「人工幹細胞」という言葉は、私には初耳だった。

 そこでインターネットを調べてみると、上記の山中教授の所属する再生医科学研究所が行っている「再生誘導研究」についての説明を見つけた。これがまさに「人工幹細胞」を作る研究で、前回触れた『Science』誌の記事は、そのマウスでの成功を取り上げていたのだった。これはビッグニュースであるはずだが、日本のテレビや新聞は報道しなかったようだ。(少なくとも、私の目には留まらなかった。)
 
 京大再生医科学研究所のウェッブサイトによると、山中教授はES細胞がヒト胚(受精卵)を破壊するという倫理問題を抱えているうえ、患者に移植すると拒絶反応を起こすという問題があるため、「患者自身の体細胞をES細胞に変える」研究に取り組んでいるようだ。山中教授自身の言では、「患者自身の細胞からES細胞に類似した多能性と増殖能を有し、腫瘍形成能は持たない幹細胞を樹立することを目標に研究を行って」いるという。「腫瘍形成能」というのは「ガン化する」という意味だ。培養すればどんどん増殖し、様々な細胞に分化する能力があるが、ガン化しないものを遺伝子操作によって人工的に作るということだろう。素人の私から見れば「魔法」のように見える研究だが、それが決して魔法でないことは、前回触れたマウスでの実績が証明している。

 このように、ある研究が「有望だ」とか「可能性が大きい」という理由だけで跳びつくのではなく、倫理問題を起こさないように配慮して研究領域を選び、多少困難であっても新しい可能性に挑戦することは、素晴らしいと思う。そういう研究者が日本にもいて、一定の成果を挙げていることを知り、心強く思った。
 
 ところで、同じ幹細胞の研究では、髪の毛の付け根にある「毛包」から、各種の細胞を分化させるという、これまた(素人目には)“魔法”のような可能性も見えてきている。これは7月12日付で科学ニュースを扱う Newswise が発表したもので、ペンシルバニア大学医科学校の研究者グループは、毛包にある成人幹細胞を培養して神経細胞、平滑筋細胞、皮膚の色素細胞など、何種類もの細胞に分化させることに成功したという。研究成果は、最新号の American Journal of Pathology (アメリカ病理学雑誌)に発表された。
 
 髪の毛包から成人幹細胞が採れることは、専門家の間ではよく知られているらしい。髪の毛包には2~5年間の活動期と3~4ヵ月の休止期が交互にあって、活動期には、髪はここから毎日平均で0.3~0.5ミリ伸びるというから、細胞分裂が盛んな場所であることが分かる。これを、人のES細胞を培養するのと同様の条件下に置くことで、研究グループは様々の細胞に分化させることに成功した。
 
 ここで紹介した人工幹細胞も毛包幹細胞も、いずれも「皮膚」の細胞である。採取は簡単であり、生命の破壊につながらない。こういう“倫理的”な技術を、医学がもっと積極的に採用するようになれば、社会の医療への信頼感はさらに深まっていくと思うのだが……。
 
谷口 雅宣

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2006年7月17日

クローニングはもう不要?

 1996年7月5日、イギリスで生まれた1頭の雌羊が世界を揺るがした。人類が初めて、体細胞クローニングの技術によって哺乳動物のコピーを誕生させたからだ。この「ドリー」の誕生10年を記念して、イギリスの科学誌『New Scientist』は7月1日号で特集を組んだ。「クローニングの夢は潰(つい)えたか?」という題だから、あまり楽観的な評価ではない。私としては人間のクローン作成など反対だし、ES細胞の研究にも反対しているから、「潰えた」と断定してほしいところだが、治療目的のクローニング(therapeutic cloning)を夢見る人はまだ数が多いから、「潰えた」との断定は非情なのかもしれない。

 体細胞クローン技術を使った再生医療の動向については、本欄で何回も取り上げてきた。しかし、ヒツジに続いてマウス(1998年12月)、ヤギ(1999年4月)、ブタ(2000年3月)、ネコ(2001年12月)、ウマ(2003年5月)、シカ(同)、ラバ(同)のクローンは誕生したが、同じ技術によって「ヒトクローン胚」という人間の胚を作成する技術は、あまり進歩していないようだ。「大進歩があった」として昨年5月に騒がれた韓国の研究では、データが捏造され、ヒトクローン胚からはES細胞自体が作成されなかったことが判明した。だから、この技術の人への応用がいかに難しいかがわかる。

 ドリーの研究では、277個の乳腺細胞から核を取り出し、それを除核卵細胞に注入した。そのうち、代理母の胎内に移植できるまでに成長したのは29個であり、そこからわずか1頭のヒツジが誕生している。その後の動物では多少、効率が向上したものの、本質的にはこの技術の成功率の悪さは変わっていない。これを人間で行おうとすると、何百もの新鮮な卵子の入手をどうするかが大きな問題となり、この点でも、韓国の研究は深刻な倫理問題を抱えていた。だから、体細胞クローン技術を使ったES細胞の研究は、大きな“壁”に突き当たっていると言えるだろう。

 これに対し、ES細胞その他の幹細胞から、神経細胞や皮膚細胞などの各種の細胞を分化させる技術は進歩してきている。ES細胞からは、インシュリンを産生する細胞、心筋細胞、神経細胞、筋肉細胞などがすでに生まれている。昨年6月20日の本欄では、アメリカでマウスの脳にある成人幹細胞から神経細胞を分化させたことを報告した。また、8月29日の本欄では、埼玉医大が患者本人の骨髄中の幹細胞を使って心筋梗塞の治療に成功したことと、既存のES細胞から患者に合致する多種の細胞を効率よく分化させる方法が開発されたことを書いた。また、今年4月6日の本欄では、ドイツの研究グループが、マウスの精原細胞からES細胞に似た多分化能のある幹細胞を作成したというニュースを報告した。さらに6月6日には、人間のES細胞から効率よく神経細胞を作り出す技術を、理化学研究所と京都府立医科大学の研究グループが開発したと伝えた。
 
 ところで、7月7日付の『Science』(vol.313, p.27)には、今年6月29日から7月1日までカナダのトロントで行われた第4回国際幹細胞研究協会(International Society for Stem Cell Research)の年次会議で、京都大学の山中伸弥教授が、マウスの皮膚細胞の4つの遺伝子を操作することで、ES細胞に酷似した状態を実現することができると発表した、と書いてある。これが事実ならば、驚くべきことだ。もちろん、人間の細胞がマウスと同じように操作できるとは限らないが、人で同じことができるようになれば、事態は一変する。なぜなら、ES細胞(に等しい細胞)を入手するためには、もはや卵子はいらず、成人幹細胞もいらず、普通の皮膚細胞があればいいからだ。こうなれば、治療目的のクローニング--つまり、ヒトクローン胚の研究--は全く不要となるのではないか。
 
 6月20日の本欄では、文部科学省の専門家作業部会が決定したヒトクローン胚研究の指針案の内容について報告したが、この指針案が厳しすぎるとして体細胞クローンからES細胞を作る研究を断念する研究者も出てきている。京都大学再生医科学研究所の中辻憲夫所長は、日本でのES細胞研究の第一人者だが、7月14日の『京都新聞』によると、ヒトクローン胚を使った再生医療研究には、研究グループとして当面取り組まないことを、13日に明らかにした。中辻所長は山中教授と同じ京都大学で、研究分野も同じだから、ひょっとしたら別の方法に注目し、クローニングの研究自体には見切りをつけたのかもしれない。
 
谷口 雅宣

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2006年7月15日

肉食を考える (5)

「人間は他人(ひと)の身になって考えることができる」とよく言われる。また、それができない人のことを「ジコチュー」(自己中心的)など言って非難することがある。また、「隣人を愛せよ」とか「自分にしてほしくないことを他人にもするな」という教えは、キリスト教を含む多くの宗教にある。いずれの場合も、人間には「自己を相手に同一化して相手の感情を推し量る」能力があることが前提になっている。この能力を「感情移入」(empathy)といい、人間の人間たるべき特徴の1つだと考えられてきた。また我々は、この感情移入ができるために、演劇や映画を楽しんだり、スポーツを観戦したり、小説に熱中したり、講演や漫才に出かけるのだ。

 ワールドカップのサッカーの試合で、フランス・チームのキャプテンであるジダン選手が、対戦相手のイタリア選手に頭突きを食らわしたことが、世界中の耳目を集めた。これは観戦者が同選手に感情移入して、「ベテラン中のベテラン選手が有終の美を遂げるべき試合でわざと反則するのだから、よほどの侮辱を受けたに違いない」と考え、その理由に関心が集まったからだ。これに比較して、ブタやウシやヒツジやウマ……つまり、家畜のような動物は、同種の仲間に対して感情移入することはない、というのが常識だった。ところが最近、アメリカの科学誌『Science』(vol 312, 30 June 2006)に発表された研究では、ネズミが仲間に対して感情移入する可能性が指摘されている。

 この研究は、カナダのモントリオール市にあるマクギル大学の心理学者、ジェフリー・モーギル(Jeffrey Mogil)教授らによるもので、マウスは、よく知っている仲間のマウスが痛みを感じているとき、自分自身も痛みを感じやすくなる、との実験結果を得た。これを「感情移入」と呼べるかどうか判然としないが、仲間のマウスの様子を見て自分の反応を変えるという点は、何となくそんな気もする。
 
 この研究では、モーギル教授はマウスの腹に酢酸の薄い水溶液を注射した。単独で飼われていたマウスは、この注射後、予想通り身をよじって苦しむ反応を示した。しかし、最低1週間、別のマウスと一緒に飼われていたマウスは、同じ濃度の酢酸水溶液を2匹同時に注射されても、苦悩を示す時間が単独で飼われていたマウスよりも長くなったという。これに対し、一度も一緒にいたことがない2匹のマウスで同じ実験をすると、苦悩を示す時間が有意に長くなることはなかった。また、モーギル教授は、マウスが足に熱を感じて引っこめるまでの時間を測定する実験もした。この場合、仲間が目の前で酢酸水溶液を注入されて苦しむのを見ているマウスの方が、単独で熱を感じたマウスよりも速く足を引っ込めることが分かった。同教授によると、この実験が重要なのは、マウスは単に仲間の動作をマネているのではなく、自分は酢酸など注入されていないのに、仲間の苦しみを見ることで自分の痛覚が敏感になったと考えられるからだという。
 
 モーギル教授らは、これがマウスの感情移入の証拠だとしているが、反対意見もある。しかし、「感情の感染」(emotional contagion)が起こった証拠だと解釈する人は多い。この感情の感染とは、例えば、病院の新生児室で一人の新生児が泣き出すと、それにつられて多くの赤ちゃんが一緒に泣く現象だそうだ。この場合、一人ひとりの赤ちゃんは、最初の赤ちゃんがオムツが濡れたために泣いたと理解できなくても起こる。多くの研究者は、この感情の感染は、もっと複雑な感情移入が成立するための過程で起こると考えているらしい。だから、マウスは、親しい仲間の感情を自ら直感的に感じる、ということではないか。
 
 マウスは、同じ哺乳動物であるブタやウシより優れた脳をもつわけではない。マウスが感じることは、恐らくブタやウシも感じている。だから、屠殺場へ曳かれていくウシは直感的に脚を止めて抵抗し、恐怖で小便を漏らすのだろう。我々人間の多くは、この事実を見てはいない。しかし、感情移入というものがすぐれて人間的な心の特徴であるならば、我々は殺される家畜たちの恐怖や苦しみを「無視する」のではなく、感情移入によって「追体験する」ことが人間らしい生き方と言えるのではないか。だから、肉食は人間的にも問題なのだ。
 
谷口 雅宣

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2006年7月14日

肉食を考える (4)

 現代の食肉生産は工業製品の生産方式に倣っている、とはしばしば言われてきたことである。すなわち、単位面積当たりの生産効率と人件費の節減をねらい、生産単価を下げることで市場でのシェアー拡大をめざすのが当たり前になっている。ここに大きな問題がある。それは、「生き物を生き物として扱わない」からだ。どんな生物にも、生存に適する一定の“広さ”がある。それは“縄張り”などと呼ばれることもあり、一定範囲内に同種の生物がいくつも入り込むと“争い”の原因になる。植物でも、狭い土地に近接して植えれば、日光や栄養の取り合いになることは誰でも知っている。

 しかし、食肉生産の現場では、効率化をねらって狭い場所でできるだけ多くの動物を、できるだけ短期間で飼育する。ブロイラーの生産などでは、身動きができないほどの狭い籠にニワトリたちを閉じ込める。そして、互いに傷つけ合うことがないようにクチバシの先を切り取ることさえする。ブタの場合も似たような状況で、狭い“箱”のような枠内に詰め込むから、互いにシッポを噛み合う現象も出る。そして、短期間に大きく育てるために成長ホルモンを投与することは珍しくない。また、自然界と著しく異なる環境で育てられるストレスから、動物たちが病気になるのを防ぐために、抗生物質を与える。

 こういうことは私も前から聞いていたが、教修会の発表で初めて知ったのは、柔らかい子ウシの肉(ヴィール)を採るためにどんなことが行われるかである。寺川昌志講師の発表から引用しよう:
 
 「乳離れ前の子牛をやっと入る位の木枠の囲い(56㎝×137㎝)の中に閉じこめる。その理由は筋肉がつくのを防ぐためで、首は鎖で繋がれ僅かしか動かせない状態にする。そのため本能の動作である自分の体を舐めることも出来ない。更に脂肪が付きやすいという理由で暗闇に置かれる
 与えられる特別ミルクとは、餌から鉄分と繊維分を徹底的に抜いたものという意味であり、これは子牛をわざわざ貧血状態にして肉色をピンク色にするためのもので、そのほうが高値で売れるという理由による。また、少しでも多く肉をつけるために水も与えず、特殊ミルクのみを与える。このような不健康な飼育のため出荷までに死ぬケースも多く、その予防のために多量の抗生物質が投与されるが、中には発ガン性の高い薬品も含まれている」

 つまり、食肉生産の現場には“動物残酷物語”が満ち満ちているのである。「どうせ殺すから、どんな方法で飼育し殺してもよかろう」と読者は思うだろうか? 「人間の食用になるのだから、自然の本能や生き方など無視してもいい」と読者は考えるだろうか? こういう育て方が虐待や拷問でないならば、いったい何を虐待と言い、拷問と呼ぶべきだろう。我々は「単なる消費者だから」という言い訳で、免罪符を得ることはできない。消費者がいなければ、生産者はいないからだ。
 
 ブタもウシも人間と同じ哺乳動物である。このことをよく考えるてみると、我々が肉食のためにしていることは、正当化するのが難しい。哺乳類は、魚類や鳥類、爬虫類に比べて、大脳が発達している。脳科学者の山本健一氏は、これが「刺激に対する一定の反応」という紋切り型の行動ではなく、「物事の本質をよく理解したうえでの柔軟性をもった反応」を可能にしているという。そして、次のように続ける:
 
「この柔軟な行動を可能にする内的な“世界の縮図”、あるいは“内的宇宙”、これを“心”というならば、哺乳類は“心”をもった動物といってもよかろう。他の哺乳類と人間との間に言葉は通じない。しかし、人間が心をもつことを自然科学が否定しえないと同様に、他の哺乳類が心をもつことも自然科学は否定しない方が良いだろう。我々と彼等の心の間に質的な違いはないと思う。」(講談社刊『脳とこころ』、p.66)

 イヌやネコを飼っている人は、経験に照らしてこの文章は納得のいくものだろう。寺川講師は、かつて屠殺場で働いていた老人が語った言葉を紹介していた--「屠殺場に着いた牛は、恐れて脚を動かさなくなる。それを引っ張ることをやってたよ。小便も漏らす。解体場に曳いていくときには涙を流して鳴く」と。“知らないで犯す罪”の一端が、ここにある。

谷口 雅宣

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2006年7月13日

肉食を考える (3)

 7月10日の本欄で、私は「宗教上の食物規定は、その宗教の“神髄”や“本質”に当たるものではない」と書いたが、これは「宗教の信仰者は何をどのように食べてもいい」という意味では決してない。ほとんどすべての宗教には、食物規定に当たるものが歴史的に存在するという事実は、宗教の説く“中心的教え”の一部に「生命尊重」の考えがあることを証明している、と私は思う。それは、「自分の肉体維持のためには、必要最小限の生命の犠牲はやむを得ないとしても、できるだけ殺さない」という考え方である。動物の姿をしたヒンドゥーの神々、モーゼの十戒、輪廻転生の思想、ジャータカ物語、そして手の込んだ様々な供犠(くぎ)の儀式などは、そのことを有力に物語っているだろう。

 今回の教修会でも話題になったことだが、キリスト教は世界宗教の中では最も緩い食物規定をもつと言われている。つまり、「キリスト教徒はほとんど何を食べても構わない」と考えられているのである。しかし、その一方で、アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)のように自ら肉食をしなかった聖職者もおり、トマス・アクィナス(1224-1274)のように「節制とは本来、食や性に関わるものである。そして暴食から生じるのは感覚の鈍さであり、肉欲からは霊的な善の認識が排除されてしまう」(『神学大全』)として、肉食を肉欲との関係でとらえ、肉食をひかえるべきことを説いた人もいる。また、新約聖書を注意深く読めば、例えば「肉から生まれる者は肉なり、霊から生まれる者は霊なり」というイエスの有名な言葉のように、そのような解釈が成立する部分が数多くあることに気づく。だから、現代のキリスト教者で菜食主義を堅持する人は珍しくないのである。

 ところで「生けにえを供える」という宗教上の供犠の儀式であるが、それが人類史の中で延々と続けられてきたことは承知の事実である。この意味については、「神への贈物」とか「贖罪」とか「共食による神との交融」など、宗教学上いろいろな説があって見解が分かれている。しかし、犠牲動物が神の前で聖化(sacralization)されるという点は、各宗教に共通しているような気がする。これを言い換えれば、すべての人間の中には、単に食欲の満足や肉体の維持を目的にした生命の破壊では「何かが足りない」という意識があり、その意識の発露として供犠の儀式を行ってきたのではないだろうか。人間は、肉体的には「自己目的」である食事を、同一信仰をもつ「共同体の目的」に昇華するために供犠の儀式を行ってきた、と考えられないだろうか。
 
 昨年3月27日の本欄でアイヌ民族の「イオマンテ」の儀式を紹介したが、そこでは1~2年のあいだ村で育てた子グマを殺すだけではなく、「子グマは神になって森へ帰る」という信仰心が表現されていた。これこそ食事の“聖化”であり、これによってアイヌの村の精神的結束が一層深まるのだろう。教修会で発表された例では、イスラームの人々のメッカへの巡礼の際、最後の行事としてミナーの谷で動物の犠牲が一斉に行われる。これを「犠牲祭」(イード・ル・アドハー)と呼ぶが、その意義は、犠牲動物の肉を自分だけで食べるのではなく、貧者や困窮者、孤児などを含む巡礼者相互で分かち合うという「喜捨」の精神にあるらしい。このように、イスラームの犠牲祭にも「欲望を昇華して共同体の目的に向わせる」という“聖化”の機能が認められるのである。
 
 現代の日本人の食事からは、このような宗教性がほとんど消滅してしまった。食事はむしろ栄養素の摂取と自己充実感の達成という“欲望優先”の行動となっているため、不規則でも不摂生でも不合理でも「個人の自由」とされることが多いのは、残念である。生長の家では、谷口雅春先生に最初に啓示された「食事の神示」において、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と説かれていることを思い出そう。我々は現代の食品に関する正しい知識をもち、その上で個々人の「内部神性」が満足するような食生活を送りたいものである。
 
谷口 雅宣
 

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2006年7月11日

ココログがおかしい

 本欄を掲載しているアット・ニフティー(@nifty)の「ココログ」のサービスが、数日前から実質“ダウン”の状態だ。前回の講習会の記事も、何度もやり直し、時間をかけてやっとアップした。しかし、症状が治らずにこれから(今日の14時から)約2日間かけてメンテナンスをするらしい。その間、私の書き込みができなくなるかもしれないので、ここで予め報告しておきたい。早く正常になってくれることを祈るばかりだ……
 
谷口 雅宣
 
 

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2006年7月10日

肉食を考える (2)

 7月5日の本欄では、今年の生長の家教修会で発表された「肉食」の研究について報告したが、その中の1つの発見は、「世界の主な宗教における食物規定は変遷してきた」ということだった。つまり、ある宗教の信者が何を食べ、何を食べざるべきかを定めた規則は、その宗教の“神髄”とか“本質”に当たるものではないということである。それらはむしろ、もともとその土地にあった食習慣を踏襲したり、開祖の死後、ライバル宗教との関係の中で自らの宗教の“独自性”を打ち出すために採用され、あるいは時代や環境の変化に応じて決められてきた、ということだった。もしこれが事実ならば、緊急な事態が到来すれば、宗教の独自性よりは普遍性が重視され、時代や環境が食生活の変更を要求するならば、世界の宗教は「食物規定」を共有することができないだろうか?--そんな結論は早急すぎるだろうか。
 
 食事は、人間にとってもその他の動物にとっても、肉体の維持と発展のために不可欠な行動であることは言うまでもない。多くの動物は、遺伝的に決められた食物しか口にしない。ということは、ある一定の食物を食べるということが、自分の属する種とその他の種とを区別する重要な行為となる。人間の場合も、今回の教修会の発表で明らかになったように、「ブタを食べる」とか「ウシを食べない」とか「肉食をしない」などの食事をめぐる取り決めが、ある集団と別の集団とを区別する重要な指標となってきた。インドでは、「何をどう食べるか」という食習慣が、「カースト」や「ジャーティ」という階級や社会集団の自己同一性の表れとして機能しているという。中国でも「広東料理」とか「四川料理」などの呼称があるように、それぞれの地方に独自の食材や味付けが保存されており、国土の狭い日本においてさえ「関東」と「関西」では、味付けや食材に微妙な違いがある。

 このように考えると、私が上に書いた“結論”は、理論的には成立しえても、実際的には早期の実現は困難であるかもしれない。しかし、その反面、“グローバリゼーション”と呼ばれる現象を考えると、それは「アメリカ的食生活を“規定化”して世界に広める動き」と見ることもできるから、善悪の判断は別として、それが行きわたっている地域においては、すでに現代版の食物規定が成立していると言えるかもしれない。私は今、世界ブランドのハンバーガーやフライドチキンやピザを「もっと食べろ」と言いたいのではない。むしろ、その逆である。それらの世界ブランドの食品がどのような食材からなり、どのような成分を含み、どのように調理され、どのように販売されているかを知ることで、「倫理的、宗教的に抵抗のあるものは食べない」という食物の“反規定”が成立すると思うのである。
 
 読者はすでにお気づきだろうが、Coke や Mac、KFCなどを対象とした“アンチ・グローバリゼーション”の運動はすでにある。私は、そういう特定の企業に対する反対運動とは違うもっと地道で、信仰的で、共感的な生き方ができないものかと思う。それは、何かに「反対」したり「排撃」するのではなく、正しい知識にもとづいて、正しく選択する--消極的に言えば「避けるべき選択をしない」ことであり、積極的に言えば「倫理的選択をする」ことである。世界中の人々が正しく選択するためには、しかし、まず第一に「正しい知識」が普及する必要がある。これが案外、むずかしい面をもっている。
 
 教修会の場では、スライドや表を多用して食肉生産の現場写真や、各種の統計が披露されたが、このような教育活動が食肉産業や食品メーカーから好まれないことは予想できる。しかし、事実を糊塗してオブラートで包み、あるいは美しく飾り立てることは、被害を拡大し、ひいては人類全体の罪を拡大することにつながる。「知って犯す罪」と「知らずに犯す罪」とでは、後者がより大きいという話を思い出そう。現代人の(特に先進国の)食生活は、「知らずに犯す罪」に満ちていると言えるのである。
 
谷口 雅宣

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2006年7月 9日

環境を意識した講習会

 青森市で行われた生長の家講習会では、珍しい試みがあった。それは、昼食の弁当の容器を生分解性プラスチックのものにしたことである。さらに、弁当の中味が「おにぎり」であることから割り箸を使わず、おかずだけを楊枝で突いて食べる方式にしたそうである。この楊枝も、生分解性のものに統一したというから、なかなかの徹底ぶりだ。本欄では、生分解性プラスチックには何度も触れてきたが(最近では7月2日6月9日5月24日)、そういう私は、まだ“現物”に手を触れたことがなかった。そこで今回は、しげしげと手に取ってみることにした。ただし、弁当の入っていない“空箱”に触れただけだ。(中身入りの写真は、人に依頼した)
 
Boxlunchb  プラスチックという名がついているので、私はスベスベした感触の弁当箱を想像していたが、案外ザラザラした手触りの「紙」のような材質である。私の知っているもので一番これに近いのは、生卵を入れる紙製のケースだ。それもそのはず、容器の原料はアシ(葦)だから、石油系のプラスチックよりもボール紙に近い。これを製作したメーカーは、昨年の愛知万博にもエコ食器を出した大黒工業だ。同社のウェッブサイトによると、イネ科の多年草であるアシは、空気中の二酸化炭素を体内に溜め込みながら、1年で2~3メートルの高さに成長するが、放置しておくと枯れて腐敗し、今度は酸素を吸収してCO2を出すようになるらしい。だから、定期的に刈り取って利用することが温暖化防止にはいいという。
 
 生長の家の青森教区の竹村正広・教化部長の話では、弁当箱として使った後は、弁当業者がゴミ処理場に持ち込んで地中に埋めることになっているそうだ。すると、5~6ヵ月で土にもどるという。弁当は2,800個を注文したから、「これによって多少なりともCO2を削減できるものと期待しています」という。そのほか同教区では、使用後の紙パックや飲料に使うストローもリサイクルし、前回までやっていた弁当一つ一つをレジ袋に入れることをやめ、白鳩会等に“マイバック”や、家庭で使われていない紙袋等を持ち寄りを奨励するなど、徹底して“環境を意識した講習会”を行ったようだ。

Boxluncha  生長の家で行う行事は、練成会や講習会のような大きなものだけでなく、全国津々浦々で大小さまざまのものが数多くある。この際に使う食器類や紙類を、CO2の排出を抑えた、地球環境にできるだけ無害なものに変更するだけでも、様々なよい効果を生むことができるだろう。重要なポイントの1つは、多少手間がかかったりコスト高になったとしても、そういう「グリーン購入」や「グリーン調達」によって、環境意識の高い企業や産業を支援することができると同時に、生長の家の宗教活動の中身を、目に見える具体的な形で社会に示すことができることだろう。

 生長の家本部でも、行事や会議時の食事を注文する際には、“使い捨て容器”や“石油系プラスチック容器”を使用する業者を避けるようになってきている。「あそこの団体は環境重視だ」というメッセージを発する効果があり、さらにその動きが諸方面に拡がれば、「あそこ“も”環境重視だ」とのメッセージになる。そこまで行けば、弁当業界の動向にも変化を与えることができるかもしれない。
 
谷口 雅宣

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2006年7月 7日

アメリカ西部は燃えている

 北朝鮮のミサイル発射には驚かされたが、今日は“燃える北朝鮮”ではなく、アメリカ西部の環境変化について書こうと思う。今朝のABCニュースは、かの“火遊び将軍”のニュースの後で、アメリカ西部で毎年起こる山火事の時期や件数を調べた結果を報道していた。それによると、1980年代半ば以降、この地方では山火事が突然ふえ、大規模のものが増加するとともに、山火事シーズン自体が長期化しているというのだ。その原因は、温暖化によるものらしい。7月6日付のアメリカの科学誌『Science』に掲載された研究が、ニュースに取り上げられた。

 同誌のサイトにある記事によると、アメリカ西部の山火事が、ここ何十年の間に増加していることはしばしば言われてきたことだが、科学的な研究はこれまで行われていなかったという。そこで、スクリップス海洋研究所のウェスターリング教授(A. L. Westerling)らのチームは、400ヘクタール以上が燃えた過去の山火事1,166件のデータを調べた。そして、1970年から1986年までと、それ以降のものとを比べたところ、山火事のシーズン(実際に山火事が燃えている期間)は78日延び、大規模な山火事1件の平均の長さは7.5日から37.1日にまで延びていたという。チームはさらに、土地表面の乾燥度を示す毎日の気象指標を調べた結果、山火事の増加と拡大には、春から夏にかけて気温が0.9℃上昇し、山地の雪の融解が1~4週早まったことが関係していると結論した。

 アメリカ西部の水の動向は、雪の降り方に大きく左右されるそうだ。河の水の75%が、冬季の山の冠雪から来る。山に積もった雪は、雪解けの季節が終るまでは山火事の勃発を防いでいるが、雪が完全に解けてしまうと、雨の少ない乾燥した気候のために、山は1ヵ月もすれば山火事が起きやすい状態になるという。アメリカ西部の山火事のほとんどは、落雷と人間の不注意による。だから、夏場の森林の乾燥度、暑い乾燥した、風の多い気候が、山火事を引き起こす最大の要因となる。そして、50年前と比べると、山の雪は1~4週間早くなくなり、それにともなって河川の水量のピーク時期も早まっているという。ウェスターリング教授らが研究した34年間では、雪解けの早い年は、遅い年に比べて山火事の件数が5倍にも達することが分かった。だから、かつて冠雪によって守られていた海抜1680~2690メートルの山々にも、しだいに山火事が起こるようになっているという。

 このようにして、①早期の雪解け、②夏季の高温、③乾燥期間の延長、④高山での山火事領域の拡大、という4つの要因が合わさり、アメリカ西部の山岳地帯の燃えやすさを劇的に増進しているのだという。この地方の山火事の原因としては、19~20世紀にかけての山林の利用方法に主な原因があるとされてきた。19世紀末から、この地方の山林は建築材料などとして広大な領域が伐採されたが、植林等により再び山林が密生したことにより、枯木や倒木が増えて火災が発生しやすくなり、またいったん燃えると消化が困難になっている、と考えられてきた。しかし、今回の研究により、少なくとも部分的には「気候の温暖化」が山火事拡大の要因であると言えるようになったのだ。

 こういう話を聞くと、私の山荘のある山梨県北部から長野県にかけての森林のことを思う。戦後の建設ブームで山林を伐採し、その後に成長の速いカラマツを植林したところまではよかったが、都市化と林業の衰退で今は密生したカラマツ林を世話する人もいない。日本列島は夏場も適度な雨が降るから、山火事はまだ少ない。しかし、今後の気候の変化で夏の乾燥期間が広がったりすれば、アメリカ西部と似た現象が起こるとは考えられないだろうか? 杞憂であれば幸いだ。
 
谷口 雅宣

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2006年7月 6日

映画『ホワイト・プラネット』

 北極の温暖化の様子を描いたドキュメンタリー映画『ホワイト・プラネット』(The White Planet)を見た。題名から思い出したのは、温暖化によって氷河期が襲来するというストーリーのSF映画だったが、こちらはもっと地味な話だ。しかしSFの特撮ではなく本物の映像なので、冬の北海道も見たことがない私にとっては、極寒の広大な“白い世界”に棲息する数多の生物たちの姿がとても感動的だった。地球温暖化の現状を知るためには、必見の映画の1つである。私は、同じ主題を扱ったドキュメンタリーをいくつかテレビで見たことがあるが、映画館の大スクリーンに広がる映像の力とは、とても比較できるものではない。

 フランスとカナダの共同制作で、ゆっくりとしたフランス語のナレーションが流れる。原題は「La Planete Blanche」だ。監督は、フランスで自然科学番組を制作してきたティエリー・ラゴベール(Thierry Ragobert)とティエリー・ピアンタニダ(Thierry Piantanida)の2人組。これまで何度も北極の調査撮影に参加してきたというだけあって、自分の庭を撮影しているかのような自然さで、北極の大自然が眼前に展開されるのには圧倒される。大平原を走るカリブーの大群を追う空撮あり、クジラに密着する水中撮影あり、生まれてまもない子に乳を与えるホッキョクグマ(シロクマ)の母を大きく描く雪中撮影あり、海中プランクトンの一種であるクリオネの人間そっくりのダンスあり……一体どうやって動物にこれほど近づけるのか、驚かされるばかりである。そういう被写体について、ピアニタンダ監督は「どの動物も、映画の主役になれるような特異性や絶対的な独創性を持っています」と誉めるが、本当にその通りだと思った。

 私は今年の5月初め、生長の家の全国大会で『TIME』誌4月3日号の表紙の写真--氷の溶けかけた海面を心配そうに眺めるシロクマの写真--を参加者に見せ、シロクマが最近、溺死しているのが発見されていることを話した。この写真については4月2日付の本欄でも触れたが、溺死の話は、今年5月号の『Vanity Fair』誌に元アメリカ副大統領のアル・ゴール氏が書いていたことだ。しかし、人に話しながら、自分では溺死の原因がよく分かっていなかった。ところがこの映画を見て、それがよく分かったと思った。

 シロクマは、氷の海を泳ぐことに何の苦労もない。彼らの分厚い毛皮は、マイナス50度の極寒の中でも充分な暖かさを保つから、氷水(せいぜいマイナス数度)は“温水”といったところか。映画の中でも、上手なイヌカキ(クマカキ?)で泳いでいた。それより問題なのは、氷上での餌探しだ。ヒグマなど温帯に棲むクマはサケなどをよく獲るが、シロクマが魚を獲るシーンはなかった。それより、氷上で休んでいるアザラシを餌にしているらしい。アザラシは海中では猛スピードで泳げるが、氷上では実にたどたどしく這う。それを追いかけて捕獲する。ただし、アザラシも事情をよく知っているから、氷上で休むときも、すぐに逃げられるように水の近くにいる。また、北極の氷原はガチガチに凍ってはおらず、数十センチの厚さに雪が積もったような感じで、サクサクとしている。そのサクサクの中にできた浅い穴に隠れているアザラシもいる。シロクマは、そういうアザラシを見つけると最初は忍び寄り、最後には猛然とダッシュして追撃し、氷原の中に頭を突っ込んで、見えないアザラシに噛みつくのである。そして、失敗することも多いそうだ。
 
 これが彼らの猟の方法だとすると、海上の氷が溶けだすことは重大な結果に結びつく。それは、我々がドロンコの沼や田んぼに落ちた時を想像するといい。走るどころか、前方にきちんと歩くことさえ至難の業だ。そんな中ではアザラシなど捕獲できないから、シロクマは食事不足で衰弱する。さらに、温暖化は海上の氷と氷の間の距離が広げていくから、別の氷原を求めて海を泳ぐシロクマにとっては、それは決死の遠泳になるのだろう。気候の微妙な変化は、厳しい自然界でギリギリに生きている生物たちにとっては、致命的な結果をもたらす。こうして最近、ホッキョクグマは絶滅危惧種に指定されたのである。

 ところで、この映画で北極のことをなぜ「プラネット(惑星)」と呼ぶかというと、そこが人間のよく知っている地球とは別の、きわめてユニークな(そして美しい)生態系を保ってきた場所だかららしい。そういう稀有の自然が今音をたてて破壊されつつある、と感じた。
 
谷口 雅宣

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2006年7月 5日

肉食を考える

 7月4~5日の2日間、東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで行われた生長の家教修会の諸準備で、本欄の執筆ができなかった。今日、それを終えて一息ついている。この教修会は、生長の家の「本部講師」と「本部講師補」という講師資格をもつ人たちを主な対象として行われる“勉強会”のようなもので、これで4年目だ。海外では今年1月にサンパウロで「世界平和のための生長の家国際教修会」が行われたことを、1月23日の本欄で報告したが、その国内版である。今回は、海外からの8人を含む284人の講師諸賢が参加し、4人の研究発表に熱心に耳を傾けてくださった。
 
 今回のテーマは「肉食」である。「肉を食べる」という人類の食習慣が、世界の宗教の中で歴史上、どのように扱われてきたかを「一神教」と「多神教等」(仏教を含む)に分けて概観し、その世界的な拡大が21世紀初頭の現代において、どのような問題を引き起こしているかを学び、今後の指針とすることが目的である。私は1日目の「肉食の世界史的・宗教的背景」についてのまとめと、2日目の「日本における肉食の歴史的・宗教的背景と現代の問題」について、まとめの講話を担当した。発表者は皆、ふだんの業務の合間を縫って諸文献に当たり、調査に出かけるなど努力された結果、膨大な情報をパソコンからの映像を通して、限られた時間内に上手に発表してくださった。私の妻も、テーマに沿って、発表者とはひと味違って“パーソナル”な角度から話し、問題意識を盛り上げてくれた。

 今回の研究発表で明らかになったことの1つは、信仰者が何を食べるべきかという「食物規定」は、主要のどの宗教においても「変遷してきた」という事実である。つまり、それらの食物規定は、多くの宗教にあっては“開祖”が定めた不動の教えというよりは、もともとあった食習慣を踏襲したり、開祖の没後、ライバル宗教との関係の中で“独自性”を打ち出す目的で採用されたり、時代や環境の変化に応じて決められてきたのである。宗教の教えはすべてが不変ではなく、一部には時代や環境に応じて変化する部分(周縁部分)がある、との考え方の正しさが証明されたかたちになった。
 
 例えばヒンドゥー教の伝統では、動物の中では牛を“聖牛”として神聖視し、牛肉を食べるなど考えられないのだが、古代のヴェーダーの教えにも、バラモン教にも“聖牛”の考えはなく、牛はバラモンによって供犠されたあと、人々に食べられていたという。その習慣が、仏教の成立後、紀元前5世紀ごろ、アーヒンサー(不殺生、非暴力)の考えのもとに批判されるようになると、仏教やジャイナ教との対抗上、バラモンが牛の供犠をやめ、牛肉を食べなくなると、その動きが一般にも広まっていったらしい。そして、11世紀になってイスラム教と接触するようになると、それとの対抗上、“聖牛”の観念が強化されていったという。

 また、仏教においても不殺生の考え方が説かれていたものの、原始仏教教団や上座部(小乗)の仏教では、一定の条件が満たされれば動物の肉を食することは認められていたという。それが、釈迦滅後100年以上たって生まれた大衆部(大乗)の分派運動の中で、肉食を厳しく制限する考え方が生まれ、それが中国や日本にもひろまったという。だから、上座部の仏教が伝わったタイでは、現在でも僧侶は肉食を禁じられていないらしい。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教での肉食については、もう少し複雑な経緯があるので、ここでは全部書けないが、肉食に関して旧約聖書(三者の教典)の記述が互いに矛盾している一方、ブタを食べるか食べないかに関しては、三者の競争関係の中で決まってきたと言えるようだ。イエス自身が肉食をどう考え、実際に何を食べたかについては、いろいろな研究の結果、興味深い考え方がいくつも提出されているが、別の機会に触れたいと思う。

谷口 雅宣

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2006年7月 2日

海と陸の環境技術

 早くも7月に入った。2006年、平成18年が「半分過ぎ去った」と考えると何となくソワソワした気分になるが、「まだ180日、4320時間ある」と考えると、いろいろな計画を立てる気分にもなるから不思議なものだ。佐賀市で行われた生長の家講習会を終えて、福岡空港へ向う車中でこれを書いているが、昨今の報道の中に、環境技術の進歩が感じられるのはうれしい。

 火力発電所は、今や地球温暖化の“元凶”のように見られているが、ここから出る廃棄物の利用によって二酸化炭素(CO2)の排出削減ができるらしい。ただし、石油ではなく、石炭を燃やした場合だ。その石炭の灰を加工してブロックを造り、それを海底に積み上げて“人工海底山脈”を建設したところ、魚が殖え、プランクトンも増殖して海底へのCO2の固定量が大幅に増加したそうだ。6月29日の『朝日新聞』夕刊が伝えている。この人工構造物は、高さ12メートル、幅60メートル、長さ120メートルだから、“山脈”と呼ぶのはいかにも大袈裟だが、国と長崎県と企業とが共同して2000年、同県平戸市の生月(いきづき)島沖5キロの海底に8億9千万円をかけて建設したもの。

 同紙によると、CO2固定のメカニズムは次のようなものだ。海流が“山脈”にぶつかると海底の栄養分を海面方向に押し上げるので、海面近くでは植物性プランクトンが発生する。すると、それを食べる動物性プランクトンや魚介類がそこへ集まり、建設後3年で周辺のアジやサバの漁獲量が上がったという。また、海面近くの植物性プランクトンは、光合成によって体内にCO2を取り込み、それを食する動物性プランクトンや魚介類は、糞や死骸の形でCO2を海底に沈める。それらは対馬海流によって水深800~1000メートルの日本海北部へ運ばれるので、数百年は表層にもどることはないのだという。この“海底山脈”の建設は当初、漁獲量の向上を目的としたものだったそうだが、CO2固定の機能が判明したことで、維持費のかからない半永久的温暖化防止策法として有望視されている。  

 また今日(7月2日)の『佐賀新聞』には、日立造船と姫路市のベンチャー企業「C.P.R」が、東南アジアなどで食されているキャッサバを使った生分解性プラスチックの生産計画を発表した、と書いてあった。生分解性プラスチックについては本欄でも何回か(最近では5月24日6月9日に)書いたが、1つの問題は、石油を原料としたプラスチックよりも製造コストが高いことだった。それは、トウモロコシを原料としているためだが、その代りにキャッサバを原料に使えば値段は半分ほどになることが分かったという。発表された計画では、キャッサバの生産はベトナムで行ない、2008年から年間3000~5000トンのプラスチック素材を製造、翌年には10万トンを目指すという。

 生分解プラスチックは、土中で腐るために処理費が少なくてすみ、また処理時にCO2を排出しない--つまり、原料の植物の成長過程で吸収したCO2を大気中にもどすだけ--と考えられている。だから、もっともっと盛んに利用されるべきなのだが、日常生活の場でお目にかかることはまだまだ少ない。この使用を飛躍的に増加させるには、従来の石油を使ったプラスチックの値段が上がることが必要だ。現状では、石油の値上がりによってそれが徐々に実現しつつあるのだが、速度が遅すぎる。だから、私は「炭素税」や「環境税」の早期導入を待ち望むのである。

谷口 雅宣

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