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2006年7月13日

肉食を考える (3)

 7月10日の本欄で、私は「宗教上の食物規定は、その宗教の“神髄”や“本質”に当たるものではない」と書いたが、これは「宗教の信仰者は何をどのように食べてもいい」という意味では決してない。ほとんどすべての宗教には、食物規定に当たるものが歴史的に存在するという事実は、宗教の説く“中心的教え”の一部に「生命尊重」の考えがあることを証明している、と私は思う。それは、「自分の肉体維持のためには、必要最小限の生命の犠牲はやむを得ないとしても、できるだけ殺さない」という考え方である。動物の姿をしたヒンドゥーの神々、モーゼの十戒、輪廻転生の思想、ジャータカ物語、そして手の込んだ様々な供犠(くぎ)の儀式などは、そのことを有力に物語っているだろう。

 今回の教修会でも話題になったことだが、キリスト教は世界宗教の中では最も緩い食物規定をもつと言われている。つまり、「キリスト教徒はほとんど何を食べても構わない」と考えられているのである。しかし、その一方で、アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)のように自ら肉食をしなかった聖職者もおり、トマス・アクィナス(1224-1274)のように「節制とは本来、食や性に関わるものである。そして暴食から生じるのは感覚の鈍さであり、肉欲からは霊的な善の認識が排除されてしまう」(『神学大全』)として、肉食を肉欲との関係でとらえ、肉食をひかえるべきことを説いた人もいる。また、新約聖書を注意深く読めば、例えば「肉から生まれる者は肉なり、霊から生まれる者は霊なり」というイエスの有名な言葉のように、そのような解釈が成立する部分が数多くあることに気づく。だから、現代のキリスト教者で菜食主義を堅持する人は珍しくないのである。

 ところで「生けにえを供える」という宗教上の供犠の儀式であるが、それが人類史の中で延々と続けられてきたことは承知の事実である。この意味については、「神への贈物」とか「贖罪」とか「共食による神との交融」など、宗教学上いろいろな説があって見解が分かれている。しかし、犠牲動物が神の前で聖化(sacralization)されるという点は、各宗教に共通しているような気がする。これを言い換えれば、すべての人間の中には、単に食欲の満足や肉体の維持を目的にした生命の破壊では「何かが足りない」という意識があり、その意識の発露として供犠の儀式を行ってきたのではないだろうか。人間は、肉体的には「自己目的」である食事を、同一信仰をもつ「共同体の目的」に昇華するために供犠の儀式を行ってきた、と考えられないだろうか。
 
 昨年3月27日の本欄でアイヌ民族の「イオマンテ」の儀式を紹介したが、そこでは1~2年のあいだ村で育てた子グマを殺すだけではなく、「子グマは神になって森へ帰る」という信仰心が表現されていた。これこそ食事の“聖化”であり、これによってアイヌの村の精神的結束が一層深まるのだろう。教修会で発表された例では、イスラームの人々のメッカへの巡礼の際、最後の行事としてミナーの谷で動物の犠牲が一斉に行われる。これを「犠牲祭」(イード・ル・アドハー)と呼ぶが、その意義は、犠牲動物の肉を自分だけで食べるのではなく、貧者や困窮者、孤児などを含む巡礼者相互で分かち合うという「喜捨」の精神にあるらしい。このように、イスラームの犠牲祭にも「欲望を昇華して共同体の目的に向わせる」という“聖化”の機能が認められるのである。
 
 現代の日本人の食事からは、このような宗教性がほとんど消滅してしまった。食事はむしろ栄養素の摂取と自己充実感の達成という“欲望優先”の行動となっているため、不規則でも不摂生でも不合理でも「個人の自由」とされることが多いのは、残念である。生長の家では、谷口雅春先生に最初に啓示された「食事の神示」において、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と説かれていることを思い出そう。我々は現代の食品に関する正しい知識をもち、その上で個々人の「内部神性」が満足するような食生活を送りたいものである。
 
谷口 雅宣
 

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