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2006年7月10日

肉食を考える (2)

 7月5日の本欄では、今年の生長の家教修会で発表された「肉食」の研究について報告したが、その中の1つの発見は、「世界の主な宗教における食物規定は変遷してきた」ということだった。つまり、ある宗教の信者が何を食べ、何を食べざるべきかを定めた規則は、その宗教の“神髄”とか“本質”に当たるものではないということである。それらはむしろ、もともとその土地にあった食習慣を踏襲したり、開祖の死後、ライバル宗教との関係の中で自らの宗教の“独自性”を打ち出すために採用され、あるいは時代や環境の変化に応じて決められてきた、ということだった。もしこれが事実ならば、緊急な事態が到来すれば、宗教の独自性よりは普遍性が重視され、時代や環境が食生活の変更を要求するならば、世界の宗教は「食物規定」を共有することができないだろうか?--そんな結論は早急すぎるだろうか。
 
 食事は、人間にとってもその他の動物にとっても、肉体の維持と発展のために不可欠な行動であることは言うまでもない。多くの動物は、遺伝的に決められた食物しか口にしない。ということは、ある一定の食物を食べるということが、自分の属する種とその他の種とを区別する重要な行為となる。人間の場合も、今回の教修会の発表で明らかになったように、「ブタを食べる」とか「ウシを食べない」とか「肉食をしない」などの食事をめぐる取り決めが、ある集団と別の集団とを区別する重要な指標となってきた。インドでは、「何をどう食べるか」という食習慣が、「カースト」や「ジャーティ」という階級や社会集団の自己同一性の表れとして機能しているという。中国でも「広東料理」とか「四川料理」などの呼称があるように、それぞれの地方に独自の食材や味付けが保存されており、国土の狭い日本においてさえ「関東」と「関西」では、味付けや食材に微妙な違いがある。

 このように考えると、私が上に書いた“結論”は、理論的には成立しえても、実際的には早期の実現は困難であるかもしれない。しかし、その反面、“グローバリゼーション”と呼ばれる現象を考えると、それは「アメリカ的食生活を“規定化”して世界に広める動き」と見ることもできるから、善悪の判断は別として、それが行きわたっている地域においては、すでに現代版の食物規定が成立していると言えるかもしれない。私は今、世界ブランドのハンバーガーやフライドチキンやピザを「もっと食べろ」と言いたいのではない。むしろ、その逆である。それらの世界ブランドの食品がどのような食材からなり、どのような成分を含み、どのように調理され、どのように販売されているかを知ることで、「倫理的、宗教的に抵抗のあるものは食べない」という食物の“反規定”が成立すると思うのである。
 
 読者はすでにお気づきだろうが、Coke や Mac、KFCなどを対象とした“アンチ・グローバリゼーション”の運動はすでにある。私は、そういう特定の企業に対する反対運動とは違うもっと地道で、信仰的で、共感的な生き方ができないものかと思う。それは、何かに「反対」したり「排撃」するのではなく、正しい知識にもとづいて、正しく選択する--消極的に言えば「避けるべき選択をしない」ことであり、積極的に言えば「倫理的選択をする」ことである。世界中の人々が正しく選択するためには、しかし、まず第一に「正しい知識」が普及する必要がある。これが案外、むずかしい面をもっている。
 
 教修会の場では、スライドや表を多用して食肉生産の現場写真や、各種の統計が披露されたが、このような教育活動が食肉産業や食品メーカーから好まれないことは予想できる。しかし、事実を糊塗してオブラートで包み、あるいは美しく飾り立てることは、被害を拡大し、ひいては人類全体の罪を拡大することにつながる。「知って犯す罪」と「知らずに犯す罪」とでは、後者がより大きいという話を思い出そう。現代人の(特に先進国の)食生活は、「知らずに犯す罪」に満ちていると言えるのである。
 
谷口 雅宣

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