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2006年6月 1日

教典への愛

 休日を利用して、東京大学の駒場博物館でやっている「トーラーの成立からユダヤ教へ」という展示を見にいった。これは、主としてエルサレムのイスラエル博物館や在日イスラエル大使館に所蔵されたユダヤ教民族文献の資料パネルと、エルサレムの古物商所蔵の発掘出土品の展示で、ユダヤ教成立の軌跡をたどるものだ。「トーラー」とは“モーセ五書”とも呼ばれるもので、いわゆる旧約聖書の最初の5書--『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を指す。これは、イスラームにおける『コーラン』にも匹敵する、ユダヤ教の根幹をなす最重要経典と見なされている。「トーラー」とは、ヘブライ語で「教え」というほどの意味である。
 
 私は、ユダヤ教については、“形式にこだわる煩雑な信仰”というようなキリスト教の側からの大雑把な見方しか知らなかったから、いろいろ勉強ができた。中でも印象に残ったのは、トーラーを書いた写本の美しさと、それに対する人々の傾倒ぶりだった。また、古代のヘブライ文字とアラム文字で書かれた聖書を見たのも初めてだった。ヘブライ文字とは、言うまでもなく、我々が聖書の中で「旧約」と呼んでいる部分を記述した原語の文字のことである。アラム文字とは、ユダヤの普通の人々が伝統的に日常用語として使っていた言葉を表記したもので、イエス・キリストもアラム語を話し、アラム語で教えを説いたと言われている。これら2つの文字は、互いによく似ていて、まったくの素人の私には判別ができないのだが、ギリシャ文字(現在のアルファベットの元になった文字)はこれらと明らかに違うのだった。

 だから、現在の聖書の中で我々が「新約」と呼んでいる部分のすべてが、はじめからギリシャ語で書かれたということを思い出すと、イエス自身の言葉を記録したとされる「福音書」でさえも、それはイエスの言葉の「翻訳」であるという事実の重さが実感できた。キリスト教はユダヤ教から派生した信仰であるとはよく言われるが、それだけでは両者の“違い”は判然としない。しかし、両者の教えを説く最も重要な教典が、もともと別の言語で書き下ろされたと言われると、両者が違うということのニュアンスがより正確に分かる。言語が違うということは、文化が違うことを意味するからだ。

 印刷技術が発達した現代の我々は、「写本」というものをよく知らない。聞いたことはあっても、実際に見た人は少ないと思う。日本には「写経」という習慣があるが、それは書が上手でも下手でも、毛筆に墨で、自分で経典を書写することである。トーラーの写本は、しかし恐ろしく芸術的である。鮮やかな色を使い、装飾文字を多用し、挿絵なども加え、ていねいにペンで書写されている。誰にでもできるというものではない。すべてがそうでないとしても、展示されていたものは皆、そういう芸術作品ばかりだった。そのようにして教典を飾るところに、ユダヤ教徒のトーラーへの愛と傾倒が感じられたのである。

 もう一つ印象に残ったのは「タルムード」とか「ゲマラ」と呼ばれている文書で、これはトーラーの解説書のようなものである。1頁の中心部にトーラーの言葉がヘブライ語で書かれ、その下や周囲をアラム語による翻訳や注解が囲み、さらにその周りを後代の注解が囲む……というように、“教え”を中心にして、それを実際生活にどう具体的に反映させるかという後代の人々の努力の跡が、すべて文書に残されているのである。ということは、臨機応変の対応ということが困難になりがちだろうし、勢い原理主義的な解釈が永続する傾向が生まれるのではないかと感じた。その反面、「伝統の護持」という点では、この方法は優れているに違いない。“ちょっと見”の感想で断定してはいけないが、ユダヤ教の特徴のようなものを、そこに感じた。
 
谷口 雅宣

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