ES細胞から神経を効率よく得る
韓国での研究データ捏造事件で一時退潮ぎみだったES(胚性幹)細胞の研究で、大きな進展があったようだ。「ようだ」と推量形で書くのは、韓国での事件も、当初は“鳴り物入り”で大成果であるかのような発表があったので、私としても注意深くならざるを得ないからだ。人間のES細胞から効率よく神経細胞を作り出す技術を、理化学研究所と京都府立医科大学の研究グループが開発したらしい。6月6日付の新聞各紙が伝えている。
韓国で問題になった研究は、若者から高齢者にいたるまでの「特定の人間の遺伝子を組み込んだES細胞を効率よく作成した」ということだった。しかし、この発表はデタラメで、ES細胞の作成は依然として極めて効率が悪く、したがって多くの卵子や受精卵を犠牲にする点で倫理的にも問題が多い技術であることに変わりない。今回の研究は、すでに存在するES細胞から神経細胞を作成する技術の向上である。私はES細胞の利用には反対の立場だから、この進歩を「人類への朗報」とかアルツハイマー病やパーキンソン病などの「治療法の確実な進歩」などとは言えない。しかし、卵子や受精卵を犠牲にすることをあまり問題にしない人々の口からは、そういう誉め言葉が発せられるかもしれない。
4月6日の本欄では、ドイツの研究グループが、マウスの精原細胞からES細胞に似た多分化能のある幹細胞を作成することに成功したというニュースを報告したが、私としてはこちらの研究の人間への応用の方が、倫理的にはまだ優れていると思う。
人間のES細胞から神経や心筋、皮膚等の種々の細胞を分化させるためには、従来はネズミの骨髄由来の細胞の上に人間のES細胞を載せて培養することが行われていたらしいが、これだと異種細胞間に感染の問題があった。が、今回の研究では、人間の羊膜(胎児を包む膜)の上に載せて培養することで、この問題をクリアし、そこから9割以上の確率(従来は約6割)で神経細胞のもととなる神経幹細胞を育てることに成功したという。また、この神経幹細胞をさらに培養することで、ドーパミンという物質を作る特殊な神経細胞や、運動神経細胞などの作成にも成功したらしい。パーキンソン病は、このドーパミンが失われることで起こるから、研究グループは、この研究で作った神経細胞を、まずパーキンソン病のサルに移植して治療の実験を進める計画という。
ES細胞を含む「ヒト胚」の研究や利用をめぐっては、「人間の尊厳」と「人間の幸福」という2つの価値が天秤にかけられる、と東京大学の島薗進教授は指摘している。「人間の尊厳」とは、人間の存在を何かの目的の手段とはしないとする価値で、奴隷制度や人体実験、強制労働などはこの価値を犯すと考えられる。普通は、ある人の幸福のために他人の尊厳を犯すことは許されない。しかし、この「他人」が胎児や受精卵、あるいは卵子である場合には、一部(例えば妊娠中絶)でこれが許されてきた事実がある。今回の研究でも、ES細胞の作成の過程でそれが行われている。
もう1つの問題は、世代間倫理の側面にある。普通、親は自分を犠牲にしてでも子の幸福を望む。社会全体で考えてみても、親世代は自分たち以上の富や環境を子世代や孫世代に残そうとして努力する。これが普遍的な世代間倫理であるとするならば、ES細胞の研究や利用は価値観がまったく逆転している。なぜなら、この技術は親世代の幸福のために、子世代として生まれてくるはずの生命を抹殺するからだ。そうすることが「親世代の幸福」だと考えること自体、はたして倫理的と言えるかどうか疑わしい。私は、そういう社会を作ることに反対しているのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○島薗進著『いのちの始まりの生命倫理--受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』(2006年、春秋社刊)
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