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2006年6月27日

ブログ内検索できます

 本欄に「ブログ内検索」という機能をつけた。画面左上のサイドバーに「ブログ内検索」と書かれた四角形の“穴”があるが、そこに好きなキーワードを入れて、「ブログ内検索」という文字をマウスでクリックすれば、私が過去に本欄に書いた文章の中で、そのキーワードが含まれるすべての文章を表示する仕組みである。自分で使ってみて、なかなか便利なので驚いている。

 一度、キーワードで検索すると、文章の表題が新しいものから順番に表示される。この数が多すぎる場合、「AND検索」というのを引き続きすることができる。これは、条件を加えて、対象となる文章を絞り込むためである。例えば、最初「バイオエタノール」というキーワードで検索をかけると、十数個の表題が出てくるが、これをもっと絞り込んで、「バイオ」と「SUV」という2語を共に含む文章を読みたい場合、検索用の“窓”には「バイオ」と「SUV」の2語を入力し、両者の間にスペースを入れる。これで検索をかければ、対象はもっと絞り込まれる……こんな具合である。

 新機能の使用感について、読者の感想をいただければ幸いである。
 
谷口 雅宣

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2006年6月26日

山林からアルコールができる

 6月12日13日の本欄で日米のバイオエタノールの生産計画について触れ、サトウキビから作る日本の方式に「65点」をつける一方、トウモロコシのほか木屑や雑草を使うアメリカの方式を「有望」と持ち上げた。日本の計画が消極的なのに対し、アメリカの積極性が対照的だったからだ。しかし、日米に共通の問題点がある。それは「農産物から燃料を作る」という考え方だ。同じ農地を人間と機械(自動車)が競争して奪い合う方式は、有限な資源の有効活用とは言えず、貧富の差の大きい社会では“搾取”の問題も生じるだろう。「車や機械を動かすために食糧を使う」ことになるからだ。
 
 6月24日の『朝日新聞』で発言している農林中金総合研究所の阮蔚(ルアンウェイ)主任研究員によると、アメリカでは2005穀物年度に全国生産量の14%に当る4060万トンのトウモロコシが、エタノール生産のために使われたという。同国で稼働中の101箇所のエタノール工場に建設中の33箇所を加えると、生産能力は69億ガロンに達し、これに必要なトウモロコシは全国生産量の23%、6300万トンにもなる。これだけの量の食糧を人から車に回すことには、倫理的な問題が生じる場合もあるだろう。因みに同研究員によると、日本は米国産トウモロコシの最大の輸入国で、国内需要の94%、年間約1600万トンをアメリカに頼っている。アメリカのエタノール生産が増えれば、日本へのトウモロコシ輸出が減るという関係が充分成り立つのである。
 
 この「食糧との競合」の問題を解決するためには、アメリカが木屑や雑草から燃料を作ろうとしているように、農地以外で育つ植物から燃料を作るのがいい。また、トウモロコシやサトウキビでも、食糧にしない部分から燃料を生産する方法が有望である。実際、アメリカのデュポンと英国BPは、共同でサトウキビの茎からバイオ燃料を開発・製造する方針を発表しており(6月21日『日経』夕刊)、シェルは、カナダのイノゲン社の技術を使い、トウモロコシの茎などを燃料に転換して、自社向けに燃料を調達する計画があるという(6月24日同紙)。
 
 日本のバイオ燃料は、今のところ沖縄産のサトウキビだけというのでは、何とも寂しい。日本は国土の大部分が山地である点を考慮すると、農産物から燃料を採るよりは、森林そのものを維持しながらバイオ燃料として利用する方法が有望ではないだろうか。それに目をつけて、昨年6月、三井造船は木屑からエタノールを製造する実験工場をすでに稼動させた。場所は、国内有数の林産資源生産地として知られる岡山県北部(真庭地区)で、真庭市の未利用林産資源を原料としてエタノールを生産している。6月25日の『日経』によると、この工場ではヒノキの木屑を硫酸で処理したものを、酵素で分解し、それを発酵させてアルコールに変えるという。乾燥時の重量で1トンの木屑が、4日間で230キロのエタノールに変わるので、それをガソリンに混ぜて自動車を走らせているらしい。

 同社のプレスリリース(5月9日)によると、木材から燃料用エタノールを製造するには、①粉砕、②前処理、③発酵、④回収の4工程が必要で、①で木材を粉砕して選別し、②で木材に含まれるセルロースなどを希硫酸で分解し、さらに酵素で分解して糖分に変え、③で糖分を発酵させ、④で蒸留等により高濃度エタノールを回収する。同社では、木質材料の前処理・糖化条件と発酵条件の最適化に向けて、現在検証を進めているという。
 
 5月13日の本欄では、イネの籾殻からバイオエタノールを製造する技術を紹介したが、このような技術がどんどん開発され、農地や山林からエタノールが生産できるようになれば、林業の再生、地方の復権は決して夢ではないし、それを行うことが温暖化防止、エネルギー自給、食糧安保をもにらんだ“一石三鳥”の中長期的国家戦略になると思うのだが……。
 
谷口 雅宣

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2006年6月25日

GM、来年にも充電式ハイブリッド車?

 2台目の蓄電池を積んだ“本命”の充電式ハイブリッド車を、GMが出すらしい。今日(6月24~25日)付の『ヘラルド・トリビューン』紙はロサンゼルス発のブルーンバーグ・ニュースの記事を再掲して、「GMの本計画に詳しい複数の役員」の情報として、同社が「普通の電源から充電できるハイブリッド電気自動車を開発中である」と報じた。CNNは、23日付のニューヨーク発の経済記事で、GMは外部充電のできる新方式の車を「検討中」だと伝えている。また、GMのブライアン・コルベット氏(Brian Corbett)は、CNNの取材に対し、自社の製品計画については発言しないとしたうえで、「将来に向けて検討する対象として、外部充電式ハイブリッド車がわが社のレーダー画面上にあることは明白だ」と言っている。
 
 CNNによると、GMは1996年以来、限定的に「EV1」という電気自動車を販売してきたが、2000年までにわずか411台を売って、生産を打ち切った。この車種の不評の原因の1つは、外部から充電するための特別のメカニズムにあった(コルベット氏)といい、今後は、誰でも標準的な電源から充電できるようにすることが商業化には欠かせないとしている。コルベット氏は、「現在のハイブリッド車はガソリン車とまったく同じ使い方ができるが、外部充電式ハイブリッド車は、消費者の日常行動を変えることになるから、できるだけ操作を簡略化しなければならない」としている。

 6月14日の本欄で、期待の“充電式ハイブリッド車”の構想をトヨタが発表したことを書いたが、その際、同社の構想が当初の「2台目の蓄電池を積む」という方式ではなく、制動時に充電する現在の複雑な方式をやめて、外部電源から直接充電する単純な方式に変更することで、「ヴィッツ」級の小型車もハイブリッド化するらしい、と推測した。この推測が当っているかどうか不明だが、今回のGMの動きによって、トヨタが計画を変更する可能性もある。

 GMはすでに、シボレー・シルベラードやGMCシエラなどにハイブリッド方式を採用しており、この秋にはSUVのサターン・ヴューのハイブリッド版を出す予定という。『トリビューン』紙の記事には、GMの次世代ハイブリッド車は「100キロ走るのにガソリンが3.92リットル」と書いてあるから、日本式の表現になおすと1リットル当たり25~26キロの燃費となる。現在、私が公用で乗るプリウスの実際の燃費がリットル当たり20キロ前後だから、それより若干いい。そのぐらいのシステムならば、来年初頭のデトロイトでの発表に間に合うかもしれない。つまりGMは、現在のシステムを若干改良した程度のものに2台目の蓄電池を加えたシステムを、来年1月に発表するかもしれない。しかし、これはあくまでもプロトタイプの発表で、市販車登場まではあと1~2年かかるだろう。

 まぁ、いろいろ勝手な憶測をしたが、要するに、私はトヨタでもGMでも、早く次世代ハイブリッド車を発売してほしいのである。自宅の電源からマイカーに充電できるようになれば、自前の発電機を設置するメリットが飛躍的に上がり、自然エネルギーを利用した分散型エネルギー社会が到来する時期が早まる。そしてもちろん、二酸化炭素の大幅な排出抑制へと向うだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年6月24日

“原子力立国”でいいのか?

 経産省資源エネルギー庁がこのほどまとめた中長期的エネルギー計画案は、「原子力立国」という言葉を使い、将来の原発増設や核燃料サイクル推進を目指して“電力会社後押し”の姿勢を打ち出している。2030年ごろに本格化する既存原発の建て替えに備え、それ以降も日本の電力の30~40%を原発で賄うことを前提に、技術開発や設備投資をしやすい環境を整えていこうとするもの。8月に正式決定するという。6月22日の『朝日新聞』夕刊が伝えている。
 
 私は、地球温暖化の反省から生まれた「循環型社会の実現」という目標と、世代間倫理を尊重する立場、さらに自然エネルギー利用の分散型社会の実現の観点から、“原子力立国”には賛成できない。現在、原子力発電は、原油高と温暖化防止の目的から欧米で見直しの機運が起こっているようだが、原発のもつ基本的問題が解決されていないことを忘れてはいけない。我々は「核燃料サイクル」という呼称から、原子力利用が循環型であるかのように思いがちだが、その基本問題は、放射性廃棄物の処理が「循環型でない」ということだ。放射性廃棄物は、自然界では決して循環できないものだから、現状では頑強な容器に密閉して地中深く埋めておくほか仕方がないのである。それが将来引き起こすかもしれない問題は、すべて次世代や次々世代の人間が背負うことになるのである。これは環境問題と同じく、現世代の繁栄のために次世代に深刻な問題を押しつけることになるから、世代間倫理にもとる行為と言わなければならない。

 次に、原子力発電は旧世紀型の中央集中型エネルギー利用であり、地球温暖化時代に欠かせない「環境との共生」と両立しにくい。中央集中型利用とは、人口が集中する場所から離れた地に、大企業が大型構造物を建設して大規模にエネルギーを生み出し、それを送電線などで都市その他の地に分配する方式である。これは原子力のみならず、火力や水力発電にも共通する方法で、自然破壊と、遠距離送電によるエネルギーの減衰を必然的にもたらす。また、巨大エネルギー企業を温存させ、市場の独占や寡占を継続させることになるから、コストの削減につながりにくい。さらに、紛争や災害時の脆弱性も問題になる。

 これに対し、自然エネルギーの利用では、国土全域に遍在している風、太陽光、河川、森林、地熱、バイオマス等の自然物から得るエネルギーを、それぞれの地に住む人々が必要なだけ利用することになる。これだと、自然の恩恵を受ける者とエネルギー開発による受益者とが同一だから、「自然界の営みと人間の生活のバランスを取る」という動きが生じやすい。日本のように、国土の大半が山地であり、各地に複雑独特な地形や気象が存在する場では、それぞれの土地に適した自然エネルギー利用法があるはずであり、それらは皆、地方地方によって微妙に異なると思われる。そのような地方それぞれのエネルギー事情/需要に合った自然エネルギーの組み合わせを実現することが、自然との共生には欠かせないだろう。そのためには、巨大企業や中央政府の主導ではなく、地方の事情に通じた人々の工夫と互いの調整が必要であり、それが今後の政治の重要な役割の1つになると思う。

 もっと具体的に言えば、「循環型社会」を目指す21世紀のエネルギーは、(原子力ではなく)「水素」と考えるべきだ。世代間倫理を尊重しつつ、現在のエネルギー消費の水準を下げずに利用できるエネルギーは、今のところそれしかない。ご存じのように、水素を利用した燃料電池の技術はすでに実用段階に達している。今後人類は、自然エネルギーを水素の形で保存して、そこから燃料電池によって電気を取り出して文明生活を送ることになるだろう。その場合、自然エネルギーはどこでも入手でき、かつ貯蔵できるから、必要な場に小規模の装置を設置すれば足りる。これが、分散型のエネルギー利用である。これよって中央集中型エネルギー利用から生じる遠距離送電のロスがなくなり、誰でもエネルギーの供給者になりえる社会が来ると予想される。ここでは巨大エネルギー企業は不要になると考えられ、そういう巨大企業に支えられた巨大統治機関も不要となる。これが分散型エネルギー利用社会で、政治的には地方分権が進んで“小さな政府”が実現すると思われる。

 まぁ、ここまで書くと“夢物語”のように聞こえるかもしれないが、資源やエネルギーの利用方法の転換によって、政治的な力関係も変わっていくという“大きな流れ”を読み取ってもらえば幸いである。この“流れ”の中では、原子力利用は「旧世紀の遺物」である。自然を愛する日本人の国としては、“自然エネルギー立国”が最適の選択だと私は思う。
 
谷口 雅宣

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2006年6月23日

フツーの話題

 夜、私が本欄の執筆をしようとノートパソコンの画面を見つめていたら、妻が「もっと普通の話題にしてよ」とのたまわく。私が不審な顔を向けると、彼女は続けて「もっとみんなが読みやすい話題よ……」と仰る。最近“硬い話”ばかりが続いていることが気になっていた矢先だから、私は納得してあたりを見回した--新聞は、ワールドカップで日本がブラジルに敗退したことを大きく報じているが、私はサッカーが特に好きというわけではない。今日の明け方、夢うつつで事の次第をラジオで聞いても、「そうだろうなぁ」と思っただけだ。日本のサッカーは歴史が浅いから、世界一に負けても不思議はない。口惜しがる妻には、「クロアチアが柔道の世界選手権で日本に負けたようなものさ」などとホザイた。
 
『朝日新聞』の夕刊1面に、中田英寿選手が緑のグラウンドで両膝を立て、仰向けになり、黄色い布で顔を覆っている写真が大きく載っている。足元には白く光るペットボトルがポツンと立っている。写真説明に曰く--「中田英は試合後、放心したように10分近い間、ピッチの中央で寝ころんだ。目が真っ赤に充血していた。試合で泣いたのは初めてだろう。『疲れていただけです』とだけ答えた。次のW杯について聞かれても無言だった」。10分も我を忘れて倒れ込む……というのは、やはり相当な衝撃だったのだろう。

 同紙によると、今朝の試合中継(NHK)の視聴率は、関東地区で午前4時45分から3分間が34.4%に達したという。ちょうど、前半のロスタイムに日本がブラジルに1-1と追いつかれた頃の時刻だ。それ以外の試合前半は22.8%だったという。この時間に関東地方の4人に1人が観戦していたのだから、日本のサッカーファンもだいぶ増えたのだと思う。あとは、子どもの頃からしっかり練習するプレーヤーの層が厚くなっていけばいいのだ。野球だって、そうやって大勢の人々が長時間をかけて、全体の実力を上げてきたから今、大リーガーを何人も輩出するまでになった。日本の野球は1871(明治4)年からだから、135年の歴史がある。その上に「日本人大リーガー」がある。外見だけをマネて、海外へ行けば何とかなるものでもあるまい。
 
 ジーコ監督も試合後のインタビューで「世界との差は?」と聞かれて、こう言っている--「プロ意識だ。まず、外国に行くのもいいが、自分のチームで試合に出られるようにしなければいけない。代表で初めて一所懸命やるのではなく、クラブの練習や試合ですべてを出し尽くすことだ」。
 
 サッカーは90分間走り続けるのだから、基礎体力をしっかりつけなければならない。技術も相当な練習をしなければ磨かれない。こういう場合、体力と精神力の勝負になるから“先進国”も“途上国”も関係なくなってしまうのだろう。日本も負けたが、アメリカもガーナに2-1で敗れた。悲観することはない。また、次の試合に向けて練習を積めばいいのである。
 
谷口 雅宣

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2006年6月22日

ペンマウスで絵描き

 休日を利用して、6月15日の本欄で書いた「ペンマウス」で絵描きに挑戦してみた。実は、16日に長崎へ行った際も、旅先で見つけた小物を対象にしてペンマウスの使い方を練習していた。1つは縫いぐるみのウサギの人形で、もう1つは急須である。柔らかいものと硬いものを描いてみて、質感の表現がどうなるのか確認するつもりだった。

Stuffedrabit  ウサギ人形は、漫画的に線描で輪郭をとってから、着色した。急須の方は白画面に黒線で描いてから、光と影の濃淡を強調してモノトーンで描いた。線がまだブルブルしているのが気になるが、それもまた“味”の一種かもしれないと思い、残すところは残しておいた。セピア調の色は、パソコンならではの色処理である。

Teapot2  今日は、家にある青いガラス瓶に挑戦した。この瓶は大小2つあって、色が美しいので過去にも何回かスケッチしたことがある。その時の絵とパソコンだけで描いたものの比較もしてみたかった。描いてみてよく分かったのは、紙にペンと水彩で描いた方が、PCでペンマウスを使って描くよりもはるかに容易であり、短時間でできる。出来ばえについては、現物を見比べていただくのが一番いいと思い、ここに掲げることにする。水彩画は、葉書大の紙に6年前に描いたものをスキャンした。どちらが水彩か説明は不要と思う。

BluebotwcBluebottle_1

谷口 雅宣

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2006年6月20日

人間のクローン胚研究へ道

 ES(胚性)細胞の研究は、韓国のファン・ウー・ソク元教授による研究データ捏造事件の影響でこのところ下火になっていたが、日本では行政がその“後押し”に動き出した。文部科学省は今日(20日)、専門家作業部会を開いて、人間のクローン胚を作成する研究の“解禁”に向けた指針案をまとめた。これまでの指針は、人のクローン胚は“クローン人間”作成につながるとして研究を禁じていたが、韓国の事件の教訓を取り入れて厳しい条件を付けたうえで、不妊治療などで不要となった卵子を使うES細胞作成に道を開こうとしている。『日本経済新聞』が夕刊で報じた。

「クローン胚」とは、特定の人間の遺伝子情報をもった胚(胎児の初期のもの)のことである。現在の主流的な方法では、これを作成するには、ある人の体細胞(皮膚の細胞など)の細胞核を抜き取り、卵子から核を除いたものの中にそれを注入し、電気ショックなどを与えて両者を融合させる。これによって、融合した細胞は稀に分裂を始めるが、それが「胚盤胞」と呼ばれる段階にまで達したものを「クローン胚」と呼ぶ。この特殊な胚の中身を取り出したものが「ES細胞」だ。クローン胚を壊さずに女性の胎内に移植し、そこで成長が始まれば“クローン人間”が誕生すると考えられている。

 6月6日の本欄では、理化学研究所などがES細胞から効率よく神経細胞を取り出す技術を開発したことを書いたが、クローン胚の研究は、卵子を使ってES細胞を作成するためのものだ。「体細胞+卵子 → クローン胚 → ES細胞 → 神経細胞」という技術が完成すれば、アルツハイマー病やパーキンソン病などの脳神経系の病気の治療に画期的な進歩をもたらす、と考えられている。しかし、その一方で、上記の韓国の事件にあったように、成果を急ぐあまり、大量の卵子提供を受けたり、それに対して金銭的対価が支払われたり、研究データが捏造されたりした。今回の指針案では、卵子の入手方法に厳しい条件をつけながら、これまで禁止されてきた人のクローン胚作成への道を開き、ES細胞研究にはずみをつけようとするものだ。
 
『日経』の記事によると、その条件とは、①卵子提供の場にはコーディネーター(相談役)を置くこと、②ボランティアからの卵子提供の禁止、③研究チームに所属する女性や研究者の家族などからの卵子提供の禁止、④サルのクローン胚作成に成功している場合、⑤サルのクローン胚からES細胞を作成した経験が豊富な場合、など。ES細胞の研究促進を求める立場の人々からは「条件が厳しすぎる」との批判があるようだが、医療目的のために、他人の生殖細胞の操作や改変を行うことは、倫理的にあまり好ましいとは言えない。宗教的な観点から言えば、拙著『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)で述べたように、クローン胚は、肉体製造装置としての能力を発揮しはじめた時点から「霊魂」の関与が始まったと見られるから、「それ自身が生きる」という生命本来の目的以外の目的で、他人が利用するのは間違いである。(詳しくは、同書pp.266-274参照)
 
 同書にも書いたように、私は再生医療の研究にすべて反対しているのではなく、「倫理的、宗教的に問題の多い方法」に反対しているのだ。今は、患者本人の体内にある「成人幹細胞」を利用することで、遺伝子の操作をせずに、他人の心身を傷つけることもなく、各種の細胞が再生できることが分かってきている。技術はまだ発展途上にあるが、ES細胞の研究にしても、同様に発展途上にある。3月9日の『日経』(夕刊)は、この分野での研究成果を伝えていて、関西医科大では臍帯(さいたい)血--ヘソの緒の中の血液--中の細胞でマウスの網膜の一部を再生させており、理化学研究所や名古屋大学などが参加する厚生労働省研究班は、驚くことに「尿」の中の細胞を腎臓の一部に変化させることに成功している。

 ES細胞の研究ではなく、このような研究に人材と資金とを集中させる方が、生命の犠牲が少なく、かつ社会の反対も少なく、さらに“倫理的社会”の成立に貢献することになるのではないか。

谷口 雅宣

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2006年6月19日

ムダ使いとの決別

 3月24日の本欄で、中国が“環境税”の考え方を取り入れた新税制に4月から移行することを取り上げたが、その際、割り箸に5%の税金が導入される、と書いた。森林伐採を食い止めるためである。この効果がジワジワと効いてきたようだ。ただし、中国社会への影響というよりは、日本の“割り箸文化”が困難に直面しているようだ。今日の『朝日新聞』夕刊によると、日本での“無料割り箸”は存続の危機に瀕しているらしい。
 
 この記事によると、割り箸の日本での年間消費は248億膳。簡単に考えると、1億人が248回使うということだ。ところが、このうちの97%を占める241億膳は、中国からの輸入品。国産材は約5億膳で、10年前の6分の1にまで減っているという。その中国産の割り箸が、昨年12月に30%値上げされた。また、今年3月にはさらに20%値上げすると通告されたものの、市場の混乱を理由にまだ実施されていないという。日本での大口需要は、コンビニチェーン、持ち帰り弁当チェーン、牛丼チェーンなどだが、中国産がこのまま値上がりを続ければ「無料割り箸」はなくなるかもしれないという。
 
 私は、割り箸は有料化すればいいと思う。理由は簡単、レジ袋の有料化と同じで、自然へのコストが発生しているものには、そのコストに見合うだけの値段をつけるべきだからだ。現在でも、心ある人は“マイ箸”を持ち歩いていると聞く。有料化すればそういう人も増えてくるし、国産の割り箸も活路を見出すかもしれない。日本は中国とは逆に、森林の間伐が行われずに放置されているのが、これによって多少は間伐される。また、4月18日の本欄でも書いたように、全国でのモウソウ竹林の侵食拡大の勢いが、竹箸用に竹を採ることで少しは緩和されるかもしれない。とにかく、いかに日本の伝統といえども、“使い捨て文化”は地球温暖化時代には有害なのだ。
 
 もう一つの日本の伝統である“お中元”も、地球温暖化時代にはやめるべきだと提案している人がいる。メディアプロデューサーの沢田隆治氏で、今日(19日)の『日本経済新聞』で「お中元をやめればクールビズを上回る省エネ効果がある」と言っている。その理由が、なかなか説得力があるのである--「配送車や冷凍車の動きが格段に減ります。よく見てください。夏の昼間に住宅地を回って、留守のお宅がどれだけ多いか。女性も働きに出ている時代です。夏休みで旅行中の家もある。留守だと配送拠点に荷物を戻して、また後で送り届ける。二度手間です。消費するガソリン量はばかになりません」。こういうムダなエネルギー消費が、関東では6月半ばから7月半ばまで、続いて関西では8月にわたって延々と行われるから、中元をやめて歳暮1本に絞るべきだという。私も大いに賛成である。
 
 一見ムダなことでも、経済効果を生むことはやるべきだという考え方が、巷にはまだ多い。塔や橋のライトアップや、並木のイルミネーションなどが一向になくならないのは、その証拠だ。美しい場所には人が集まってきて、そこで消費活動をする。だから、経済は回っていく--そんな考えに決定的に欠けているのは、我々が「美しい」と感じるすべてのものの原点は自然にある、ということだ。人間の造るあらゆるものは、一種の“自然の模造品”に過ぎない。模造品を造り、それを消費するために、本物の自然を破壊していくことが人間の幸福につながると考えるのは、大いなる錯覚である。

谷口 雅宣
 

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2006年6月18日

日本人の“風車づくり”

 『読売新聞』で連載していた「現代風車物語」(全5回)という企画記事が終った。風力発電の分野でも、日本人の“ものづくり精神”がいかんなく発揮されていることを知って、うれしくなった。

 6月9日の本欄で、三菱重工がアメリカの風力発電用に大型の風車を443基受注したという話に触れたが、一方、東北や北陸などでは、風力発電用の風車が落雷の被害で苦戦しているという話を聞いていた。この2つのことが、私の頭にはこれまでしっくりと収まらなかったのだが、『読売』の連載記事でうまく収まった。アメリカでは、落雷どころか、強力な竜巻やハリケーンの襲来は年中行事だから、「落雷程度で故障する風車を、400基以上もアメリカへ輸出して大丈夫なのか?」という疑問が渦巻いていたのだ。ところが、苦戦している風車はヨーロッパ製が多く、アメリカへ輸出される風車は、ヨーロッパ製の欠点を日本の技術者が克服した“日本適応型”であるというのだ。
 
 風車はもともとオランダなどの西欧で発達したものだから、発電用の風車もヨーロッパが先行していた。だから、日本で風力発電が普及しはじめた1980年代後期には、日本国内で稼動していた発電用大型風車のほとんどは、デンマークやドイツなどの西欧からの輸入品だったという。ところがこれらの国は地形がなだらかで、風向きもほぼ一定していたのに対し、日本は国土のほとんどが山地であり、風向きは頻繁に変わるし、春の嵐や台風が吹き荒れる。この地形と気象の違いが、風車の設計に反映されるまでには、西欧製の風車の“被災”は避けられなかったのだ。

 記事の中で取り上げられていたのは、沖縄県の宮古島に設置された7基の風車の例で、これらは2003年9月に同島を襲った台風14号の被害で全て機能しなくなったそうだ。事後の調査で分かったことは、風車の設置点での最大瞬間風速は、いずれも毎秒87メートルを超えており、高さ40メートルの大型風車(出力500kw)の立っていた場所の風速は、毎秒91メートルに達していたという。アメリカでは、ニューオーリンズ市を壊滅させた「カトリーナ」を含む最大規模のハリケーンを「カテゴリー5」に分類しているが、これは最大瞬間風速が69メートル以上のものである。日本には、それ以上の巨大台風が来るのである。しかし、ヨーロッパ製の風車の設計強度は、毎秒70メートル止まりだったという。
 
 こういう苦い経験をへて“日本適応型”の風車の開発が行われ、現在では耐風設計強度は毎秒90メートルに強化されているらしい。そうであるならば、竜巻とハリケーンの国・アメリカから大量注文が来ても不思議はないわけだ。
 
 また、デンマークは現在、自国で使うエネルギーのすべてを自給しているが、そのうち2割(約350万kw)は風力発電によるという。この国の日系デンマーク人、ケンジ・ステファン・スズキ氏(61)が、日本への風力発電導入の“先導者”となってきたらしい。スズキさんは、デンマークの自宅近くに私塾「風のがっこう」を開いて、風力発電の仕組み、風車の日本への導入方法、実践的知識などを合宿形式で日本語で講義し、すでに延べ1800人の日本人を教育してきたという。同校では、2002年以降は京都府と栃木県内に日本分校を開いており、稚内市や富山県でも分校開設の準備が進められているらしい。
 
 6月11日付の『北日本新聞』には、富山県高岡市五十里に世界最大級の風力発電施設を建設する計画が進行中だと書いてある。高さが約185メートル、最大発電量5000kw という大きさもの2基が検討されているらしい。ただし、国産にはこれほどの大きさのものがなく、ドイツのエネルコン社製という。三菱重工の風車(MWT-1000A型)は、発電容量は約1000kw だから、相当な大きさである。風車は、景観や騒音、さらに最近ではイヌワシなどの稀少種の鳥類が衝突する問題などが指摘されているが、温暖化ガスを出さず、再生可能エネルギーを利用するという点を評価して、立地を工夫した上での積極的な導入が望まれる。

谷口 雅宣

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2006年6月17日

欲望からの自由

 長崎県西彼市の生長の家総本山で行われた「谷口雅春大聖師21年祭」に参列し、1200人ほどの参列者の方々にご挨拶させていただいた。この日は未明、屋根をたたく豪雨の音で目が醒めたほどだったが、年祭の始まる午前10時ごろには雨はほとんどやみ、暑くもなく、寒くもない穏やかな天候のもとにお祭が恙なく挙行できたことは、本当にありがたかった。今回は、特別に台湾からの参列者が58名あったので、大聖師の最期のご様子にも触れて話をした。以下は、その大略である:
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 今日は皆様、谷口雅春大聖師の祥月命日のお祭りに大勢出席くださいまして、誠にありがとうございます。谷口雅春先生は、今を去ること21年前の今日の日に昇天されました。その当時の経緯は、先生の追善供養祭のときに発行された『生長の火をかざして』(世界聖典普及協会刊)という本に詳しく書かれています。それによりますと、先生は昇天される1週間ほど前からお食事をされなくなり、4日前からは意識がしだいに薄くなられ、最後に神様にお祈りをされてから、眠るように亡くなられていったことが分かります。

 さきほどの本には私も一文を寄せているので、その一部を皆様にご紹介します。「尊師は山上を駆く」という文章です:
 
「谷口雅春先生は、6月5日ごろからその食事も召し上がらなくなり、11日に主治医の勧めで入院された。
 12日の午後3時頃には、病室へお見舞いに来られた輝子先生が御顔を覗き込まれると、目を開かれて、
“あんた、お茶摘み祭に行って来たのか?”
 と訊ねられたという。
 夢を見ておられたというよりは、この時、先生の霊(みたま)は既に肉体の繋縛(けいばく)から半ば派なれて、どこか地上の茶摘み祭を御覧になっていられたような気がしてならない。
 輝子先生はその後再び、病院へ足を運ばれることはなかったが、雅春先生のお側には、最後まで看護の人が付き添っていた。
 その人の話によると--
 13日午前2時20分ごろ、先生は「お茶が飲みたい」と仰言ったので、付き添いの人は湯呑み茶碗にお茶を入れて差し上げた。先生はそれをおいしそうに3口飲まれた。その後、腰が痛まれるようなので、付き添いの人は先生の腰を摩って差し上げていたという。
 3時半ごろ、先生の口から不意に次のような言葉が漏れた。恐らく、あの食前のお祈りをされる時のような、穏やかで、丁寧な口調だったと思う。
“病い無し。迷い無し。罪無し--これが生長の家の根本真理であります。それでは神様、唯今より眠らせて頂きます。それでは神様、唯今より眠らせて頂きます”
 それ以後、先生の口から“言葉”の形で出たものはなかった。
 尊師は文字通り最期まで真理を説かれながら、神様のみもとに還って行かれたのである」
 
 こうして大聖師は「罪も病も迷いもなし」と教えを説かれて一生を終えられた。しかも、この教えは、自分のオリジナルでも何でもなく、永遠に説き続けられてきた真理を説きなおしただけであると書いておられます。絶筆となった『碧巌録解釈』の最後の御文章では--

「私が『碧巌録』の講義をここに連載しようが、連載しまいが、まさに私は『碧巌録』講義の祖ではないのである。私の今まで書き綴ってきた講義は、単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである」

 と書かれている。
 これは、実に先生らしい謙虚なお言葉であり、万教帰一の真理を説かれたお言葉でもあります。自分はこの先師の教えを「祖述した」に過ぎないと仰っている。「祖述」とは、「遠く先人の道にもとづいて述べる」という意味です。仏教の文脈で「先師」と言う場合は、お釈迦様以来のインドや中国、あるいは日本の偉いお坊さんのことを指しますが、皆様もご存じのように、雅春先生は西洋哲学にも通暁されていましたから、きっと古代ギリシャの哲学者のことも含めて「先師」と書かれたに違いないのであります。
 
 人間の魂は不死であって、永遠に生き続けるというのは、洋の東西に共通した宗教的、哲学的真理として、何千年も説き続けられてきたことです。しかし、最近はそういうことを言うと奇異な目で見られることがあるのは、残念なことです。肉体は魂がこの世で学習するための道具であり、いずれは脱ぎ捨てていくべき“宇宙服”であることを生長の家では説きます。この肉体をもった人生とは、したがって“魂の修行”“魂の学習”が目的であるわけですから、肉体の快楽や、それを保証する金銭や名誉を得たり、増やしたりするのが目的ではない。人々や生きとし生けるものを愛し、慈しんで、仏の心や神の万徳を表すことが目的である、と教わっています。
 
 人間は18~19歳を過ぎた頃から、肉体的にはしだいに衰えていくことが分かっています。現在、日本人の平均寿命は男女ともに80歳を越えていますが、そうすると、我々は肉体的にはわずか20年間しか成長しないのに、その後、60年も生きることになる。もし人間が肉体であるならば、どんなにガンバッテも高校卒業時から向上することはなく、死に向って60年もかけて緩やかに老化していくのが人生ですから、こんな無駄なことはないのであります。しかし、皆さんもご存じのように、人間は精神的には、高校を終った頃から急速に成長を始めるわけです。このように肉体と精神の成長にはギャップがあるのは、なぜでしょうか?
 
 古代ギリシャの哲学者であるプラトンに『パイドン』という著作があります。これは、自分の師であるソクラテスを主人公にして、そのソクラテスと弟子たちの対話の中から真理を導き出す手法を使っています。とりわけこの本では、「魂の不滅」について色々な哲学的証明をやっています。その中に、肉体と精神の関係について、興味深い記述があるのでそれを紹介します。
 
 ソクラテスは大哲学者でありましたが、当時の政治権力に敵視されたために、死刑の判決を受け、毒杯をあおって死んでいきます。その死刑が確定した後に、弟子たちと交わす会話がこの『パイドン』には収録されているのです。ソクラテスはその中で、「自分は哲学者だから、死んでいくことが待ち遠しい」と言います。死ぬのが楽しみだというのです。なぜなら、死によって、自分は魂として一層飛躍できるからです。肉体をもっている間は、肉体が世界を正しく知ることを妨げるので、死ぬことで魂は真に自由な修行ができるといいます。彼の言葉を引用すると--
 
「肉体は、それを養うことが避けられないために、無数の厄介を我々に背負わせるのだ。さらに、もし何かの病が我々を襲えば、それは我々の真実在の探究を妨害するだろう。肉体は、また愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわごとで我々を充たし、そのために、諺にも言われているように、我々は肉体のために、何かを真実に、また本当に考えることが決してできないのである。(…中略…)かりに我々に肉体からの多少の解放が生じ、何かを考察することへ向ったとしても、探究の最中でふたたび肉体はいたるところに出現し、騒ぎと混乱を引き起こし、我々を脅して正気を失わせる。その結果、我々は肉体のために真実を見ることができなくなるのだ」。(岩波文庫『パイドン』pp. 35-36)
 
 このように、我々は肉体から出てくる食欲、睡眠欲、性欲をはじめ、所有欲、名誉欲などの物質的欲望から自由になることで、本当の価値の追及--神の子としての自己実現が可能になってくるのです。だから、20歳から先の60年の人生というものは、肉体的・物質的欲望から自由になることで仏を表していく過程であり、そのために肉体の成長と魂の成長には時間的に大きなズレがあるのです。

 どうか皆さんも、最後まで真理を説き続けられた大聖師のお姿を手本として、欲望の追及ではなく、欲望から自由になることで神の子の実相、仏の本性を表現していく価値ある人生を送っていただくことを念願いたします。大聖師の祥月ご命日に際して、ひと言、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2006年6月16日

上海協力機構が共同宣言

 上海協力機構(Shanghai Cooperation Organization)という国家グループが注目されはじめた。同機構の創設5周年を記念する首脳会議が15日に上海で開かれ、そこで採択された共同宣言に、名指しは避けたものの、“唯一の超大国”であるアメリカのやり方を暗黙裡に批判する文章が散見され、かつ加盟国間のエネルギーの開発と利用を前面に打ち出している。16日付の新聞各紙が一斉に伝えている。
 
 同機構の加盟国は、中国とロシアのほか、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの中央アジア4国。これに今回は、オブザーバーとしてモンゴル、イラン、インド、パキスタンが参加し、ゲストとしてアフガニスタンが出席した。このうち、インドだけが首脳ではなく石油天然ガス相の参加となったのは、3月に原子力合意が成立したアメリカとの関係に気を使ったからだろう。核開発をめぐり欧米諸国と対立しているイランは、アフマディネジャド大統領が出席して「威張り散らす国々が干渉しないように、SCOが重要な役割を果たす」(『朝日』)と発言して、対抗意識をむき出しにした。また、共同宣言では「政治・社会体制や価値観の違いが他国の内政に干渉する口実とされるべきではなく、社会発展のモデルは“輸出”できない」と謳い、アメリカ式民主主義拡大を強く牽制している。
 
 これは裏を返せば、加盟国の多くが自由や人権の尊重など欧米型民主主義の価値観から隔たった独裁的、権威主義的社会体制を維持していることを示している。特に、旧ソ連に属していた中央アジア諸国では、2003年にグルジアで民主化運動により政権交代が行われ、ウクライナでも“オレンジ革命”で欧米寄りのユーシェンコ大統領が登場、キルギスでも民主化運動が活発化した。この動きをウズベキスタンやガザフスタンの現政権が脅威に感じていることは否めない。また、パキスタンは軍事政権であり、中国もロシアも急速な民主化の流れには否定的だ。イランは、イスラム革命後は宗教権威主義によって民主化の動きを抑えてきている。
 
 このような政治的な利害の一致の背後には、しかしもう一つ、エネルギーの輸出国と利用国の利害の一致がある。人口が多く、急激に経済発展を続ける中国とインドが動き、世界第2位の産油国であるロシアと、化石燃料豊富な中央アジア諸国がそれに応じた格好だ。『産経』では、ヘリテージ財団のピーター・ブルックス氏(Peter Brooks)が、同機構が“核つきOPEC”になる可能性に警告を発しているが、中国とインドの人口、ロシアの国土の大きさを考えると、これらの国々が同盟関係を形成すれば、OPEC(石油輸出国機構)とは比較にならない影響力をもつことになるだろう。
 
 ただし、現状では“呉越同舟”の要素もあるから、同盟関係への動きはすぐに起こるとは思えない。インドは民主主義国であり現在、アメリカとの関係を重視しており、パキスタンとアフガニスタンの現政権は“テロとの戦争”ではアメリカと共闘関係にある。核開発問題で欧米で対立しているイランは今回、正式加盟国入りを強く望んでいたが、核保有国である中ロとの立場の違いもあり、オブザーバーの立場しか与えられなかった。(『日経』)共同宣言には「地域の安定を脅かす緊急事態では迅速に連携し、加盟国の利益を最大限守る」とあるから、加盟国間では、エネルギーの安定的需給関係にもとづいて経済発展を継続し、加盟国内の政治的不安定を防ぐとともに、欧米型の民主主義とは異なる政治体制の維持を図っていこうとの意図が感じられる。
 
 ところで、首脳会談の様子がテレビに映ったのを見て、私は「おやっ」と思った。それは、各首脳の席上に置かれた国名の札の表記法である。国連などでよく見かけるのはアルファベット表記1本だが、今回の場合は横2列に国名が表記されていて、上が中国語(漢字)、下がアルファベット(に見えた)である。上海での国際会議だから漢字表記を上段に掲げるのは理解できなくはないが、日本国内で国際会議を行う場合は、国名に日本語(カタカナ?)の使用することはまず考えられない。主催国・中国の“若いナショナリズム”のようなものを、そこから感じた。
 
谷口 雅宣
 

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2006年6月15日

ペンマウスを買う

 最近、絵を描く機会が極端に少なくなってきた。「絵心が出ない」というと、何か「やる気が出ない」感じの怠惰な人間のように聞こえるが、「文章を書く」ことと「絵を描く」ことの脳の領域が違っていて、片方をフルに使っていると、他方がお留守になるのかもしれない。この「脳の領域」とは、よく“左脳”とか“右脳”などと呼び分けられているものだ。しかし、本当は双方を適度に使うのが、人間としてベターであるに違いない。
 
 ということで、文章作成に毎日使っているノートパソコンを、絵を描くためにも使えないかと考えて、休日を利用して新宿駅西口のヨドバシカメラまで足を延ばした。最近、キーボードを使わずにペンで画面を触れるだけで入力できる「タブレットPC」というのが出ていると知ったので、それで絵を描くテストをしてみたかった。絵は、紙の上に鉛筆やペンで描くのがいいに決まっているが、それをPCで利用するためには、描き終った絵をスキャンして取り込む作業が必要となる。これには案外手間がかかり、色調やペンタッチなどをオリジナルに近づけるのに苦労する。だから、直接PCで絵が描ければ、スキャンニングの手間が省けるだけでなく、スケッチブックなどの画材を持ち運ぶ必要もなく、さらに絵の保存もPCだけで効率的に、省スペースで行える--そんな虫のいいことを考えていた。
 
 目当てにしていたのは富士通のLOOX-Pシリーズ「FMVLP70S」という機種で、サイズが232 × 167mm と小型である。重さも1kg を割る軽量だから、使い勝手さえよければスケッチブック代りに持ち運べるだろうと考えていた。しかし、現物を触ってみると、ペンタッチはいいのだが、キーボードを使おうとすると小さすぎて文字がスムーズに入力できない。また画面も小さくて見にくい。私は「文章も絵も」と欲張っていたから、別の機種を探した。すると、レノボの ThinkPad シリーズにタブレットPC(ThinkPad X41 Tablet)があり、これはキーボードも使いやすく画面も大きかった。しかし、私が現在使っている機種(ThinkPad X40)とほぼ同じスペックなので“上等すぎる”のである。結局、「PCは2台もいらない」という結論に落ち着いた。資源のムダだし、ファイルの管理が複雑になる。そして何よりも、値段が高い--富士通機は23万円、レノボ機は24万円だ。

 そこで現有のPCに接続して、ペンで絵が描ける周辺機器を探した。すると、絵の具メーカー「ぺんてる」が出している「エアペン」というのと、ワコム社の「インテュオス」というのが目についた。前者は、手帳様のメモ用紙にペンで字や絵を描くと、そのストロークの1つひとつを機械が記憶し、あとでPCへその情報を転送する方式だ。これだと、手帳セットだけを持ち運べるが、どうも色が使えないようであり、手続きも煩雑だ。後者は、PCのUSBポートに接続したタブレットの上に絵を描く大掛かりな方式で、プロ仕様だ。旅先に持っていくわけにはいかない。
 
 結局、私が選んだのは「ペンマウス」と呼ばれるものだった。値段は 9,420円。これは基本的には光学式マウスそのものであり、ペン型であるところだけが違う。これだとマウス同様に気軽に持ち運べるし、ソフトウエアも、今使っている「NeoPain」という“お絵かきソフト”で取りあえずは用が足りると思った。販売員は「入力はこちらが正確です」と、USB接続式のペン・タブレットを勧めたが、私は簡単で安価な方を選んだ。1万円未満だから、テストのつもりで買ったのだ。
 
Pensample01  帰宅して早速、使ってみると、販売員の言っていたことがよく分かった。ウィンドウズに標準で付いている「ペイント」という“お絵かきソフト”を使ったことがある人は知っていると思うが、マウスで自由な線を手描きすることは非常に難しい。それがペン型のマウスであれば、相当描きやすくなるだろうと私は考えた。これが大きな間違いだった。確かに普通のマウスでするよりは描きやすいが、マウスパッドの上を行くペンのわずかな動きや角度の違いで、描線がトンデモナイ方向へ滑ってしまう。「紙の上にペンで線を引く」という簡単な作業が、ペンマウスでやるといかに困難であるかを思い知らされた。
 
Pensample02  昨年8月21日の本欄で、灘波田龍起画伯が晩年に病床で描いた絵の話に触れたが、その時の鉛筆やペンの線が、縮れ毛のように絡み合っていたことの意味がよく分かった。灘波田画伯は、恐らく脳の損傷で手先が自由に動かせなくなっていたのだ。それでも絵を描こうとすると、物の輪郭を線で表現するのではなく、絡み合った無数の細かい線の重なり具合で濃淡を作り、その濃淡の違いの中から輪郭が浮かび上がるような絵になっていた。私が最初にペンマウスで描いたのも、そんな感じの奇妙な線画になった。さらに色々工夫して、もっとまともな絵を描こうとやってみた。その2点をここで披露します。笑ってやってくだされ。
 
谷口 雅宣

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2006年6月14日

トヨタの“新世代ハイブリッド車”構想

 トヨタがついに「充電式ハイブリッド車」の構想を発表したようだ。また、バイオエタノール100%のエコカー(E100)を2007年春にブラジルで発売すると宣言した。前者は遅きに失した感があるが、後者の早さには驚いた。多分、ホンダが先行して、今年9月にE100の発売を発表したことに対抗したのだろう。いずれにせよ、自動車産業で地球温暖化防止の動きが本格化してきたことを意味するので、大いに歓迎したい。今日付の新聞各紙が伝えている。

 私が注目するのは、「充電式ハイブリッド車」の方だ。というのは、本欄でも何回か書いたように、こちらの方が自然エネルギーとの組み合わせで発展性があるからである。トヨタのプレスリリースでは「プラグインハイブリッドカー(plug-in hybrid car)」という名前がつけられ、注釈として「外部充電や電力供給が可能なハイブリッドカー」と書かれている。さらに「外部の電源からの充電ができ、バッテリー電源によるモーターでの走行領域の拡大を可能とし、CO2削減と大気汚染防止効果が期待できる新世代自動車」という説明が付されている。
 
 2月3日の本欄でこの“新世代ハイブリッド車”の構想に触れたとき、ホワイトハウスのウェッブサイトに掲示された次のような文章を紹介した(拙訳):

[より効率的な車の開発]現在走っているハイブリッド車は、エネルギー省で開発された電池を使っています。大統領の計画により、ハイブリッド車と充電式ハイブリッド車のために次世代の電池技術の研究が加速されるでしょう。現在のハイブリッド車では、搭載した電池への充電はガソリンエンジンからしかできません。充電式のハイブリッド車は、電気でもガソリンでも走れ、夜間に家庭の電源に差し込んで充電することもできます。この型の車ができれば、都会の通勤時にはガソリンほとんど不要になります。高度な電池技術は、短期間に石油の消費を相当に減らす可能性を秘めています。
 
 読者に気づいてもらいたいのは、ホワイトハウスの発表が先で、トヨタ自身の発表が4ヵ月半も後ということだ。これが何を意味しているのか、私は考え込んでしまう。トヨタという会社は、すでに“日本の企業”という枠組みを超えて、世界一の超大国の政策決定に関与するほどになっている。また、1月31日の本欄に書いたように、今年1月に発売された環境活動家のレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)の新刊にも、この車のことが書いてあることを思えば、世界の環境政策を引っ張っているのは、少数のトップクラスの人間だということが分かる。

 ところで、トヨタのプレスリリースでは明らかでないことが1つある。それは、「外部充電」をするための蓄電池が、当初のブラウン氏の構想のように「2台目」の電池であるのかないのか、である。この点について、『朝日新聞』の記事はこう書いている--「従来型は、減速する時に余ったエネルギーを電気に変えて充電する仕組み。そのための部品は大きく、システムも複雑で原価も高くついていたため、小型車には搭載していなかった。新型HVでは自己充電はせず家庭で充電するため、これまでの複雑なシステムは不要で、軽量化できる」。もし、これが事実だとすると、トヨタの考えはブラウン氏の構想とはやや異なることになる。つまり、蓄電池は1台に限定し、その性能を上げることで電気自動車としての走行距離を10キロ程度(現在は2キロ)まで延ばすという戦略だ。

 また、これによって小型車のハイブリッド化が可能となるため、中国やインド市場での需要も見込んでいるに違いない。レスポンスの記事によると、「トヨタは、ハイブリッド車の年間販売台数を2010年代の早期に100万台に拡大させる方針であり、モデル数の倍増もその時期までに実現を図る。今後の車種展開では『ヴィッツ』級のコンパクトカーなども含まれる見通し」とあるが、これも「2台目」の蓄電池は搭載しないことを意味しているのだろう。自然エネルギーとの組み合わせは、しばらく“足踏み”することになるのかもしれない。

谷口 雅宣

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2006年6月13日

米のバイオエタノールは有望

 前回の本欄で、「バイオエタノールの利用は温暖化防止策としては決定的ではなく、“中継ぎ”的な意味しかない」と書いたが、これは日本のように山がちで人口密度の高い国でのことであり、また途上国に温室効果ガスの削減義務が課せられていない現行制度の下でのことである。アメリカのように広大な土地をもち、農産物の自給ができるだけでなく、“雑草”や潅木の生える草原が延々と続いているところでは、また別の話がある。

 2月2日の本欄でブッシュ大統領の一般教書演説に触れたとき、その中に次のような一節があったのを覚えているだろうか--「トウモロコシからだけでなく、木屑や雑草などからもエタノールを作れる革新的な技術研究を進め、2025年までに中東から輸入される石油の75%を代替できるようにしたい」

 この文章で重要なのは「木屑や雑草」という言葉である。これは「そのへんに生えている潅木や草」という意味だ。とても野心的な数字に驚かされるではないか。が、大統領はできないことをできるように言ったのではないようだ。アメリカの科学誌『Science』の6月2日号(vol 312, p.1277)にスタンフォード大学の植物細胞学・分子生物学者のクリス・ソマヴィル博士(Chris Somerville)が、この数字の“謎解き”をしてくれた。

 同博士は、「化石燃料と競争できるコストで交通用燃料として利用できるのは、光合成によって蓄えられたバイオマス・エネルギーしかない」と断言する。ブラジルは現在、陸上交通に使う燃料の四分の一を、サトウキビから採ったバイオエタノールでまかなっている。アメリカでは、約90箇所の精製所で、トウモロコシを原料としたバイオエタノールを毎年45億ガロン(1,710 kl)ほど生産している。これを2012年までに75億ガロン(2,850 kl)にまで増やす計画である。現在のアメリカは、毎年1400億ガロン(53,200 kl)の燃料を陸上交通に使っている。最近、エネルギー省が発表した計画では、このうち30%をエタノールに転換するそうだが、これだと約600億ガロン(22,800 kl)のエタノールが毎年必要になる。これは相当な量だと言わねばならない。
 
 ところが、最近出たエネルギー省の試算では、アメリカは現在の農地を全く使わずに、国全体で毎年13億トンのバイオマスを生産できるそうだ。ソマヴィル博士によると、1トンの植物性バイオマスから、理論的には約100ガロン(380 l)のエタノールが生産できるため、アメリカ全体では、毎年1300億ガロン(49,400 kl)のエタノールを持続可能なやり方で生産できる計算になるのだという。つまり、現在陸上交通に使っている燃料の約93%は、バイオエタノールに置き換えることができることになる。これに加えて、ハイブリッド車の普及で車の燃費が倍に伸び、さらに風力発電設備が飛躍的に増設されれば、アメリカは現在の陸上交通用燃料のすべてと、航空燃料用の相当部分をバイオマスによって自給することができるかもしれないのだ。そして、温室効果ガスの排出量は劇的に減少するのである。
 
 何か夢のような話だが、問題は「理論的にこうなる」ではなく、「実際にどう実現するか」という政策の立案である。日本の場合も、現在の国内のエネルギー需要のすべてを太陽光発電でまかなう場合、太陽光発電パネルの大きさは(理論的には)「四国の三分の一」という計算がある。これはもう7年前の試算(桑野幸徳著『新・太陽電池を使いこなす』p.148)で、その後、太陽光発電の効率はずいぶん向上している。だから、今は右顧左眄をやめて、真っ直ぐに前を見た政策立案と実践の時期なのだ。

谷口 雅宣

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2006年6月12日

バイオエタノール計画は65点

 国産のバイオエタノール利用計画が、やっと本決まりになったようだ。2007年からサトウキビを使った沖縄産を先行させ、その後にブラジルや東南アジア産等の輸入ものも導入し、2020年にはガソリンへの混合率を10%に上げたものの供給を始め、30年には全ガソリンを10%の混合率とする考えらしい。技術的にはもっと早期に大幅な導入が可能のはずだが、段階的な方法を採ることにより石油産業への影響を和らげようとしたものだろう。まずは1歩前進だから、100点満点で「65点」ぐらいはつけておこう。

 5月21日の本欄で、沖縄県に「エタノール特区」を設けて、同県産のサトウキビからバイオエタノールを製造して「E3」以上の混合ガソリンを流通させるという経済産業省の計画に触れた。その際、環境省の「エコ燃料利用推進会議」では「2030年までに自動車燃料の10%をエコ燃料にする」計画があって、こちらの方が理にかなっていると述べた。5月19日の『日本経済新聞』がそれを伝えていたからだ。今日(6月12日)の『朝日新聞』は、この件を4段見出しで報じ、環境省の方針として同年までに「使用される自動車のガソリンの全量を、バイオエタノール10%混合(E10)に切り替える」ことが決まったと述べている。沖縄県の“特区”の問題はどうなったのかと思いきや、今年度、沖縄・宮古島で実証実験を始めたことに触れ、「公用車で試験走行し、07年度には、同島のガソリン車すべて(約2万台)をE3化する方針だ」とあるから、沖縄産のサトウキビを使ったエタノール製造事業を(恐らく特区化して)育成し、その後に、エタノールの混合割合を増やしながら全国に及ぼしていく考えだろう。
 
 2つの問題が見える。1つは、これによって京都議定書の約束期間(08~12年)に温室効果ガスの削減が規定通りにできるかどうか。2つ目は、食糧との競合関係をどのように調整するかだ。第1の問題については、上掲の『朝日』の記事は「アジア諸国でのバイオエタノール生産を推進」すると書いてある。つまり、国内の農家にサトウキビやトウモロコシの増産を頼むのでは足りないので、アジア諸国に技術支援・資金援助を行ってそれらの“原料”を生産してもらい、それによって「排出権」を得る考えだろう。2番目の問題については、記事は何も書いてない。最近、トウモロコシを中心にして、世界の穀物市況が値上がりしているのをご存じだろうか。アメリカがバイオエタノールの生産を増やしつつあるため、在庫が減少しているのだ。

 このことは以前(昨年11月30日、今年4月14日)にも書いたが、バイオエタノールの利用は温暖化防止策としては決定的ではなく、“中継ぎ”的な意味しかない。つまり、とりあえず議定書で約束した数字を達成するという意味では効果があっても、それによって本当の温暖化防止になるとは言えない。なぜなら、議定書では発展途上国には排出削減の義務がないし、森林伐採の禁止規定もない。日本は、途上国でサトウキビやトウモロコシの生産を支援すれば「排出権」を得て、議定書の約束を守ることができるかもしれない。しかし、それらの農産物は人間の口に入らずに、(結果的に)自動車の口に入るのである。ということは、人間の食糧のための農産物は、依然としてどこかで育てる必要があり、それをどこかの国が森林伐採によって行わないという保証はないのである。
 
 数字合わせではなく、根本解決へ向うためには、どうしても自然エネルギーや水素の利用に全力で取り組む必要があるのである。
 
谷口 雅宣

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2006年6月11日

ハエ取りビン

 富山市で行われた生長の家講習会を終え、空港へ行くまでの時間を利用して、民俗民芸村という所へ寄った。富山平野の中央を南北に走る呉羽丘陵にある総合文化施設で、民芸館、民俗資料館、考古資料館、美術館、陶芸館など10棟の施設が並ぶ。時間の都合で、その中では「民俗資料館」だけを参観することができた。ここは江戸時代後期からの富山市周辺の民俗資料を収集したところだが、建物自体が3階建ての茅葺き入母屋合掌造りの旧民家である。同市の山田村にあった住宅を移築したもので、破風口がきわだって大きく、当地では「ウグイス造り」と呼ばれていた建物だそうだ。衣食住を中心とする生活用具を初め、農耕機具、林業や養蚕用具等が、木で固められた家の中に1300点も展示してある。ゆっくり眺める時間はなかったが、どれも使い手の苦労や喜びを偲ばせるような、懐かしさを誘う手作りの品々だった。

 
Catchflybottle  その中の一つで、私の目を引いたのは、理科の実験に使うフラスコを二重にして上からつぶしたような格好の、ガラスの器(=写真)だった。そばに置かれていた説明書きに「ハエ取りビン」とある。私がまだ小さい頃、台所などに「ハエ取り紙」という粘着テープが下がっていたのを記憶しているが、「ハエ取りビン」というのは聞いたことがなかった。これは、その中に砂糖水か味噌汁を入れておくと、臭いにつられて飛んできたハエが、水の上にとまれないので溺れて死ぬのだという。私は、そのビンをよく眺めてみたが、どうしてそんなううまい具合にいくのかよく理解できなかった。しかし、そのために作られたビンなのだから、きっとある程度はうまく機能したに違いない。ただ、ハエ取り紙ほどには効果がなかったから、私が生まれてくる頃までには、「ビン」の方はなくなってしまったのだろうか?

 ハエ取り紙は、見た目が悪い。臭いに惹かれて飛んできたハエが、粘着式のテープにベタベタ貼りついたまま天井からぶら下がることになるからだ。その頃に併用されていたのは「ハエたたき」で、これは私も使ったことがある。ただ、バチバチと音をたてて、あげくの果てはハエをつぶしてしまうから、いかにも原始的な殺虫器具だ。そこで今は、殺虫剤をシューッと吹きかける方法に変わっているのだろうか? ここで疑問符を付したのは、私の家ではハエには殺虫剤を使わないし、ハエたたきもないが、よそさまの家では現在、どういう事態になっているのかよく知らないからだ。台所で殺虫剤を噴射するのは、自殺行為に近いと感じる人もいると思う。ハエたたきはいかにも残酷だ。わが家では、だから網戸によってハエを中に入れない工夫をしている。それでも侵入してくるハエは、追い払うほかはない。
 
 インターネットを調べてみたら、「ハエ取りビン」ではなく「蝿取り器」とか「蝿取り瓶」でいろいろ出てきた。そこから得た情報では、蝿取り器は、日本のオリジナルの考案で、明治か大正時代に家庭に普及したものという。岩手県にあるガラス工芸品の製造元では、今でも「復刻版蝿取り器」というのをネット販売しているらしい。ということは、やはりハエ取り効果があるということか。

谷口 雅宣

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2006年6月10日

中国、信仰者の声に動く?

 中国で映画『ダ・ヴィンチ・コード』が上映開始から3週間で中止となった。理由は、国内のカトリック信者から反対が多いからというもののようだが、にわかには信じられない。共産党独裁の社会主義国で、いったん政府が承認した興行が国民の要望で中止されるということになれば、同じ国民の要望が強ければ、承認されていない興行を認めない理由がなくなってしまうからだ。10日の『日本経済新聞』は、上映中止の「理由は不明」としている。が、続いて「中国カトリック愛国会など宗教団体が“内容がカトリックを冒涜している”などと上映禁止を呼びかけており、政府がそうした声に配慮したとの見方が出ている」と書いて、政府が国民の一部の要望を容れたとの見方を臭わせている。
 
 5月7日の本欄でも書いたが、ローマ・カトリック教会は現在、中国政府とは対立関係にある。その理由の一つは、中国政府が最近ヴァチカンに無断で、自分の支配下にある中国カトリック愛国会の司教を何人も任命したからだ。また、中国には「愛国会」の傘下に入らずにヴァチカンに忠誠を誓うカトリック教徒が“地下組織”として活動しており、その数は400万から1200万人と言われている。5月25日の本欄でも触れたが、この映画に対して、ローマ・カトリック教会は公開早々から信者にボイコットを勧め、また主としてアジアの教会指導者が強い不快感を表明してきたし、インドではハンガーストライキさえ行われた。だから、キリスト教徒の反対が理由で上映を中止するなら、そもそも上映を許可したこと自体、説明がつかない。「試しに許可してみたが、反対が大きすぎたからやめた」というのだろうか? 中国政府は、外国映画の輸入にいつからそんなに不用意になり、また国民に対していつからそんなに弱腰になったのかと思う。
 
 10~11日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、北京のジョセフ・カーン(Joseph Kahn)記者の記事の中で、この決定は中国のカトリック指導者たちと国営の映画配給会社の間の政治的妥協によるもの、という見方を書いている。「愛国会」は、ヴァチカンの影響下にある地下教会組織との間で競争関係にあるため、カトリック教徒の神経を逆撫でするような映画には反対せざるを得ない。一方、配給会社は高い金を払ってハリウッド映画を輸入したのだから、それなりの利益を得ないうちに教会側の要望を呑むわけにいかない。そこで、22日間の興行で1億元(1300万ドル)以上の収入を得たところで“手を打った”というわけだ。この成績は、今年中国で公開されたどの映画をも上回っているという。
 
 私は、上掲の記事を読んで、もう一つの配慮が今回の決定の背後にあると感じた。それは、中国政府が「社会不安」を未然に防ごうとして動いた、ということだ。映画『ダ・ヴィンチ・コード』は、5月19日に全世界同時に公開された。その後、すぐにヴァチカンから映画ボイコットの支持が出され、対抗する「愛国会」も映画反対の意思表明を行った。そのうちに、地方のカトリック信者による反対デモなども起こってきて、一部では「上映館を燃やす」との過激な意見まで表明されるようになったという。こういう自発的な運動の盛り上がりを、中国政府は最も恐れたのではないだろうか。宗教の信者による政府への抵抗は、彼らは「法輪功事件」で苦い経験をしている。今回は、そうならない前に手を打って上映中止に持ち込んだ。しかも、興行収入はしっかりと手にしている。「臆病」というべきか、「お見事」と言うべきか……。

 この結果は、しかし中国の民主化にとっては一つの進歩なのかもしれない。なぜなら、(もし私の上記の推理が正しければ)カトリック信者の反対運動が実際に政府を動かしたということになるからだ。徐々にではあるが、中国社会は経済だけでなく、こういう面でも変化しつつあるのだろう。
 
谷口 雅宣

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2006年6月 9日

石油高騰に光明を見る

 本欄は昨年来、原油高騰に注目して善悪両面の動きを追ってきた。このうち、これまで触れた“善い”効果を概観すると--

 昨年9月7日の本欄で、「地球温暖化の進行を防止する立場から言えば、石油高騰によって消費が減少し、温室効果ガスの排出量が減少することは“望ましい”ともいえる」と書いた。この「消費減少」動きは、これ以後、個人のレベルでは着実に進行し、それが産業界へもじりじりと影響を与えている。例えば、石油高騰によって先進国の自動車産業の構造が変化しつつある。主力車のガソリン燃費の良し悪しによって、自動車会社の販売実績に大きな違いが生じてきた。燃費の良い日本車はよく売れ、燃費の悪い米国製SUV等の売り上げはガタ落ちしている(9月15日)。また、東南アジアの国々の中には、補助金によって石油の値段を下げる保護政策を撤廃する動きが生じ、これによってガソリン等の石油製品の消費が減り、環境破壊の進行が鈍化している(11月26日)。

 日本国内では「レジ袋の有料化」が真面目に検討され、一部で実施され始めた。また、石油系のプラスチックの値上がりにより、土中で腐る生分解性のプラスチックを原料とした食品用シートや食器などが価格競争力をもってきており、アメリカでは大手食品加工会社や大規模販売店でも生分解プラスチック製品を採用する動きが広がっている(11月26日)。さらに、ブッシュ大統領は一般教書演説の中で「アメリカ人は石油中毒」と発言、中東石油への依存度を下げる方針を発表した(2月3日)。同大統領の支持基盤である“キリスト教右派”と呼ばれる人々の間にも「環境保護」を真面目に考え、積極的に実行する人々が増えてきた。

 さらに、最近の動きを拾ってみよう--
 
 原油高騰は当然、液化石油ガス(LPG)の値上がりにつながる。これを主燃料としているのが、日本中を走るタクシーだ。6月8日の『日本経済新聞』によると、このおかげでトヨタ自動車は「アイドリングストップ車」という省エネ車を開発したが、東京の大手タクシー「日本交通」では、年内にこの車を400台導入するという。これは、ギアをニュートラルに入れるとエンジンが自動停止するので、燃料の節約になる。タクシー向けのLPGの価格は前年同期比で26%上がっており、現在は1リットル68円程度という。アイドリングストップ車は、都会ではバスなどによく見かけるようになったが、信号待ち時の静かさはうれしい。それだけでなく、コスト削減とCO2の排出削減にもなる。私が首相だったら、この型の自動車普及に向けて特別減税措置を導入したいほどだ。

 同じ『日経』は、道路舗装に使うアスファルトの値上がりについても書いている。それによると、4~6月期のアスファルトの価格は前期(1~3月)比でトン当たり4000円ほど値上がりし、1トン5万4000円前後となった。この価格は1981年以来、25年ぶりの高値だ。道路舗装に使う従来のアスファルト合材は水分を吸収しないため、都会での地下水の枯渇や大雨時に道路の冠水を引き起こしている。アスファルトの値上げの“善い面”は、そういう従来型に対して、水分を土に透す環境配慮型の舗装材の価格競争力が増すことだ。
 
 さて、ブッシュ大統領の政策変更について少し触れたが、アメリカという国は、方針転換がいったん決まると、社会全体がその方向に大きく動くのだろうか? そんな印象を抱かせる記事が今日(6月9日)の『日経』に載っている。それは、三菱重工が北米の風力発電用として、大型の風力発電設備を443基一括受注したという記事だ。総出力は44万3千キロワットで、受注額は300億円前後。長崎市の長崎造船所で製造し、ニューメキシコ州やテキサス州の風を孕んで発電するという。

 5月22日の本欄で、アメリカの環境活動家、レスター・ブラウン氏の講演会について書いたが、その時、ブラウン氏はアメリカの風力発電事業について触れ、アメリカの主力メーカーであるGE(ジェネラル・エレクトリック社)への注文は、2007年分まですべて埋まっていると言っていた。だから、アメリカ向けの風力発電設備が日本メーカーにも回ってきているのだろう。こういう動きは、風力発電事業が税制面で優遇されていることも大きいが、日本の場合、優遇措置は充分とは言えないと思う。
 
谷口 雅宣

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2006年6月 7日

アインシュタインの“神話”

 相対性理論で有名なアルベルト・アインシュタイン博士(1879-1955)が日本の天皇制を絶賛したという話を聞いたことがある人は多いと思うが、そういう事実はなかった可能性が大きいとする記事が、6月6日の『朝日新聞』夕刊に載った。東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)がその讃辞の出典を調べた結果、どこにも確かなものがなく、その代わりに、よく似た趣旨の言葉が、ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein, 1815-1890)という全く別のドイツ人法学者の発言として、戦前に発行された田中智学(1861-1939)という宗教家の本の中に記されているのが分かったという。そこで中澤教授は、問題の発言をさらにシュタインの講義録などで確認しようとしたが、該当するものはなかったという。

 この『朝日』の記事では、中澤教授の結論は「結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高い」というものだ。が、同教授は、月刊誌『致知』の昨年11月号に寄稿した文章の中では、もっと断定的にこう書いている--「アインシュタインの予言」として知られている言葉は元来、アインシュタインのものでもシュタインのものでもなかった。国体思想家・田中智学のものであった」。(p.125)

 田中智学という人は、日蓮宗の僧から還俗して在家仏教運動を始めた人で、立正安国会、国柱会を創設。主として講演と著述によって折伏中心の活動をした、と平凡社の『世界大百科事典』にはある。著書に『宗門之維新』『本化摂折論』『日蓮主義教学大観』などがあり、「<日本国体学>を提唱、国体の開顕に努めた」という。中澤教授によると、田中氏は戦前の日本国体思想に多大な影響を与えた思想家であり、「八紘一宇」という言葉は、彼が『日本書紀』の語句を使って造語したものという。さらに中澤教授は、「彼の思想は、彼の弟子・石原莞爾の『最終戦争論』へと受け継がれた」としている。上記の“シュタインの発言”とされている文章は、田中氏が1928年に出した『日本とは如何なる国ぞ』という本の中にあり、それは当時の大ベストセラーだったそうだ。

 だから、これを読んだ人が「シュタイン」と「アインシュタイン」を混同して、いつのまにか“アインシュタインの予言”という一種の“神話”が形成されたらしいのである。なかなか興味深い話で、説得力もある。ちなみに、シュタインとはどういう人物かといえば、「ヘーゲルと社会主義者の影響下で、階級闘争の市民社会を階級中立的な君主が抑制し、弱者である労働者階級を保護するという社会君主制論を唱えた」(前掲の大百科事典)とある。日本との関係では、「伊藤博文に憲法の基本原則を講じ、とくに過激自由主義の誤り、民族的伝統尊重の必要、君主権の重要性などを強調した」という。
 
 シュタインの思想と田中氏のそれとがどれほど近いか私は知らないが、出典がはっきりしない引用文は、ベストセラーに載って“一人歩き”することがあり、さらに「名前が似ている」ということで別人の発言だと信じられていくことが分かる。最近、問題になっている日本人洋画家の“盗作”事件でも、アイディアや着想の起源をゴマ化したことで、栄えある賞を受けた後に大騒ぎをしなければならないことになっている。もの書きのはしくれとして、典拠明示の重要性を改めて教えられた気がする。

谷口 雅宣

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2006年6月 6日

ES細胞から神経を効率よく得る

 韓国での研究データ捏造事件で一時退潮ぎみだったES(胚性幹)細胞の研究で、大きな進展があったようだ。「ようだ」と推量形で書くのは、韓国での事件も、当初は“鳴り物入り”で大成果であるかのような発表があったので、私としても注意深くならざるを得ないからだ。人間のES細胞から効率よく神経細胞を作り出す技術を、理化学研究所と京都府立医科大学の研究グループが開発したらしい。6月6日付の新聞各紙が伝えている。
 
 韓国で問題になった研究は、若者から高齢者にいたるまでの「特定の人間の遺伝子を組み込んだES細胞を効率よく作成した」ということだった。しかし、この発表はデタラメで、ES細胞の作成は依然として極めて効率が悪く、したがって多くの卵子や受精卵を犠牲にする点で倫理的にも問題が多い技術であることに変わりない。今回の研究は、すでに存在するES細胞から神経細胞を作成する技術の向上である。私はES細胞の利用には反対の立場だから、この進歩を「人類への朗報」とかアルツハイマー病やパーキンソン病などの「治療法の確実な進歩」などとは言えない。しかし、卵子や受精卵を犠牲にすることをあまり問題にしない人々の口からは、そういう誉め言葉が発せられるかもしれない。
 
 4月6日の本欄では、ドイツの研究グループが、マウスの精原細胞からES細胞に似た多分化能のある幹細胞を作成することに成功したというニュースを報告したが、私としてはこちらの研究の人間への応用の方が、倫理的にはまだ優れていると思う。
 
 人間のES細胞から神経や心筋、皮膚等の種々の細胞を分化させるためには、従来はネズミの骨髄由来の細胞の上に人間のES細胞を載せて培養することが行われていたらしいが、これだと異種細胞間に感染の問題があった。が、今回の研究では、人間の羊膜(胎児を包む膜)の上に載せて培養することで、この問題をクリアし、そこから9割以上の確率(従来は約6割)で神経細胞のもととなる神経幹細胞を育てることに成功したという。また、この神経幹細胞をさらに培養することで、ドーパミンという物質を作る特殊な神経細胞や、運動神経細胞などの作成にも成功したらしい。パーキンソン病は、このドーパミンが失われることで起こるから、研究グループは、この研究で作った神経細胞を、まずパーキンソン病のサルに移植して治療の実験を進める計画という。

 ES細胞を含む「ヒト胚」の研究や利用をめぐっては、「人間の尊厳」と「人間の幸福」という2つの価値が天秤にかけられる、と東京大学の島薗進教授は指摘している。「人間の尊厳」とは、人間の存在を何かの目的の手段とはしないとする価値で、奴隷制度や人体実験、強制労働などはこの価値を犯すと考えられる。普通は、ある人の幸福のために他人の尊厳を犯すことは許されない。しかし、この「他人」が胎児や受精卵、あるいは卵子である場合には、一部(例えば妊娠中絶)でこれが許されてきた事実がある。今回の研究でも、ES細胞の作成の過程でそれが行われている。

 もう1つの問題は、世代間倫理の側面にある。普通、親は自分を犠牲にしてでも子の幸福を望む。社会全体で考えてみても、親世代は自分たち以上の富や環境を子世代や孫世代に残そうとして努力する。これが普遍的な世代間倫理であるとするならば、ES細胞の研究や利用は価値観がまったく逆転している。なぜなら、この技術は親世代の幸福のために、子世代として生まれてくるはずの生命を抹殺するからだ。そうすることが「親世代の幸福」だと考えること自体、はたして倫理的と言えるかどうか疑わしい。私は、そういう社会を作ることに反対しているのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○島薗進著『いのちの始まりの生命倫理--受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』(2006年、春秋社刊)

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2006年6月 4日

世界の漁業貿易 2004

 生長の家の講習会で福井県に来た。ここはコシヒカリの発祥の地だが、魚介類のおいしい土地でもある。お刺身を食べながら、日本人の魚好きについて少し考えた。

 4月19日の本欄で、遠洋ものの大型魚を食べることは、牛肉や豚肉食なみの害を地球環境に与えるという話を書いた。漁業用船舶から出る二酸化炭素の量が問題になるからだ。その際、「マグロ、マカジキ、メカジキ、サメ、オヒョウ、タラなどの大型魚の自然ストックは、少なく見積もってその9割が、過去50年間でとり尽されてしまった」という海洋学者らが出した推計を紹介した。今日(6月4日)の『福井新聞』の記事によると、国連食糧農業機関(FAO)がこのほどまとめた資源評価報告書案では、大西洋のマグロとサメは、ストックに対して現在の漁獲量が多すぎ、タラなどは枯渇状態にあるらしい。
 
 具体的には、マグロの中では東部大西洋と地中海のクロマグロ、西部大西洋のクロマグロやミナミマグロなど5種、サメ類ではウバザメやオナガザメなどが、漁獲量が資源の維持に適切な量を超えているとされている。
 
 ところで、FAOのウェッブサイトで調べてみると、世界の漁業の現状を示す興味ある数字がいろいろあった。それによると、2004年に世界で消費された魚介類の77%は発展途上国によって漁獲されたもので、魚介類や魚介製品の輸入額の81%は先進国によるものだそうだ。つまり、途上国が獲った魚介を先進国が消費するという構図がここにある。そして、それら魚介類と魚介製品の最大の輸入国は日本で、全体の18%(146億ドル)を占める。2位はアメリカ(120億ドル)、3位がスペイン(52億ドル)で、そのあとフランス(42億ドル)、イタリア(39億ドル)、ドイツ(28億ドル)、イギリス(28億ドル)が続く。
 
 魚介類と魚介製品の輸出国を見ると、①中国(66億ドル)、②ノルウェー(41億ドル)、③タイ(40億ドル)、④アメリカ(39億ドル)、⑤デンマーク(36億ドル)、⑥カナダ(35億ドル)、⑦スペイン(26億ドル)、⑧チリ(25億ドル)、⑨オランダ(25億ドル)、⑩ベトナム(24億ドル)の順であり、先進国の名前も見られる。が、2004年の世界の魚介類の輸出全体に占める途上国の割合は、金額ベースで48%、重量ベースでは57%になっている。

 2004年の世界の魚介類の貿易額は710億ドルで1980年(155億ドル)の4.6倍であり、2002年の額(610億ドル)と比べても100億ドル多い。ただし、この増加は、天然魚の漁獲量が増加したのではなく、養殖魚の増加によるものである。重量ベースで漁獲量をみると、天然魚の漁獲が最大だったのは2000年の9600万トンであり、2001~2002年は9300万トンにとどまっている。その代わり、養殖魚の収獲量は2000年の3550万トンに対し、2001年は3780万トン、2002年には3980万トンと増加している。
 
 この貿易によって途上国は利益を得ており、魚介類の貿易で得た利益(輸出から輸入を引いた額)は、1980年が34億ドルだったの比べ、1984年は46億ドル、1994年は160億ドル、2002年は200億ドル、2004年は204億ドルと伸び続けている。この額は、魚介類を除くどの食品(コーヒーや茶、バナナを含む)の貿易額よりも大きい。つまり、多くの途上国は農産物ではなく、魚介類や魚介製品の先進国への輸出によって、多くの収入を得ていることになる。4月19日の本欄では、漁船の燃料高騰と途上国等の乱獲によって漁獲量が減ったため、日本の遠洋マグロ・カツオ漁業者の団体が解散したことを書いたが、その背後には、こういう事情もあるのである。

 先進国の魚介類の輸入は、途上国の経済発展を助けているが、その一方で漁業資源の枯渇の問題を惹き起こしている。そして、この問題に大きく関わっているのが魚好きの我々日本人なのだ。
 
谷口 雅宣

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2006年6月 2日

気候変動と地震

 インドネシアのジャワ島中部地震は、M6.3という規模のわりに死者が6千人を超え、5万棟以上の家が全壊するなど、被害が大きかった。この地域では、一昨年の12月に起きたスマトラ沖地震と大津波の被害の記憶がまだ新しい。そのほか、パキンスタンやイランなどでも昨今、大地震が起こっている。そういう地質学的変化が、昨今の地球温暖化に起因するという科学者はまだいない。しかし、地球の“外皮”とも言える地質上層の変化と気象との関係が今、注目されているらしい。イギリスの科学誌『New Scientst』が5月27日号の特集記事で、そのことを報じている。

 それによると、地球温暖化がこのまま続けば、気候の温暖化だけでなく、地質学的にも不安定な時代が訪れるかもしれないという考えが、科学者の間に広がりつつあるという。その理由は--気象は、地球の周囲をズレたり動いたりする海水や氷の塊を通じて、地質の上層部に影響を与える--というものだ。地質の上層部にかかる力を考えてみると、1立方メートルの水は1トンである。同じ量の水が氷になると0.9トンである。この重さの変化が、巨大な量の水や氷のある場所の地質上層部で起こるとする。例えば、厚さが1キロメートル以上ある氷床がどこかへ移動したり、海底に何千年も何万年も氷として載っていたものが解けて流れ出たりすれば、地下の岩盤にかかっていた圧力が増したり、減ったりする。それが地震や火山の噴火、地滑りなどを惹き起こす原因の一つになると考えることは、それほど不合理ではないということだ。
 
 過去65万年の間には、実際にそれが起こったと科学者は言う。氷河期には大陸上の水や海水が凍結し、海面は現在の水位よりも130メートルも低かったそうだ。その後、今から1万年ぐらい前になると、温暖化によってこれらの氷が解け、その際にアイスランドで火山活動が盛んになったことが分かっている。また、カリフォルニア州東部でも過去80万年の間に、同様の変化が起こったと指摘している科学者もいるそうだ。アメリカ北西部のカスケード山脈でも南米のアンデス山脈でも、同じ時期に火山活動が活発化したという。

 火山活動と水の関係については、それを示す具体的な例があるらしい。例えば、1963年にイタリア北東部のトク山が隣接する人口湖の中に崩れ落ちたが、その原因は新たにできた人口湖の水が活断層を刺激して地震を起こしたからだと批判された。この4年後に、インドのマハラシトラ州で起こった地震は180人の犠牲者を出したが、これもコイナ・ダムで水を堰き止めたことが原因だと言われた。だから、最近中国で完成した世界最大規模の三峡ダムには、地震を感知するための様々な機器が据えつけられることになった。
 
 地震については、もっときちんとした研究がある。NASA(アメリカ航空宇宙局)の地球物理学者たちは、アラスカ州南西部の氷河が急速に解けたことと、1979年に起こったM7.2の地震とを関連づける研究を2004年に発表した。発表者の1人であるアメリカ地質学研究所のジャンヌ・ファーバー氏(Jeanne Sauber)は、「アラスカのように地震が起こり、氷河の状態が変化している地域では、両者の関係を考えることが地震被害の防止には大切だ」と言う。これが本当なら、活断層上に氷河が存在するすべての地域--アルプス、ヒマラヤ、ロッキー山脈、アンデス山脈、そしてニュージーランドの南アルプスなど--でも、同じ関係が成立することになる。
 
 『New Scientst』誌の記事が「特に心配だ」としているのは、グリーンランドの周囲にある大陸棚だ。この世界最大の島にある氷床が解けて地震が起これば、大陸棚上に長期にわたって積み上げられた堆積物が崩壊して海中での地滑りが起こり、津波を惹き起こす可能性があるという。8000年前にノルウェーの西海岸で起こった「ストレッガ地滑り」は、スコットランド北のシェットランド諸島では高さ20メートル、スコットランドの東海岸では6メートルの大津波を起こしたという。

 今回のジャワ島の地震が、地球温暖化の結果だという証拠はどこにもない。しかし、重要なことは、一見頑丈そうな地球の表面であっても、様々な力が働き合う微妙なバランスの上にあるということだ。地球が“生き物”だと言われる理由が、分かるような気がする。
 
谷口 雅宣

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2006年6月 1日

教典への愛

 休日を利用して、東京大学の駒場博物館でやっている「トーラーの成立からユダヤ教へ」という展示を見にいった。これは、主としてエルサレムのイスラエル博物館や在日イスラエル大使館に所蔵されたユダヤ教民族文献の資料パネルと、エルサレムの古物商所蔵の発掘出土品の展示で、ユダヤ教成立の軌跡をたどるものだ。「トーラー」とは“モーセ五書”とも呼ばれるもので、いわゆる旧約聖書の最初の5書--『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を指す。これは、イスラームにおける『コーラン』にも匹敵する、ユダヤ教の根幹をなす最重要経典と見なされている。「トーラー」とは、ヘブライ語で「教え」というほどの意味である。
 
 私は、ユダヤ教については、“形式にこだわる煩雑な信仰”というようなキリスト教の側からの大雑把な見方しか知らなかったから、いろいろ勉強ができた。中でも印象に残ったのは、トーラーを書いた写本の美しさと、それに対する人々の傾倒ぶりだった。また、古代のヘブライ文字とアラム文字で書かれた聖書を見たのも初めてだった。ヘブライ文字とは、言うまでもなく、我々が聖書の中で「旧約」と呼んでいる部分を記述した原語の文字のことである。アラム文字とは、ユダヤの普通の人々が伝統的に日常用語として使っていた言葉を表記したもので、イエス・キリストもアラム語を話し、アラム語で教えを説いたと言われている。これら2つの文字は、互いによく似ていて、まったくの素人の私には判別ができないのだが、ギリシャ文字(現在のアルファベットの元になった文字)はこれらと明らかに違うのだった。

 だから、現在の聖書の中で我々が「新約」と呼んでいる部分のすべてが、はじめからギリシャ語で書かれたということを思い出すと、イエス自身の言葉を記録したとされる「福音書」でさえも、それはイエスの言葉の「翻訳」であるという事実の重さが実感できた。キリスト教はユダヤ教から派生した信仰であるとはよく言われるが、それだけでは両者の“違い”は判然としない。しかし、両者の教えを説く最も重要な教典が、もともと別の言語で書き下ろされたと言われると、両者が違うということのニュアンスがより正確に分かる。言語が違うということは、文化が違うことを意味するからだ。

 印刷技術が発達した現代の我々は、「写本」というものをよく知らない。聞いたことはあっても、実際に見た人は少ないと思う。日本には「写経」という習慣があるが、それは書が上手でも下手でも、毛筆に墨で、自分で経典を書写することである。トーラーの写本は、しかし恐ろしく芸術的である。鮮やかな色を使い、装飾文字を多用し、挿絵なども加え、ていねいにペンで書写されている。誰にでもできるというものではない。すべてがそうでないとしても、展示されていたものは皆、そういう芸術作品ばかりだった。そのようにして教典を飾るところに、ユダヤ教徒のトーラーへの愛と傾倒が感じられたのである。

 もう一つ印象に残ったのは「タルムード」とか「ゲマラ」と呼ばれている文書で、これはトーラーの解説書のようなものである。1頁の中心部にトーラーの言葉がヘブライ語で書かれ、その下や周囲をアラム語による翻訳や注解が囲み、さらにその周りを後代の注解が囲む……というように、“教え”を中心にして、それを実際生活にどう具体的に反映させるかという後代の人々の努力の跡が、すべて文書に残されているのである。ということは、臨機応変の対応ということが困難になりがちだろうし、勢い原理主義的な解釈が永続する傾向が生まれるのではないかと感じた。その反面、「伝統の護持」という点では、この方法は優れているに違いない。“ちょっと見”の感想で断定してはいけないが、ユダヤ教の特徴のようなものを、そこに感じた。
 
谷口 雅宣

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