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2006年5月31日

ヤギは除草上手

 前回は、自然界の食物連鎖が切れた際の問題の1つとしてシカの増殖を考え、自然界には本来“害獣”や“害虫”はないなどと書いた。しかし、農業をしている人からは、「何と観念的な議論!」とか、「実際に自分で作物を育て、虫やイノシシに食い荒らされてみろ!」などと怒られるかもしれない。誤解のないように言えば、私が言いたかったのは、虫や動物の食害を諦めろということではなく、作物を食う虫や動物を“悪”として見るなということである。“悪”と見なすことは、そういう生物を憎んで絶滅させることにつながり、自然のバランスを崩すことになる。生物種が減っていけば、自然界に何重にも張りめぐらされた食物連鎖の“絆”を薄めてしまうことになる。その逆に、食物連鎖の絆を厚くすることで、“悪者”を無害化する方法もあることを指摘したかった。その一例が、イエローストーン公園へのオオカミの導入だ。

 これは、ある地域の生物種の数を増やすことが、人間への害を減らすことにつながる有力な証拠だ。これほど大規模でなくても、同様の方法で自然界での人間への“害”を減らすことは、日本でも普通に行われている。例えば、アイガモを田んぼで飼って除草してもらう「アイガモ農法」がそれである。また海外では、田んぼ以外での“雑草”を扱うのに、その地域に別の生物を導入することで、人間への害を減らすことが行われているらしい。

 北カリフォルニアの生長の家信徒、周愛子さんから教えて頂いたことだが、パロアルト市の地域水質浄化施設(Regional Water Quality Control Plant)では、7.7ヘクタールの土地に生える雑草管理のために500匹のヤギを使っているという。ヤギは丈夫な消化器官と旺盛な食欲をもっているので、どんな除草剤や芝刈り機にも勝るらしい。今春は、この地域に特に雨が多かったため、雑草や潅木が生い茂ったそうだが、ヤギは期待通りの活躍をしているという。普通の大きさ(体重約45キロ)のヤギは、1日に体重の5%の草を食べる。だから、500頭を1日放し飼いにしておけば、1トン以上の雑草や潅木類がなくなってしまう。この費用は1万4000ドルで、1エーカー(約4,050㎡)当たりでは737ドルになるという。同じ仕事を人間がすれば、1エーカーは最高で千ドルを超えるという。だから、植物や人体に有害な薬品を使わずに、機械の音も出さずに除草できるヤギの利用は、十分効果的なのだという。

 以上のことは、周さんが送ってくれた地方紙『Palo Alto Daily News』の記事によるものだが、周さんは手紙の中で、「私達の所も、ヤギさんに1.5エーカーに生えた雑草を食べて頂こうかと考えました……。毎年人を雇ってトラクターで雑草と土をまぜてしまう方法を採っておりますが、ガソリンを沢山使いますし、音も大きいので御近所に迷惑をかけてしまうのです」と書いている。私はふと想像する--ヤギを1日放せばきっと糞をするだろうが、それは業者が持っていくのだろうか? 何百頭分ものヤギの糞は、有機肥料として使いでがあると思うのだ。
 
谷口 雅宣

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2006年5月30日

シカ肉を食べる

 人間は、自然界にある「食物連鎖」の“頂点”にあると言われることがある。が、よく考えてみると、“頂点近く”にあることは確かだろうが、少なくともまだ本当の意味で“頂点”には立っていないと思う。なぜなら、人間が食べたり利用しない生物種の数はまだまだ多いからだ。にもかかわらず、毎年多くの生物種が絶滅危惧種として指定される。その一方で、数が増えすぎる生物もある。この一見矛盾した現象の背後には、ある生物種の絶滅が起こると、絶滅した生物種のいた所で、食物連鎖が欠け落ちてしまうことがあるのだろう。

 例えば、植物Aを昆虫Bが食し、昆虫BをトカゲCが食べ、トカゲCを鳥Dが捕獲し、鳥Dを猛禽Eが捕らえるという連鎖の関係があったとする。この場合、人間が鳥Dを捕獲しすぎて絶滅寸前の状態に追いやってしまうと、この系統の食物連鎖は「トカゲC」のところで切れる。自然界では普通、鳥Dがいなくなっても別の鳥がその代わりをするのだが、鳥類全体の数が減ってきてしまうと、鳥Dの代わりがいなくなって、連鎖は断ち切られてしまう。その結果は、どうなるか? 恐らく「トカゲC」が大量発生することになるだろう。

 トカゲCが大量発生すると、このトカゲは昆虫Bを食い尽くしてしまい、さらに昆虫Bの近種である別の昆虫を捕食するなどして、自然界のバランスを変えていく。それが人間にとって好ましくない結果--例えば、益虫の絶滅による害虫の発生--につながることも十分あるだろう。こんな事態を解決するためには、絶滅危惧種である「鳥D」を人工的にでも殖やして自然に還すのが真っ当な方法だ。しかし、それができない場合は、トカゲCを人間の力で減らす以外に方法はないかもしれない。

 私がなぜ、こんな面倒な話をしているかというと、現在日本の野山で問題になっている「シカの増殖」への対策を考えるためだ。5月26日の『朝日新聞』夕刊には、世界自然遺産となった北海道・知床の自然を守るためにオオカミを移入することが提案されている、と報じられている。知床には殖えたエゾシカが最低1万頭はいて、森の木々を枯らし、植生を荒らしているから、この伝統的な“天敵”の導入が検討されているのだ。アメリカのイエローストーン国立公園では、エルク・オオシカを減らすなどの目的で行われたオオカミの導入が成功したことから、この提案が行われたそうだ。この例では、10年間でシカが1万7千頭から1万頭以下に減り、河畔林が回復し始め、野鳥やビーバーも殖えたという。

 ところで、同じ悩みをもつ東京都奥多摩町では、こんなドラスティックな対策は実施できないため、人間がオオカミの役割をすることを選んだようだ。すなわち、人間がシカを捕獲して観光資源にするのである。今日(5月30日)の『日本経済新聞』によると、同町ではシカ肉料理を特産品として売り込むために建設していた食肉加工施設が同町留浦に完成して、明日から稼動するという。東京都の特定鳥獣保護管理計画にもとづいて今年度は200頭程度のシカを捕獲、この施設で解体処理、真空パック包装し、1キロ2000~5000円で販売する予定とか。それを約30軒ある同町の民宿や旅館、飲食店に優先的に使ってもらうらしい。

 石原都知事もこの計画に肯定的で、26日の記者会見でこう言ったと、『朝日新聞』(30日)に書いてある--「公害利用じゃないけども、それをどういう風に利用するかということは土地の知恵でね、まあそういう試みがうまく宣伝されたら、多くの国民が、それじゃ三多摩へ行ってシカ料理を食べるかと。日本の料理の技術は上だからね。特に東京は優れていますからね、いいシェフを招いてレシピつくってもらったら名物になるんじゃないの」。

 これでは「害獣は徹底して利用すればいい」というように聞こえる。冒頭にも書いたように、自然界には“害虫”や“害鳥”や“害獣”など存在しないし、もちろん“公害”もない。すべては食物連鎖の中で栄養素を循環させているのだ。もし“害獣”がいるとしたら、その連鎖の流れを断ち切るもののことで、それをしているのは我々人間なのである。そのおかげで人間は、生物に対する「愛」や「哀れみの心」をもちながらも、それを自ら押し殺してオオカミやクマの役割を果たそうとしているのだ。そういう自覚をもつのと「害獣は肉にして食べればよろしい」という意識とでは、少し違いがあると思う。
 
谷口 雅宣

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2006年5月29日

じゃんけんいろいろ

 前回は、じゃんけんをするロボットを題材にやや深刻な話をしてしまったが、このじゃんけんは「石拳」とも書き、中国の「本拳」から来たらしい。「グー」が石、「チョキ」(または「ポキ」)がはさみ、「パー」が紙であることは誰でも知っているが、私は子供のころ、パーがグーに勝つ理由に何となく納得できなかった。「紙は石を包んでしまう」というのが理由だろうが、石は紙に包まれても痛くもかゆくもないし、硬い石は紙などすぐ破ってしまうと考えたからだ。しかし、それはゲームの中の決まりごとだから、抗議することはもちろんなかった。

 中国の本拳は、西方のペルシャに伝わり、やがてイタリアのモーラ(morra)になった、と平凡社の『世界大百科事典』には書いてある。これは親と子に分かれて対峙し、親指、人差し指、小指のいずれかを出して勝敗を決める。掛け声とともに指を出して、双方が同じであれば親が勝ち、違っていれば子が勝つという。

 日本とイタリアのじゃんけんを混ぜたようなのがインドネシアにはある、と今日(29日)の『日本経済新聞』に書いてあった。「多文化理解事典」というインターネットのサイトを運営している松岡浩彦氏の文章で、親指が象、人差し指が人間、小指がアリなのだそうだ。象は人間に勝ち、人間はアリに勝ち、アリは象に勝つのだという。小さいアリが巨大な象に勝つ理由は、「アリが象の耳に入り、あまりのかゆさに象が倒れる」らしい。
 
 松岡氏によると、フランスにもじゃんけんがあり、「井戸」「石」「はさみ」「葉っぱ」の4つで争うという。「石」「はさみ」「葉っぱ」は、日本のグー、チョキ、パーに相当するが、「井戸」のときには手を筒状に軽く握って出すという。勝ち負けを不等号で表すと、「井戸 > 石 > はさみ > 葉っぱ > 井戸」という関係になる。最後の関係は、「葉っぱは井戸をふさいでしまう」からだ。イタリア以外の欧州にもじゃんけんはあり、東南アジアのベトナム、フィリピン、ミャンマーのじゃんけんは、日本のと似ているらしい。
 
 こうやって並べてみると、「じゃんけん遊び」は結構、普遍的なもののように思える。とすると、その背後にある「考え方」も普遍的なのかもしれない。つまり、「世の中には絶対的に強いものは存在しない」という考え方が、じゃんけんの背後にはあると思うのである。もしそうであれば、王権神授説を唱えた絶対君主や、何よりも強力な(all-powerful)唯一絶対神を奉じてきた欧米諸国でのじゃんけん遊びには、何か不思議なものを感じる。

 話は少し飛躍するようだが、この“じゃんけん思想”は、輪廻転生の考え方とも関係があるかもしれない。なぜなら、仏教などで教える輪廻転生では、人間は業の力によって前生や次生では動物や植物である可能性をもつのだから、どんな生物も“絶対の力”をもってはいない--との結論が導き出されるからだ。輪廻転生の考えは、古代インドのウパニシャッドの中にすでに見られるが、実は、西洋文化の原点の一つである古代ギリシャ思想の中にもある。プラトンは『パイドン』の中で、人間の魂はこの世からあの世へ行って生活し、またこの世に帰ってくるとし、大食い・大酒のみ・不摂生者はロバに生まれ、専制・貪欲者はオオカミや猛禽類に生まれ、市民道徳を守る善良な人々はミツバチやアリや人間に生まれる、という考えを披露している。
 
 今度じゃんけんに負けたときには、「オオカミやロバに生まれなくてすんだ」と考えてはどうだろう?
 
谷口 雅宣
 

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2006年5月28日

じゃんけんロボ、ほしいですか?

 5月25日付の新聞各紙に“じゃんけんロボ”の記事が載った。人間の脳内の信号を読み取って、その人が出す「グー」「チョキ」「パー」と同じものを機械の手が出すのだという。自動車メーカーのホンダと国際電気通信基礎技術研究所(ATR、京都府)の共同研究によるもので、医療機器として使われている機能的磁気共鳴断層撮影装置(fMRI)によって脳内の血流量の変化を読み、それを解析して、85%の精度で人間と同じ動作をロボットの手にさせることができたという。

『朝日新聞』には、さらにこうある--「1年以内をめどに、手を動かさなくても念じただけでロボットハンドを操れる技術に発展させ、脳情報の読み取り装置を帽子サイズに小型化した上で、8~10年後の実用化を目指す」。これは素晴らしい技術だ、と私は驚いた反面、恐ろしい技術が開発された、とも思った。「素晴らしい」理由は、明らかだ。この技術により、重度の身体障害者用の様々な支援装置が実現する可能性が大きいからだ。また、28日付の『日本経済新聞』によると、ホンダは歩行型ロボットASIMOと組み合わせた介護ロボットを目指しており、ホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパンの川鍋智彦社長によると、「分身として以心伝心で動くロボットになる」という。

 では、「恐ろしい」理由は?--人間の脳の活動を解析して「グー」「チョキ」「パー」のどれが出るのかが直前に分かるならば、それを負かすことは容易だろう。現在の“じゃんけんロボ”は、脳の活動を読み取ってから手の動作の再現までに7秒ほどかかるそうだが、この時間が短縮されれば、人間に絶対負けない“じゃんけんロボ”ができる。この装置をさらに洗練させていけば、現在の“ウソ発見器”など比較にならないほど精巧な“読心ロボット”のようなものも造れるに違いない。今のウソ発見器は、被験者の皮膚の電気抵抗を測って、その人がある言葉を発するときに興奮しているかどうかを判断するという大雑把なものだが、被験者が出す「グー」「チョキ」「パー」の別まで機械で精確に分かるならば、その人の言うことの信憑度が「信頼できる」「やや疑わしい」「相当疑わしい」「まったくのウソ」などと、何段階もの精度で測定できるかもしれない。警察の取調室には欠かせない装置になるだろう。

 裁判所がもしこれを採用すれば、偽証罪の立証に人間は不要となる。そうなってくると、国会への証人喚問や参考人への質疑の際に、この装置を使うべしとの声が上がってこないだろうか? もしそれが実現すれば、離婚訴訟などの民事裁判、企業や学校での内部調査、就職時の面接、入学試験、お見合い……というように用途がエスカレートしていく危険はないだろうか? まぁ、「入試」や「お見合い」などに使われることはすぐにはないだろう。なぜなら、上記のfMRIという装置は、まだトンデモなく高価だからだ。しかし、その他の用途に使われないという保証は、今のところない。

 ところで、fMRIよりも安価な方法で同様のことを行う研究も進んでいるようだ。それは「脳波計」で脳波を測定する方法で、理化学研究所ではこれによって、考えるだけでコンピューター画面のカーソルを左右へ動かす段階まで、研究を進めているという。また、NTTドコモやキャノン、ダイムラー=クライスラー、アメリカのカリフォルニア工科大学などでも、脳内の変化を測定して機器を動かしたり、人間の好みに合わせた製品開発をしようとしているらしい。
 
 科学・技術の発達で生活が「便利になる」ことを疑う余地はない。しかし、便利さの裏側に何があるのかをしっかり考え、用途を規制するための倫理基準をきちんと定めておかなければ、大変な事態を招くことになりかねない。脳の活動を測定する技術は、人間の究極のプライバシーである脳の内部をのぞく技術でもあるのだ。

谷口 雅宣

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2006年5月27日

日本の温暖化ガス 3年ぶりに減少

 5月26日の『日本経済新聞』の夕刊を見ていて、“ビッグニュース”を危うく見落とすところだった。なぜなら、それは1段という小さな見出しで書かれ、記事はわずか9行だったからだ。内容は次のようなものだ--日本で排出される温室効果ガスの2004年度の総量がこのほど環境省から発表され、3年ぶりに前年比でマイナスの数値になった。しかし、京都議定書の基準年である1990年との比較では、まだ8%上回っている。

 地球温暖化防止の運動に取り組んでいる者にとっては、「前年比マイナス」の成果が生まれたことは喜ばしい“ビッグニュース”なのだが、新聞社の判断基準はこの程度で、『日経』以外の新聞ではどうも報道さえしなかったようだ。多分「8%上回っている」という点を厳しく評価したのだろう。

 環境省のウェッブサイトには25日発表の詳しいデータが掲載されているが、それによると、2004年の温室効果ガスの排出量はCO2換算で13億5500万トンで、前年より300万トン(0.2%)減った。議定書の基準年である1990年の排出量は12億5500万トンだから、それより約8%上回っている。日本が議定書で約束した削減量は基準年比で「-6%」だから、あと14%の排出削減が必要である。

Greenhouse2004  1990年以降の日本の温室効果ガスの排出量は、途中でバブル崩壊などの影響はあっても徐々に増加している。1993年に一度減少したものの、その後3年連続で増加、97年に再び減少したあと翌年も減少した。しかし、1999~2000年で再び上昇し、2001年にいったん下がったあとは2年連続で上昇していた。今回の13億5500万トンという数字は、1996年のレベル(13億5300万トン)にほぼ等しい。

 環境省は、温室効果ガスの排出源別に次の8部門に分けて排出量を出している:①産業、②運輸、③業務その他、④家庭⑤エネルギー転換、⑥工業プロセス、⑦廃棄物、⑧燃料からの漏出。このうち、基準年時から増加しているのは「廃棄物」(59.9%)、「業務その他」(37.9%)、「家庭」(31.5%)、「運輸」(20.3%)、「エネルギー転換」(17.4%)の4部門で、逆に基準年から減少しているものは「工業プロセス」(15.8%)「燃料からの漏出」(4.4%)「産業」(3.4%)の3部門だ。これを見ると、一般消費者の立場でも、家庭生活や交通・運輸、そして廃棄物処理に関して、もっともっと努力しなければならないことが分かると思う。

 特に「家庭」部門では、世帯数が基準年に比べて20.5%も増えているうえ、世帯あたりの排出量も同じく8.6%増加している。家庭からの排出の6割を占めているのが電力消費で、これだけで基準年より45.8%増加している点に留意しなければならないだろう。また「運輸」部門では、前年比で0.1%減少したことが特筆に値するが、「貨物」と「旅客」の基準年との比較では、前者が基準年より3.2%減少しているのに対し、後者は基準年比で42.5%も増えている。これは自家用車からの排出量の増加(基準年比52.6%増)が著しいためだ。

 我々の日常生活での選択が、地球温暖化防止にとっていかに大切かが分かると思う。

谷口 雅宣

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2006年5月26日

“ネコ中毒”にご注意

Catroses01_1  今朝(5月26日)の『朝日新聞』の「声」欄に、東京・品川区の33歳の主婦の「野良猫や鳩に餌やらないで」という趣旨の投書が出ていた。公園の目の前に住んでいる人だそうで、その周辺に棲みついたノラネコや鳩に餌をまく人がいるのに憤慨しているのだ--「公園内は猫や鳩の汚物でとても臭くなった。保育園児たちが遊ぶ公園なのにやりきれない。園児たちが砂遊びをすると、ふんをつかんでしまうこともしばしばだ」という。フーン……と私は考える。小さい子をもつ親の立場からすれば、当然の意見だろう。子供は小さいときは、何でも本能的に口の中に入れてしまうことがあるから、一歩(一手?)間違うと大変なことになる。で、この主婦は「自分で責任を持たないような行為はやめていただきたい。可愛いと思うなら自宅で飼えばいい。下の始末もしないのに、餌だけまくなんて無責任すぎる」と続ける。
 
 実に簡潔な正論だと思う。まぁ、投書欄だから文が短いのは当然だが、しかし、これだけでは正論すぎて、何かが足りないと感じる。ネコは動物だから法的な責任は追及できない。とすると勢い、ネコの行為にマズイ点があった場合、それをネコに親切にする人の責任だと考える。気持は分かるのだが、何か“濡れ衣”のような気もする。

 私がネコだったら、何と言って反論しよう……

ノラ--チョット待ってよ、人間のお母さん。アタシだって、好きこのんでノラやってるわけじゃないんよね。もともと飼いネコしてた母ネコが、アタシを産んだんよ。でも、口べらしに捨てられちゃってね、ヒイヒイいいながらここまで生きてきたんよ。で、最近、アタシのこと好いてくれるオバサンが出てきてね、エサくれるようになったんよ。そりゃーうれしかったよ。だって、飢え死にしなくてすむし、食いもんのことで強そうなノラとケンカせんでもいいからね。だからね、そのオバサンにニャオーーってお礼言ったらね、オバサンもうれしそうにチャーオーって言ってくれてね、ここに人間とネコとの“こむにゅけーしょん”とかいうのができちゃったわけ。これって何かイケナイことかにゃ~?
主婦--アンタはネコだから、黙ってなさい。アンタには人間の都合なんて分からないんだから、そこらじゅうにフンをしても平気なのよ。私はフケツで見てられないの!
ノラ--でも、フンをしないと生きていけんよ。人間だってフンするでしょーに。
主婦--人間は決まったところでキレイにフンするから、それでいいの。アンタはネコだから、そういうことが分からないの。まったくバカなんだよ、ネコってのは!
ノラ--アタシがネコだってこと怒ってるの? なぜかなぁ…… でも、アタシがいない方がいいんだったら、どうしてエサをくれるのかなぁ~。
主婦--ネコに言っても分からないと思うけど、人間にはネコ好きとネコ嫌いがいるのよ。それで、ネコ好きがアンタたちを甘やかせるから、ネコ嫌いが迷惑するの。だから、これは人間社会の問題なの。アンタたちはスッコンデいなさい。
ノラ--スッコンデいるって、どうすればいいの?
主婦--人間にカカワリを持たないでってことよ。
ノラ--アタシは別にカカワリなんて持ってないよ。親切なオバサンがカカワリを持って来てくれるんよ。
主婦--そんなことわかってるよ。だから、そのオバサンがいけないって言ってるでしょ。
ノラ--アタシが悪くないなら、なんでそんなコワイ顔してアタシを見るのぉ?
主婦--私はネコ嫌いなの。分からないの! アンタの存在自体が悪いのよ。
ノラ--ソンザイジタイ……? むずかしくてわかんないにゃ~
主婦--もう、向こうへ行ってよ。シーッ、シーッ!
ノラ--そりゃぁね、すぐ行きますよ。アタシだって、人間にはアタシを嫌うのと好きなのと2種類あるってことぐらい分かってんだから。で、そんなときにね、アタシを好きな人間にお礼をしてるだけなんよ。でもね、人間って気まぐれだから、エサもらいながらいきなり蹴られることもあるんよ。だからね、いつも上目づかいで、ケイカイシンをもってね……。そうやって生きてきたんよ。これからも同じだけど……。人間は信用できんからね。

Peepingcat_1  昨年10月21日の本欄で「ネコとの共存」について書いたが、ネコと人間との関係は「好き嫌い」だけでは説明しきれないものがあると思う。永い年月の間に、人とネコとは近い場所で共存するように互いの性質を進化させてきた。しかし、人とネコとは違う種なのだから、それなりの「距離」は必要と思う。最近は、そういう距離を忘れてしまって、文字通り「ネコかわいがり」をする傾向があるようだが、それは一種の“中毒”ではないだろうか。中毒と動物愛護の違いは、前者は、対象の動物がいないと苦しくなり、対象を独占したくなり、対象に依存してしまうが、後者にはそれがない点である。相手がいなくても苦しまず、相手を独占せず、相手に依存しない。にもかかわらず、相手の存在を喜び、相手をも喜ばす--こういう点を、むしろネコから学ぶべきだろう。

谷口 雅宣

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2006年5月25日

映画『ダ・ヴィンチ・コード』

 ロン・ハワード監督の映画『ダ・ヴィンチ・コード』を見た。ベストセラー小説の原作の方は“荒唐無稽の探偵小説”くらいに思って読んでいなかったが、映画の印象もそれと大差なかった。ただ、映画界だけでなく、宗教界やジャーナリズムを巻き込んだ一種の社会現象になっているので、休日に一見しておくのも悪くないと思った。すでにいろいろな所で評論されているので、あまり多く語ることはないのだろうが、宗教を生業としている者の立場から少し感想を書いてみよう。
 
 まず「宗教はアブナイ」というメッセージがこの映画にも盛り込まれていると感じ、悲しく思った。もっとハッキリ言えば、「宗教は神の名において殺人や異常行動を繰り返してきた」というメッセージである。そして、私が悲しく思った理由は、それが「事実でない」からではなく、一部の宗教においてはその側面があることを認めざるを得ないからだ。しかし、いかにフィクションといっても、現存する世界宗教のことを「世紀の陰謀をつづけてきた」と言わねばならない心理状態は、日本に住む人間としては理解に苦しむものだった。また、その宗教内に実在する組織の名を挙げている点も、私には「やりすぎ」だと感じられた。そうまでしなければならない特別の理由が原作者や監督の側にあるならば、それを知りたいとも思う。
 
 本欄でも何回か取り上げた“モハンマドの風刺漫画事件”のことを思い出すと、イスラム教の文脈でこのような映画を作ることは考えられないのに、キリスト教の場合は何をしてもいいのかと驚かされる。まぁ、西洋社会はそれだけ「表現の自由」を尊重するという点から学ぶべきこともあるのだと思う。また、中世ヨーロッパのキリスト教支配には、それだけ過酷な面があったのかもしれない。さらに推測すれば、西洋社会では、キリスト教に関する知識が広く行き渡っているとともに、伝統的な神学とは異なる聖書学や考古学による“事実検証”も進んでいるから、この程度の“歪曲”はあまり問題にされないのかもしれない。

 こんな推測を私にさせるのは、ローマ・カトリック教会の中心者である法王からは、まだ何のコメントも出ていないからだ。「創作物語に文句をいうのは、大人気ない」ということか。また、文句を言えば言うほど、映画や本が売れるという心配があるからかもしれない。しかし、キリスト教が少数派であるアジア諸国では、そんな余裕はないようである。5月18日の『ヘラルド・トリビューン』紙によると、9割は仏教徒だというタイでは、キリスト教の諸団体が映画の最後の15分間をカットするように国の検閲機関に申し出たが結局、その要望は断られ、映画の最初と最後に「この映画はフィクションです」という断り書きを入れることになった。またインドでは、カトリックの団体の代表者が映画の上映に反対してムンバイの中心部でハンガーストライキを始めたそうだ。国民の83%がキリスト教徒だというフィリピンでは、マニラの大司教が原作と映画を「キリストの聖性に対する攻撃」だと批判したが、上映禁止は要求しなかった。1700万人以上がクリスチャンである韓国でも、映画は「キリストの神聖性を穢し、事実を歪曲している」との批判があったが、上映禁止にはならなかったようだ。
 
 ところで、上記の記事では、タイのプロテスタント派のキリスト教者が、この映画の筋について「もし、イエス・キリストに妻と子がいたならば、キリスト教は崩壊してしまいます」と言っている。しかし、本当にそうだろうか、と私は思う。キリスト教の伝統的な教義では、確かにイエス独りが「神の子」であるとともに「神」そのものであるから、「神の子」が「普通の人間」との間に子をもうけることなどあり得ないかもしれない。しかし、イエスは人間の実相が皆「神の子」であると説いたと解釈すれば、イエスに妻がいようが子がいようが、また、肉体イエスの遺伝子が現代に引き継がれていようがいまいが、イエスの教えは映画の1本や2本--あるいは、千本や2千本--によって微塵も傷つけられることはないのである。

 イエスとマグダラのマリアの関係については、昔から各方面で注目されている。谷口雅春先生の『新版 ヨハネ伝講義』(1997年、日本教文社刊)の352~353ページには、興味ある記述があるので参照されたい。

谷口 雅宣

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2006年5月24日

中国で生分解性プラスチック

 本欄ではここ何日か、温暖化防止にあまり熱心でないと思っていたアメリカでも、バイオエタノールや風力発電の分野では日本を引き離しつつあるという話を書いたが、経済過熱中の中国でも、意識ある人々はこの問題と真面目に取り組んでいることを知った。しかも、その動きが日本の技術から生まれたとしたら、我々も少しは胸を張れるかもしれない。5月23日の『朝日新聞』夕刊は、中国では2003年から、二酸化炭素(CO2)から直接プラスチック等の高分子をつくる技術を実用化していることを伝えている。私はこの分野に関しては全く知識がないが、記事によると、CO2とエポキシドという炭素化合物を亜鉛化合物の触媒で反応させると、プラスチックのような高分子ができるのだという。しかも、このプラスチックは、土中などで微生物に分解される「生分解性」をもっているという。

 この反応は1968年に、東京理科大教授の井上祥平氏と東大新領域創成科学研究科客員教授の鯉沼秀臣氏が発見したが、触媒の効率がよくないため、そのままになっていたという。が、中国の研究者がこの技術に注目し、触媒の効率を10倍に向上させて、2003年から、内モンゴル自治区に年生産量1000トン規模の試験工場をつくって生産を始めたという。そこに隣接するセメント工場から出るCO2を原料にした「生分解性プラスチック」を生産しているのである。通常のプラスチックに比べ、まだ製造コストが高いのが玉に傷だが、将来の必要性を見込んでいるのか、中国では現在、海南島に年1万トン規模の工場も建設中らしい。
 
 生分解性プラスチックは、トウモロコシなどの植物から作られるのが普通だ。かつて本欄では(11月1日)、昨年の愛知万博で使われた“エコ食器”や“腐るゴミ袋”のことを書いたが、これらはそういう植物から作ったものだ。しかし、この方法だと、プラスチックの原料生産のために農地を確保しなければならず、22日の本欄で書いたように、食糧問題や森林破壊につながる可能性が大きい。しかし、CO2から直接プラスチックが製造できるとしたら、火力発電所や油田等から出るCO2を大気中に逃さずに固定する有力な手段になる。こういう点に注目した日本の研究者たちが昨年、この技術実用化のための研究調査会をつくり、中国の技術のさらに10倍の効率を目指しているという。
 
 私がスーパーやコンビニへ行くたびに思うことは、食料品を載せているトレイや、それを覆っているラップが、早く生分解性のものに変わらないかということである。それらの販売店では、トレイのリサイクルをしている店も多いが、リサイクルのためにトラックが走ったり、工場が動いたりするから、それ自体がCO2の発生源となっており、効果は半減している。それよりも、トレイやラップ、そして食品容器には生分解性プラスチックを使うことを義務づけるぐらいの明確な方針を、政府に示してほしいと思う。「コスト高になる」という反対論があるだろうが、CO2の発生が地球全体へのコストであるのに、それを商品の価格の中に入れていない現在の制度に欠陥があるのである。だから、早く環境税や炭素税を導入し、その代わりに法人税や所得税を下げてほしい。地球温暖化時代に相応しい税制改革も、喫緊の課題である。

谷口 雅宣

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2006年5月23日

“プランB”は始まっている?

 前回本欄で書ききれなかったことがある。それは、アメリカの“石油中毒”に対するレスター・ブラウン氏の処方箋だ。彼はアメリカに対しては、太陽光発電やバイオマスの利用、小規模水力発電などではなく、風力発電を推薦する。それも何百基単位ではなく、何千基の規模でだ。なぜなら、現在人類がもつ技術の中で、風力発電だけが次の6条件をすべて満たすからだという--①豊富に存在する、②安価である、③使っても減らない、④広範囲で利用できる、⑤クリーン(無公害)である、⑥気候に悪影響を与えない。さらに、①との関連で言えば、アメリカの中西部のノース・ダコタ、カンザス、テキサスの3州だけで、現在のアメリカでの総電力需要を満たすだけの風が吹いているというのだ。

 そして、風力発電機を千基規模でアメリカ中に立て、それらを全国の送電網に連結すれば、風力発電による夜間電力を使って新世代ハイブリッド車(本欄2月3日参照)の蓄電池に充電することで、近距離の自動車用途はすべて風力でまかなわれ、ガソリンの消費量を劇的に(70~80%も!)減らすことができるというのだ。この“プランB”への動きは、どうやらもう始まっているようだ。

 22日付の『日本経済新聞』(夕刊)は、アメリカで風力発電機の設置ラッシュが始まっていると伝えている。それによると、この分野での2006年の設備投資額は前年より3割多く、総額で40億ドルを超えるという。これによって追加される発電量は、約3000メガワットに達する見通しとか。100メガワットが大体2万5000世帯分の電力だから、今年1年で75万世帯分がクリーン電力に移行する計算だ。ブラウン氏は昨日の講演の中で、アメリカでの風力発電装置の主要メーカーはジェネラル・エレクトリック(GE)社だが、生産が注文に間に合わず、今注文すると納期は再来年(2008年)になると言っていた。上記の『日経』の記事では、その生産能力の不足分を狙ってか、海外企業の参入も活発化していると書いている。
 
 ところで、日本のある西太平洋ではすでに台風1号が暴れて消えたが、アメリカ上空を吹く風と言えばハリケーンだ。今年もハリケーン・シーズンが近づいたというので、アメリカ海洋大気局は22日に、今シーズン(6月1日~11月30日)のハリケーン予報を発表した。『日経』の今日の夕刊がそれを伝えているが、同局の発表によると、今年は北大西洋・カリブ海地域では「カテゴリー3」(最大瞬間風速50~58メートル)以上の大型ハリケーンが4~6個発生する見通しだ。昨年は、あの有名な「カトリーナ」や「リタ」を初めとした大型ハリケーンが7個も発生し、アメリカ南部に甚大な被害をもたらしたことは、日本にいる我々の記憶にもまだ新しい。同局の予想では、今年はそれほどではないが、「非常に活発」という。
 
 昨年10月24日の本欄で、アメリカで毎年用意しておく21個分のハリケーンの名前がなくなって、ついに「ハリケーンα」が登場したことを書いた。昨年はだから、北大西洋地域ではハリケーンの「最多」記録が樹立されたのだ。今年は「それほどではない」というのは、多分「数」のことだろう。今日放送されたABCニュースでは、ハリケーンの「強さ」について、これまでの最大級だった「カテゴリー5」(最大瞬間風速が69メートル以上)という分類の上に「カテゴリー6」を作ることも検討されている、とレポーターが伝えていた。そういう巨大化するハリケーンや台風のおかげで、風力発電が活躍するとすれば、人類は「痛しかゆし」である。我々は何度も“痛い目”に遭いながら、学習するほかはないのだろうか?
 
谷口 雅宣

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2006年5月22日

環境運動家の危機感

 東京・国立市の一橋大学で行われたレスター・ブラウン氏(Lester R. Brown)の講演会へ行った。ブラウン氏のことは、拙著『足元から平和を』(2005年、生長の家刊)や本欄などでたびたび触れてきたし、有名な人なので冗長な説明はしない。環境保護運動の“先駆け”的存在で、『地球白書』を出しているワールドウォッチ研究所(World Watch Institute)の創設者であり、現在はアースポリシー研究所(Earth Policy Institute)の所長をしている。今回の講演会は、一橋大学から名誉博士号を授与される際の記念講演で、授与式に続いて講演会があり、その後、同大の4人の教授を交えたパネル・ディスカッションがあった。また、会場ではブラウン氏の新刊『プランB 2.0』(ワールドウォッチジャパン刊)が売られ、サイン会も行われたから、この本の出版記念とプロモーションも兼ねていたのだろう。ちなみに、本の奥付にある発行日は今日である。

「プランB」というのは、選択肢がA,B,C……とある中で、Bを選択する計画のことである。ブラウン氏によると、人類はこれまで化石燃料を地中から掘って、それを燃やすことで文明を築き上げてきたが、今日の地球温暖化等の諸状況を見ると、この“プランA”では人類の文明の終りを招くことは明らかだから、もっと別の、枯渇しない自然エネルギーを基本とした別の文明へ移行する計画(プランB)を策定して、早急に実行に移さなければならない、というのである。その具体的方策を示しているのがこの本である。
 
 私は、この本の英語版をブラウン氏の研究所のウェッブサイトから入手してすでに読んでいたし、1月にサンパウロ市で行われた生長の家の国際教修会で行った講話の中でも、この本の中から引用していた。だから氏が今回、はるばる日本まで来て何を言うのかと期待していた。しかし、講演のほとんどは本に書いてあることだった。例えば、世界最大の石油消費国であるアメリカのガソリン消費を大幅に削減する方法などは、すでに1月31日の本欄で氏の本から紹介した通りだった。

 が、だからと言って、私が失望したわけではない。本から受ける印象とは違った生身の男、レスター・ブラウンを知ることができたし、彼が今、何を感じ何を考えているかの一端を、言葉の端々から感じることができた。彼は気さくで、飾らない、眉まで白い白髪の老人だが、身のこなしは軽く、トレードマークの赤い蝶ネクタイが良く似合う。そういう外観の奥に、強い信念と使命感を感じさせる人だった。
 
 私が、氏の話の中から感じたことの一つは、今日の石油の値段の“高止まり”の状況が世界にもたらす深刻さである。このことのは、すでに4月14日の本欄で「原油高騰で森林減少か?」という題で触れているが、今日の氏の指摘で改めて目を開かされた。簡単に言うと、石油の値段が1バレル=60ドルを超えてくると、農産物を使ってバイオエタノールやバイオディーゼルを生産することが、食糧生産よりも利益を生むようになるというのである。すると、農民たちは食糧生産をやめてエネルギー生産へ切り替えるようになり、食糧が不足して値段が高騰する。この事態がすでに始まっているというのだ。アメリカでは今、バイオエタノール製造工場が95あるが、1月のブッシュ大統領の一般教書演説の影響もあるのだろう、35がすでに建設中で、99が建設を計画中だという。これにより5500万トンの穀物がエタノール生産に回される計算になる。この「5500万トン」という量は、カナダ1国が年間に生産する穀物の量を上回るという。これだけの量が、来年、再来年の人類の食糧から消えるのだ。

 この問題は、貧しくて食糧を買えない国々だけでなく、食糧の7割を輸入に頼っている日本人の今後の問題でもある。前回の本欄で、私は沖縄県のサトウキビ生産について肯定的評価をしたが、事態は楽観できないかもしれない。サトウキビはもちろん、人類が砂糖の生産のために使ってきたものだ。これが大量に自動車用燃料の生産に回されれば、砂糖の値段は上がる。4月14日には、それが現実に今起こっていることを書いた。消費者にとって、穀物や砂糖の値上がりは好ましくないが、生産者にとっては、これは大きなビジネス・チャンスだ。需要が拡大しているのだから、どんどん農地を拡げていくことを政府は禁じられるだろうか? ここで森林伐採を加速させるか、それとも食糧の値上がりで貧困層の犠牲を増やすかという困難な選択が待っている。もう1つの困難な選択は、世界の富裕層のために燃料を生産するか、あるいは貧困層のために食糧を生産するか、である。

 このような選択が深刻な状況を生まない前に、我々は早く「プランB」への転換を実行しなければならない--こういう危機感を、私はブラウン氏の講演から読み取った。パネル・ディスカッションの最後の方で、環境教育を専門にしている教授からブラウン氏への質問があったが、それへの氏の答えは一見“冷たい”ようでありながら、本当は暖かい。氏は、自分は今、教育のことを重要と考えないと答えたのだ。その理由は、環境教育を受けた子供が成人して社会に影響力をもつようになるまで、事態は待ってくれないからだという。「今、最も重要なのは、現在の社会で影響力をもつ人々に働きかけて、今社会の動きを変えることだ」というのが、氏の結論だ。

谷口 雅宣

PS:レスター・ブラウン氏の日本での講演予定は、ワールドウォッチジャパンのサイトに掲示されている。

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2006年5月21日

バイオエタノールは沖縄から?

 地球温暖化対策の“困難”な面を見てきたので、今日は“進展”している面を眺めてみよう。1つは、本欄でも度々取り上げてきた「バイオエタノール」のことである。ブラジルはサトウキビから作るエタノールで世界をリードしているが、日本の沖縄県でも特産のサトウキビからエタノールを開発する「エタノール特区」を実現しようという動きが出ている。ただし、この動きは“上意下達”である点が気になる。政府が、在日米軍再編にともなう沖縄振興策の一つとして、「こういう特区を申請してはどうですか?」と地元に働きかけるというのだ。二階経産相が16日に首相に説明し、首相は具体的検討を指示したと19日の『朝日新聞』が伝えている。「よけいなお世話だ」と言われないことを私は祈る。

 というのは、今日(21日)の『日本経済新聞』に、日米両政府が米軍最新鋭の地対空ミサイル「パトリオット3」(PAC3)を嘉手納基地に配備する方針を固めたと報じていたからだ。ミサイル配備と引き換えに「エタノール特区」を提供しようという考えが、沖縄県民にどう映るかは微妙だ。PAC3の配備は日本初であり、その目的は北朝鮮や中国から飛来する(可能性のある)ミサイルの迎撃ということだから、現在難航中の6ヵ国協議と北朝鮮の動きをにらんだ生々しさを隠せない。私は、ミサイル配備などとからめずに、エタノール生産をどんどん進められるような制度改革を心から望む。
 
 エタノールをガソリンに混ぜて販売することは現在、揮発油等品質管理法で3%までしか認められていない。経産省は、「特区」を設けることで例外的により多くの混合比率を認め、さらに燃料への課税を減免することで、沖縄産のサトウキビの生産と利用を促進させようというのだ。そして、エタノール混合濃度10%ぐらいの燃料に対応できる自動車の開発を自動車メーカーにも働きかけるらしい。そうすれば沖縄内での“地産地消”が実現できるというわけだ。しかし、どうして「沖縄」だけの地産地消なのか、私には分からない。自動車メーカーの立場で考えても、沖縄でしか売れそうもない“特別仕様車”の開発に、積極的になれるかどうか疑わしい。それよりも、日本中で使えるエターノール対応車を早急にメーカーに開発してもらい、沖縄産のバイオエタノールを使う方が、沖縄にとってもより大きな活性化となり、温暖化防止にも役立つと思う。
 
 その点、環境省の方が理にかなった考え方をしている。このほど同省の「エコ燃料利用推進会議」がまとめた計画の中には、2030年までに自動車燃料の10%をエコ燃料にすることが含まれているという。(19日『日経』)「エコ燃料」とは、バイオエタノールとバイオディーゼルのことを指すようだ。バイオディーゼルとは、軽油の代わりに、ナタネ油やヒマワリなどから作る燃料だ。この計画でも、ガソリンとエタノールの比率は「10%」を考えていて、そういう燃料で走る「E10」対応の車の生産を増やす計画らしい。しかし、ブラジルでは現在も、もっと自由な組み合わせの混合燃料で走る自動車が無数に走っているのだから、技術立国の日本が20年後にもブラジルに追いつけないと考えるのは、どこかオカシイ。こういう面でも、何か“および腰”に見える姿勢は残念である。

 そんな悠長なことをしているうちに、日本は技術面でアメリカに引き離されてしまうかもしれない。19日の『日経』夕刊は、GM(ゼネラル・モーターズ)が、エタノール対応車種を現在の9種から来年は14種にまで拡大する方針を発表したと伝えている。日本には事実上、エタノール対応車はないに等しい。が、GMのエタノール対応車は、エタノールの混合比率が85%の「E85」でも走れば、普通のガソリンでも走るのだ。それをこれまで約200万台販売したという。来年のモデルでは、対応車の車種を拡大して約40万台を売る予定だ。それなのに、日本では「E10」しか考えず、目標達成は20年後でもいいという。これはきっと、石油業界などの顔色を見ているからだろう。そういうところが、日本の政策決定のマズイところだと思う。
 
谷口 雅宣

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2006年5月19日

EUの排出削減値に疑問?

 5月16日の本欄で、EUの温室効果ガス排出量が順調に減っているらしい、と報告した。そして「EUが独自に設定した排出量上限内に収まる排出削減を達成し、EU全体では規制枠より4400万トンも下回る排出量になった」と書いた。欧州委員会がそう発表したからだ。ところが17日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、同じ発表について疑義を唱える記事を掲載した。その記事は、「EUのメンバー諸国は、自国内の企業に課した昨年の温室効果ガス削減目標が温情的すぎた(too generous)ことを認めた」と書き、「京都議定書で定められた義務をヨーロッパが達成できるかどうか、疑問の声が上がっている」というシブイ評価を下した。つまり、京都議定書の目標を達成するためには、ヨーロッパの“自主目標”は低すぎるというのだ。

 削減目標値が低いと少しの削減努力で目標が達成され、目標値と実際の達成値との差を「排出権」(余剰排出枠)として他企業や国に売ることができる。排出権が市場で多く売れれば、目標を達成した企業は利益を得ることになる。そういうわけで、同紙の記事は「これまでのところ、排出権市場は温暖化防止よりも電力会社の利益増進に役立ってきたようだ」と言っている。この排出権の値段だが、EUのこの制度がスタートした2005年1月には1単位9ユーロ(11.5ドル)だったのが4月には30ユーロ(38.34ドル)の最高値に達した。これによってヨーロッパの電力会社の利益は15~25%も引き上げられたという。
 
 削減目標の定め方に問題があったとはいえ、温室効果ガスの排出を減らすことが企業の利益に結びつくというこの制度は、今のところうまく機能しているように見える。しかし、どこか“錬金術”のような印象がある。排出削減目標は、政府が各企業に京都での合意にもとづいて割り当てるのだろうが、削減値の基礎となるものは企業側がつかんでいるデータだ。そのデータを実際より多く政府に届け出れば、割り当てられる削減目標は“温情的”となる。そして、実際の削減値がこの“温情値”より多くなれば、その差が「排出権」として経済的価値を生むのだ。どこかできちんとした第三者機関による「認定」が行われなければ、企業は意図的に“温情的な”削減目標を入手して、利益を生むことができるような気がする。
 
 上記の記事では、WWF(世界自然保護基金)のヨーロッパ担当者が「諸政府はだまされて来たのです。大企業は政府に対して排出量について間違った推測を与えてきました」と言っている。が、十分な削減量でなかったとしても、実際に温室効果ガスの排出量は減少しているのだろうから、何もしないよりはましだろう。同じ記事の中で、ノルウェーのオスロに本部があるエネルギーと排出権取引のコンサルティング会社、ポイント・カーボン社(Point Carbon)の主任研究員は、「京都議定書の目標達成となると、ほとんどの国はまだかけ離れている」と言っているから、さらなる努力が求められていることは事実だ。
 
 日本では今年の4月から「自主参加型国内排出権取引制度」というものが始まっているようだ。住友信託銀行が発行した『調査月報』の昨年3月号によると、この制度では、京都議定書の中で削減すべきとされる温室効果ガスの中では二酸化炭素(CO2)だけが対象とされる。参加者はCO2削減の設備投資のための補助金を受けられるが、それに見合う排出枠も設定される。枠内に収めた企業は余った排出権を売却でき、排出枠を超えた企業は排出権を購入して穴埋めする。排出枠算定の対象となるCO2は工場、オフィスからの直接排出と電気・熱の使用に伴う間接排出の両方を含めるが、営業車や通勤用自動車などからの排出は含まれない。取引しても目標を達成できない場合は、罰則として補助金の一部を返還する--こういう仕組みらしい。

 あくまでも「自主参加型」であり、営業車を規制しないというのが、どうにも中途半端だ。ドイツでは1842ヵ所、フランスは1075ヵ所、イタリアは943ヵ所に削減義務を課しているのと比べると、議定書のまとめ役だった国が「やりたい所がやれ」という態度では何とも情けないと思うのである。

谷口 雅宣

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2006年5月18日

化石燃料の“呪縛”を断て

 化石燃料が自由に使えない原油高騰の時代に、日本政府は“自前”の化石燃料開発に力を注ぐ方針らしい。私にはその理由がさっぱり分からない。地球温暖化の被害がこれだけ明らかになっているというのに、中東の政治的安定がとても期待できないというのに、隣国の中国や韓国と資源・エネルギーを含む政治問題で対立しているというのに、経済産業省は日本企業による石油や天然ガスの自主開発を推進することを、「新・国家エネルギー戦略」に盛り込もうとしているらしい。5月17日の『日本経済新聞』と同18日の『産経新聞』が伝えている。

 両新聞の報道によると、政府は、2000年以来やめていた日本企業による油田やガス田の自主開発目標を復活させ、輸入化石燃料に対する自主開発の割合を現在の15%から引き上げ、2030年には40%に達する目標を設けるつもりらしい。2000年に自主開発目標が撤廃されたのは、原油価格が低迷していて、自主開発しなくても市場から容易に調達できたからだ。今回の目標復活は、昨今の原油価格の高騰で「世界的な獲得競争が激しくなる中で、政府として安定供給に一定の関与をする必要があると判断した」(『日経』)からという。このため、旧石油公団の事業を引き継いだ独立行政法人「石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)」による出資拡大や債務保証によって、資源探査や開発会社の支援を行う方針らしい。財源はもちろん税金だ。

 また『産経新聞』によると、自民党のエネルギー戦略合同部会は17日、資源・エネルギーの自主開発を“最重要課題”とした「総合エネルギー戦略案」という提言を発表した。この提言では、9項目の筆頭に資源の自主開発を掲げ、官民が連携し、また資源国との協力の強化によって“日の丸メジャー”とも言うべき中核的な石油・天然ガス開発会社を育成すべきとしている。この“日の丸メジャー”の構想は今春、経産省が関わって、政府出資の国際石油開発と民間の帝国石油が経営統合したこととも関係がありそうだ。サウジアラビアのカフジ油田の権益が2000年に失効した後、同国との権益交渉が不調に終り、新たな自主開発油田であるイラン最大級のアザデガン油田は今、同国の核開発問題をめぐって困難に直面している。そんな中で、税金を投入して“自前”の化石燃料開発に本腰を入れようというわけだ。石油業界・政府・自民党との深いつながりを思わせる動きである。

 私は『足元から平和を』(2005年、生長の家刊)や生長の家の講習会などで、これからの世界は地球温暖化の中で化石燃料の“奪い合い”の時代に突入するから、平和実現のためには化石燃料から自然エネルギーへの転換を急ぐべきだと主張してきた。しかし、石油業界・政府・自民党の三者は、上記のように“奪い合い”の渦中へ突き進む政策を進めているように思える。イラク戦争への支援で、自衛隊の海外派兵は既成事実化しており、折から憲法改正の動きも現実化している。私は憲法改正一般に反対しないが、地球温暖化を促進する化石燃料を確保するために憲法を改正して、自衛隊を国軍化することには反対である。かつての日米戦争が、インドシナの石油資源の封鎖によって始まったことを人々はもう忘れてしまったのだろうか。今度はすぐに日米戦にはならないだろうが、中国や韓国との対立はもう始まっている。

 日本は今こそ、海外に依存する化石燃料の“呪縛”から抜け出すチャンスなのだ。自然エネルギーならば日本に豊富にあるし、自前の優秀な利用技術もある。その育成と活用に全力を傾注することが世界平和への貢献であり、政治の責任であると思う。既得権への執着は戦争への道であることは、昭和も平成も変わらないのである。
 
谷口 雅宣

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2006年5月17日

不妊治療の進歩の陰に

 不妊治療に「胚盤胞移植」というのがあることを、初めて知った。「胚盤胞」とは、卵子が受精後5~6日たったとき、受精卵の内壁に将来、胎児に育つ細胞群が固まって形成された状態のものを言う。この細胞群を取り出して培養できる状態になったものが有名な「ES(胚性幹)細胞」である。胚盤胞移植というのは、体外受精後、胚盤胞の状態にまで育った受精卵を子宮に移植することである。これによって子宮への着床率が向上するというのが、メリットとして挙げられている。5月16日の『日本経済新聞』(夕刊)によると、通常の体外受精--2~3日の培養で子宮へ移植--では妊娠率が20%なのに対し、胚盤胞移植だと30%に向上するらしい。そして、平成15年に生まれた新生児の65人に1人は、その他の方法を含めた体外受精によって生まれているという。
 
 私は現代の日本で、これだけ多くの子が不妊治療を経て生まれているのを知らなかった。日本産科婦人科学会の報告書によると、平成15年に各種不妊治療で誕生した出生児の数は、以下の通りである:
 
 ①新鮮胚(卵)によるもの
  (顕微授精を含まない)        6,608
 ②顕微授精(新鮮卵)による     5,994
 ③凍結胚(受精卵)による
  (顕微授精を含む)            4,793
 ④未受精凍結卵による
  (顕微授精による)               5
                     (合計) 17,400

 ところで、胚盤胞移植の妊娠率をさらに向上させるためには、「凍結融解胚盤胞移植」という方法があるそうだ。これは、胚盤胞まで育った受精卵を一度凍結保存しておき、月経の周期に合わせて(またはホルモン投与によって)最も妊娠しやすい時期に解凍し、移植する方法である。生きた受精卵を凍結するからリスクが増えると思いきや、2~3日の受精卵よりも胚盤胞の段階での凍結の方が、解凍時に胚の質の確認がしやすいので着床率が向上するらしい。最近では、体外受精で1人目の子の出産に成功した人が、そのときの“余剰胚”を凍結保存しておき、数年後にそれを移植して2人目を得るケースも珍しくないという。特に、1人目と2人目の子の間が離れている場合--例えば、1人目を早く生んだ後、仕事のため妊娠を避けていた場合--35歳以上の女性の卵は急速に老化するため、若い頃の凍結受精卵を使う方が有効だという。
 
 こういう技術の進展によって、一昔前には妊娠を諦めねばならなかった女性たちが、自らの子をもてることは喜ばしいことかもしれない。が、その一方で、昔は“ブラック・ボックス”で人の介入ができなかった受精・妊娠・出産の過程がより明らかとなり、それへの人為的介入の機会が増えてきたことで、「どこまで介入し、どこから介入できないか」という新たな倫理的問題が生まれている。例えば、上記の凍結受精卵の問題では、1組のカップルが若い頃に受精卵を凍結した後、数年後に別れたり、離婚したり、あるいは一方が病気や事故で死亡した場合、受精卵の扱いはどうなるのか。一方に無断で妊娠できるのか。廃棄には双方の承認が必要か。受精卵に遺言で財産分与ができるのか……等々、倫理的、法的問題の解決が求められるだろう。
 
 実際、同学会の「平成16年度事業報告」にも書かれているが、香川県高松市の産婦人科医は、死亡した夫の凍結保存精子を用いた体外受精・胚移植を実施していたことで、同学会の会告に違反したとして厳重注意されている。この場合、妻と相手の男性は結婚していなかったことが問題になったが、さらに調査の結果、体外受精と胚移植の時点で、夫の死亡を知らなかったという事実が判明したという。社会の複雑化とともに、生殖医療についての倫理問題もますます複雑化する。不妊治療の進歩の陰には「人間の命を手段として操作する」という倫理問題がある。また、「受精卵や胎児に人権はあるか?」という宗教とも深く関連した問題が横たわっているのである。
 
谷口 雅宣

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2006年5月16日

順調なEUのCO2削減

 21ヵ国を擁するEU(欧州連合)の二酸化炭素排出量が順調に減っているらしい。欧州委員会が15日に発表した集計では、21ヵ国中15ヵ国までが、EUが独自に設定した排出量上限内に収まる排出削減を達成し、EU全体では規制枠より4400万トンも下回る排出量になったという。排出量上限を大幅に下回る好成績を上げたのはドイツ、フランス、チェコ、フィンランドなどで、逆に排出量が上限を大幅に超えたのはイギリス、スペイン、イタリアなどだった。EUが定めた排出権取引制度(EU ETS)にもとづく集計で、域内の大規模工場から出るCO2だけを対象としており、自動車や家庭からの温室効果ガスの排出量は含まれていない。しかし、大規模工場からの排出量は、京都議定書の規制対象にする温室効果ガス全体のほぼ半分に相当すると言われており、これによってEUが全体として同議定書の目標達成を目指すことの現実味が増してきた。16日付の『日本経済新聞』が伝えている。

 EUは2005年から域内独自の排出権取引制度(EU Greenhouse Gas Emission Trading Scheme)を実施している。それは、域内21ヵ国の1万1千ヵ所の発電所や大規模工場ごとに排出量の上限を設定し、この上限に達しない排出量削減努力を行った企業が、その余分の削減分を「排出権」として売却できる仕組みだ。削減目標に達しなかった企業は、この排出権を購入することで削減量を増やすことができる。今回の数字は、それらの排出権を実際の排出量から差し引いた後の実績値である。
 
 ドイツは、いろいろな面で環境対策に先進的アイディアと成果をあげているが、『日経』の記事によると、今回の成功は、電力会社や大手企業の工場計1842ヵ所に排出上限が設定され、それらが目標達成に向かって省エネを進めたことが主因らしい。また、電力会社が風力発電など再生可能エネルギーへの転換を進めていることが好成績に貢献しているという。EUのウェッブサイトで得た情報によると、ドイツの「1842ヵ所」に対して、フランスは1075ヵ所、イタリアは943ヵ所、スペインは800ヵ所、イギリスは768ヵ所、デンマークは380ヵ所が、今回の排出削減の対象となっている。また、今回の排出上限の設定期間は「2005~2007年」までで、その後、京都議定書の期限(2012年)までの第2次の排出削減努力がEU全体で行われる。

 5月13日の本欄で、日本企業の排出権取引の努力は現在、中国を中心にして行われていることを伝え、中国でそれを行うことのリスクも書いた。だから、日本国内の工場等でも排出権取引による温室効果ガス削減努力がどんどん行われることが望ましいのである。「もう国内での努力は限界だ」という意見があるかもしれないが、私はそう思わない。かつての不況時には、日本国中で夜間の照明を控えたり、モニュメントや高いビルの夜間の“ライトアップ”を取りやめた。しかし、今はどうだろか。それらはすべて復活したどころか、従来の何倍も明るいと思われる照明が夜の日本を照らしている。企業の“好意”や“自主的努力”だけでは、実質的な排出削減などできないと思う。排出削減が金銭的にきちんと評価される制度が世界で認められているのだから、なぜ国内でもっと実施できないのかと思う。

 文化も言語も発展程度も異なる21ヵ国を擁するEUで可能なことが、日本でできないはずはない。日本政府は「小泉後」と言わずに、今すぐにでもリーダーシップをとってこの分野で世界に貢献するような成果を上げてもらいたい。日本で合意された「京都議定書」を泣かせてはならないと思う。
 
谷口 雅宣

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2006年5月14日

科学誌の広告

 少し前の話だが、本欄でも時々紹介するイギリスの科学誌『New Scientist』上で、同誌に掲載する広告をめぐって読者との間に論争があった。同誌は、論説や記事などで地球環境保護の重要性を繰り返し主張しているが、その雑誌にガソリンをガブ飲みする自動車の広告を載せるのはオカシイ、という意見が発端だった。
 
 まず、4ページをいっぱいに使ったフルカラーの自動車広告が3月25日号に掲載されたことについて、ロンドン在住のロス・ラッセル氏(Ross Russell)とウィーラル在住のマイク・ウーテン氏(Mike Wootten)が4月8日号で噛みついた。この広告には、排気量3.7リットルのベンツ車、3リットルのスバル車、4.2リットルのレンジ・ローバー車と“環境汚染車”が3台載ったのに比べ、“グリーン”な車はトヨタのプリウス1台だった、とラッセル氏が指摘。「広告主は雑誌の読者の関心度に合わせて広告をするはずだから、この比率は、読者である科学者が3:1の割合で“環境汚染車”を選ぶと考えているのか? それともこの広告は、地球温暖化の危機を叫ぶ雑誌の信頼性を突き崩すための、自動車メーカーの戦術なのか?」と書いた。また、ウーテン氏は「汚染促進車や、さらに汚染を促進する航空機による旅行に対するあなた方の嗜好(広告のこと)をもってしては、世界の政策決定者にお説教などできませんね」と皮肉たっぷりだった。
 
 これに対する雑誌側の説明は、同誌の編集部と広告部の間には「万里の長城」がある--つまり、相互不干渉の原則があるとするものだ。そして、この関係のおかげで、同誌のジャーナリストは理性的な科学研究から記事を書き、論説を書くことができる。だから、読者は二酸化炭素の排出量を増やす製品や技術を買うときには、そういう記事を読んで正しい選択をしてほしい、というものだった。
 
 この答えにカチンと来た読者が何人もいたようだ。同誌は、3週間後の4月29日号で、「第2回戦」として再び読者の反応を取り上げた。そこでは、ロンドンのジャスティン・クラウダー氏(Justin Clouder)が、同誌は「欺瞞的思考」(double-thinking)だと非難し、科学誌の編集部が営業のことを考えないというのはバカげているとし、「編集部は会社の予算審議に参加しないのか?」「社員の雇用や給与についてひと言も言えないのか?」と詰め寄る。そして、「編集部が広告の内容について倫理的責任を放棄するのは非難に値する」と手厳しい。デボン州のダグ・ドゥワイヤー氏(Doug Dwyer)は、「広告主の戦術は、環境に有害な車でも繰り返して広告することにより、社会的に有力な同誌の読者に親しみを感じさせ、毛嫌いを減らすためのものだろう」と考え、もしかしたら、「自動車による大気汚染と地球温暖化の関係が強力に立証されればされるほど、そういう車への広告出稿が増えるのかもしれない」と本気か皮肉かわからないコメントをしている。

 雑誌の編集方針と掲載広告との関係は、難しい問題を含んでいる。通常は、ここで指摘されているように、両者が矛盾しないような広告が望ましいことは言うまでもない。が、広告が集まらない場合は、ある程度の妥協をするのか、それとも妥協せずに取材費や人件費を削減すべきかが問題になる。生長の家の編集物や出版物にも、そういう問題があったし、今もあるかもしれない。例えば、月刊誌に薬の広告を載せるか載せないか? 健康器具はどうか? 健康食品はどうか?……信仰と生活の一致となると、もっと難しいのだが。

谷口 雅宣

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2006年5月13日

日本の環境努力

 5月8日の本欄で、温室効果ガスの排出権取引に、日本の大手商社などが中国を相手に「すでに動いている」などと書いたが、実情はそんな初歩的な段階ではなく、日本は昨年、この分野で「世界一の買い手」になったらしい。13日の『日本経済新聞』がそう報じている。ドイツで開かれている排出権見本市「カーボン・エキスポ」で、世界銀行が発表した数字によるもので、日本は2005年1月から今年の3月までに成立した「クリーン開発メカニズム」(CDM)によるプロジェクトで生まれた排出枠全体の38%を購入したという。

 世界銀行による推計では、この期間にCDMで生み出された排出枠の総量は4億5350万トンで、購入国は日本のほかイギリスが15%、イタリア11%、オランダが8%だった。売り手は、中国が最大で全体の66%で、ブラジルが10%だった。8日の本欄で挙げた例のように、日本企業が中国の開発に関わりながら排出権を買うという動きが、最近の大きな流れになっているようだ。ということは、そこでも触れた本制度の“欠陥”がこれから深刻な問題を起こす可能性があることを示している。つまり、日本の企業に排出権を売った中国の企業が、その“利益”を使ってさらに温室効果ガスを削減するのではなく、増加させる方向に動けば、日本企業のこの種の努力は、燃え続ける中国経済に却って“油”を注ぐ結果になるということだ。

 京都議定書では、中国は温室効果ガスの排出削減をする義務がない。早急に「京都後」の国際的枠組みを設け、その中で、経済成長盛んな中国、インドなどの排出枠の上限を定める必要があると思う。

 森林の大規模な伐採などで砂漠化が進む中国の現状を象徴するような記事が、今日(13日)の『産経新聞』に載っている。甘粛省敦煌にある観光名所の三日月型の湖、月牙泉(げつかせん)が、人口増加や砂による侵食で消滅の危機に瀕しているというのだ。水深が1メートルまでになり、面積は半分以下になった。記事を引用すると、「もともと、水枯れが懸念されていたが、ここ5年ほど砂漠化が加速し、とくに今年は降水量が少ないため、中国メディアでも盛んに取り上げられるようになった。報道によれば、枯渇を防ごうと河水を補ったために湖はすっかり濁り、七星草も絶滅し、周辺の紅柳の林も枯れているという」。「七星草」とは、長寿をもたらすという希少種の植物で、湖の周囲に豊富に生えていたものだ。

「自分の尾を食べるヘビ」のイメージが頭に浮かぶ。人間はこのヘビのように、自分の欲を満たすことを最大の目標として動いているから、自分の消費しているものが自分の“体”であることに気がつかない。ここで“体”という意味は、「自分の生存や喜びを支えてくれている大切なもの」という意味である。それを自ら食いつぶしながら、生存や喜びを得ようとしている。この悪循環を断ち切るためには、「人間は肉体ではない」「人間の本当の喜びは、肉体的快楽や物質的繁栄にはない」という宗教的な自覚が広まることが何よりも大切だと思う。

 最後に、よいニュースを少し。これも今日の『日経』で読んだ記事だが、日本は生物化学の面でも、環境との調和に役立つ技術を開発しつつあるようだ。帝国石油は中外テクノスと共同で、有機物から水素を作る微生物と、水素と二酸化炭素からメタンガスを作る微生物を採取することに成功し、実証実験を行っているという。水素はもちろん、無公害の燃料電池の燃料である。メタンガスは強力な温室効果ガスだが、天然ガスの成分でもある。また、東大生産技術研究所などのグループは、イネの籾殻からバイオエタノールを造る技術を開発したらしい。こちらはサトウキビやトウモロコシからの製造をブラジルやアメリカがすでにやっているが、「籾殻」という“廃棄物”を代替燃料にするという発想は、米を愛するアジア諸国すべてから歓迎されるだろう。これはまさに「廃棄物など存在しない」という実例の1つと言える。

谷口 雅宣
 

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2006年5月12日

ロンドンのテロ (5)

 昨年7月にロンドン中心部で起こった同時爆破テロ事件について、イギリスの国会と内務省が11日、それぞれ調査報告書を発表した。今日(5月12日)付の『朝日新聞』によると、報告書は、この事件は「英国の地方都市で育った移民2世が計画、実行したことが裏づけられた」とし、「実行犯4人は国際テロ組織アルカイダに触発されたが、直接の関係は証明できなかった」と書いている。同じく12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙によれば、7月7日の実行犯4人と、その2週間後に交通機関を狙った爆破未遂事件を起こした人物との関係については、報告書は「何も見出せなかった」と結論している。結局、組織的な犯行ではなく、少数の個人が、他とは無関係で実行した事件という印象の報道である。
 
 かつて本欄では、7月12日14日20日8月3日の4回に分けて「ロンドンのテロ」と題してこのことを書いた。そこでのポイントは、この事件はアメリカの9・11とは異なり、①被害国社会の内部から生じたテロであること、②アルカイーダとの直接の関係はないこと、③単なる武力や警察力だけでは、この種のテロは消滅しないこと、④自爆テロリストの動機には「イスラム教徒としてのアイデンティティーの危機」が考えられる、などだった。今回の報告書の内容は、この①と②を確認するもので、新しさはあまりないと私は思った。が、新聞報道から私が1つ新しく知ったのは、イギリスの情報機関は事件の主犯格の男、シディック・カーン(Siddique Khan)とシャザード・タンウィーア(Shazad Tanweer)のことを事前に把握していたものの、その重要性についての認識がなく、当時、もっと重要だと思われたイギリス攻撃計画の妨害工作に力を振り向けるため、彼らの動静や計画をより深く追究しなかった、という話だ。この「イギリス攻撃計画」については、上記の2紙は何も書いていない。

 12日に放映されたアメリカのABCニュースは、9・11との類似性を正面に出した報道となっていた。つまり、アメリカの情報機関と同様に、イギリスの情報機関もテロ実行犯をマークしていながら、その脅威を過小評価していたために、テロの防止に失敗したというのである。具体的には、7月7日のテロの4人の実行犯のうち2人までを調査しており、主犯格のカーンについては電話番号も写真も入手していたどころか、イスラム過激派との間に交わされた電話の内容も録音していた。調査は2回に及んだが、その2回とも、当時起こった別の重要事項(more pressing priorities at the time)のために調査は途中で打ち切られたという。

 ところが、同じ12日に放映されたBBCニュースを見て、私は驚いた。事件の現場であるイギリスでは、テロ実行犯は「恐らくアルカイーダとのつながりがあった」(probably had contacts with Al Qaeda.)とハッキリ言っていたからだ。現地午後10時放映のニュースによると、「自爆犯とアルカイーダの人物とのつながりは何年も前からあったらしいことを我々は今、伝えられている」(We are now told that it is likely that the bombers had contacts with Al Qaeda figures going back years.)というのである。イギリスの情報機関では、自爆犯に対するアルカイーダの支援と指示がどの程度であったかをまだ調査中だが、カーンは90年代にアフガニスタンでテロの訓練を受けた可能性があり、パキスタンにも何度も行っているというのである。
 
 こうなってくると、『朝日』の記事は見出しが「アルカイダ関与なし」というのだから、限りなく「誤報」に近いと言える。BBCの報道から考えると、「直接の関与は証明できなかった」というのは「現在まだ調査中であるが、疑いはかなり濃い」という意味だろうから、それを「関与なし」と結論するのは間違いだろう。今回の報告書の1つはBBCのサイトでも入手できるから、しっかり読んでから報道してほしかった。なお、『産経』ではこの件の報道はまだ出ていない。
 
谷口 雅宣

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2006年5月11日

中国のネット検閲

 本欄では、5月7日に中国での信教の(不)自由に触れて書いたが、その他にもこの国の「自由度」について、過去何回か悲観的な論評を述べてきた。それは、ブログ等のインターネットを使った「表現の自由」に関するもので、中国政府に批判的な意見等の検閲に、「自由の国」を標榜するアメリカのネット関連企業(グーグル、ヤフー、MSN、シスコ・システムズ)が協力していることを問題にしたものだった(1月8日、2月17日)。その際、ネット企業側の言い分を次のように紹介した:
 
 中国政府の検閲への協力を批判された4社の言い分は、「それでも、我々が中国国民にサービスを提供しないよりはいい」というものである。MSN社によると、同社が中国でサービスを開始した昨年5月から今日までに、約350万人の中国人がウェッブサイトやブログを開設したという。だから、不幸にも犠牲者が出たとは言え、自分たちのサービス提供によって中国人全体のコミュニケーションの機会は増え、表現の自由は拡大した、というのである。彼らはさらに、インターネットの規制は国家によっても完全にはできないから、必ず抜け穴ができて、それが中国における言論の自由を拡大させるのだという。

 これを書いた当時、私は問題の企業側の言い分は「言い逃れ」であり、彼らは金儲けのために中国人の自由を犠牲にしていると感じていた。が、5月9日の『ヘラルド・トリビューン』紙に載った記事を読んで、「もしかしたら、彼らは半分ぐらい正しいかも……」と思うようになった。その記事は、『ニューヨーク・タイムズ』のハワード・フレンチ記者(Howard W. French)が上海の大学キャンパスに潜入して、大学当局が学生のネット上の活動を検閲するために設けた“監視員”の活動を細かく伝えているものだ。
 
「監視員」などと表現すると、詰襟の制服を着て帽子を被り、厳めしい表情をした頑丈な体格の男性を想像するかもしれないが、記事の写真を見ると、今流行の洗いざらしのジーン・スーツを着て、ポニーテールの髪を栗色に染めた、丸顔の可愛らしい女学生である。彼女は大学のコンピューター室で、他の普通の学生と一緒にパソコンを操作しながらインターネット上のフォーラムを運営する。彼女のしていることが大学の「検閲」であることを、周りの誰も知らない。彼女は、教授や先輩監視員の助言を受けて自分の担当するフォーラムでの話題を選択する。政治に関することは、学内の政治のことであっても話題にしてはいけない。フォーラムでの会話がそういう“否定的な話題”に向わないように議論を進め、“問題発言”が行われた場合、大学のウェッブ担当者に通報するのが、彼女の仕事だという。

 この記事によると、中国には現在、インターネット担当の国家公務員が5万人もいて、“違法”のウェッブサイトを閉鎖したり、“有害”な評論を削除したり、党批判や“反社会的”な発言をした人間を逮捕するのを仕事としているらしい。しかし、この女学生は、そういう思想警察とは別に、ネット検閲のために政府が動員した“学生ボランティア”の監視員の一人で、上海のこの大学1校に、彼女と同じ立場の学生が500人もいるのだという。

 しかし、インターネットは世界中とつながっている。言語力がある学生ならば、英語やロシア語、日本語等の外国のサイトから情報を入手することも容易にできるだろう。そんな状況下で、好奇心旺盛な若者が海外の考え方を知ることを防ぐ手段は本当にあるだろうか? それを防止するために作られた“学生ボランティア”自身が、海外の考え方を完全に排除して、政府や党の考え方のみを自分のものとして維持し続けることが、本当にできるだろうか? 中国のネット人口が今後も増え続けることは間違いない。そして何億人もが、同じ考え方をもち続けるとは考えられない。とすると、海外のネット関連企業の中国参入は、短期的にはともかく、中・長期的には中国社会の自由拡大に貢献すると考えることは、それほど不合理ではないかもしれない。
 
谷口 雅宣

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2006年5月 9日

森を正しく評価する

 前回書いた排出権取引と似ていて、それを補完するか、あるいはそれに代わると思われる考え方に「炭素クレジット」というのがある。これは『小閑雑感 Part 3』(2003年)や『足元から平和を』(2005年)で触れた「自然資本」の考え方にも則っており、従来の経済学では正しく評価されてこなかった「自然の価値」を認めるという意味で、一歩進んだ考え方だと私は思う。4月15日号の『New Scientist』に、ウイリアム・ローランス(William Laurance)という科学者が分かりやすい解説を書いている。
 
 ごく簡単に言えば、ブラジルやインドネシアのような熱帯雨林を豊富にもつ国に対して、その森林が炭素を固定してくれていることを評価し、炭素1トンに応じたクレジットを与えるという考え方だ。そして、このクレジットを売買できるようにすれば、日本のようにCO2の排出削減を義務づけられている国は、例えばインドネシアの森林の炭素クレジットを買うことで、何もしなければ伐採されたはずの森林を守り、そこから出るはずだった二酸化炭素を大気中に排出させなかったとして、そのクレジットを排出削減量に加算することができる。前回の「クリーン開発メカニズム」では、開発に伴うCO2の排出削減を評価するが、開発せずに放っておく森林の価値は評価されない。炭素クレジットは、その分を補うことができる仕組みだが、反対者も多く京都議定書には含まれなかった。

 この考え方は、実はもう10年も前から国連等で提案されてきたが、クレジットの額などで政府間の合意ができず、“塩漬け”にされてきたという。ところが最近になって、再び話題に上りだした。例えば、昨年12月にカナダのモントリオールで行われた気候変動に関する国際交渉では、パプア・ニューギニアとコスタリカに率いられた雨林国同盟(Coalition for Rainforest Nations)がこれを取り上げ、国際制度として検討するよう要求した。それを受けて今年3月には、ニューヨークで検討会が開かれて、制度化にともなう様々な問題が浮き彫りにされている。
 
 例えば、このクレジットを算定するためには、まず途上国自身が年間の森林伐採の“基準値”(通常の森林伐採の度合い)を定めなければならない。この最も正確な方法は、人口衛星からの映像分析と思われるが、これには専門的ノウハウとコストがかかる。伐採の基準値が決まれば、それを下回るペースで伐採すればクレジットがつく。しかし、この辺から問題が生じてくる。インドネシアやブラジルの広大な熱帯雨林での伐採が、“基準値”を下回っているかいないかを、誰がどうやって確認するのか? また、その逆に“基準値”を上回るような伐採が行われていることが分かった場合、クレジットの返還が義務付けられるのか? 違法な伐採をどう取り締まるのか? また、森林伐採を避けることで、貧しい暮らしに甘んじている農民や地主の手に、先進国が支払うクレジットが本当に渡るのか? もし渡らない場合、そういう人々が困窮してまで国際義務を守る必要が本当にあるのか?……これらの疑問は結局、途上国自身のガバナンスの問題に関わってくるのである。

 雨林国同盟のウェッブサイトを見ると、加盟国の立場がよく分かる。彼らは、熱帯雨林の保護の重要性をよく分かっているが、その森林資源を燃料や材木に利用し、あるいは農地開拓のために伐採せずに放置しておくだけでは、生活することができないのだ。だから、先進国が森林保護に協力しなければ雨林の維持管理はできない。その「協力」のための指標として「炭素クレジット」を国際的に認めてほしいというのだ。サイトの記述によると、1990年代に行った調査では、地上から排出される温室効果ガス全体の20~25%が、森林伐採によって起こるというのだ。何とかならないものかと思う。

谷口 雅宣

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2006年5月 8日

排出権取引はうまく機能する?

 NHKスペシャルで取り上げられていた「沈みつつある国・ツバル」のことに本欄(5月3日)で触れたら、同じ番組を見た山中優氏が、自身のブログに書いた「排出権取引は地球環境を救えるか?」という一文を紹介してくださった。なかなかの力作である。ところで、この番組には「排出権取引」を活用して巨額の金を動かしているブローカーが登場する。この制度は、京都議定書で初めて認められたものだが、そのブローカーは、こともあろうに同議定書を否定したアメリカのニューヨークを本拠地にして大いに稼いでいる。イラクでテロが起こると原油の値段が上がり、排出権の値段も上がるのである。それを、京都議定書に参加しているヨーロッパの企業などに売ることで、アメリカの企業が儲かる。そんな中で、ツバルの洪水は深刻さを増していく--得をするのは先進国だけ、という構図が見えてくる。
 
 この番組では、日本の三井物産が中国・重慶の炭鉱から排出権を買い取る商談の様子が描かれていた。「排出権」とは温室効果ガスの排出権のことだ。京都議定書で認められた制度のもとでは、排出削減を義務づけられていない国(中国を含む途上国等)の中で、ある企業や団体が排出削減を行えば、その削減分の温室効果ガスを「排出権」として削減義務のある国に売ることができる。この権利を買った国は、海外で排出削減を行ったことになるから、その削減分を自国での排出削減の値に組み入れることができる。これを「クリーン開発メカニズム」と呼ぶらしい。
 
 だから三井物産は、重慶の炭鉱から排出されるメタンガス(二酸化炭素の数倍の温室効果がある)の排出を防ぐことで、排出が防止された分を二酸化炭素に換算して排出権として買い取る。そして、この権利を日本などの排出削減義務をもつ国に売ることで、利益が得られる。また、ロシアやドイツなど排出削減義務をクリアーした国は、余った排出枠を市場で売ってお金に換えることができる。また、国内の努力で排出削減義務を果たせそうもない(日本のような)国は、排出権市場でそれを買うことで、削減目標を達成したことになる。こういう取引を「排出権取引」と呼ぶのである。
 
 三井物産と似たようなケースは、ほかでもすでに動いている。4月17日の『産経新聞』によると、三菱商事と新日本製鉄は、中国・山東省のフロン製造工場から出る副産物のガスを分解処理することで、2012年までにCO2換算で5500万トンの排出権を得る計画だ。また、住友商事と中国電力も黒龍江省の炭鉱で発生するメタンガスの回収を行って排出権を得る計画という。また、3月8日付の『朝日新聞』によると、ジェトロ(日本貿易振興機構)の会員企業を対象にした調査(昨年11~12月)では、回答した960社のうち14%が、これらの“京都メカニズム”に取り組んでいるか、その予定があると答えている。
 
 ところで山中氏も指摘していることだが、この制度にはよい面もあるが、欠陥もあるようだ。というのは、排出削減義務のない国では、メタンやCO2をいくら出してもいいのだから、排出権を売った収入でさらに石炭を燃やしたり、炭鉱を掘り進んでメタンを出しても誰からも文句を言えない。そして、慢性的なエネルギー不足に悩む中国では、まさにその通りのことが行われているらしい。そうなると、途上国は排出権を売れば売るほど収入が増えるのはいいとしても、その収入が開発行為に油を注ぐことになり結局、温室効果ガスの排出増加につながる可能性が出てくるのである。「京都後」の検討課題なのだろうが、それまでに「ツバルの消滅」など、深刻な事態に至らないことを祈るものである。

谷口 雅宣

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2006年5月 7日

中国と宗教

 中国とカトリック教会との間に緊張が高まっている。カトリック教会は、ベネディクト14世が教皇となってから、中国との外交関係を回復しようと試みていたが、それが暗礁に乗り上げた恰好だ。事のいきさつは、中国の特定地域のカトリック教会を統轄する「司教」という地位の人間を、バチカンの反対を押して中国側が選んだことに始まる。4月30日に、中国の雲南省昆明教区の司教として一人、これに続く3日には、東部の安徽省蕪湖教区の司教としてもう一人を選んだ。もちろん中国政府が直接選ぶのではなく、毛沢東が設置した政府支配下の「中国カトリック愛国会」が“民主的”に選んだことになっている。5日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。

 この動きに対し、ベネディクト14世は4日、中国カトリック愛国会の行動を「カトリック教会の統一性に深刻な打撃を与えた行為」として厳しく批判し、バチカンの反対を無視して選ばれた2人の司教や、その任命式に関わった司教の「破門」を臭わせる声名を発表した。教皇の批判は愛国会にだけ向けられているのではない。声明文は「司教や司祭らは--教会の外部組織から--司教任命式への参加のために強い圧力や脅迫を受けた」と指摘し、バチカンは「中国国内のカトリック教会の苦悩多き前進を注意深く見守ってきて」おり、「今の時代には、同様の嘆かわしい事件は過去に葬る」ことを望むとしている。
 
「信教の自由」の立場からは、バチカンの声明には何も問題がないし、むしろ当然と言えるだろう。カトリックの教えを信じる人々の組織の中で、誰が指導的立場に立つべきであるかは、その組織の内部規則に定めた通りのものだろう。カトリックの信仰ももたない組織の外部の人間が、規則を無視して「彼は適当でない」とか「彼よりもA氏が司教になるべきだ」などと指図することは、確かに「教会の統一性に深刻な打撃を与える」と言える。しかし、中国のように「共産党独裁」を国是とし「信教の自由」を認めない国家では、中国共産党の国家運営の「統一性」の方が、カトリック教会内部の統一性よりも重要視されるのも不思議はない。特に、4月下旬、ワシントンでの米中首脳会談の際には、別の信仰団体である「法輪功」支持者らが数千人規模のデモをしたり、両首脳の出席する式典で報道陣に扮した女性が「法輪功迫害をやめさせて」などと叫ぶハプニングもあった後である。共産主義思想同様に、「宗教は国家運営に奉仕すべし」という考え方を譲るわけにはいかないのだろう。

 このように、個人の信仰心に価値をおく宗教と、国家や社会の統一性に価値をおく共産主義・社会主義国家との間には、基本的に矛盾がある。中国には現在、政府寄りのカトリック愛国会に所属する教会と、政府非公認のバチカン寄りのカトリック教会が存在し、その信徒数は合計で400万から1200万人と言われている。中国政府にとっては、法輪功の支持者より数のずっと多いこちらの方が、きっと“潜在的脅威”として映るのだろう。中国経済の自由化の中で、思想や信教の自由がどのように進展していくのか、それとも後退していくのか。隣国の我々には目を離せない問題だと思う。

谷口 雅宣

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2006年5月 6日

現代の“象男”の悲劇

 5月1日の生長の家白鳩会全国大会の講話で、「エレファントマン」のことに触れた。象のような顔をした人のことで、1980年に制作された同名の映画で一躍有名になった。ヴィクトリア時代の実在の人物がモデルである。その醜い容姿のために、旅芸人一座の見世物として動物同様にに扱われていたところを、心ある医師に救い出され、やがてその醜悪な容姿の奥に隠された尊い“人間性”が明らかになってくる……そんなストーリーだ。肉体の外観と、内在する本性との対照が印象的で、同大会のテキストに使われた『新版 叡智の断片』(谷口雅春著、日本教文社刊)の中の「膿滴々地」の公案と好一対をなすと感じたため、そのことに触れたのだった。
 
 唐の時代にいた禅僧、玄沙(げんさ)が誤って薬を服したところ、全身が赤く爛(ただ)れてしまったという。それを見た僧が、「いつも先生が説いている堅固法身(けんごほっしん)はどうなってしまったのですか?」と問う。すると玄沙和尚は、「それは膿滴々地(のうてきてきじ)だ」と答える--その意味を考えよ、という公案である。「膿滴々地」とは、体から出る膿(うみ)がポタポタと滴っている様子を指す。そのことと、壊れない堅固身である人間の本性とは、一体どんな関係があるか、という問いかけである。

 ところで、現代にもエレファントマンが生まれたという話を、そのときした。これは、新薬の試験のための実験台を申し出たボランティアの中に、薬の成分に過剰反応をした人が出て、集中治療室に担ぎ込まれるなど大騒ぎになった話だ。今年の3月半ばに、イギリスで実際に起こったことだ。
 
 CNNの3月16日の報道によると、実験台を申し出たボランティアのうち6人が、ロンドンのノースウィック・パーク病院(Northwick Park Hospital)から別の病院の集中治療室に13日の夜に担ぎ込まれ、そのうちの1人は、面会した友人の言葉によると「エレファントマンに似た状態」になっていたという。つまり、頭と首が通常の大きさの3倍に膨れ上がっていたというのである。被害に遭ったのは、ボストンに本社のあるパレクセル・インターナショナル(Parexel International)という医療研究機関が行っていた新薬実験に参加していた人々で、この新薬は慢性的炎症と白血病の治療薬としてドイツのテジェネロ社(TeGenero)が開発した「TGN1412」という抗体だったそうだ。
 
 実験台になる人々は、事前に健康診断をしており、健康体であることは確認されていた。実験する側の医師も、新薬に対して人間の体がこれほど激烈な反応を示すことなど全く予想できなかったという。しかし、現実にこのような不幸なことが起こっているのだから、現代の発達した医学といえども、人間の体の内部のことはまだまだ分かっていないのだと思い知らされる。
 
 本欄では、過去何回か「プラシーボ効果」のことを扱ったが、今回のケースは「心」の問題はあまり関係していないようだ。というのは、この新薬の実験には8人のボランティアが参加し、そのうち2人にプラシーボ(偽薬)が処方されたが、この2人は全く無事だったからだ。実験側の医師の言ったことが本当なら、彼らも新薬の危険性を知らず、ボランティアもそれを予想しなかった(予想したら薬を服用しないはずだから)のだから、心によって激烈な反応が起こったという可能性は考えられない。心の力の関与がなく、薬品の化学的性質のみによって、人間の体が大きく影響されるということは実際にあるのだと思う。

谷口 雅宣

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2006年5月 4日

遅 い 春

 休日を利用して、八ヶ岳山麓の山荘に来ている。朝の8時ごろ東京を出て、まもなく渋滞に巻き込まれ、約4時間かけて双葉サービスエリアへ着き、そこで昼食を食べた後は、長坂まで早く出られた。インターチェンジ近くの大型店で日用品と食料を買い込んで、山荘へと上った。

 前回、「今年は気候が遅れているのではないか」との感想を述べたが、今日はその感を一層強くした。なぜなら、庭のサクラはまだ咲いておらず、タラノメも伸びていないからだ。昨年(2005年)も、生長の家の全国大会を終って山荘へ行ったことを本欄に書いた。その時は「ソメイヨシノだけでなく、山桜も八重桜も枝垂れ桜も同時に咲いている。シバザクラ、スイセン、レンギョウ、チューリップ、ユキヤナギ、タンポポ……」と書いた。このうち今、山荘の庭に咲いているのはスイセンだけなのである。山荘より少し低い土地には、上に挙げた花はすべて咲いているから、春が山を上る速度が昨年より遅いのである。
 
Taranome2005 その去年の記事には、一昨年(2004年)の同じ時期のタラノメの様子について、「私の山荘のすぐ裏にはタラの若木が何本も生えているが、去年は無残なものだった」と書いてある。「無残」という意味は、「タラノメはすべて切り取られた後だった」ということだ。また、2001年5月11日の本欄(『小閑雑感 Part 1』収録)にも、「タラノキはほとんどが、連休前半に山に来た人々の手によって芽を掻き取られている」と書いてあるから、 ここ数年、タラノメは、5月初めにはちょうど食べられる大きさにまで成長していたことが分かる。昨年の今頃、山荘裏で撮ったタラノメの写真を掲げよう。今年はまだとてもこんな立派な状態にはなく、最初の芽が、緑色の槍の穂先のように、木の先端からやっと頭を出しているにすぎない。山の春が遅れているのだ。
 
 そう思って遠くを見ると、甲斐駒ケ岳や八ヶ岳の冠雪も、昨年より心なしか多いような気がする。しかし、これについては写真を残してないので、私の漠然とした印象である。また山の冠雪については今年、裏日本でドカ雪が降ったこととも関係があるかもしれない。複雑な気象のことは素人の私にはよく分からないが、地球温暖化の影響で自然界がこれ以上、撹乱されないことを願うばかりである。

 1ついいことがあった。全然期待していなかったのだが、裏の林に寝かしておいたホダ木からシイタケが10数個出ていた。ずっと雨が少なかったらしく、多くのものが傘を広げた恰好で“干しシイタケ”状になっていた。が、これでも十分食べられる。妻は朝食の材料にすると言った。

谷口 雅宣

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2006年5月 3日

ひと仕事終って

 5月の1~3日にかけて東京・千代田区の日本武道館で行われていた生長の家の4つの組織の全国大会が終った。その準備と実行のために、日本全国のみならず、世界中の生長の家の幹部・信徒の方々が大勢奔走してくださった。心から感謝申し上げます。私もブログの執筆を一時中断し、担当する講話の準備に専念した。1時間の講話を、対象を変えて3日連続でやるというのは、毎年のことながら神経と労力を使うものである。そのわりには、講話が聴衆の皆さんの期待に沿えたかどうか心もとない。が、とにかく「ひと仕事終えた」という感慨をもてるのは有難いことだ。

 大会の期間中、気候の“揺れ”がこれほど大きかったことはなかったと思う。1日の白鳩会全国大会の日は好天に恵まれたのはよかったが、気温が今年初めて29℃を超えた。2日の相愛会・栄える会合同全国大会の日は、一転して小雨も降る低温となり、北海道では雪の降った地域もあった。3日の青年会全国大会は、さらに一転して快晴となり、気温も上がって最高18.4℃と快適、爽快な1日だった。日本で「三寒四温」と呼ばれてきた気候が、1ヵ月ほど後ろにズレてしまったような気がする。
 
 白鳩大会と相・栄大会では仏教の「三施」の考え方に触れた。「三つの布施」という意味で、法施、物(財)施、無畏施の3つを指す。「法施」は真理を説くことで、宗教ではこれが最大の布施とされる。が、明日の食事もなく、安心して眠る場所もないような人々は、真理よりも衣食を求めるのが普通だ。そんな人々には、とりあえず飢えや生活苦を和らげるために、食物や財物を与える「物施」あるいは「財施」も重要である。また「病気治し」なども、「健康な肉体を与える」という意味では物施に属するものだろう。最後の「無畏施」は、「畏れのない状態を与える」という意味で、恐怖心から解放してあげることである。これには、様々な方法が考えられるが、大地震の被災地へ行ったり、テロ被害の現場へ行って救援活動を行うことも、「物施」であると同時に、それが恐怖心の除去につながるならば「無畏施」と言えよう。
 
 では、地球環境問題の解決に取り組むことはどうだろう? 2日の夜だったろうか、NHKテレビで水没しつつある島国・ツバルの最近の様子が放映されていた。当地では満潮が近づくと、アスファルト道路の真ん中から噴水のように海水が吹き上げ、見る見るうちに民家が床下浸水となり、やがて床上まで海水に浸される。これは重要な生活の手段である家屋と、その中にある家財道具が使い物にならなくなることであり、農作物の栽培が不能となり、食物を奪われることでもある。また、しばしばそういう状況に置かれる人々は、浸水に恐怖を感じているに違いない。だから、海面上昇を防ぐための行為は、ツバルの人々にとっての物施であり、無畏施でもある。このように考えれば、レジ袋削減運動も、太陽光発電の利用も、自動車の燃費の向上も、宗教的な意味があると言えるのである。

 問題は、我々のそのような活動が実効性をもったレベルに達しているかどうかだ。人類の中で環境意識の高い人々が力を合わせ、二酸化炭素の排出削減の努力を続けても、ツバルやモルジブの水没までの時間を延ばすことはできても、結局水没を防げなかった場合、大量に出る環境難民を受け入れる義務を負うのは、誰だろうか? 論理的に考えれば、そういう悲劇の原因を作った国に最も責任があるのだから、難民を受け入れねばならないのはCO2の排出量が多い国ということになる。日本も、環境税等の抜本的環境対策を採らないのであれば、環境難民受け入れのための制度をきちんと整備すべきだろう。
 
谷口 雅宣

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