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2006年4月 9日

“ユダの福音書”の衝撃

 聖書研究者の間で翻訳が待たれていた“ユダの福音書”の内容が発表されて、話題を呼んでいる。イエスの12人の直弟子のうち、師を敵に売った“裏切り者”として侮蔑の対象とされてきたイスカリオテのユダが、実はイエスの教えの唯一の理解者であり、師の命を受けて敵の手引きをする役を不本意にも実行した、という内容らしい。伝統的なキリスト教の教えから大きく外れるものだが、この文書自体は偽作ではなく“本物である”というのが、専門家の一致した評価らしい。今後、多方面で論議を呼ぶだろうが、初期のキリスト教の多様性を示すものとして興味深い。
 
 私は、新約聖書にある福音書の背景について『ちょっと私的に考える』(1999年、生長の家刊)の中に少し書いているが、“ユダの福音書”などというものがあることは知らなかった。これは、現在の形の聖書が結集される前から存在していたいわゆる“外典”の一つが、最近の考古学と科学技術の助けを得て再発見されたもののようだ。4月7日の『朝日新聞』(夕刊)によると、この文書はパピルス13枚の表裏にインクで筆写されたもので、エジプト中部の砂漠地帯で見つかった。書かれた文字は「コプト文字」で、当時エジプトに住んでいたキリスト教徒が使った古代文字である。インクの成分やパピルスの質、文章の構造や文法、書体などを専門家の国際チームが分析した結果、3~4世紀の文書であり、放射性同位体による年代測定でも220~340年のもの、書かれた後に修正は加えられておらず、さらに2~3世紀に書かれたギリシャ語の原文からの翻訳であることも分かり、「本物」とのお墨付きが出た。

 しかし「本物」とは、いったいどういう意味だろう。“ユダの福音書”に書かれた内容が史実であるということか? それとも、この文書が、内容はともかく、初期キリスト教徒によって書かれたという意味なのか? 私は、この文書は前者を証明するものではなく、今のところ後者の意味しかない、と考える。なぜなら、原文は2~3世紀に書かれたというのだから、イエスの死後の文書である。ギリシャ語で書かれたという意味は、イエスの日常言語(アラム語)とは別の言語で書かれたということだ。つまり、イエスを直接知らない人物の著作である可能性が高い。これらすべての要素は、現在「正統」とされている4福音書の多くに共通するから、結局、“ユダ”のみが正しくて、他の4福音書が間違いであるとの根拠にはならないのである。
 
 ところで、8-9日付の『ヘラルド・トリビューン』紙もこのニュースを大きく取り上げているが、その記事に面白い箇所がある。それは、コプト学の専門家であり、カリフォルニア州のクレアモント大学院大学の教授だったジェームズ・ロビンソン(James Robinson)氏の言葉だ。ロビンソン氏は、「今回の文書の内容には、正しく理解すれば、現在の聖書の内容を否定するものは何もない」と言うのである。氏によると、現在のヨハネとマルコの福音書には、イエスがユダに裏切りを示唆しているだけでなく、ユダに対して自分を敵の手に渡せと言っている箇所があるという。調べてみると、『ヨハネによる福音書』で、イエスは弟子たちを前にして「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言った後、弟子たちが騒ぎ出すと、「私が一切れの食物を浸して与える者がそれである」と言って、ユダにその食物を与えるのである。その次にこういう記述がある:
 
 そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。(13:27)

 このあとですぐ、ユダはイエスの指示に従って裏切りのために外出するのである。

 また、上記の記事によると、今回の新文書の中にもう一つ興味ある記述がある。それは、イエスがユダに対して他の弟子たちのことを言いながら、「しかし、あなたは彼らすべてを超えるだろう。なぜなら、あなたは私を覆う男を生贄にするのだから」と言う箇所があるという。「私を覆う」(clothe)という表現の意味をどう捉えるかがポイントで、これを「霊的な私を覆う肉体の男」と考えると、ユダは、イエスが自分の肉体を放棄する手伝いをすることになるのだから、「イエス内部の霊的自己・神性を解放する男」ということになる。だから、新文書では、ユダは他の弟子を超えた存在として位置づけられているらしい。

谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 今回の御文章は大変、興味深く拝読させて頂きました。確か産経新聞の産経抄にもこの事に触れた文章が出ていたと思います。

 私はこの世界での事は表面的には悪い事であっても後になってそれがあったから良かった、という事が良くあると思います。生長の家の体験談でも良く出て来る、あの人があの時自分をこういう窮地に陥れてくれたからこそ、自分の生長が却って促された等々の話です。

 キリストが人類の罪を背負って、十字架に架けられ、人類の自己処罰の観念を除いたというのも、ユダの裏切りがあったればこそで乱暴な言い方をすれば、ユダも人類救済の一役を担っていたという事になりますね。

堀 浩二拝

投稿: 堀 浩二 | 2006年4月11日 15:20

堀さん、

>> キリストが人類の罪を背負って、十字架に架けられ、人類の自己処罰の観念を除いたというのも、ユダの裏切りがあったればこそで乱暴な言い方をすれば、ユダも人類救済の一役を担っていたという事になりますね。<<

 この言い方は、少々危険な面がありますヨ。(多分、お気づきでしょうが) 例えば、「広島や長崎への原爆投下も、日本民主化には必要だった」なんて論法と似ていませんか?

投稿: 谷口 | 2006年4月13日 17:00

谷口雅宣先生

 ご指導有り難うございます。仰る通り、全てが結局、良い事につながるのだから、自分は何をしても良いのだと増上慢に陥るのは真理のはき違えだと思います。

堀 浩二

投稿: 堀 浩二 | 2006年4月14日 13:15

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