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2006年4月27日

東京都が省エネ都市?

 石油など資源の使用を抑制する「省エネルギー型都市」へと、東京都が転換しようというらしい。近く公表される『都環境白書2006』にその構想が盛られている、と27日の『産経新聞』が伝えている。「それはいいことだ」と思ったが、「しかし……」と考えざるを得なかった。なぜなら、「省エネ」と「大都市」とは互いに相容れない概念だと思うからだ。

 都の問題意識は、理解できる。例えば、記事にもあるように、東京都の平均気温は100年間で3℃上昇し、昨夏の真夏日は史上最多の「70日」を記録し、いわゆる“ヒートアイランド現象”が深刻だからだ。『白書』では、2030年には都市人口が世界人口の6割に達すると予想し、都市での環境対策が地球環境を左右すると指摘しているらしい。だから、都市を省エネ化しなければならないというわけだ。「都市化を避ける」のではなく、「都市の拡大」を前提に省エネ化を図るらしい。

『白書』がまだ出ていないので断定はできないが、ここでは「一人当たりのエネルギー消費量」を下げることを「省エネ」と呼んでいるようだ。この数値は、都がロンドンとほぼ同じだが、ニューヨークは東京の2倍強もある、と都は分析している。この計算の根拠は何だろう? 私が想像するに、ニューヨークの値が高いのは多分“摩天楼”のせいだ。超高層ビルは水槽をビルの屋上に置いている場合、強力なモーターを使って水を高層へ上げるために、電気を多く使うことになる。また、エレベーターを動かすモーターも、ビルの高さに応じた強力なものが必要になる。これに冷暖房のことを考えると、高層ビルが多ければ多いほど、都市のエネルギー消費量は増えることになるだろう。ただし、ここでの数値は「一人当たり」のエネルギー消費量だから、同じ構造と高さのビルが2棟あったら、そこで働き、あるいは居住する人の数が多い方が“省エネ”ということになる。

 ここで、日本とアメリカの文化的差異が出てくるのではないか。日本の事務所は、大部屋に大人数を収容しているケースが多く、アメリカの場合は、小部屋に少人数、あるいは役員などは個室を広々と使う傾向がある。だから、同じ構造と高さのビルであっても、東京のビルの方がニューヨークよりも多くの人を収容している可能性が高い。したがって“省エネ型”ということか? しかし、ロンドンと東京の“省エネ度”がほぼ同じというのは、よく分からない。
 
 上記の『産経』の記事には、この省エネ作戦が2016年のオリンピック誘致と関係があるように書いてある。つまり、「シドニー五輪以降、環境にやさしい五輪の考え方が、候補地選考の重要な要素になっている」というのである。五輪誘致には、すでに福岡市が名乗りを上げているし、2012年開催地のロンドンもCO2削減の野心的な目標(2050年までに2000年比6割減)を掲げているから、これらとの対抗上、スタイルとして“省エネ”を掲げる必要があるということかもしれない。
 
 現在の都のオリンピックの構想では、都心部から半径10キロ圏内に大半の競技場と関連施設を設ける「世界一コンパクトな五輪」を目指しているという。具体的には、中央区の晴海埠頭の都有地にメイン会場として8万人規模のスタジアムを建設し、選手村を江東区の有明地区に定め、プレスセンターなど関連施設を中央区の築地地区に構えるなど、開発途中の臨海部に集中的に施設を造る計画だ。
 
 そこで私は疑問に思う……そういう大規模施設を次々と建設する過程で長期にわたって排出される大量のCO2と、でき上がった五輪施設を含む“省エネ都市”東京との関係はどうなるのだろう? 工事中に排出した分の温暖化ガスと、新たな大規模施設が“省エネ”する分を比較すれば、前者の方が後者よりも圧倒的に多いと私は思う。石原都知事にはそんな「大向こう受け」を考えるよりも、2016年までに東京の臨海部が温暖化による海面上昇の被害を受けないような、もっと着実な対策を講じてほしいものである。

谷口 雅宣

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2006年4月25日

本欄が書籍に (2)

 本欄の昨年7月から10月分がまとまった本、『小閑雑感 Part 5』(世界聖典普及協会刊)ができた(=写真)。昨年12月25日の本欄で前作の『Part 4』の発刊について書いたから、ちょうど4ヵ月で1冊ということになる。前作の総ページ数が264ページなのに比べ、今度のは296ページとやや厚くなった。文章の数は94篇から89篇に減ったのだが、1回分の文章がやや長くなったためと、絵や写真の数が少し増えたからだろう。内容的には、前作よりも「地球環境問題」「エネルギー問題」「宗教・哲学」「文化・芸術」に関する文章が増え、「遺伝子・生命倫理」「ハイテク・先端技術」に関するものがやや減っている。新しく「映画」の感想文も入った。
 
Shokan52g_1  シリーズものでは、前作から続く「芸術は自然の模倣?」の(4)~(6)を初め、「スーフィズムについて」(6回)、「ロンドンのテロ」(4回)、「石油高騰の“効果”は?」(2回)、「信仰と進化論」(2回)などが含まれる。この時期に、私の関心がどこにあったかを窺わせる。
 
 収録された89篇は、誤字、脱字、変換ミス等を修正したほかは、本欄に現在もある文章とほとんど変わらないが、一つだけ大きく変更したものがある。それは、10月30日付の「太陽光発電の導入盛ん」という文章で、本欄ではこの日付の時点で入手できたデータに基づいて書いてある。が、この『Part 5』の本の中では、校正の最終段階--具体的には今年の3月18日--で入手できたもっと新しいデータを突っ込んだ。“邪道”かもしれないが、この本の発行日が今年の「5月1日」であるのに、半年前の古いデータによって「平成17年度」(17年4月~18年3月)の成果を説明することは、統計的に正しくないと思ったからである。

 この文章を書いている現在は、さらに新しいデータが入ってきているが、それによると、平成17年度の生長の家関連の太陽光発電導入実績(3月末締め)は、「過去最高」となっている。この運動に協力していただいている皆さんに、心から感謝を申し上げたい。

 前作の『Part 4』と今回の『Part 5』、そして現在も時々触れることで、アメリカが大きく関わっている重要事項が2つある。それは「イラク戦争」と「地球環境問題」だ。私は『Part 4』でイラク戦争は間違いであると書いた(2005年4月2日)。現在、この考え方はアメリカ国内でも大方の受け入れるところになっていると思うが、当時はまだ“正戦論”が優勢だった。また、同年3月18日には、ブッシュ政権のエネルギー政策の中核をなしていたアラスカの石油開発を可能にする法案を、米上院が僅少差で可決したことを書いた。しかし、今年2月2日の本欄で書いたように、今年の一般教書演説でアメリカの「石油中毒」を認めた同大統領は、今やこの政策を後退させ、原発の増設や石炭の利用、エタノールの生成技術の振興、自然エネルギーの利用、次世代ハイブリッド車の開発を行うと宣言している。

 1年で、世の中は変わるものだと思う。社会が中東の石油に依存していることが、国の安全保障上の問題を惹き起こし、“石油中毒”の生活がハリケーンの巨大化等の地球環境悪化を招いていることを、ブッシュ氏自身が認めるようになったと解釈できるからだ。しかし、原発や化石燃料の温存では、問題解決の先延ばしにすぎず、次世代への責任を果たすことができない。アメリカに安全保障を頼っている日本にも、全く同じことが言えるのだが、日本政府は別の方向を見ているようで、歯がゆいばかりである。

谷口 雅宣

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2006年4月24日

谷口輝子先生を偲んで

 春の晴天の中、谷口輝子聖姉十八年祭が長崎県西彼市の生長の家総本山の谷口家奥津城の前で厳かに行われた。以下は、約400人の参列者を前に行った私の挨拶の概略である。

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 皆さん、谷口輝子先生の十八年祭にお集まり下さり、有難うございます。
 ちょうどこの時期は、春のよい季節なので、私は先生のお墓のある総本山へやってくるのが好きなのであります。木々の若芽が萌え出で、花が咲き、鳥がさえずり、虫が飛び交っています。それだけでなく、4月からは日本では「新年度」が始まり、学校は新学年となり、新入生を迎え、また社会では新入社員や新入職員を迎えます。国も新年度予算の執行が始まります。このように自然界も人間界も“新しい芽吹き”や“新しい息吹”に溢れます。そういうものを周囲にいっぱい感じていると、私たち人間も、何か新しいことをしたくなってくるのであります。

 どうでしょうか、皆さん。4月になって何か新しいことを始められましたか? 今日は、長寿ホーム練成会の最中だそうですが、どんな歳になっても、人間は新しいことを始めることができます。それは人間は神の子で、常に新生しているからです。生長の家総裁、谷口清超先生はただ今、ご自宅で静養中ですが、ごく最近になって新しいことを始められました。私は最初、先生は冗談を言っておられるのかと思いましたが、数日前のことです、朝のご挨拶を申し上げたときに「バイオリンを買ったよ」とおっしゃるのです。私は夜に見た夢の話でもされているのかと思ったのですが、先生は本当にバイオリンを買われて今、練習を始めておられます。

 さて、輝子先生はたいへん「愛」の深い方でありましたが、信仰に裏打ちされた「知恵」を兼備された方でもありましたから、「正しさを貫く」という強い面をもっておられました。つまり、「愛」の中にも煩悩に属するものがあり、愛するもののためには信仰的に、あるいは倫理的に間違いであることをやってしまう人が案外いるのであります。そういう例は、週刊誌なんかにいっぱい載っていますネ。「愛のためには何でもやる」という話です。しかし、輝子先生は「信仰に照らして」あるいは「神の御心に照らして」正しい愛とは何かを追究され、実践された方でもあります。
 
 昨年のこのお祭では、先生の『愛の相談室』というご本から、「信仰にもとづく愛」の例を紹介しました。夫の愛をつなぎとめておくために妊娠中絶を繰り返す妻の相談を訊いて、先生が指導された例でした。今日は、そういう「人間への愛」ではなく、それよりも一回り大きい「自然への愛」--人間以外の生物をどう愛するか? という問題について、輝子先生の御文章から学んでみたいと思うのであります。
 
 昭和47年に出された『人生の光と影』(日本教文社刊)という先生の書物がありますが、その中で輝子先生は「生きとし生けるものに愛」という文章を書いておられます。そこでは、華道家の安達瞳子さん(故人)が書いたものを読んで、不思議に思われたと書かれています。安達さんは、安達流創始者である父君から「一生、花を切るときには“ご免なさい”と言いなさい」という教えを受けたそうですが、若いうちはそれを守っていたけれども、長ずるにしたがって疑問が湧いてきたそうです。そんなことをしていたら、ホウレンソウもキャベツも食べられないからです。しかしその反面、スミレの花を過って踏みつけると「ご免なさい」という言葉が心から出る、というのです。
 
 輝子先生は、この安達さんの文章の中に「草は羊に食べられ、羊は人間に食べられるのが幸せなのだ」という考え方が“西洋的な自然観”だと書いてあることを疑問に思われた。そして、旧約聖書の『イザヤ書』の第66章3節に書かれた、次の文章を本の中で紹介されています:
 
「……牛をほふるものは人を殺す者のごとく、子羊を生け贄とするものは狗(いぬ)をくびり殺す者のごとく、祭物(そなえもの)を献ぐるものは豕(いのこ)の血をささぐる者のごとく、香をたくものは、偶像をほむる者のごとし、彼等は己が途をえらみ、その心に、にくむべき者をたのしみとせり。我もまた災禍(わざわい)をえらびて彼等に与え、その懼(おそ)るるところの事を彼等に臨ましめん。そは我よびしとき応うるものなく、我かたりしとき聴くことをせざりき。わが目にあしき事をおこない。わが好まざる事をえらみたればなり」
 
 ここでは明らかに、神は動物を殺すことを「わが好まざる事」だと言われている。そして、西洋のほとんどの国がキリスト教徒の国だから、「エホバの誡めを守って、生きとし生けるものの生命を侵すべきではない」と仰っています。生長の家は今、真理宣布の運動と同時に、地球環境保全の活動も盛んに進めていますが、この活動はまだまだ不足しているのであります。その大きな理由の一つは、人間が自分たちの快適な生活を維持し、拡大していくためには、人間以外の生物をどう利用しようと、どう扱おうと、どう作り変えようと自由だと考えている人々が多いからです。このために、多くの生物が犠牲になっています。
 
 今年の1月にはブラジルのサンパウロ市で「世界平和のための生長の家国際教修会」が行われましたが、そこでのテーマは「肉食と世界平和」でした。この7月には、東京でも同じテーマで生長の家教修会が行われます。そこでは、人類が肉食をふやしていくことが、戦争につながるということを学びます。それは、家畜を育てるために新たに森林が伐採され、飼料用の穀物栽培がふえるので人間が食べる分が減少し、さらに家畜が排出する温暖化ガス(メタンガス)が増加して地球温暖化が進み、人類の貧富の格差がさらに広がるからです。

 他の生物を犠牲にすることで人間が繁栄するという考えは、幻想でしかありません。それがすでに『イザヤ書』の時代に宗教では教えられている。そのことを輝子先生は、ここで教えてくださっているわけです。私たちも今日の十八年祭を機に、「天地一切のものと和解せよ」「すべてのものは神に於いて一体である」という大調和の教えをしっかりと心に銘記して、感謝と伝道の生活に邁進したいと思うわけであります。
 
 輝子先生の祥月命日に当たり、感じたことを申し上げました。ご静聴に感謝いたします。
 
谷口 雅宣

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2006年4月22日

米中首脳会談は“不発”

 中国の胡主席と米ブッシュ大統領の首脳会談のニュースが入ってきたところで、エネルギー問題の側面から、両国の立場を考えてみよう。「平和・環境・資源」という3つの要素の関連がここでも重要なポイントとなる。まず、「資源」の問題だが、1バレル70ドルを超えた原油高騰の中での首脳会談であることに注目しよう。この原油高騰の一因として、ブッシュ大統領は、好景気にわく中国が将来のエネルギー源確保のために石油の入手先を“押さえ込ん”(lock up)でいることに懸念を表明した。この「lock up」という英語は「錠をかける」とも訳せ、「他人が手を出せないように鍵をかけておく」というようなニュアンスのある言葉だ。

 中国の石油消費は、2004年に1日当たり650万バレルとなり、日本を抜いて世界第2位になった。第一位の米の場合は、現在1日当たり2000万バレルの消費だ。今回の首脳会談では、だから世界一の消費国が第2位の消費国に対して「お前のところが世界中の石油を押さえ込んだら、オレの使う分はどうなるんだ?」と懸念を表明したことになる。あまり説得力のある問いかけではないだろう。米エネルギー省は、中国の将来の石油消費は、自動車の急増などによって2025年までには1420万バレルに達すると見ている。(4月20日『ヘラルド・トリビューン』)これに加えて、インド、ロシアなど大国の経済成長を考えると、生産量が頭打ちになっている現在、石油は今後さらなる高騰が予想されるのである。
 
 その中でのイランによる核開発宣言である。中国はイランの石油開発にも深く関わっているから、イランが武力攻撃を受けてイラクの“二の舞”になることには大反対だ。が、かと言って、石油の禁輸措置が発動されるのも困る。ブッシュ大統領はこの会談で、「両国は、イランが核兵器を持つべきでないという共通の目標を持っている」と発言したが、胡主席はこれを肯定も否定もせず、「平和的解決に向けての努力を続けることで、双方が合意した」(4月22日『産経』)と述べるに留まった。では、中国はイランの核兵器開発について賛成なのか、反対なのか? 私は、中国は“様子見”の段階ではないかと思う。そして、イランの核兵器開発にともなうデメリットが、イランからの石油輸入のメリットを上回るようになれば、禁輸措置に賛成するかもしれない。その点で、今回の胡主席の「平和的解決に向けて努力を続ける」という発言は、微妙な表現ながら、将来の禁輸措置(平和的手段)をも視野に入れた態度表明と言えるかもしれない。

 しかし、包括的に言えば、今回の米中首脳会談でエネルギー分野での進展は何もなかった。ということは、今後も中国は従来通りの経済政策を継続し、エネルギーの消費拡大はさらに続くだろう。これが地球環境に有害に働くことは明らかだから、温暖化はさらに進行する。それから、今回の胡首相の態度で明らかになったことは、現在の中国はエネルギー政策を重視し、核拡散問題や人権問題は“二の次”と見なしているらしいことだ。だから、イランやナイジェリア、ベネズエラなど、アメリカにとって“好ましくない国”からも、エネルギーをどんどん輸入するつもりだ。そして、「地球環境問題」は両国の会談の議題にもならなかった。

谷口 雅宣

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2006年4月20日

アメリカ版“わらしべ長者”

「わらしべ長者」という昔話は、誰でも知っているだろう。或る日ある男が1本のわらしべを偶然拾い、旅の途中でそれと品物を次々と交換し、ついに長者になる話だ。「長者」になる話と「幸福な結婚」を得る話の2種類があるらしく、後者は『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『雑談集(ぞうだんしゅう)』などにもあって、仏教色が濃いという。最初に「わら」を拾い、それを大切にするという点で米作文化をもつ日本独自のものと思われがちだが、インドの古代説話にも似たものがあり、朝鮮には日本と同型の説話があるという。だから、もっと広い「東洋」の考え方から出たものか?……そんなことを思っていたら、現代の北アメリカ--つまり、カナダとアメリカ--でそれが大々的に進行中らしい。18日放送されたABCニュースが伝えている。
 
 事の起こりは、カナダのケベックに住む26歳のカイル・マクドナルド氏(Kyle MacDonald)が、昨年の7月12日、「赤いゼムクリップ1個を家と交換しよう」と思い立ち、インターネット上に「One Red Paperclip」(1個の赤いゼムクリップ)というブログを立ち上げた所から始まる。彼が日本の民話を知っていたとは思えないが、発想は「小さなものから始めて、少しずつ価値あるものへと交換して、最終的には自分とガールフレンドが一緒に住む家と交換すしよう」というもので、「わらしべ長者」を地でゆく考え方だ。その計画をブログに発表し、交換相手を募っていった。すると、バンクーバーの2人から提供のあった「魚型のボールペン」と7月半ばに交換できた。その直後には、アメリカのシアトルに住む彫刻家から「人の顔」をあしらった「ドアノブ」とボールペンを交換する話がまとまった。続く25日には、マサチューセッツ州アムハーストに住む人と「バーベキュー用ストーブ」とドアノブを交換することができた。
 
 物々交換のためには、マクドナルド氏は提供者の所へ出かけていくという。だから、遠方からの提案を受け入れるのは大変だ。が、まもなくバーベキュー用ストーブが欲しいという人が現れて、9月24日には大陸横断の末、カリフォルニア州サンクレメンテで「赤い発電機」との物々交換が成立した。その2ヵ月後には、マクドナルド氏は再び大陸横断をしてニューヨーク市へ行き、クイーンズで「即席パーティー」を行った。これは厳密にいうと物々交換ではないが、その際、30ガロン(114リットル)の樽入りビール、バドワイザーのネオン広告板がついてきた。次に、この即席パーティーとの交換が成立したのは「スノーモービル」だった。この頃には、マクドナルド氏のブログは有名になっていたから沢山のオファーが集まっるようになっていたが、ケベックの冬を前にしてスノーモービルは必需品だった。
 
 こうしてスノーモービルは「ヤークへの旅」と交換され、この旅は「大型バン」と交換され、大型バンは音楽CD製作のための「スタジオでの録音の契約」と交換され、スタジオ契約は「フェニックス市での1年間のアパート生活」と交換されている……「1軒の家」とはまだ言えないが、マクドナルド氏は、計画当初の目的にかなり近い所まで接近しているのである。
 
 日本語の検索エンジンで「わらしべ長者」を検索してみると、沢山のサイトが出てくる。しかし、その一部を覗いた限りでは、これほど大掛かりで、成功している“交換ゲーム”はまだないようだ。多くは、フリーマーケットでの連鎖型物々交換の規模を超えていない。その違いがどこにあるのか定かでないが、どうも「ボランティア精神」の大きさと関係があるような気がする。「他人の目的を助ける」という心の大きさと言ってもいいかもしれない。それからもう一つ、「発想の柔らかさ」の違いがあるかもしれない。北アメリカでの“わらしべゲーム”を見ていると、「他人の目的」への協力だけでなく、インターネットでの人気やメディアを利用した「自社の宣伝」「歌手のプロモーション」などと抱き合わせて、「ウィンウィン」(提供する側も受ける側も得をする形)の企画に仕立て上げられている。学ぶ点が多くあると思う。

谷口 雅宣

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2006年4月19日

大型魚を食べること

 肉食が地球環境に有害だということは私もいろいろの所で話しているが、その大きな理由は家畜の「飼料効率」が悪いからだ。つまり、ウシの体重を1kg増やすのに穀物が7kgも必要で、ブタの場合は3kg、ニワトリは2kg、養殖魚は1.8kg……というように、動物や魚に穀物飼料を与えて肥やし、それを人間が食べるという方法は、地球資源のムダ遣いだ。ところが、この飼料効率の問題以外にも、肉食が地球環境に有害な影響を与える大きな要素がある。それは、①家畜の精肉過程で排出される二酸化炭素(CO2)、②家畜の体内や糞から出るメタンガス等の温室効果ガス、それから魚類の場合は、③漁業用船舶から出るCO2、も勘案しなければならないからだ。そういう意味では、魚介を食べる場合は「遠洋もの」ではなく、できるだけ「近海もの」がベターということになる。このほど『Earth Interactions』という科学誌に採用された論文で、シカゴ大学の2人の研究者がそれを明らかにしている。

 論文を書いたのは、シカゴ大学助教授のギドン・エシェル氏(Gidon Eshel)とパメラ・マーティン氏(Pamela Martin)の2人。それによると、2002年に食料生産に使われたエネルギーの量は、アメリカで使われた化石燃料全体の17%に達するという。そして、これらの化石燃料を燃やすことで、アメリカ人は一人当たり750トンのCO2を排出したことになるという。この排出量だけで、個人が交通のために排出する温室効果ガス全体の約3分の1の量に達するという。両助教授は、これに生きている家畜が排出するメタンや酸化窒素なども加えて、次の5種類の食事を1日 3,774カロリー摂るとして、それぞれの温暖化効果を計算した:①平均的アメリカ食、②牛肉と豚肉食、③シーフード、④家禽食、⑤菜食(卵と牛乳製品を含む)。すると、最もエネルギー効率がよいのは⑤で、次に④、それから①の順となり、②と③はほぼ同レベルで最悪の効率となった。シーフードの成績が悪いのは、イワシなどの近海ものは効率よく獲れても、カジキマグロなどを捕らえるには、遠洋まで長時間かけて行かなければならないからだ。

 こういう話を聞くと、日本人の「マグロ好き」も考えものだと思う。ワールドウォッチ研究所によると、2004年に海洋学者らが出した推計では、マグロ、マカジキ、メカジキ、サメ、オヒョウ、タラなどの大型魚の自然ストックは、少なく見積もってその9割が、過去50年間でとり尽されてしまったという。4月17日の『朝日新聞』(夕刊)は、遠洋マグロ・カツオ漁業者の団体である日本鰹鮪漁協連合会が、3月末に解散したことを伝えている。最盛期の70年代には1千隻を超える漁船を有していたが、現在は約400隻で、これに原油価格の高騰と乱獲による収入源、輸入ものの増加等で活動停止に追いやられたのだそうだ。現在、日本のマグロ市場の6割は輸入もので、台湾や欧州の巻き網漁船が一網打尽の方法で魚を獲っていくという。日本の漁船ははえ縄漁法が多く、太刀打ちできないらしい。

 日本の寿司屋でマグロやカツオなどの大型魚類がさほど値上がりしていないのは、輸入物と養殖ものの大量流入によるのだろう。しかし、どこの国が獲っても、温暖化ガスは排出されている。「大型魚よ、お前もか……」とつい溜息が出てしまう。

谷口 雅宣

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2006年4月18日

竹林へ行こう

 今朝、庭のタケノコを4本採った。2本を隣家の父母に渡し、残りを妻が茹でた。今春2回目の収穫だが、東京のど真ん中で採りたてのタケノコが食べられるということは、感謝してもしきれない。若竹煮やタケノコ御飯、木の芽和え、ちらし寿司、中華スープ、八宝菜、野菜餡かけ、タイ・カレー……など、多くの料理に使える。もちろん私が使うのではなく、妻が使う。私は「食べる人」だけでは申し訳ないので、毎年この時期になると「掘る人」の役を買って出る。庭の南西の隅にモウソウ竹の林があるので、子供がまだ小さい頃は、彼らを動員して掘った。その際、庭の真ん中や軒下、あるいは既存の竹の脇など「出てはいけない」場所に出たものを優先して採る。そして、翌年のことを考えて、伸びるべきところのものは放っておく。そんな付き合い方をしてきたが、モウソウ竹は地下茎でどんどん広がっているのである。

 4月17日の『産経新聞』が「主張」欄で、モウソウ竹林の放置問題を取り上げている。日本全国の里山で、世話する人がいなくなった竹林が荒れ放題で拡大し、景観を損ねているだけでなく、生物多様性の減少問題も引き起こしているという話だ。そこで、これを積極的に利用して燃料に使えば、CO2の排出削減にも役立つというのだ。とてもいいアイディアだと思う。
 
 2月2日の本欄でお伝えしたように、ブッシュ大統領は今年の一般教書演説で国内での代替燃料の開発を推進する考えを打ち出したが、その演説の中に「トウモロコシからだけでなく、木屑や雑草などからもエタノールを作れる革新的な技術研究を進め、2025年までに中東から輸入される石油の75%を代替できるようにしたい」という野心的な構想があった。アメリカは世界最大のトウモロコシ生産国だが、その多くは動物の飼料になる。注目すべきはそういう穀物ではなく、「木屑や雑草」からエタノールを生成するという発想である。それがもしできれば、アメリカの国土の広さから考えても、温暖化防止に大きく貢献すると思うのだ。国土の狭い日本の場合は「木屑や雑草」ではなく、成長が速い「竹林」の活用を考えてみたらどうだろう。竹林を「厄介者」と考えないことだ。それは“春の味覚”の宝庫であるだけでなく、代替燃料の生産地であり、地震の際の安全地帯でもあるからだ。
 
 私は生長の家の講習会で日本各地を回るが、竹林の無秩序の拡大で荒れている山を見るたびに、心が痛む。竹と真面目に付き合えば、竹は人間に多くの恩恵を与えてくれる。これをエタノールにするのが現実的であるかどうか分からないが、中国産の安いタケノコばかり食べ、裏山のタケノコを放置して自然を荒れ放題にしておくのでは、知恵のない国民と思われても仕方がないだろう。

 私の仕事場の隣にある中学校の庭にも、まだ狭いモウソウ竹林がある。先日、数人の生徒がタケノコを眺めているのを見た。興味津々の様子だった。皆さん、子供に竹との付き合い方を教えてあげてください。タケノコはスーパーにではなく、裏山にあることを見せてあげてください。

谷口 雅宣

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2006年4月17日

科学者も悩ましからずや

 1月30日の本欄で、NASA(米航空宇宙局)の科学者が研究結果やそれに基づく自分の科学者としての信念を公表することを、上層部から禁じられていると訴えた話を書いた。その信念が地球温暖化の危機についてだったので、『ニューヨークタイムズ』はブッシュ政権の政治的圧力の疑いがあるとして大きく取り上げたのだ。この科学者は、NASAの下部組織であるゴッダード宇宙学研究所(Goddard Institute for Space Studies)のジェームズ・ハンセン所長(James Hansen)だが、この“騒動”の後始末がどうやらついたようだ。4月7日付の科学誌『Science』(vol 312)によると、NASAの局長であるマイケル・グリフィン氏(Michael Griffin)は3月30日に同局のメディアへの対応方針を明らかにした文書を発表し、その中で、NASAの科学者は、「可能ならいつでも」事前にそれを報告すれば、「自分の研究についてメディアや国民に話すことができる」とした。
 
 当たり前と言えば当たり前のことだが、これ以前の暗黙のルールは、NASA職員は事前にPR部門から許可を得ねばならなかったという。これは一種の“検閲”だということで、連邦下院科学委員会のシャーウッド・ボーラート委員長(Sherwood Boehlert)などから批判されていた。ハンセン所長は新方針を「大きな変化だ」と歓迎している。私も、今後はNASAから地球温暖化についての正確な情報が、迅速に発表されることを大いに期待したい。

『Science』と言えば昨年末、韓国のES細胞研究者が偽造データーを使った論文を掲載したということで話題になったが、この論文は雑誌から“撤回された”(retracted)ことは御存じだろう。が、よく考えてみると、すでに雑誌に発表され、その雑誌が世界中に流通しているものを「撤回する」とは、具体的にどうすのか? すべての雑誌を回収して当該論文のページを破るわけにもいかない。で結局、「撤回されました」とアナウンスするだけで特に何もしないらしい。すると、その“撤回された”論文を引用して自分の論文を書く人も出現する。その中にはもちろん、ある論文がなぜ撤回されたかを自分の論文に書くための引用もある。この場合は問題がない。しかし、撤回された事実を知らずに、その論文が正しいデータや方法に基づいているとの前提で引用すると、引用した論文まで“怪しい”と思われてしまうだろう。

 上掲の『Science』によると、同誌の編集者がインターネット上の科学論文検索サイトを調べたところ、“撤回された”論文を引用している論文が何ダースもあったという。また、ネット上の論文であれば、実際に撤回することは簡単だと思うが(掲載されたサイトから削除すればいい)、ネット上には「この論文は撤回されました」と赤文字で書いたまま、その論文が掲載されているものもあるという。こんな場合は「撤回する」という言葉の誤用だ。そんな話を聞いてみると、一流の科学雑誌の論文であっても、頭から鵜呑みにしない方が賢明であることが分かる。
 
 科学者の研究にも、学問とは直接関係のない問題がいろいろあるのだと思った。

谷口 雅宣

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2006年4月16日

皇室制度の議論を深めよう (3)

 さて前回、私は先般の有識者会議の報告には「現在の天皇皇后両陛下と皇太子殿下同妃殿下のお考えが、いくばくかでも反映されているのではないか」との推測があることを書いた。「推測」では誠に畏れ多いことだが、直接訊いてみる手段がないのでどうにも仕方がない。が、現在の天皇皇后両陛下ご自身が、皇室の伝統の一部を変えて来られたという「事実」の意味は大きいと思うのである。すでに述べた「側室の廃止」や「ご家族との同居生活」のことよりも恐らく大きな変化は、皇后陛下が1998年、インドのニューデリーで行われた国際児童図書評議会(IBBY)の大会に、ビデオによってではあるが基調講演を行われ、さらに2002(平成14)年9月下旬、スイスのバーゼルで開かれたIBBY創立50周年大会には、単独で参加されて講演をされたということだ。

 これまでの皇室の伝統では、天皇とは別に皇后が海外で活動をされることはなかったと思う。このことはもちろん今上陛下が事前に同意されたに違いなく、また、次代の雅子妃殿下のお気持をも視野に入れて、皇后陛下が率先して行われたことと推察されるのである。この前年(平成13年)に行われた記者会見で、天皇陛下は「皇族の立場について男女の差異はそれほどないと思います。女性皇族の立場は過去も大切であったし,これからも重要と思います」と述べられている。皇后陛下がスイスから帰られてから、12月には天皇陛下は前立腺ガンと診断されたが、その直後に医師団からの発表となった。こういう透明性は、かつての皇室の伝統には存在しなかったもので、陛下御自身の御発議によらねば実現しなかったと思われる。いずれの場合も、従来の“閉ざされた”皇室の伝統とは異なり、国民に対して“開かれた”態度を御自ら示されようとしている、と拝察できるのである。

 徳仁皇太子殿下も、皇室の透明性の拡大と皇室内部の男女の役割の問題に関しては、明確な意思をお持ちと推察できる。平成14年の7月、徳仁皇太子殿下は愛子様を負ぶっているご自身の映像を公開されている。翌年2月の記者会見で、皇太子殿下は「私自身子供をお風呂に入れたり、散歩に連れて行ったり、あるいは、離乳食をあげることなどを通じて子供との一体感を強く感じます」と述べられ、さらに「父親もできるだけ育児に参加することは、母親の育児の負担を軽くすることのみならず、子供との触れ合いを深める上でとてもよいことだと思います」とコメントされている。「育児に積極的に参加する皇太子像」というのは、日本の皇室の伝統にはない。それを十分御存じでありながら、あえてこう発言される皇太子殿下の御心には、皇室の“新しい伝統”を創出されようとする強い御意志を感じざるを得ないのである。

 さて、このような天皇皇后両陛下、皇太子殿下の“新しい伝統”への御心が、今回の「皇室制度の改革」という政治問題につながっているかどうかの判断は、なかなか難しい。しかし、その可能性は十分あるということを私は、上記のことから感じるのである。今のところ、これは推測にしかすぎない。というのは、今回の有識者会議の報告に対して、皇族の中からも反対意見が出てきているからだ。が、三笠宮殿下の反対意見にもかかわらず、別の皇族の方からは、積極的な女帝論も出たことをここに紹介しておきたい。
 
 それは、平成14年1月に発行された月刊誌『婦人公論』(No.1099)に、当時の皇族では最長老に当られる高松宮妃喜久子さまが寄せられた「めでたさを何にたとへむ」という御文章である。これには「敬宮愛子さまご誕生に想う」という枕詞がついていて、愛子内親王の御誕生のすぐ後に書かれたものである。その中に次のような箇所がある:
 
「ただ、それにつけても、法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の條項を今後どうするかでしょう。女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます。古代の推古天皇、持統天皇から江戸時代中期の後櫻町天皇まで、幾人もの女帝がいらしゃいました。外国でなら、英国のエリザベス朝、ヴィクトリア朝のように、女王のもとで国が富み栄えた例もたくさんございます」。(p.135)

「万世一系」の伝統との関係で知っておくべきことは、“伝統護持派”の人々が主張する「男系男子」の皇統継承においても“外国人の血”が混ざる可能性が皆無ではないという点である。それを天皇陛下御自身が「肯定的に」とらえておられるということは、特筆されるべきではないだろうか。天皇陛下は、平成13年12月18日に行われたお誕生日に際しての記者会見で、翌年韓国と共同で開かれるサッカーのワールドカップについて尋ねられたとき、次のように述べられた:(一部省略、全文はここ)

「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」

 上記の御発言などから考えても、天皇皇后両陛下、皇太子殿下同妃殿下の御心は、単なる伝統墨守ではなく、世間や世界に開かれた“新しい皇室”像へ向われていると拝察されるのである。

谷口 雅宣

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2006年4月15日

皇室制度の議論を深めよう (2)

 3月22日の本欄でこの問題に関する私の考えを述べて以来、多くの方々から意見をいただいたり、本を紹介してもらった。おかげでこれまで知らなかった知識も得られた。読者の皆さんのフィードバックに心から感謝します。ということで、ここで今日時点での私の考えをまとめてみたい。
 
 基本的には、私の考え方は3月22日の時点からさほど変わっていない。変わった点はと言えば、先に出された「皇室典範に関する有識者会議」の報告書の内容は、現在の天皇皇后両陛下と皇太子殿下同妃殿下のお考えが、いくばくかでも反映されているのではないかと考えるようになったことである。このことは重要なので次回に詳しく書くが、まず読者からの意見について少しコメントさせていただきたい。

 今、“伝統護持派”の人々が「男系天皇護持」の国民(政治)運動を起こしているのだが、この人々が唱えている「旧皇族出身者の皇族復帰」という手段は、かなり無理があると思う。それは、この60年間の世俗的関係の中で旧皇族とその出身者の方々の間に、また旧皇族出身者と普通の人々の間に何が起こっているかを国民はほとんど知らないし、それを知らせるということになると、プライバシー保護等の法律問題を含んだ相当な困難が予想されるからである。

 例えば、私が時々思うことだが、現在の皇族の方々に基本的人権がどの程度認められているのだろうか。かつて皇太子殿下が著書を出版されたが、その奥付の著作権表示は殿下ではなく「学習院」になっていた。また、天皇御一家や皇室のお写真がカレンダーや写真集の形で発行されているが、これらの出版物にも著作権表示がないものが多い。もしこれが皇族には著作権や肖像権がないことを意味するならば、皇族に復帰するという旧皇族出身者の人々の権利関係はどうなるのだろうか? 諸権利を放棄して皇族に入ってもらうのか、それとも一部だけの放棄なのか。そういう法律や財産の権利義務関係が各旧皇族出身者に於いてどのようになっているかをすべて露にした後に、国民が“候補者”の中から最も相応しい人物を選ぶのだろうか? そうではなく、どこかの“私的諮問機関”で秘密会議をして選ぶのだろうか? あるいは、国会で投票によって決めるのだろうか? いずれの場合も、相当な混乱と困難が予測されないだろうか? また、そんな面倒なことは省略して、人格や経歴に関係なく出生順位で選ぶという場合、はたして国民が納得するだろうか? こういう問題を“伝統護持派”の人々はどう解決してくれるのだろう?
 
 それから、やはり“伝統護持派”の人々が「男でなければ天皇でない」とか「男系でなければ天皇でない」という言い方をよくするが、その理由が明確でない。この人々の説明は「それが日本の伝統だから」「それが万世一系の意味だから」「それが尊敬される必要条件だから」ということになるようだが、これは一種の循環論法のように思える。最初にまず「男系が代々継承するのが日本の伝統」という定義があり、あるいは「男系が代々継承するのが万世一系」という定義があり、また「男系が代々継承するのが尊敬に値する」という価値判断があり、そういう“暗黙の定義”や“暗黙の価値判断”を逆さまにして説明に援用しているように聞こえる。むしろ今、我々が発しなければいけない問いは、「天皇は万世一系でなければいけないか?」「天皇が天皇たるべき条件とは?」「日本の皇室の伝統は本当に不変か?」「皇室の伝統が不変であるべき理由は?」……等々ではないだろうか。
 
 ここで誤解しないでほしいのは、私は「天皇は万世一系でなくていい」とか「天皇は誰がなってもいい」とか「皇室の伝統などコロコロ変えてもいい」と考えているのではなく、上記のような根源的な問題を国民が考えることによって、今日まで続いてきた「天皇」の伝統の意味をより深く知ることができると思うからである。
 
 また、私個人は「皇室を変革しよう」などと思ったことはないが、現在の天皇皇后両陛下が、かつての皇室の伝統の一部を変革して来られたということの意味は大きいと思う。このことは各方面で指摘されているので詳しく述べないが、「側室の廃止」や「ご家族との同居生活」はそのごく一例である。また、三笠宮殿下とは異なり、「女系天皇」を促進されるような発言をした皇族の方もおられるのである。また、「男系天皇の護持」が万世一系の意味であれば、理論的には外国人の血統を受け入れる可能性も認めなければならないし、歴史上はそういう例が実際あったようである。今後もその道を残しておくのかも考えねばならないだろう。

谷口 雅宣

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2006年4月14日

原油高騰で森林減少か?

 産油国イランの核開発問題との関連で、原油の値段がいよいよ高くなってきた。4月13日のロンドン国際石油取引所(IPE)で北海ブレント原油の先物が初めて1バレル=70ドル台に乗った。また米国産WTI原油の先物も昨夏に記録した1バレル=70ドルの水準に近づき、日本の輸入原油の9割を占める中東産も急伸し、基準銘柄であるドバイ原油は昨夏を上回る1バレル=63ドル台に達した。

 これらは実際の需要の拡大というよりは、将来の国際情勢の不安定要因を読んだ投機的取引によるのだろう。また、米国内では暖冬の影響で在庫が増えているにもかかわらず、ガソリンへの精製能力不足が災いして、ガソリン在庫が減少している。市場はこれに神経を尖らせているのだろう。15日の『産経新聞』は、イラクやイランの問題に加え、「石油関連施設への攻撃が続くナイジェリア情勢や、米国のガソリン在庫の減少など原油の需給に影響しかねない問題も少なくないだけに、原油価格の高騰は長期化の様相を帯びそうだ」と予測している。

 原油高騰の影響で日本国内では日本航空と全日空が3月から国際線で航空運賃を値上げしているが、4月から国内線も平均で約4%の値上げをしている。ナフサ、石油製品、ガソリンの値上げも続いている。これに伴い、ブリジストンは2月から主な車両向けタイヤ価格を5~7%上げ、製紙業界でも3月下旬から王子製紙が主な印刷用紙を6~12%値上げした。運輸業界でも値上げ圧力は続いているが、ガソリンから天然ガスへの転換や人件費の切りつめで今のところ値上げをしのいでいるらしい。

 これらの変化は当然、他の分野へも影響する。例えば、洗剤メーカーのライオンは衣料用洗剤の原料の“植物化”を進めていて、15年前には100%が石油原料だったものを昨年3月には75%を植物原料にした。これにより、植物原料の需要が増えることになる。この原料が何であるか知らないが、サトウキビやトウモロコシだとしたら、食品への影響が考えられるだろう。

 実際、原油高にともなって砂糖の値上がりが進んでいるらしい。世界最大の砂糖生産国であるブラジルは、代替燃料としてサトウキビを原料にしたバイオエタノールの生産国であることは、本欄でもすでに書いた。原油の高騰はバイオエタノールの需要拡大となり、エタノールの生産拡大は同じ原料から作られる砂糖の値上がりにつながるのだ。4月7日の『産経新聞』によると、砂糖の原料である粗糖の値段は、ニューヨークの先物価格で昨年4月が1ポンド=8セント程度だったものが、今年に入って2倍以上の1ポイド=19セントにまで上がっているという。東京穀物商品取引所での粗糖の先物価格は、2月に上場来最高値の1トン=5万3900円をつけた。そして、タイや中国ではこれが菓子類や飲料の小売価格の上昇につながっているらしい。
 
 14日の『朝日新聞』は、ブラジル産のバイオエタノールの売り込みで来日中のルイス・フルラン開発産業通商相とのインタビューを掲載している。この記事で気になるのは、「エタノール価格は高騰しませんか?」との質問に対して、同相がこう答えていることだ:
 
「エタノール価格が上昇すればサトウキビの栽培面積が増え、供給が増える。ブラジルはバイオエタノールを増産する方針で、中南米諸国でも今後バイオエタノール向けのサトウキビ栽培が増えるだろう」

 サトウキビの栽培面積を増やすということは当然、アマゾンの熱帯雨林やセラードを切り開いて畑にするということだ。4月9日の『朝日新聞』には、ブラジルの科学者らがアマゾンの環境破壊を予測した研究が紹介されているが、それによると、現在の速さでアマゾンの森林伐採が進めば、2050年までにアマゾンの熱帯雨林の4割に当る200万平方キロが消失する恐れがあるらしい。森林の消失は当然、大気中のCO2の増加につながる。だから、バイオエタノールの利用は、化石燃料の利用よりは優れているが、温暖化防止のためにはあくまで「過渡的な手段」だと言わねばならない。

谷口 雅宣

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2006年4月13日

GM動物の誕生

 すでにご存じのことと思うが、最近、遺伝子組み換え(GM)とクローニングによってブタが初めて作られた。このブタは、心臓の機能を向上させ、心臓病予防の効果があるとされる「オメガ3脂肪酸」という物質を多く生成するような遺伝子組み換えが行われているという。現在、この物質を体内に取り入れるためには、栄養補助剤を服用するか、それを多く含む種類の魚(サケやマグロ)を食べる必要があるが、後者は水銀汚染のリスクを伴う。だから、ブタ肉からそれを補給することで、心臓病を予防することができると同時に、減少しつつある魚に頼らずに必要な栄養素を得ることができるようになるという。
 
 この研究は、ピッツバーグ大学とミズリー=コロンビア大学などの研究チームによって行われ、『Nature Biotechnology』誌に発表された。このチームのメンバーは、2004年にまず線虫の遺伝子を使って、肉類に多く含まれる「オメガ6脂肪酸」を体内で「オメガ3脂肪酸」に変換するブタを作った。今回は、そのブタの遺伝子を使い、核移植によるクローニングの方法で子ブタを作ったのである。

 動植物の世界では、人間の好みに合わせた種を作り出す“品種改良”は当たり前に行われてきたが、それを遺伝子組み換えで行うことへの抵抗はまだある。例えば、昨年9月27日の本欄で扱ったGMブドウでも、それが栽培されている畑は「高さ180センチのフェンスで囲まれ、侵入防止用のセンサーとビデオカメラで守られている」と書いてある。これは、ヨーロッパではGM作物のことを“フランケン作物”などと呼んで毛嫌いする人が多く、中には実力でGM作物を破壊する人もいるからだ。

 しかし、世界全体を見ると、GM作物への態度は国によってまちまちである。昨年5月17日の本欄で伝えたように、中国では害虫耐性をもたせたGM種のイネの栽培が、農薬の使用削減と収量の増大につながっており、インドでは違法に作られた害虫耐性のGM種の綿花が、収量の増大とコスト削減をもたらしているため、作付面積が拡大しつつある。しかし日本では、約30種のGM作物の栽培が国の審査を経て認められているが、地域住民や近隣農家への影響を考えて、GM種の栽培に二の足を踏む農家がほとんどである。それとは対照的に、アメリカではGM作物に対する抵抗はほとんどなく、大量に栽培されている。
 
 GM種の植物の栽培が警戒の目で見られるのは、いったん自然界に放たれると、植物は“回収”することが困難になるからだ。花粉が飛散し、あるいは虫に運ばれて自然界の近縁種と交雑し、“雑草化”することが指摘されているし、海外ではそういう事例が現実に報告されている。では、動物のGM種はどうだろう? 動物は昆虫のように小さいものはともかく、ある程度の大きさ以上のものでは、自然界への“放出”が規制でき、“回収”も比較的容易である。特に、家畜はそう言える。だから、今回のブタの遺伝子組み換えの場合もあまり騒がれなかったのだろう。
 
 しかし、植物に比べ動物の--特に人間に近い哺乳動物の遺伝子組み換えやクローニングは、倫理的な抵抗をより多く惹き起こすものである。4月1日の本欄では、牛肉の“霜降り”状態を作る遺伝子を京都大学の研究者が発見したことに触れたが、この研究の場合も今回のブタの場合も、その目的は明らかである。それは、人間(日本人?)にとって美味であり、栄養バランスのよい肉を効率よく生産するためである。3月7日の『産経新聞』には、静岡県中小家畜試験場が、クローン・ブタ同士の雌雄交配により“クローン・ブタ2世”を誕生させたことが報道されていたが、これにより「親の性質を引き継いだ優良な豚を効率的に生産できる」と書かれている。これまでの方法では、クローンが無事に誕生する確率は約1%だったのに対し、クローン同士の交配が可能となれば、動物のクローニングは商業ベースに乗るだろう。イヌやネコのクローニングはすでに実現しており、今年2月、米テキサス州のバイテク企業が競技馬のクローンを誕生させた。

 この種の技術が目指している社会を想像してみてほしい。人間の好みに合わせて家畜やペットをデザインし、それをクローニングの技術を使って大量生産する。そのことが人間の幸福増進や社会の発展に寄与すると考えているのである。読者は、「人間のクローンだけは別」と考えるだろうか? 私は、そういう思想上の“種の壁”もどんどん低くなっていると思うのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
Transgenic pigs are rich in healthy fats
Researchers Create Pigs that Produce Heart-Healthy Omega-3 Fatty Acids

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2006年4月12日

“ユダの裏切り”の理由 (3)

 さて、本欄の前回では、イスカリオテのユダが、師であるイエスを裏切った動機は「嫉妬」であるとの谷口雅春先生の解釈を紹介した。福音書には「金」が動機であると書いてあるが、先生はユダに金銭欲がなかったというのではなく、それだけではユダの行動は説明できないとして、次のように書かかれている:
 
 「どんな悪人でも単に、銀30両を得んがために、その師を死罪にまで売り渡すと云うことはあり得ないのであります。銀30両でイエスを売ってやろうと考えるに到るのは余程の怨恨が無ければならない。その怨恨は、自分が愛している女をば師が愛していることに対する嫉妬と、しかも衆人の前で自分が面罵された怨恨だと考えられるのであります」。(『新版 ヨハネ伝講義』、p.246)

 だから、先生は福音書の記述を否定されているのではなく、「その記述の奥にさらに深い動機がある」という解釈であることが分かる。
 
 では、伝統的なキリスト教では、“ユダの裏切”の動機をどう解釈してきたのだろうか。ここでも「ユダは欲望満足のために師を売った」という表面的解釈で満足しているわけではないようだ。アメリカのカトリック教会の週刊誌である『アメリカ』の編集者、ジェームズ・マーティン師(Rev. James Martin)は、12日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に掲載された論説で今回の“ユダの福音書”について書いているが、そこでは「ローマの代官の支配に堪え切れなくなったユダが、イエスに一種の“奇跡的革命”を起こさせようとした」と解釈している。
 
 マーティン師はまず、“ユダの福音書”にあるような「イエスに頼まれて裏切りを演じた」とする説を「ありそうもない(unlikely)」として否定する。なぜなら、わざわざそんなことをしなくても、ユダヤ教の祭司やローマの権力者たちには、イエスを逮捕する理由も機会もいくらでもあったからだという。また同師は、谷口雅春先生と同様に、金銭目的での裏切りも「ありそうもない」としている。その理由は、ユダが金銭目的でイエスの弟子になったのだとしたら、3年間も砂漠地帯で師と一緒にウロウロしてはいなかっただろう、というのである。そして、これらの「イエスの依頼説」と「金銭目的説」は、ユダが裏切り後に自殺していることを説明できない、としている。イエスの依頼による“裏切り”ならば、事後に自殺する必要はまったくないというわけだ。(ユダの死は、『マタイ』の第27章には首吊り自殺だと書いてあるが、『使徒行伝』では必ずしも自殺ではなく、事故とも受け取れる表現になっている。)

 そこで同師は、かつて聖書学者のウィリアム・バークレイ氏(William Barclay)が唱えた解釈を紹介し、それが今日でも「最も妥当な(plausible)」説明だとしている。それによると、ユダは、イエスがローマの支配をなかなか転覆しないのに業を煮やし、“革命の引き金”を引くために裏切りを演じたというのである。この場合、ユダはイエスが「神の子」であり、神の庇護の下に奇跡を行う能力があると信じていたことになる。だから、切羽詰った状況になれば、イエスは神の力を招き寄せて一大奇跡を起こし、きっとローマの支配は崩壊する。そのためには、多少の荒療治も許されると考えた。しかし、実際は、イエスはローマ兵に捕らえられ、拷問を受け、十字架上で非業の死を遂げる。だからユダは、自責の念に堪えきれずに自殺するのである。

 さて、“ユダの裏切り”の動機について3種類の解釈を紹介したが、どれもある程度「ありそう」であり、ある程度「ありそうもない」ように感じられるだろうか? 1700年も昔の、記録があやふやな出来事にあっては結局、事実は分からないことの方が多い。そんな場合、我々は自分の心を投影して「最もありそうな」解釈を選ぶ以外にないのかもしれない。こういう点で、歴史と宗教は似てくるようだ。

谷口 雅宣

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2006年4月11日

“ユダの裏切り”の理由 (2)

 前回、谷口雅春先生の「耶蘇伝」に触れて「ユダは結局裏切らなかったが、不信仰が原因でイエスの身代りとなって処刑された」という解釈を紹介した。これは、この特定の戯曲の中のユダの行動について書いたのだが、誤解を招きやすい表現だった。というのは、谷口雅春先生は『新版 ヨハネ伝講義』(1997年、日本教文社刊)の中で、ユダの裏切りについてきちんと描写されているからだ。では、その動機についてはどう解釈されているのか? そこには「嫉妬」がある、と先生は見るのである。
 
 過越しの祭の6日前、ベタニアのラザロの所で夕食会が開かれるというので、イエスと弟子らが食卓についていると、マグダラのマリアが来てイエスの足元に跪いた。『ヨハネ』の記述にはこうある:
 
「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油1斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家いっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。“なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか”。(…中略…)イエスは言われた、“この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない”。」(12:3-8)

 この文章を、先生は次のように解釈される:
 
「恐らくユダはマリヤを愛していただろうと云うことが此の一節でわかるのであります。マリヤがイエスの足に香油をそそいで接吻し、イエスの足を彼女の髪で拭うのを見ているに耐えなかったのであります。そこで師の前をも憚らずにマリヤを叱責したのでしょう。すると、イエスがマリヤを弁護するかの如く、“この女の為すに任せよ”と言った。その言葉は、その女の前で、自分が面罵されたことにも当る。愈々此の時ユダはイエスを殺そうと云う決心をしたのであります。」(p.245)

 雅春先生はさらに、上掲の「耶蘇伝」の中でも、このユダの心中の葛藤を描写されている。ユダはイエスの弟子であるのに、師と自分が同等であるという主張をそこで展開する。その不合理な心理の背後には、マリヤをめぐるイエスへのライバル意識と嫉妬があるのだ:

ユ ダ--君たちは先生をあまり神様に見すぎている。先生が「神の子」なら、われわれも「神の子」なんだ。先生のなされるところが神の行ないならわれわれのなすところもやはりまた神の行ないなんだ。先生の言われるところが神の言葉ならば、われわれの言うところの言葉も、やはり神の言葉なのだ。先生の考えるところの考えが、神の考えならば、われわれの考えるところの考えも神の考えなのだ。先生の教えは万人を神の子にまで解放した。それでこそ先生の教えが尊いのだ。それだのに、先生の言葉だけを神の言葉として盲従し、われわれの言葉は神の言葉でないとして、排斥するのは迷信だ。(『生命の實相』頭注版第31巻、pp.131-132)

「耶蘇伝」では、こういう信仰上の過ちに気づかずに、増上慢の心で罪を犯してしまったユダであるにもかかわらず、イエスは不憫に思って身代りになろうとする。ところがローマ兵は、そのイエスを「ユダ」だと思い、イエスに成り代わったユダを「イエス」だと思って逮捕する。この辺の複雑な心理描写と、どんでん返しのプロットは圧巻なので、読んでいない人にはぜひ一読をお勧めする。
 
谷口 雅宣

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2006年4月10日

“ユダの裏切り”の理由

 前回は、『ヨハネによる福音書』からイスカリオテのユダの“裏切り”に関する箇所を引用したが、『マルコによる福音書』にも、イエスがユダの裏切りを事前に知っていたことが書いてある。それは第14章17節から21節までの文章だが、イエスのユダに対する評価は極めて悪い。イエスは12弟子の前で、その中の一人が裏切ろうとしていると言い、弟子たちが騒ぎ出した後にこう言う:
 
「12人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。
 
 福音書の記述を素直に読む限り、イエスはユダが自分を裏切ることを知り、かつその裏切りによって自分にもたらされる苦痛も知りながら、自らの運命を受け入れる。それが「神の子」として、万人の罪の身代りとなる救世主としての態度だとのメッセージが読み取れる。前回触れた新文書によれば、ユダはイエスに望まれて“裏切り”を行ったというが、しかし、そうまでしてユダを裏切らせなければ、イエスは逮捕され、処刑されなかったのだろうか? この不自然さは否めない。
 
 ところで、ユダは何のためにイエスを裏切ったのだろう? 『マルコ』には、その動機は「金」だと書いてある。(14:10-11)金を与えることを約束したのは、ユダヤ教の「祭司長たち」である。そして、イエスを捕らえるために動員されたのは「祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆」(14:43)ということになっている。しかし、『ヨハネ』では、ユダが手引きしたのは「一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役ども」(18:3)だと書いてある。そして、イエスを捕らえたのは「一隊の兵卒やその千卒長やユダヤ人の下役」であり、イエスを連れて行った先は「大祭司カヤパの舅」に当るアンナスの所であり(18:12-13)、そこからさらに大祭司カヤパ、そして最後にローマ総督・ピラトの官邸へと連行される。実は、この流れが不自然だと考える研究者は多いのである。

 ポイントは、「一隊の兵卒」という言葉である。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあった。だから当時のユダヤには「兵卒」といえばローマ兵しかいないのである。支配者であるローマ兵を、属国の宗教の祭司長が動かすことはできない。にもかかわらず、『ヨハネ』には、イエスを捕らえたのはローマ兵と、その千卒長と、部下のユダヤ人であると書いてある。そして連行先は、真っ先にユダヤ教の大祭司の所である。ローマ軍の事前の了解なしに、こんな兵の動きができるだろうか? しかも、この動きについては、最古の福音書である『マルコ』を初め『マタイ』にも『ルカ』にも書いてないが、後に書かれた『ヨハネ』にだけ出てくる。前3書には、ユダヤの「群衆」がユダの手引きによってイエスを捕らえに来るが、『ヨハネ』ではローマ軍が参加している。どちらが正しいのか?
 
 1962年に『イエスの死』(The Death of Jesus)を書いたジョエル・カーマイケル氏(Joel Carmichael)は、『ヨハネ』がより正確であり、他の3福音書は事実を糊塗していると考えた。この「一隊の兵卒」とはローマの歩兵隊であり、ローマ軍がイエスを積極的に捕らえたというのが事実だ、と彼は考えた。なぜなら、福音書の作者は後代になればなるほど、イエスの死に関するローマ帝国の関与を“薄める”ことを心がけ、その代りにユダヤ人の関与を“濃くする”ことを意図したからだという。にもかかわらず、ローマ軍の動きが『ヨハネ』に書かれているのは、その元になった書にそのことが事実として描写されていたからだ--こう考えるのである。

 カーマイケル氏の考え方は分かりにくいかもしれないが、彼の本は、イエスをローマ帝国に対する“反乱組織”の長として位置づけている、と述べれば、その意味を了解できるだろう。ローマはイエスを反乱軍の長として処刑した。しかし、後にそのイエスの教えがローマ帝国全体に広がったので(ついにはローマの国教となった!)、福音書の作者はイエスの逮捕と処刑にローマ軍が関わったという事実を薄める必要があった、というわけである。この場合、“ユダの裏切り”の理由は、単なる「金」ではなくなる。12弟子はそれぞれの民兵組織を配下にもっていたことになるから、政治的・軍事的理由からの“寝返り”の色彩を帯びてくる。そう言えば、丸腰であるはずのイエスと弟子たちの所へ、「祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆」が真夜中に「剣や棒」などの武器をもって押しかける必要がなぜあるのか、という疑問も湧く。また、『ヨハネ』には、イエスを捕らえに来た大祭司の部下にペテロが剣で切りかかり、右の耳を切り落としたと書いてあるが、剣を持っていたのはペテロだけだったのだろうか?
 
 しかし、上記の解釈は一部の研究者のものである。別の研究者の中には、“ユダの裏切り”が本当にあったかどうか疑問視する人もいる。例えば、田川建三氏は「福音書はすべて、ローマ帝国支配下の状況においてキリスト教の正当性を主張しようとする意図を持って書かれている」という立場から、『イエスという男』(1980年、三一書房刊)の中で次のように述べている:
 
「たとえばイスカリオテのユダがイエスを“裏切った”という。何故“裏切った”のか、どのように“裏切った”のか、そもそもイエスを逮捕するのにどうしてユダの“裏切”が必要だったのか、我々は何も知らない。何らかの意味で“裏切者”と断罪されたユダは、イエス死後の弟子達の教団から排除された。そして、“裏切者”を排除した教団は、裏切者がどのように裏切ったかを物語る必要にせまられる。すべての権力的党派に共通する行動を初期キリスト教団もとったにすぎない」(p.351)
 
 1700年も前に生きた人の“裏切り”の理由は、こうして闇の中にある。それを宗教的にどう位置づけるかは結局、今を生きる人間の考え方による。生長の家創始者・谷口雅春先生は「耶蘇伝」(『生命の實相』宗教戯曲篇に収録)の中で、「ユダは結局裏切らなかったが、不信仰が原因でイエスの身代りとなって処刑された」との独自の解釈を打ち出されている。そのユダの心理描写から、現代の我々は多くのことを学ぶことができるだろう。
 
谷口 雅宣
 

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2006年4月 9日

“ユダの福音書”の衝撃

 聖書研究者の間で翻訳が待たれていた“ユダの福音書”の内容が発表されて、話題を呼んでいる。イエスの12人の直弟子のうち、師を敵に売った“裏切り者”として侮蔑の対象とされてきたイスカリオテのユダが、実はイエスの教えの唯一の理解者であり、師の命を受けて敵の手引きをする役を不本意にも実行した、という内容らしい。伝統的なキリスト教の教えから大きく外れるものだが、この文書自体は偽作ではなく“本物である”というのが、専門家の一致した評価らしい。今後、多方面で論議を呼ぶだろうが、初期のキリスト教の多様性を示すものとして興味深い。
 
 私は、新約聖書にある福音書の背景について『ちょっと私的に考える』(1999年、生長の家刊)の中に少し書いているが、“ユダの福音書”などというものがあることは知らなかった。これは、現在の形の聖書が結集される前から存在していたいわゆる“外典”の一つが、最近の考古学と科学技術の助けを得て再発見されたもののようだ。4月7日の『朝日新聞』(夕刊)によると、この文書はパピルス13枚の表裏にインクで筆写されたもので、エジプト中部の砂漠地帯で見つかった。書かれた文字は「コプト文字」で、当時エジプトに住んでいたキリスト教徒が使った古代文字である。インクの成分やパピルスの質、文章の構造や文法、書体などを専門家の国際チームが分析した結果、3~4世紀の文書であり、放射性同位体による年代測定でも220~340年のもの、書かれた後に修正は加えられておらず、さらに2~3世紀に書かれたギリシャ語の原文からの翻訳であることも分かり、「本物」とのお墨付きが出た。

 しかし「本物」とは、いったいどういう意味だろう。“ユダの福音書”に書かれた内容が史実であるということか? それとも、この文書が、内容はともかく、初期キリスト教徒によって書かれたという意味なのか? 私は、この文書は前者を証明するものではなく、今のところ後者の意味しかない、と考える。なぜなら、原文は2~3世紀に書かれたというのだから、イエスの死後の文書である。ギリシャ語で書かれたという意味は、イエスの日常言語(アラム語)とは別の言語で書かれたということだ。つまり、イエスを直接知らない人物の著作である可能性が高い。これらすべての要素は、現在「正統」とされている4福音書の多くに共通するから、結局、“ユダ”のみが正しくて、他の4福音書が間違いであるとの根拠にはならないのである。
 
 ところで、8-9日付の『ヘラルド・トリビューン』紙もこのニュースを大きく取り上げているが、その記事に面白い箇所がある。それは、コプト学の専門家であり、カリフォルニア州のクレアモント大学院大学の教授だったジェームズ・ロビンソン(James Robinson)氏の言葉だ。ロビンソン氏は、「今回の文書の内容には、正しく理解すれば、現在の聖書の内容を否定するものは何もない」と言うのである。氏によると、現在のヨハネとマルコの福音書には、イエスがユダに裏切りを示唆しているだけでなく、ユダに対して自分を敵の手に渡せと言っている箇所があるという。調べてみると、『ヨハネによる福音書』で、イエスは弟子たちを前にして「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と言った後、弟子たちが騒ぎ出すと、「私が一切れの食物を浸して与える者がそれである」と言って、ユダにその食物を与えるのである。その次にこういう記述がある:
 
 そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。(13:27)

 このあとですぐ、ユダはイエスの指示に従って裏切りのために外出するのである。

 また、上記の記事によると、今回の新文書の中にもう一つ興味ある記述がある。それは、イエスがユダに対して他の弟子たちのことを言いながら、「しかし、あなたは彼らすべてを超えるだろう。なぜなら、あなたは私を覆う男を生贄にするのだから」と言う箇所があるという。「私を覆う」(clothe)という表現の意味をどう捉えるかがポイントで、これを「霊的な私を覆う肉体の男」と考えると、ユダは、イエスが自分の肉体を放棄する手伝いをすることになるのだから、「イエス内部の霊的自己・神性を解放する男」ということになる。だから、新文書では、ユダは他の弟子を超えた存在として位置づけられているらしい。

谷口 雅宣

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2006年4月 7日

洞窟住宅に住む

 中国では、今でも2千万人もの人が洞窟内の住宅に住んでいることを知っているだろうか。特に、北西部の黄土高原の黄河流域には、現在も新たな住宅が洞窟内に建設されつつあるという。これらの家は、高原の南向きの崖の横穴に造られることが多く、日光によって暖まり、北風から守られるだけでなく、半ば地中にあるため夏は涼しく、冬は暖かい。そして、周囲を平地にする必要がないから環境への影響は最小限で済む。こういう優れた“環境性能”に注目した科学者が、陜西省の洞窟住宅を調査した結果を、このほど米アリゾナ州で開かれたインテリア・デザイン教育者の国際会議で発表した。
 
 発表者はイースタン・ミシガン大学のジャン・ルー助教授(Jiang Lu)で、彼女の研究チームはダンジァシャン(Dang Jia Shan)という30所帯ほどの古い山村の洞窟住宅の生活を調査した。チームは、住宅の構造を調べて測定し、建築材料を撮影し、周辺温度の変化を測定し、そして村民から住宅の機能や建築方法について聞き取り調査を行った。その結果、ルー助教授は「この崖の洞窟に造られた伝統的住宅の特徴は、現代の持続可能なデザインの原則とほとんど一致していることがわかった」という。彼女によると、「これらの洞窟住宅は、“自然との調和”という中国文化の中核的思想を反映しており、この地方の人々とその文化は、環境に過度の負担をかけずに何百年も続いてきた」という。
 
 もっと具体的には、ここの住宅の建築材料はすべて付近から入手し、器具や道具はすべて手を使う簡単なものだから、器具や大型機械の製造や運搬をしないですみ、環境への負担が少ない。また、農地に使えるような貴重な平地に住宅を建てないので、土地の効率的な利用が可能である。そんな意味で、地球温暖化時代の人類の生活を考えるうえで、過去の人類の知恵にも学ぶところは多いと言えるだろう。実際の洞窟住宅の写真は、このサイトで見られる。

 考えてみれば、日本列島は山地で覆われている。南向きの崖など数限りなくあるに違いない。が、崖の洞窟の中に住宅を構えるという話は、あまり聞いたことがない。山形県にある立石寺(通称、山寺)は西暦860年に建てられたものだが、絶壁のような岩山の上に建てられていて、洞窟を掘ってその中に堂を造るという形式はとっていない。また、日本各地には自然にできた洞窟が多くあるが、その中に小さな祠を建てることはあっても、そこで人が生活することはないだろう。日本人も古くから「自然との調和」を心がけてきたのだから、中国の洞窟住宅のような工夫がどこかで行われていたと思うのだが、どなたかご存じの方があったら御教示願いたい。それとも、洞窟住宅は神仙思想にもとづく中国独特のものなのだろうか。

谷口 雅宣

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2006年4月 6日

男にも再生の道?

 ES(胚性幹)細胞の研究については、韓国のファン・ウー・ソク教授が関わった“捏造論文”の影響が尾を引いているのか、最近はあまり話題にならないようだ。その代わり、別の方法でES細胞に似た能力をもつ細胞をオスの生殖器から作成する方法が開発されたらしい。ただし、まだ人間の細胞を扱うのではなく、マウスの段階での研究である。しかし、これが人間に応用できるようになれば、従来のES細胞のような倫理問題を起こさずに、再生医療に役立つ可能性がある。

 ES細胞や体細胞クローンの作成にあたっては、これまでは受精卵や卵子が使われ、精子は使われなかったことはご存じだろう。私は、このことをかねてから不思議に思っていた。人間も動物も、生殖器官を除いては、オスとメスは基本的に同じ体の構造であり、遺伝子もXY染色体を除いては同じである。“下等”と言われる動物の中には、オスとメスが容易に入れ替るものもあり、植物には雌雄同体は珍しくない。一つの生物種の中では、オスとメスは単にバリエーションの違いであり、本質的な差異ではない。人間の体内にある成人幹細胞も、男のものも女のものも、多種類の組織や臓器に分化する脳力を等しくもっている。だから、オス(男)の生殖細胞からもES細胞に似たものができて不思議はないはずだ--こんな疑問である。
 
 そんなところへ、ドイツの研究チームがマウスの精原細胞(spermatogonial cells)からES細胞に似た幹細胞を得ることに成功した、という話が飛び込んできた。3月24日の『New Scientist』のニュースが伝えている。もしこれと同じ方法が人間で可能ならば、男性の患者は、自分の体のスペアを自分自身から比較的簡単に得る道が開かれることになる。また、ES細胞作成に当っては、これまでは受精卵や卵を破壊することが不可避だったため倫理問題を起こしてきたが、この方法が確立すれば、そういう問題がかなり軽減すると思われる。
 
 この研究は、ゲオルグ-アウグスト大学のゲルド・ハッセンファス教授(Gerd Hasenfuss)らのチームの手になるもの。彼らは、マウスの睾丸から精原細胞を取り出し、それを成長ホルモンや栄養素の中で培養することで、精子に分化させずにES細胞のような多分化型の幹細胞(multipotent adult germline stem cells)を作ることに成功した。ハッセンファス教授によると、その幹細胞は心筋細胞、血管細胞、神経細胞、皮膚細胞、そして肝細胞など、あらゆる種類の細胞に変化させることができるという。精原細胞は、精子になる前の段階の細胞で、これを取り出すことは、ガン治療の際や不妊治療等で普通に行われているというから、特に難しい技術ではないという。
 
 しかし……と私は考え込んでしまう。自分の生殖器から取り出した細胞を培養して、自分の体内の別の場所の補修に使うことが本当にできるのだろうか? もしそれが可能なら、自然状態でなぜそれが起こらないのだろう? 言い換えると、そういうメカニズムが何十万年という人類の進化の過程で、どうして体内に整備されてこなかったのだろう、と思う。肉体内部の諸組織や諸器官相互の精緻で複雑極まりないオーケストレーションを考えると、そういう内在のメカニズムよりも、人間が外から器具や機械を使って操作する方法の方が優れていると、どうして言えるのだろう? 医学の世界は、わからないことだらけである。
 
谷口 雅宣

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2006年4月 5日

イエスは湖上を歩いた?

イエスは湖上を歩いた?

 4月3日の本欄で「祈りの効果」の科学的研究を紹介したが、その際、“偽薬効果”(プラシーボ効果)と呼ばれるものに言及した。これは、医学的効果がないものも「薬」だと思って服用すると病気が治る場合があることを指す。宗教で“奇跡”と呼ばれるものの中には、この種のものも相当数含まれていると考えられる。この効果が起こる仕組みについて、昨年9月16日の本欄では、脳内に生成されたエンドルフィンという物質が作用して強力な鎮痛効果を生むことを示す研究を紹介した。エンドルフィンの効果は「鎮痛」だけでなく、免疫系を含めた体全体に及ぶから、祈りが“偽薬効果”を生み出せば、病気の治癒に積極的に関与することは十分考えられると思う。

 それでは、聖書にあるイエスの数々の奇跡も偽薬効果の一種なのだろうか? そう訊ねられると、2000年後を生きる外国人としての私は、「そういう場合もあっただろうし、そうでない場合もあっただろう」としか答えられない。それに、聖書に記録されている“イエスの奇跡”は、病気治しのほか、悪霊を追い出したり、死人を甦らせたり、大漁を呼び寄せたり、嵐を静めたり、イチジクを枯らしたり、湖上を歩いて渡ったり……と実に多岐に及ぶ。これらの中には事実だったものもあるかもしれないし、事実を見誤った一種の“集団催眠”が見せた現象が含まれていたかもしれない。とにかく、現代に於いて事実関係を検証することは、もはや不可能だろう。
 
 そう思っていたところへ、イエスが「湖の上を歩いて渡った」という話は現実にありえる、という研究が最近、発表されたらしい。本欄のアメリカの読者がそれを伝えるニュースを教えてくださった。この話は、フロリダ州立大学の海洋学者、ドロン・ノフ教授(Doron Nof)が学術誌『 Paleolimnology』(考古陸水学)の4月号に発表した論文で述べているもの。ただしノフ教授は、「我々の研究が聖書の記述を説明しているかどうかについては、何とも言えない」としている。

「イエスの湖上歩き」の話は、新約聖書の3つの福音書に出てくる。そのうち、記述がもっとも詳しいのは『マタイによる福音書』である。その部分(14:22-27)を引用する:

「イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。イエスは夜明けの4時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、“しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない”と言われた。」

 引用文中に「海」とあるのは、現在のイスラエル北部にあるキネレ湖(Lake Kinneret)と考えられる。この湖には岩塩を含んだ小川が何本も注ぎ込んでいるという。科学者はこの湖の水の組成等を調べ、当時の地中海の温度の記録や気候モデルなどを加味してシミュレーションした結果、今から1500~2500年前にあった2回の寒い期間に、最長で2日間、周辺の温度が氷点下4℃まで下がったという結論に達したという。こういう状態だと、湖の西岸に流れ込む小川からの塩水が氷結して、湖の表面に小さな氷の塊がいくつもできる可能性があるという。これは極めて希な現象で、イエスの時代には30年から60年に1回起こったと考えられるが、気候が変わった現代では千分の一の確率だという。

 もし、この氷塊の上を伝ってイエスが未明に、対岸から湖上の舟まで渡ったとしたならば、彼の運動能力は相当のものだということになる……読者はどう思われるだろうか?
 
谷口 雅宣

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2006年4月 4日

鳥インフルエンザは恐くない? (2)

 3月28日の本欄で、現在世界各地で流行中の強毒性の鳥インフルエンザの人間への感染について“楽観論”を紹介した。つまり、これまでの経緯を見ると、鳥から人間への感染率は極めて小さいので、このウイルスが人から人へ感染するタイプに変異するのはきわめて難しい、という考え方である。この楽観論は、主として統計的な見地から導き出されたものだろうが、同じような結論を医学的見地から導き出した研究グループが、それをイギリスの科学誌『Nature』の3月23日号に発表した。研究の要約も入手できる。
 
 この研究グループは、ウィスコンシン-マディソン大学獣医学校のウイルス学者、河岡義裕教授が率いるグループで、強毒性のH5N1型鳥インフルエンザ・ウイルスが感染するためのレセプター(ウイルスの入口)は、人間の場合は呼吸器系の深奥部に多いが、上層部にはめったにないことを、人間の細胞を使った実験によって証明した。インフルエンザ・ウイルスが人から人へ感染するためには、鼻や喉など呼吸器系の上層部の細胞に取りついて増殖し、咳やくしゃみを介して空中に飛散することが効果的だ。しかし現在の鳥インフルエンザ・ウイルスは、呼吸器系の上層部には感染しないから、低い感染率にとどまっているというのだ。したがって、この型のウイルスが人に感染するものとなるためには、相当大きな遺伝的変異が起こらなければならない、と河岡教授は言う。

 もし河岡教授の説が正しければ、動物のインフルエンザ・ウイルスがどのような遺伝子型に変異することが人間にとって危険であるかの知識が得られたことになる。また現在、「タミフル」を大量備蓄するなどして強毒性鳥インフルエンザの感染防止を急いでいる人類には、まだ多少の時間が残されていると言える。さらに、前回紹介したジェレミー・ファラー博士の予測が正しければ、今後の変異で、このウイルスの人から人への感染が容易になったとしても、毒性の減少によって人類への脅威度は大幅に減るかもしれない。
 
 今回は、楽観論中の楽観論を紹介した。
 
 谷口 雅宣

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2006年4月 3日

祈りは治病に効果なし?

 4月1日付の新聞各紙に、病気治癒のための祈りの効果を科学的に検証した結果を伝える記事が載った。それによると「祈りは無効果」だそうだ。『朝日新聞』の見出しは「“祈り”の効果なし?」と疑問符入りだが、『京都新聞』は「祈りは病気回復に効果なし」と断定する。宗教に携わる者にとって、こんな書き方をされては身も蓋もない。実際に「効果あり」との礼状や報告を毎日のように受け取っているのだから、このニュースによる“認知の不協和”は深刻である。いったいどう考えたらいいのか--それを考えてみよう。
 
 私は『京都新聞』に載った共同電と『朝日新聞』、そして『ヘラルド・トリビューン』に載った記事を読んだが、研究の内容についてそれぞれの説明が微妙に違う。そこで、最も詳しく書かれた『トリビューン』紙の記事をもとに、この研究がどう行われたかを記述してみよう。

 まず、記事の結論部分にはこうある--「見知らぬ人に祈ってもらっても、心臓手術を受けた患者の回復には何の効果もなかった、ということが、長期にわたる大規模な研究によって明らかになった。そして、自分が祈りの対象であると知っていた患者の方が、そうでない患者よりも、不整脈などの術後の合併症に罹る率が高かった」--こういう書き方だと、「祈りは無効果」という単純な断定とは、少し印象が違ってくる。ポイントは「見知らぬ人に祈ってもらう」というところにあるようだ。記事の紹介を続けよう--
 
 この研究は、心臓バイパス手術を受けるために6つの病院に入院していた1802人を対象にして行われた。これらの患者は3つのグループに分けられ、このうち2つのグループは祈りの対象となったが、残りの1グループの患者は祈りの対象にならなかった。祈りの対象となった患者のうちの半数には、自分たちが祈られていることを知らせたが、他の半数の患者には、祈られているかいないかは分からないと告げたという。実際の祈りは3つの教会に所属する信者が行い、対象となった患者の名前と姓の頭文字(例えば、ジョージ・B)を祈りの言葉の中に入れて行われた。祈りの仕方については、各教会の自由にさせたが、祈りの中に「手術が成功して早く回復し、合併症が起きないように」という言葉を入れることを条件にした。
 
 そして、手術後30日たってから、対象者の病状を調べたところ、祈られた患者とそうでない患者の間には、統計的に有意な差はなかったという。また、自分が祈られたことを知っていた患者(59%)の方が、よく知らなかった患者(51%)よりも合併症を生じる率が高かったという。この違い(51%と59%)について、論文の執筆者はそれが偶然起こる可能性を否定していない。しかし、自分が見知らぬ人に祈ってもらっていると知ることが、自分の病状に不安を抱く原因になるかもしれないとも言っている。つまり、「自分はそんなに悪いのか……」と不安に思うということだ。このことは、自分が祈られていることを知っていた患者の方が、そうでない患者よりも術後の状態が悪い場合が多かったこととも、関係があるかもしれない。前者では18%、後者では13%の患者が、手術後に心臓発作や脳血管障害を起こしたという。
 
 この研究が注目されていた理由は、それが「長期にわたる大規模な研究」であるだけでなく、研究の主任者が心と体の問題に詳しい心臓外科医、ハーバート・ベンソン博士(Herbert Benson)だったからだ。ベンソン博士の研究は、私が『心でつくる世界』(1997年、生長の家刊)でも取り上げている(p.256-257)ように、“偽薬効果”(プラシーボ効果)がなぜ起こるかを究明しようとするもので、研究の背後には「心の働きが肉体に影響する」という仮定が当然存在していたはずだ。にもかかわらず、「祈りは無効果」という結果が出たとすると、同博士にとっては衝撃かもしれない。
 
 しかし、生長の家での祈りの仕方についてご存知の読者は、この研究で使われた祈りの言葉に問題がある可能性に気づかれただろう。実際の論文を読んでいないので確かなことは言えないが、新聞記事の伝える限りでは、祈りの言葉は「手術」と「合併症」を心に深く印象づけるもののように思われる。また、この研究では、患者本人が祈ってくれる“見知らぬ人”を信頼しているかどうか、あるいは神を信じているかどうか、はたまた何教の信者なのか等の問題をあまり重視していないと思われる点に、不満が残る。病人が他人に快癒を祈ってもらう場合は、自分の信じる特定の宗教の、場合によっては特定の人に依頼するのが普通だろう。この研究に、そういう細かい配慮がなされているかどうかは不明である。

谷口 雅宣

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2006年4月 2日

温暖化防止は、これから

 福知山市で行われた生長の家講習会で午後、アメリカの雑誌の最近の特集記事について言及した。前日に東京を出るときに羽田行きの車中で入手した時事週刊誌『TIME』の4月3日号と、科学誌『Science』の3月24日号が、偶然か必然か地球温暖化に関する特集を掲載していたからだ。実は、前掲2誌の前に私が読んでいたイギリスの『New Scientist』誌(3月18日号)も、論説と4ページの記事で温暖化に警鐘を鳴らしていた。世界のオピニオン・リーダーの視線が最近、この大問題に注がれるようになったとの感を強くしたのである。本欄に付き合ってくださる読者は、あのブッシュ大統領でさえ「アメリカ人は石油中毒」と認め、新世代ハイブリッド車の振興策に(形だけだが)触れたことを記憶しておられるだろう。
 
Time040306 『TIME』誌の表紙には、氷の溶けかけた海面を心配そうに眺めるシロクマの写真をあしらい、その脇に「心配だ、すごく心配だ(Be worried. Be very worried.)」という大きな文字を配し、何が心配であるかを小さい字で書いている--「気候変動は未来の漠然とした問題ではない。それはすでに警戒すべき速度で地球を傷つけている。それが我々にどう影響し、我々の子、そして孫にどう影響するかをここに報告する」。そして特集記事は、大判のカラー写真を含めて全部で26ページも続く。特集の前半は、自然界がどのように変化しつつあるかを「大気中の二酸化炭素の増加」「気温の上昇と減少する極地や高地の氷」「旱魃と森林火災」などの側面から描いているが、これらについては、本欄でも度々触れたので省略する。

 私が知らないことが多かったのは、特集の後半で報じられている「温暖化防止への実際の取り組み」ついての情報だった。例えば、コールドプレイというロックバンドは、自分のCDアルバムを出版する際、インドのカルナタカの人々のために1万本のマンゴーの木を買ったという。なぜなら、CDの製作・販売の過程で生じるCO2の量が、マンゴーの木1万本が吸収するCO2の量に相当するからだ。これによって、インドの人々は近い将来、マンゴーの実から経済的対価を得られるだけでなく、京都議定書の下の排出権取引制度によって、1万本のマンゴーの木の中に蓄えられたCO2からも利益を得ることができるのだそうだ。

 こういう活動は、有名人でない誰でもできるような枠組みが整いつつあるらしい。例えば、Carbonfund.org (炭素基金)というアメリカの非営利団体は、トン当たりのCO2を5.5ドルで販売している。これはどういう意味かというと、5.5ドルをこの団体に支払うと、そのお金がCO2の排出削減活動をしている団体や企業へ渡り、1トン分の排出削減努力に配分される。だから、CO2を1トン分買った人は、それと同量のCO2を排出しても、地球レベルで考えるとCO2排出量は「ゼロ」ということになる。これが「排出権購入」の考え方だ。Carbonfund.org では、個人が1年間の生活で排出するCO2の基礎量を「99ドル」で売っている。だから、この金額を支払えば、その人は1年間を「CO2の排出ゼロ」で生活したことになるのだそうだ。現在の我々の日常生活では、どんなに努力しても電気やガソリンを使うことになるから「CO2の排出ゼロ」は不可能だ。が、この制度はそれを実質可能にするというわけだ。

 また、化石燃料に依存しない経済を実現するためのスウェーデンの取り組みには、感心させられた。この国は、1970年にはエネルギーの77%を石油に依存していたという。しかし、2003年にはその依存度は34%に減少した。この間、工業生産は劇的に上昇したのに、である。これを可能にしたのは、地理的に恵まれた水力、バイオマス、風力の活用である。しかしそれだけでなく、国の政策も強力なものだった。化石燃料とCO2に課税して技術の進展と自動車の買い替えを図り、灯油から自然エネルギーへと暖房の方式を切り替える家庭には税を一部免除した。現在、同国にはガソリン車はあるものの、ハイブリッド車が多く、またエタノールのほか、植物性廃棄物から作られたバイオガスでも走るという。そして、そういう代替燃料を供給するスタンドが全国各地にあるため、今年2月に販売された自動車の13%が代替燃料で動くまでになっている。だから、同国の持続可能発展相(Minister for Sustainable Development)は、「2020年までには、この国の化石燃料への依存は終ります」と言うのである。

 個人も団体も企業も国も、まだまだやることがあると感じた。
 
谷口 雅宣

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2006年4月 1日

福知山散策

 新年度が始まった。理由は定かでないが、生長の家講習会での新年度の“先頭打者”はいつも「京都第2教区」ということになっている。そこで今日は、同教区での講習会のために福知山市へ来た。4月は桜の季節なので、福知山では満開の桜が見れるかと期待していたが、伊丹空港に迎えに来てくださった人に尋ねると「今年はまだです」という答え。その代わり、東京では終ってしまった白梅や紅梅の咲き誇った姿をあちこちに見ながら高速道路を走り、そのうちに眠ってしまった。

 福知山市の中心部からやや外れた丘の上にある「ロヤルヒル福知山」というホテルに、午後3時半ごろ到着した。その後のことは、妻が伊勢の両親宛てに書いた手紙によく描かれているので、彼女に頼んで、今回はその手紙をご披露することにした。(以下は、妻の手紙)

 大阪・伊丹空港から車で約1時間半、京都第2教区の講習会で福知山に来ました。
 兵庫県の丹波を過ぎて、福知山。そのままずっと日本海の方に行くと舞鶴です。ここ福知山は山の中で、2年前にやはり4月初めに来たときは、ちょうど桜が満開でした。福知山城の桜まつりを見に行きましたが、今年は、あと1週間位しないと満開にはならないようです。ちょうど、つぼみが開くかなという感じです。
 このホテルは町の中心から離れた、工業団地のある一帯の山の上にあります。温泉があるので、人がけっこう来ています。ロビーにお雛様が飾ってありました。こちらは旧暦で4月3日に祝うのが主流だそうです。
 近くは、畑が点在している住宅地で、古い家と新しい家がまざっています。コンビニもないところですが、1軒「プロバンス」という名前のパン屋さんがありました。散歩の途中で、「カフェ」と書いてあったので入りました。軽食があり、パンを買って食べることもできるので、私達は、チーズケーキ(210円)とコーヒー(294円)、カプチーノ(294円)で一息つきました。畑と住宅の中ですが、ひっきりなしに車が来て、家族連れや若い人が、パンや菓子パン等を買っていきます。食べていく人もいます。とてもにぎわっていましたが、理由は、どれも安くて、すぐ目の前で焼いているからだと思います。
 畑では、何人ものお年寄りが、家庭菜園くらいの広さの畑の手入れをしていました。地方の暮らしを見るのも楽しいです。ほんの1時間位の散歩でした。(妻の手紙終り)
 
 ということで、ホテルに帰ってきて夕食となった。1階の「山葵(わさび)」という和食堂で私は寿司定食、妻はお造り定食を注文した。しかし……である、8貫ある私の握り寿司の1つが牛肉だった。桜色をした霜降り肉の上に生姜が載っている。恐らく上等の神戸牛なのだからご馳走に違いない。が、考えたすえ、上を剥がしてシャリだけ食べた。その他の寿司は、もちろんおいしくいただいた。

 そんな夕食の後、部屋に帰って読んだ『京都新聞』(4月1日付)に、牛肉の“霜降り”状態を作る遺伝子を京都大学の農学研究科のチームが発見したという記事を見つけた。霜降りの度合いは「BMS値」という数値で測るそうだが、「EDG1」という遺伝子の変異によってこの値が高くなることが分かったという。これによって、牛が小さい時や胎内にいる時でも、遺伝子診断をすれば将来の肉質を予測することができるので、上質の霜降り牛肉の効率的生産につながると期待される、と記事には書いてあった。

 私が想像するに、肉牛に子ができたら、早期に遺伝子診断を行い、将来“霜降り”になるものを選んで育てることが「効率的生産」の意味なのだろう。人工受精によって受精卵をつくり、それの遺伝子を調べて“霜降り型”だけを子宮に着床させるのかもしれない。選ばれなかった牛には、きっと生きる道はない。が、選ばれた牛もいずれ殺されるのだから、どっちが幸せかと考え込んでしまう。
 
谷口 雅宣

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