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2006年4月11日

“ユダの裏切り”の理由 (2)

 前回、谷口雅春先生の「耶蘇伝」に触れて「ユダは結局裏切らなかったが、不信仰が原因でイエスの身代りとなって処刑された」という解釈を紹介した。これは、この特定の戯曲の中のユダの行動について書いたのだが、誤解を招きやすい表現だった。というのは、谷口雅春先生は『新版 ヨハネ伝講義』(1997年、日本教文社刊)の中で、ユダの裏切りについてきちんと描写されているからだ。では、その動機についてはどう解釈されているのか? そこには「嫉妬」がある、と先生は見るのである。
 
 過越しの祭の6日前、ベタニアのラザロの所で夕食会が開かれるというので、イエスと弟子らが食卓についていると、マグダラのマリアが来てイエスの足元に跪いた。『ヨハネ』の記述にはこうある:
 
「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油1斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家いっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。“なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか”。(…中略…)イエスは言われた、“この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない”。」(12:3-8)

 この文章を、先生は次のように解釈される:
 
「恐らくユダはマリヤを愛していただろうと云うことが此の一節でわかるのであります。マリヤがイエスの足に香油をそそいで接吻し、イエスの足を彼女の髪で拭うのを見ているに耐えなかったのであります。そこで師の前をも憚らずにマリヤを叱責したのでしょう。すると、イエスがマリヤを弁護するかの如く、“この女の為すに任せよ”と言った。その言葉は、その女の前で、自分が面罵されたことにも当る。愈々此の時ユダはイエスを殺そうと云う決心をしたのであります。」(p.245)

 雅春先生はさらに、上掲の「耶蘇伝」の中でも、このユダの心中の葛藤を描写されている。ユダはイエスの弟子であるのに、師と自分が同等であるという主張をそこで展開する。その不合理な心理の背後には、マリヤをめぐるイエスへのライバル意識と嫉妬があるのだ:

ユ ダ--君たちは先生をあまり神様に見すぎている。先生が「神の子」なら、われわれも「神の子」なんだ。先生のなされるところが神の行ないならわれわれのなすところもやはりまた神の行ないなんだ。先生の言われるところが神の言葉ならば、われわれの言うところの言葉も、やはり神の言葉なのだ。先生の考えるところの考えが、神の考えならば、われわれの考えるところの考えも神の考えなのだ。先生の教えは万人を神の子にまで解放した。それでこそ先生の教えが尊いのだ。それだのに、先生の言葉だけを神の言葉として盲従し、われわれの言葉は神の言葉でないとして、排斥するのは迷信だ。(『生命の實相』頭注版第31巻、pp.131-132)

「耶蘇伝」では、こういう信仰上の過ちに気づかずに、増上慢の心で罪を犯してしまったユダであるにもかかわらず、イエスは不憫に思って身代りになろうとする。ところがローマ兵は、そのイエスを「ユダ」だと思い、イエスに成り代わったユダを「イエス」だと思って逮捕する。この辺の複雑な心理描写と、どんでん返しのプロットは圧巻なので、読んでいない人にはぜひ一読をお勧めする。
 
谷口 雅宣

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