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2006年3月 5日

悪を放置するのか?

 大阪城ホールで行われた生長の家の講習会の午前の講話で、「悪と戦う」ということは実相に於いては非存在の悪を心で認めることになるから、好ましくないという話をした。すると、質疑応答時の質問の中に、「生長の家は悪を放っておいて良いという事ですか?」と疑問を投げかけるものがあった。そのほかにも、「悪は退治しないと滅ばないんじゃないかと思う」とか「仮の姿とはいえ表れているのだから、具体的解決法を提示すべき」とか「悪が現われなければ善が出ないという事か?」など、いくつも質問が出された。これらの質問の中には誤解もあったので、午後の講話の時間には私の言葉の意味を説明し直したうえで、生長の家では「悪を放置」するのではなく、「本来非存在」である悪を本来の無に帰するために「善を行う」ことに力を入れる、という点を伝えた。

 善と悪の問題は、宗教上も哲学上も大変奥が深く、難しい問題でもあるので、数十分の話で的確充分な回答ができるものではない。そこでこの場を借りて、補足を試みることにした。もちろん、このような場での充分な説明が可能かどうかの問題があることは承知のうえだ。
 
 まず「悪はどこにあるか?」について考えてみよう。かつて「オウム真理教」と呼ばれた宗教団体の教祖、A氏が、いま刑事被告人となって裁判を受けている。ではA氏は悪だろうか? そう訊かれたならば、私は「A氏は人間である」と答えるだろう。「では、彼は悪くないのか?」と訊かれたならば、「もちろん、悪い行為をした」と答える。「悪い行為をした人間は、悪ではないか?」と訊かれれば、「行為が悪であっても、それを実行した人が悪そのものということにはならない」と答えるだろう。「何をまどろっこしい!」と読者は腹を立てるだろうか?

 私が言いたいことは、「悪い行為」「悪い人」「悪い病気」などはあったとしても、「悪そのもの」や「悪という実体」がどこかに厳然として存在するのではない、ということである。だからもちろん、よく“悪の権化”と見なされる「悪魔」などは存在しない。このことは、本欄の前身である『小閑雑感 Part 3』の中で、「釈迦と悪魔」という対話形式の文章などに表現したことがある。興味がある方は、そちらを参照されたい。

 さて、A氏が「悪そのもの」でないとしても、「戦争は悪ではないか?」と読者は問うかもしれない。私は「戦争は悪い」という言葉に100%、いや200%賛成するが、戦争という実体の存在を認めない。つまり、戦争というものは、一定の空間上の容積や質量をもった物質的存在ではないということだ。戦争はそういう“実体”ではなくて、“状態”である。実体として存在するのは、戦車や戦闘機やクルーズ・ミサイルや兵士や空母やイージス艦やレーダーや将軍や弾薬や核兵器……などだ。しかし、これらはすべていわゆる“平和”の時にも存在する。平時には軍事演習もあるのだから、ミサイルが空を行き交っても、迫撃砲弾が飛んでいても、そのこと自体が「戦争」ではないし「悪」でもない。これらの兵器や装備は「悪の媒体」となることもあるが、「善の媒体」としても機能する。例えば、自衛のために使われたり、国連の制裁措置の一環として使われたり、あるいは国威を示すためのデモンストレーションとしても使える。

 ということは、我々が普通に「善」とか「悪」と言う場合、それは、ある「状態」に対する評価である場合がほとんどなのである。よく言われることは、コップに水が半分入っている状態を見て、ある人はそれを「半分しかない」と否定的に評価する一方、別の人は「半分も入っている」と肯定的に評価する。これと似たようなことを、我々は善悪を判断する時にも行う。先に挙げたA氏の行為でさえ、日本の大多数の人は「悪い」と評価することは疑う余地はないが、地下鉄サリン事件などの実行犯となった信者や教団幹部は、その当時、命令された行為を「善い」と信じて(あるいは信じようとして)実行したことが分かっている。
 
 こういう諸々の事実を考えてみると、「悪」なるものは実体としては存在せず、それは評価する人の心に生じる否定的な力(拒絶感)を、外部に投影したものであることが分かる。したがって、「悪はどこにあるか?」との問いに対しては、「人間の心の中にある」と答えることができるだろう。

谷口 雅宣

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コメント

 悪はどこにあるか、それは人間の心にあるという、先生の記事を読んでいましたら、読売新聞のサイトに掲載された(3月8日付)こんなニュースに目がとまりました。
「親知らずから“幹細胞”」というタイトルで、 「産業技術総合研究所セルエンジニアリング研究部門(兵庫県尼崎市)は7日、大阪大と共同で親知らずの元になる歯の細胞(歯胚(しはい))を使って、肝臓、骨などに効率よく変化する“幹細胞”を取り出すことに成功したと、発表した。」というものです。
 厄介ものの親知らずを使って、自分の肝細胞や骨をつくることが出来る可能性が出てきたということのようです。今後は親知らずを抜いたら冷凍保存し、将来の肝臓障害などになった時のバックアップ用にするということになるかも知れません。しかも自分の歯ですから倫理的問題も発生しません。
 今まで余計なもの(悪)と評価されていた「親知らず」が、一転、善に評価されることになるわけで、先生のおっしゃるように、悪はあくまでも人の心の中にあるということでしょうか。
 そんなことを考えながら今回の記事にタイトルをつけるとするならば、やはり「親知らずは親孝行だった」です。

山岡 睦治拝

投稿: 山岡 睦治 | 2006年3月10日 22:56

山岡さん、

 「親知らず」の話、おもしろいですね。
 でも、「親知らずの元の細胞」というのは、親知らずが出た時点でも残ってるんでしょうか? それとも、親知らずの出ない頃に抜いておけという話なのかなぁ?

投稿: 谷口 | 2006年3月11日 10:39

谷口雅宣先生へ

>「親知らずの元の細胞」というのは、親知らずが出た時点でも残ってるんでしょうか? それとも、親知らずの出ない頃に抜いておけという話なのかなぁ?

私の紹介した記事にはこのように記述されていました。

>>歯胚は歯が形成されると消失するが、成長が遅い親知らずの歯胚は、10~16歳ごろまであごの骨に埋まっている。歯列矯正の際に抜かれてしまうことが多いが、研究グループは、この歯胚の増殖能力に着目した。<<

これを読むと、歯胚は親知らずの歯としてにょっきり出てきたときには消えていることになります。ということは、「親知らずの出ない頃に抜いておけという話」になりますね。
 私は生えてきた親知らずでも幹細胞が取り出せるかと思っていましたら、歯胚の時に限られるのですね。勉強になりました。

山岡 睦治 拝

投稿: 山岡 睦治 | 2006年3月11日 15:07

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