「疑いによる抑止」の限界
イラク戦争開戦3周年(3月20日)を前にして発行された米軍の報告書の内容が明らかとなり、3月15日の『産経新聞』が伝えている。この中で興味あることは、イラクのフセイン大統領(当時)は当初、アメリカよりもイスラエルの攻撃を恐れていたらしく、それを避けるために大量破壊兵器(生物化学兵器や核兵器)の存在を曖昧にすることで「疑いによる抑止」(deterrance by doubt)を意図していたということだ。ただし、これはイラク戦争開始以前の2002年前半までのことで、同年後半以降は、国連の調査に協力して大量破壊兵器が存在しないことを証明しようとしたが、「イラクが嘘をついていないと納得させることは難しかった」という。ノラリクラリの不誠実な対応にイスラエルに対する戦略的な意図があったとしても、外交には誠実さが重要ということだろう。
この報告書でもう一つ興味があるのは、フセイン大統領は、アメリカは自国を攻撃しないだろうと楽観していて、万一攻撃されても米軍を撃退できると考えていたらしいことだ。アメリカが攻撃しない理由は、イラクに権益をもつロシアとフランスの反対が強いと考えていたからだが、米軍に勝てると考えた理由はよく分からない。多分、都市でのゲリラ戦は自国に有利と考え、戦争の長期化によって米国内の反戦気運が高まることを期待していたのかもしれない。
このような報告書の分析が細部まで正しいかどうかは不明だが、「戦争は“誤算”によっても起こる」という点は心にとどめておくべきだろう。フセイン氏は、アメリカの意図を大きく読み間違っていたからだ。振り返ってみれば、大東亜戦争開戦時には、日本に大きな誤算があったし、朝鮮戦争やベトナム戦争の時にはアメリカ側にそれがあった。また、湾岸戦争には、イラク側に大きな誤算があったことが分かっている(誤算の内容は省略)。誤算とは、不正確な認識が原因で計画が思い通りに行かないことであるから、一種の“迷い”とも言える。
昨年4月20日の本欄で、私は今回のイラク戦争のアメリカ側の原因として、「2つの迷妄」を挙げた。それは、①イラクが核兵器を含む大量破壊兵器をもち、②テロリストを支援している、と信じたことだった。この2つとも、今では事実でないことが明らかになっている。そして、もし今回の米軍の報告書が正しければ、イラク側の戦争の原因もいくつか明らかになったことになる。それは、①フセイン大統領が、アメリカの“真意”を読み間違ったこと、②フランスとロシアのイラク攻撃反対を過信したこと、そして、③米軍の戦力を過少評価したことだ。これら3つの誤算には、湾岸戦争時の体験が少なからず影響しているだろう。湾岸戦争当時のアメリカ大統領は“お父さんブッシュ”だったが、フセイン氏は“息子ブッシュ”は父に勝らないと考えていたフシがある。また、9・11テロが、ブッシュ大統領を含むアメリカ人全体に与えた影響についても、フセイン氏は過少評価していたと考えられる。
さて、戦略論の側面から見て、興味深い問題がもう一つある。それは、今回の戦争では、大量破壊兵器(WMD)が抑止力として機能しなかったと考えられることである。もちろん、イラクにはWMDは存在しなかった。しかし、アメリカ側は(少なくとも表面的には)それが存在すると考えていたのだから、アメリカに対しては存在したのと同じ効果をもった。が、ブッシュ大統領は「先制攻撃論」を展開して、多くの国の反対を押し切ってイラク侵攻を行ったのである。フセイン大統領の読みは、大間違いだったわけだ。イラクは、イスラエルの攻撃抑止のためにWMDの存在を曖昧にしたが、そのことが却ってアメリカの先制攻撃を誘ったのである。
このことを考えれば、核兵器を含むWMDの抑止力は、アメリカのような超大国を相手にした場合、限定的にしか機能しないことが分かる。つまり、その存在を曖昧にしているのでは、武力で圧倒的に勝る相手からは先制攻撃を受ける危険があるのである。北朝鮮は、イラク戦争でそのことを学んだのかもしれない。だから、イラクのようにWMDの存在を曖昧にせず、「我々は核兵器を持っている」と明確に宣言し、それを使う意志があることもほのめかしている。そして今のところ、北朝鮮の戦略は成功しているようだ。
谷口 雅宣
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