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2006年3月27日

イスラームにヴァチカンはない

 イスラム原理主義のタリバン政権に代ってアフガニスタンに登場した新政府が、実際にどれほど“民主化”したかを示す出来事があった。それは、イスラームからキリスト教に改宗したため「背教の罪」に問われた同国の男性、アブドル・ラフマン氏(41)に対し、裁判所は26日、精神状態などを理由に訴追手続きを中止した、ということだ。ラフマン氏は、まもなく釈放されるというが、同国の宗教指導者らは、イスラム法にもとづき「死刑」を求めていたというのだから、なかなか大変な国だとの印象を受ける。民主主義下では、「信教の自由」は基本的人権の一つとして当然に保障されるが、この国ではイスラームからの改宗は、相当な覚悟が必要なのだ。27日付の『産経新聞』などが伝えている。
 
 ラフマン氏の訴追が報道された先週、アメリカでは一斉に批難の声が上がり、ブッシュ大統領は「深く困惑した」(deeply troubled)と言い、ライス国務長官はアフガニスタンのカルザイ大統領に電話して「好意的な解決」を求めたという。しかし、この件を扱う裁判官は「外部の干渉には譲らない」と言っていた。だから、本件の解決は政治的な色彩が強い。

 アフガニスタンの憲法改正委員会のアドバイザーをしていたジェイ・アレクサンダー・セアー氏(J Alexander Thier)は、27日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿して、もっと詳しい事情を書いている。それによると、ラフマン氏は離婚訴訟中で、娘(複数)の保護引渡しを要求していたところ、それに反対する妻の家族が昔のことを持ち出して、16年以上も前にイスラームからキリスト教に改宗したラフマン氏に養育の資格はない、と言ったそうだ。それを聞いた検事の一人が、背教の罪で同氏を訴追したらしい。イスラム法は解釈の幅が大きく、狭く解釈すれば本件には死刑の判決もあり得るらしく、担当の裁判官は事前に被告の死刑の可能性を示唆していたという。
 
 ここに宗教法の「解釈」という重要な問題が出てくる。宗教法の重要な部分は、「教典」とか「聖典」と呼ばれる書物に拠るところが大きい。そして、主要な宗教の教典は何千年も前の、現代とは著しく異なる環境において成立したものがほとんどである。しかし、そこに教祖の教えの“源流”や“原点”が“雑じり気なしに”記されていると考え、その言葉を文字通りに解釈すべきとするのが「原理主義」の立場である。アフガニスタンにも原理主義的な法解釈をする裁判官がいて、それに呼応する政治勢力もあり、今回のような出来事に発展したのだろう。
 
 上記のセアー氏は、アフガニスタンの新憲法には一種の“内部矛盾”があることを指摘している。この憲法は、イスラーム以外の「他の宗教の信者は自らの信仰を自由に実践し、法律の規定の範囲内で宗教儀式を行うことができる」と定めているし、国家が世界人権宣言の精神を遵守することを義務づけている。しかし、その一方で同じ憲法が、どんな法律も「イスラームの信仰と法に反してはいけない」と規定し、裁判官の法解釈に大きな裁量権を与えているという。だから、教典を狭く原理主義的に解釈することで、憲法で許された基本的人権が制限されるという今回のような問題が発生する余地があるのである。
 
 原理主義的に解釈しなければ、今回の問題もうまくクリアできるようだ。セアー氏によると、エジプトの穏健なイスラム法学者などは、「棄教」は犯罪であるかもしれないが、その償いの期間に制限はない--つまり、神の意志に従うのは個人であって、国家はそれを無理強いできない--との解釈をしているという。多分、死後のことは神のみぞ知るということだろう。

 同じ『トリビューン』紙に掲載されている別の記事によると、「棄教には死を」という考え方を支持するイスラム法学者は、モハンマドの言行録である『ハーディス』の中に、信仰を変えるものは殺されるべきだとの言葉があるからだという。しかし、より上位の教典である『コーラン』の中には棄教について書かれた箇所はあるものの、決して「死刑に処すべし」とは書いてない。だから、イスラーム国において改宗者が死刑になることはむしろ珍しいそうだ。最近の例では、1985年にスーダンで1件、89年と98年にイランで計2件、そして92年にサウジアラビアで1件だけという。イスラーム諸国にも改宗者は多くいるはずなのに、なぜ『ハーディス』が守られないか--その理由について、UCLAのイスラム法の専門家、カーレル・アブ・エルファドル氏(Khaled Abou El Fadl)は、「それは宗教に強制があってはならないと書いてある『コーラン』に、明らかに矛盾するからです」と言う。
 
 数多くのイスラム法学者が互いに異なった解釈をする--これが、イスラームの一つの大きな問題のようだ。イスラームには“ヴァチカン”がない。この事実は、その土地の、その時の事情に合わせた柔軟なイスラム法解釈を可能にする一方、今回のような混乱や“非常識”を生む温床ともなるのである。宗教における「解釈」の問題が、いかに難しいかを教えてくれる一件である。

 谷口 雅宣

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