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2006年3月22日

皇室制度の議論を深めよう

 皇室典範改正の問題について私の見解を聞きたいという人が結構いるので、今日は現時点での私の考えを述べようと思う。ご存知の通り、この問題はかなり“政治化”しているので、宗教の立場から発言することは避け、日本国民として知っておくべき常識レベルから考えても、まだまだ未解決の問題があることを述べるに留めたい。
 
 問題の基底には、現在の皇位継承の選択肢が日本の歴史上、類をみないほど狭められているという事実がある。もっと具体的に言えば、皇室典範の第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定され、第2条は、従来容認されてきた側室から生まれた庶子継承を否定し、第9条では「天皇及び皇族は、養子をすることができない」と定め、さらに第12条には、「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とある。おまけに、昭和22(1947)年には、昭和天皇の直宮以外の11宮家が廃止されて、合計51人の皇族(男26人、女25人)が一挙に一般国民となった。これで、今日の問題の“種”がしっかりと植えつけられたと言える。

 だから、現在の皇室典範の規定には制度的な欠陥があると言わざるをえず、もし日本が皇室制度を今後も維持していくつもりならば、皇室典範は改正されなければならないだろう。制定当時は「少子化」の問題など予想できなかったかもしれない。が、この傾向がすぐに変わると予測できない以上、今後も皇族の数が減り続け、皇位を継ぐ対象者がやがていなくなる可能性を払拭しておかねばならない。今の秋篠宮のお腹のお子さまが仮に男子であったとしても、この問題はなくなることはなく、解決が後回しにされるだけであるから、制度改正の議論は今しなければならないだろう。

 この制度上の問題に加えて、もう一つ重要な点は、この制度が動き出してからもう60年近くたっているということである。戦後の皇室制度が60年近く存続してきたという事実は、無視できない。その間に、廃止された宮家の人々は普通の市民としての生活を続けてきたし、その家に子や孫が誕生すれば、その人たちも普通の市民として人生の大半を生きてきた。これを「後戻り」させることで問題の解決をはかることは難しいだろう。なぜなら、人間というものは、遺伝子の影響を受けるのと同じくらい大きな影響を、環境(この場合は一般市民としての社会・生活環境)から受けながら性格や人格を形成していくからだ。

 また、重要なことの3点目は、この60年の間に、「現在の皇室制度が国民の間に定着した」ということだ。特に重要なことは、昭和天皇御自身が、それまでの2千年に及ぶ日本皇室の伝統であった非嫡出子の皇位継承を明確に否定されたということだ。歴代天皇の半数近くが側室から生まれた皇庶子であるという事実を考えたとき、昭和天皇のこの御決断は“革命的”と言えるかもしれない。そして日本国民も、この近代的な一夫一婦制による皇室を大いに支持してきたのである。だから、この点でも歴史を後戻りさせることはできないと思う。

 そして最後に、これまであまり話題にされてこなかった「皇族の仕事」の内容についても、この際、議論を尽くすべき時期に来ていると思われる。問題の本質は、「皇室を国民に近づける」という戦後の傾向をさらに進めるべきか、それとも“伝統護持”の名の下に「皇室を国民から遠ざけ」続けるべきか、という選択である。大きなポイントは、基本的人権が完全に保障されない現在のような皇室の仕事を“伝統”として維持することが仮にできたとしても、そのような皇室に嫁す人がいなくなれば、皇室の断絶は時間の問題になるということだ。私は今回、週刊誌『アエラ』(朝日新聞社)の3月27日号に特集された「哀しき天皇制」という記事を読んで、その感を深くしたのである。

 歴史の長いこの国に生まれた我々は、「伝統」という言葉をとかく無批判に受け入れる傾向があるが、伝統の中には尊重されるべきものが多いことはもちろんだが、「士農工商」「参勤交代」「切捨て御免」「晒し首」「仇討ち」「切腹」「男尊女卑」「一夫多妻」「公娼制度」など、現代では受け入れられない制度や習慣、考え方も含まれている。伝統とは実際、それぞれの時代における慎重な取捨選択や新規の工夫によって、一部変更されながら守られてきたものである。だから伝統護持のためには、必要ならば伝統の一部変更を行う勇気も必要だと思う。

 結局、本件に関する私の現段階の意見は、有識者会議の報告書が出たことを好い機会として、「国民全体での開かれた議論をさらに深める必要がある」というものである。

谷口 雅宣

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コメント

谷口 雅宣 先生:

最近読んだ本で『語られなかった皇族たちの真実』(竹田恒泰著、小学館)というのがありますが、著者は竹田宮の末裔の方で、明治天皇の玄孫に当たる方です。基本的にこの方の考え方は女系天皇は天皇という概念とは異なるという考え方です。この本で面白かったのは、戦前、戦中、終戦後の皇族方の仕事とか役割に関して、歴史上どのような貢献をしたかということを書いています。(当時の)皇族方のお仕事やご心情、終戦へのご献身を知る上では参考になりました。

もう一つ、本書で明確に書かれていたのは、外国人と結婚したらそれはもう天皇ということにはならない、ということでした。「天皇」という概念が同じ一般の日本人同士でもきっとかなり隔絶している場合もあると思います。ですから、先生のおっしゃるように、国民がこのことを深く話し合うことによって、個々で有する違った概念が善い方向に、多少でも認識が一致していくと、皇室と国民の隔壁が多少なりとも狭まり、国民にとっても皇族方にとっても新たな前進となるのではと思います。

川上 真理雄 拝

投稿: Mario | 2006年3月23日 07:33

谷口雅宣先生

 御文章を拝読させて頂き、先生のお考えは私の持っていた考えとちょっと異なるのではないかと感じ、多少とまどいを覚えました。
 
 「光の泉」に掲載されていた所功教授の本など読んで勉強し直してみます。

堀 浩二

投稿: 堀 浩二 | 2006年3月24日 09:26

合掌ありがとうございます。
福島教区青年会の石光と申します。

この問題、昨年、月刊誌『正論』でいろいろな先生方が議論されていて読ませていただきました。男系と女系、女性天皇の違いなど全く存じませんでしたので勉強させていただきました。お正月に読んだ本の中では私も竹田恒泰氏の『語られなかった皇族たちの真実』は非常に良書でした。お若いのに本当にいろいろな経験をされていておそらく宮さまのままであったならばここまで経験されることはなかったであろうこともあって驚きました。文章もどことなくお人柄がにじみ出ているような、お育ちの良さが感じられました。皇位継承問題についても触れられていますけれども、この本は日本の歴史上、国民に知られていない事実やエピソードが書かれて興味深いです。

それからもしお読みでなければぜひおすすめしたいのが筑波大学教授、中川八洋氏の『皇統断絶』(ビジネス社)です。著者の文章は歯に衣着せぬ、バサバサ斬っていく文体なので人によっては不快に思う方もいらっしゃると思いますが、非常に論理的に明快で緻密です。皇統問題を語る上で必読文献の一つと思います。

皇籍復帰についても旧皇族の方々はお覚悟されているようです。臣籍降下されて60年たちますが、その生活はやはり下々の者とは違います。今でもお家に賢所のようなところがあって毎日お参りされていらっしゃるそうですし、なんといっても天皇陛下とご親戚ですのでお付き合いが今もあります。そのような事実を知らない有識者会議のメンバーが「国民感情が許さない」などと自分の感情が許さないだけなのに、初めから結論ありきで、議論をさせないようにしていることの方が問題ではないでしょうか。

石光淑恵 拝

投稿: 石光淑恵 | 2006年3月24日 09:59

川上さん、堀さん、石光さん、

 ご意見とともに、参考書を紹介くださり、有難うございます。

投稿: 谷口 | 2006年3月24日 10:59

谷口さまの意見を拝見しました。私も谷口さまと同じで、やはり旧皇族の復帰は困難だと思います。

結局この問題は、端的に言えば、直系を選ぶか、(直系を犠牲にしても)男系を選ぶかの問題であり、どちらにしても、正統性の完全さが失われることには目をつぶらないといけません。

そのうえで有識者会議は、直系を優先するという結論を出したのであって、それも伝統にのっとったものなのです。

男系にこだわる方は女性・女系天皇では皇室が断絶するとかいいますが、不当な批判だと思います。

女系天皇を認めないことになると、仮に将来、愛子内親王に男子が誕生しても彼は皇位を継げず、旧皇族に皇位がまわってしまう可能性がありますが、今上天皇・皇太子の血を引きながら、皇位をつげないとしたら、彼や国民はやはり納得いかないのではないかと思います。

投稿: t | 2006年3月24日 16:13

アエラ一部ですが読みました。
ため息しか出ませんね。
多くの国民は継承制度のことで頭がいっぱいで、実際に継承していく天皇家の人間が人間であるということを忘れているんだと思います。
失礼な言い方ですが、天皇家の方が哀れです。
好んで嫁がせようという人はいないでしょう。

投稿: A | 2006年3月24日 17:27

谷口雅宣先生

私は愛知県岡崎市の太田高明と申します。生長の家の月刊誌、谷口先生のブログを拝読させて頂いているだけの者ですが、書き込みをさせていただきます。

>皇籍復帰についても旧皇族の方々はお覚悟されているようです。
と石光淑恵さまが仰る通りであり、皇籍復帰されることは大賛成です。
皇統を断絶させないために、皇籍復帰以外に道はあるのでしょうか?
愛子さまを天皇にということでしょうが、2600年以上続いている皇統を平成の御世で変える資格が政府にあるのでしょうか?
そして女系天皇をはたして天皇と呼ぶことができるのでしょうか?
皇籍復帰は正統な元の姿に戻すことであり後戻りではないと考えます。

投稿: 太田高明 | 2006年3月25日 00:05

いろいろな意見を有難うございます。

誰に対してというわけではないのですが、紹介していただいた竹田恒泰氏の意見は、次の文章に集約されていると感じました:

「側室制度と複数の皇后を立てる制度の復活が望めない現在は、別の手段、つまり皇族を充実させて傍系からの即位を可能にする方法を強化し、皇統の維持を図らなければならないのではないだろうか」(『語られなかった皇族たちの真実』、p.68)

 元皇族が皇族の復権を提案するというのは、気持としては分かるのですが……。

投稿: 谷口 | 2006年3月25日 15:56

>女系天皇をはたして天皇と呼ぶことができるのでしょうか?

世論調査によれば、大多数の国民は女系天皇を容認しているのですから、「天皇」と呼ぶと思いますよ。

むしろ、60年以上の長きにわたり、一般人とほとんど同じ生活をされた旧皇族のことを、はい今日から「天皇」と呼んでください、というほうが、少なくとも私には不自然に思えます。というより、ハッキリ言って無理です。

もっとハッキリ言うなら、旧皇族は生まれつき生活や財政が「管理」された東宮家と異なり、さまざまな人々との付き合いだとか、金銭関係など、相当「世間」に染まってしまっています。それを完全にクリアにするなんて可能なのでしょうか。仮に「天皇」となるべき人が特定の人に「弱み」を握られ、その人の意思に操られて行動するようなことがあれば、それこそ天皇制の危機です。

昨日25日付の読売朝刊「[編集委員が読む]紀子さまご懐妊 皇位継承問題、熟慮のとき 井上茂男」は非常によい記事です。一読をオススメします。

投稿: t | 2006年3月26日 01:14

女系天皇が天皇であるか無いかの視点は、長い歴史から考えてそうであるという議論は議論に耐えられるような強い説得力があるか、という点に問題点を感じます。男系天皇で現在の問題が解決する状態であるのなら、それでよいと思いますが、そういう状態ではないから皇室典範の改定という波紋が拡がっているのだと思います。

歴史上こうである、というのは例えば、私の記憶が正しければ、たしかユダヤ人の母親から生まれた人はユダヤ人であるが、母はユダヤ人ではなく父だけがユダヤ人の場合はユダヤ人ではないということや、ある国では国際結婚した場合、父親がある国の国籍である場合のみ、その父親の母国の国籍を得ることが出来るが、父親が別の国籍で母親だけその国籍の場合は母親の母国の国籍を得ることが出来ないということもあります。

これらは永い歴史上、そうだというだけで、それ以上に説得力がないということです。それだけで十分である、というならば、イスラム教の歴史では今回アフガニスタンで問題になっている改宗の場合の死刑ということでも、これはサウジアラビアでも確か同じだと思いますが、宗教上の歴史上そうであるから、それは正しいと主張している人たちのレベルとあまり変わらないのではないかと思います。(川上真理雄)

投稿: Mario | 2006年3月26日 04:08

合掌ありがとうございます。

>元皇族が皇族の復権を提案するというのは、気持としては分かるのですが……。

竹田恒泰氏自身は元皇族ではありません。
おじいさまが元皇族でした。
「復権」とおっしゃるのがどういうことなのか理解できませんが、元皇族の末裔が皇籍復帰を提案するのはどうかと思われるのでしたら、
やはり先にご紹介させていただいた中川八洋著『皇統断絶』をおすすめいたします。具体的な提案がされています。歴史的にもそのような例があります。

石光淑恵 拝

投稿: 石光淑恵 | 2006年3月26日 06:32

石光さん、

>> 竹田恒泰氏自身は元皇族ではありません。おじいさまが元皇族でした。<<


 私に対するご意見のように思うので、コメントします。「旧皇族」という言葉を最初に使われたのは貴女なんですが……。
 24日に書き込まれたコメントの中に「皇籍復帰についても旧皇族の方々はお覚悟されているようです。」とありますが、ではこれはどなたのことを指すのですか? それとも「旧皇族」と「元皇族」とは、意味が違うのですか?(何かムズカシイですね……)

投稿: 谷口 | 2006年3月26日 13:35

万世一系の美しい形に手を加えてはならないと思います。万世一系の定義とは、神武天皇以来、男系の天皇のみをつないできたということです。
男系とは、父親、父親、父親・・・と辿っていくと神武天皇に辿りつくということです。歴史上10代8人の女性天皇も皆男系です。この男系をいかにつないでいくかということです。
男系を変えるかどうかなどということは、議論すべきことではありません。
それは124代の御歴代の天皇の思いを無視することになります。
ここで男系を捨てるとなれば、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成と続いた国民の思いを蹂躙することになります。
第25代武烈天皇から第26代継体天皇のときのように十親等も離れた継承のときもありました。男系はそのように涙ぐましい努力でつないできたものなんです。そこまで万世一系にこだわってきたからこそ、天皇の正統性が保たれ、世界唯一の皇帝として世界から一目置かれ、王や大統領とは別格の存在と見なされているのです。
天皇陛下は毎日、国家の平安と国民の安寧を祈っておられる。そのような天皇を戴いている国家が日本であり、美しい品格の中枢に万世一系の天皇があられるのです。
大正11年にアインシュタインが日本に来て、伊勢神宮に参拝してこう言いました。「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万世一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめた。・・・我々は神に感謝する。日本という尊い国を造っておいてくれたことを」。万世一系の天皇を戴いていること、かくも崇高な国家の品格に対する世界の尊敬はかくのごとしです。


投稿: 太田高明 | 2006年3月26日 19:43

谷口雅宣先生

合掌ありがとうございます。

>24日に書き込まれたコメントの中に「皇籍復帰についても旧皇族の方々はお覚悟されているようです。」とありますが、ではこれはどなたのことを指すのですか?

このコメントの「旧皇族」の意味は竹田恒泰氏個人のことではなく、昭和22年に臣籍降下された旧宮家のことを指しております。「お覚悟されているようです」と書いたのは『皇統断絶』の中で言及されていたからです。

石光淑恵 拝

投稿: 石光淑恵 | 2006年3月27日 23:01

合掌
 現在行われている皇室典範改正に関する議論には大きな欠落があると私は思っています。
 そもそも天皇陛下が日本の中心におられ続け、われわれ国民がその恩沢に浴してきたのは、天照大御神が皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)様に勅(みことのり)された「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是(これ)、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)り無(な)かるべし」という『日本書紀』に書かれた「天壌無窮の神勅」にこそ、その根拠があります。
 この神様のご命令によって、歴史上、数多くの権力者が暴虐をふるっても天皇中心の国柄を変えることはできなかったのです。
 こうしたことを抜きにして、歴史上の天皇継承は男系だ、女性天皇だと言っても、枝葉の話に過ぎません。
 谷口雅春先生が国のことを語られる時、ほとんど『古事記』などの神話を根拠にされていました。それ以降の「○○律令」だとか、歴史上の学者の意見を取り上げられることは、極めて少なかったと思います。
 それにもかかわらず、先生の弟子たる生長の家信徒が、現代の学者が述べる「歴史上、天皇の継承は云々」などという議論に振り回されているのは情けないと言うほかありません。
 「天壌無窮の神勅」には、「吾が子孫の王たるべき地」とあるだけで、その「子孫」が男でなければならないとか、女ではダメだとは書いていません。「天皇陛下中心の国が無限に続く」と宣言しているのです。
 私たちは、日本国民として、日本国の実相顕現を祈る生長の家信徒ととして、天照大御神の神勅を素直に信じていこうではありませんか。
 なにしろ、この神勅は2600年以上にわたる日本歴史で実証されているのですから。

 長文ごめんなさい。

投稿: 田原康邦 | 2006年4月 1日 11:47

田原さん、

 お久しぶりです。書き込み、ありがとう。

>>私たちは、日本国民として、日本国の実相顕現を祈る生長の家信徒ととして、天照大御神の神勅を素直に信じていこうではありませんか。 <<

 あなたのご意見は、「我々は信じて祈っていればいい。何とかなる」ということですか?

投稿: 谷口 | 2006年4月 1日 12:30

合掌
 さすがに先生は鋭く突っ込まれますね。
 私の意見は、「天壌無窮の神勅」を無視した議論ばかりなのはけしからん。神話=建国の理想を正しくふまえた論議をすべきだ──ということにつきます。
 「信じて祈っていればなんとかなる」かどうか、これは難しい問題です。信じて祈るだけでなく、「なんとかしよう」とすれば、意見を発表する、そして何らかの実際行動をする──ということになりますが、それは先生も仰っているように、かなり“政治化”しているこの問題ですから、本人の意図はともかく政治的行動にならざるを得ません。
 そして、こうした意見の発表や行動が果たして、良き結果を生み出すのかどうか、ということも、生政連の失敗を知っている私たちには懐疑的にならざるを得ないところです。また、現在の生長の家の方針を大きく変えない限りは政治的な行動はできそうにありません。
 つまり、現在の私には「信じて祈る」ほかの手段が見あたらないのです。
 また私は、神話=神道の経典の一部を典拠に「こうすべきだ」と強く言い行動することは、先生が最も注意しておられる「原理主義」に似通ってしまうことになるのでは……とも思えました。

 この問題で最も重要な点は、このままでは天皇のみ位を継ぐ方がいなくなってしまうのではないかという危機感と、み位を継ぐ資格者を増やすにはどのようにするのが良いのかということです。
 そのために、政府などは女性・女系天皇を認めようとし、もう一方の論者は旧皇族の子孫の人たちを皇族に戻して資格者を増やそうとしているわけです。

 私は、旧皇族の子孫を皇族に戻すという案には反対です。
 私の漠然たる記憶ですが、戦後、旧皇族の方々のからんだ不祥事がいくつもあったと思います。こすからい世間に免疫がなく、詐欺師などにかつがれて犯罪の片棒を担がされたり、男女関係のトラブルなどがスキャンダルとして報道されたこともあったようです。また、旧皇族はほとんどが軍人だったと思いますので、その戦いぶりも場合によっては問題になる可能性もあります。
 民間人であれば「人生いろいろ」と見過ごせることも、天皇のみ位に立たれる方の場合には看過できません。旧皇族の方々の多くは、身を律した素晴らしい人格者であるに違いないでしょうが、今のところ皇位継承順位は人格や経歴に関係なく、出生順位などで決められるようですので、とんでもない方を私たち国民が仰ぎ見なければならない可能性もあるのです。

 となれば、神勅に基づく私の意見は「女性・女系天皇の容認」ということになりそうですが、国家救済の神様でもあられる住吉大神は、こんな二者択一の貧弱な議論を大きく乗り越えて、この問題を解決されるのではないか、と私は期待し、祈ろうと思っているのです。

またまたの長文ごめんなさい。

投稿: 田原康邦 | 2006年4月 1日 21:36

合掌。
雅宣先生。いつも私達に学びを与えていただきありがとうございます。皇室の問題は雅子様と同じ年に出産を迎えた私としては、とても気になっておりました。ので、女性の立場からも一言。

>大きなポイントは、基本的人権が完全に保障されない現在のような皇室の仕事を“伝統”として維持することが仮にできたとしても、そのような皇室に嫁す人がいなくなれば、皇室の断絶は時間の問題になるということだ。

雅宣先生のこの御文章、本当に同感いたします。
同じ母として、妻として、後継者の問題に一番権利があるはずの当事者が何も意見を言うことも出来ないなんて、大変な人権無視だと思いますし、雅子様や皇太子様のご心痛はいかばかりかと胸が痛みます。


私はごく当たり前に考えて、天皇家の後継者問題に関しては、まずご本人や、ご両親(皇太子ご夫妻)の意向、天皇陛下やご兄弟など宮家の皆様との家族会議など経て、それから皇室典範改正へと話が運ばれるのが順序のように思います。

また国民の象徴であるという点も考慮に入れて、国民がより納得のいく、愛すべき天皇様であり皇室であり続けるためにも、その皇室家族会議では、世論や国民感情にも耳を傾けていただきたいとも思います。

個人的には、雅子様が命がけでお生みになられた愛子様を女性天皇として仰ぎたいと思っていますが、ご苦労も多いでしょうから雅子様は必ずしもそれを望まれてはいらっしゃらないかとも思うので、女性天皇も選択肢に加えたうえでの後継者選択の自由を皇室典範改正をして、まず認めるべきではないかと思います。

たとえ天皇陛下といえども私達と同じ人間であるという、そういう本当にノーマルな視点を、先生は私達に持つべきであるとおっしゃっられているのだと、私は感じました。そして、素晴らしい先生に私達は学ばせていただいているんだと、尊敬の念を新たにいたしました。
ありがとうございます。再拝。

投稿: 米山恭子 | 2006年4月 3日 01:17

田原さん、

>>私の漠然たる記憶ですが、戦後、旧皇族の方々のからんだ不祥事がいくつもあったと思います。こすからい世間に免疫がなく、詐欺師などにかつがれて犯罪の片棒を担がされたり、男女関係のトラブルなどがスキャンダルとして報道されたこともあったようです。また、旧皇族はほとんどが軍人だったと思いますので、その戦いぶりも場合によっては問題になる可能性もあります。<<

 こういう情報を国民のほとんどは知らないと思います。具体的なことは、どんな資料に書いてあるのでしょうか?

 日本の一部には「天皇(候補者)は無謬でなければならない」という考え方があると思うのですが、そういう人々の“監視の目”が行き届くべきかどうか、という問題もあるのですね。アメリカの連邦最高裁判所の判事の選任や、大統領選挙などの際にも、過去のいろいろなことが表に出て来て、国民の代表がそれを知ってから選ぶ--そういう制度がありますが、皇室の場合、その辺が案外難しいのかもしれません。

投稿: 谷口 | 2006年4月 3日 13:32

米山さん、

 旧皇族復活論を唱える人の中には、女性天皇が出てくると、宮中の祭祀が(生理のため)滞って正常に行われなくなる可能性があるなどという理由で、男系男子を主張する人もいるのですが、こういう議論は、現代の女性から見るとどう映るのでしょうか?

投稿: 谷口 | 2006年4月 3日 13:42

>たとえ天皇陛下といえども私達と同じ人間であるという、そういう本当にノーマルな視点を、先生は私達に持つべきであるとおっしゃっられているのだと、私は感じました。

天皇陛下は無私であられます。
只、天皇家があればよいという話ではありません。

天皇は、作れない。我々が天皇を「作る」ことは出来ない。無理に作ったところで、そこには正統なる権威は伴わないから、誰もそれが天皇であるとは、認めはすまい。人には天皇は作ることは出来ない。

天皇を作るなど、そのような大胆な試みであるならば、何人たりともその無法と奇天烈さについては知るのである。

しかし、さも「作ったのではない」ように見せかけて、しかしその実「作った」天皇である、というのならば、どうか。問題となっている「女系天皇」というのは、まさにそれである。愛子様は父を辿れば皇祖に行き着くお方であるから、皇位継承資格を持っている「ような」ところはあられる。皇統125代の内、8代の女性天皇がいたではないか、畏れ多い!!、と言われれば、人はかしこまりもするし、また、男子の皇位継承者がいない、このままでは皇統は絶えると脅されれば、これは大変だと思い、愛子様でよいではないかと皇室のために考えもするのである。

ここで少し、考えてみられたい。我々には、天皇を作る資格などない。我々が勝手に決めたからと言って、天皇の資格を持たない者を天皇にするわけにはいかない。我らが日本国の立法機関がなし得ることは、正統なる継承権を有する方を「日本国として」確かに正統なる継承権有資格者として「お認めする」ことではあっても、「日本国がそれをこさえあげる」ことではない。

有識者会議の出した結論は、伝統的な皇位継承の法から、全く逸脱したルールを「皇室に押しつける」ものではあっても、「皇室の法を守ろうとして」そのために法律をよりよく変えようとするものでは「全くない」。反対に、皇室の法を全然破って、「天皇が誰かを決めるのは、俺だ」と言っている話である。その結果として出てきた話が「女系天皇」という珍説であり、このような皇位継承法など、ナンセンス以外の何ものでもない。我々が天皇を決めるのだ、としている時点で、問題外の倨傲的暴力であるとしか言いようがない。

天皇を定めるのは、天皇位に内在する法であって、日本国の国会でもなければ、有識者会議の「頭のいい方々」でもない。天皇を定めるのは神法である。有識者会議の面々は、おのれを神だとでも言うのか。そしてまた、敬神的な生活を実践されている方々であられるか。もし仮に「政治的動物」として、天皇の位を自由にしてやるという心算でいたのであれば、許されざる冒涜を働いたということになると思うが、もし本当に「皇室のため」になると思っているのであれば、堂々と国民にその理を説くべきである、説かねばならない。

しかし、会議の議事録自体が匿名なのであるから、所詮は無理な注文であろう。

皇室の法を守ろうとするなら、GHQの無法な暴力により臣籍離脱を強いられた皇族の地位回復をせよ。神を敬い、皇室を敬い、神の法に従うべく、正統なる皇位継承者を守れ。いかなる地上の暴力にも屈せずに、由緒正しい神の法を守れ。神の法より人の恣意が優越するなどと思うなかれ。神の法に気づけ。日本人として気づけ。正気を回復せよ。

投稿: 太田 | 2006年4月 3日 16:29

合掌
 1月5・12日号の『週刊新潮』に、「特別読物」として「『旧宮家』の人びと──『ブラジル籍の人』も『養子は山伏の人』もいる11宮家の戦後60年」という記事が載っていました。
 戦後の一般向けに売られた雑誌が収蔵されている大宅文庫にでも籠もって調べれば、さらにいろいろな情報が出てくるのではないかと思いますが、今の私にはそういうことに時間を使うことができませんので、「漠然たる記憶」と書きました。
 さらに調べようとすると、私の友人で週刊誌記者の自称・怪文書コレクターR氏などに聞くと、何か出てくることも考えられますが、虚実不明で間違うと民主党のようなことにもなりかねません。
 軍人としての経歴については、昨今の中国問題などを見ると可能性があると思って書きましたが、具体的なことは知りません。

 もし仮に、現在の皇族の中からでなく、旧宮家から天皇さまやその候補者の方が出るとなると、その方の経歴や人格が問題になると思います。
 その場合、その方が完全に無謬でなければならないというのは、あまりにきつい要求に過ぎるでしょうが、それでも過ちのレベルによっては国民感情が許容できないこともあると思います。
 1日の私の文章では、旧宮家の子孫を皇族に戻す場合、問題のある方が天皇のみ位にたたれることも考えられると書きましたが、皇族の養子という形で皇族に戻す場合には、出生順位など機械的に選ぶのではなく、経歴人格を調べた上で選択することも可能だと、後から思いつきました。

 また、同日の先生からのご質問に対し、私は「祈るだけでなく、何とかしようとすれば政治に踏み込まざるを得ない」とお答えしましたが、これは短期的で浅い見方であると気が付きました。
 私達が正しい宗教運動をすることによって、国の中に正しい国家観・人間観が広がれば、皇室のすがたも自ずと良きかたちとなるに違いない。そのために私達は人類光明化運動を前進させなければならない、と思ったのです。

投稿: 田原康邦 | 2006年4月 3日 17:12

田原さん、

 情報、ありがとうございます。
 でも……『週刊新潮』ですか? 私はホントにデタラメの記事を書かれて辟易した雑誌です。

>>皇族の養子という形で皇族に戻す場合には、出生順位など機械的に選ぶのではなく、経歴人格を調べた上で選択することも可能だと、後から思いつきました。<<

 フーム……これは“諸刃の剣”かもしれませんね。民主主義を貫くならこうすべきですが、国会なんかで旧皇族の過去を調べて議論するという延長線に何があるかは、よく考えるべきですね。

投稿: 谷口 | 2006年4月 7日 17:45

合掌。雅宣先生。

>>旧皇族復活論を唱える人の中には、女性天皇が出てくると、宮中の祭祀が(生理のため)滞って正常に行われなくなる可能性があるなどという理由で、男系男子を主張する人もいるのですが、こういう議論は、現代の女性から見るとどう映るのでしょうか?<<

私は不勉強でこうした意見があるということは初めて知ったので、少し驚きました。

でも以前練成会でお手伝いをさせていただいた時に、「いま生理なのですが浄心行のお手伝いをしてもいいのでしょうか?」とある先生に尋ねられていた女性の方がいました。
お返事は「問題ありませんよ。気になるなら禊の意味でご入浴してからいらっしゃい。」とのことでした。(その先生は男性の方でした。)なのでそれでよいのだと思っていました。

私の周りでも生理休暇をとる女性は一人もいませんでしたし。
祭祀に差しさわりがあるようにも思えないので、上記の意見は女性蔑視につながるような印象を少し受けてしまいますね。

もしかしたら愛や生命や母性が不足しつつある現代の日本で、それらの象徴である女性が天皇になることは、足らざるを補う必然かもしれないと、考えたりもします。

他の女性の方にも意見を聴いてみますね。

                    再拝

投稿: 米山 | 2006年4月 8日 01:34

米山さん、

>> 私は不勉強でこうした意見があるということは初めて知ったので、少し驚きました。<<

 もう少し説明しますと、生理中の女性は神事のある場所に入ってはいけないという伝統があるそうです。“穢れ”という考え方から来ているらしいのですが……。

投稿: 谷口 | 2006年4月 8日 20:06

 書き込みさせて戴こうと思っておりましたら、丁度谷口雅宣先生が書き込まれたところで・・・お二人の会話に割って入るようで大変申し訳ないのですが、永遠に投稿出来ない可能性も出て来るので思い切って投稿させて戴きます。ヤングミセスの松尾です。
 以下その内容です。

 合掌
 血を嫌うのは、平和主義が高じてからかもしれませんので、一女性として一言お邪魔させて下さい。

 仏教が伝来し、天武天皇が肉食禁止の詔を出されてから、日本人は肉食を全くしなかったとは言えないですが、水筒を動物の皮で作るか、竹で代用できるかということにも見られるように、肉食のみに依存した生活ではなかったことは明らかで、
 また日本人がキリスト教を中々理解出来ない原因として、生贄を要求するような強者を悪とする発想があり、聖書にこうあるとおり、

『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうつのだれかが、家畜のささげものを主(ヤーヴェ)に捧げる時は、牛、または羊を捧げなさい。祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くすささげものであり、燃やして主に捧げるなだめの香りである。(レビ記1:2-9)』

 こういった社会背景があってイエス様はご自身の肉体で罪の贖いをするようような流れになったのですが、あまりそういった状況下に置かれていない日本人は、中々血を流す事が良い事には結びつかないですし、流血の臭いを神さまが喜ばれるという発想は日本人ならほぼしない(一部辺境の山間部で行われていたという記録があっても、それが全国の主立った伝統にはなっていない)ですし、ヤマタノオロチの伝説もあります。
 日本で古代にもしそういったことが行われていたとしても、農耕期に移り、次第にそういった風習は廃れていったのではないかと思います。
 至りませんで建国当時の神道が正確にはどうであったのか、確かな事は調べるほど分からなくなるのですが、現代でも神棚への供え物は、屠殺の観念があるものは忌避されていますね。(大御饌には干鯛などもあるようですが)

 そういったことから、神祭りに血を持ち込まないというのは、平和主義的発想からではないのかと思っています。

 庶民は仏教の影響力が強かったので、お精進の観念は、ある程度あったような記録も残っています。
 そうやって肉食を出来る限り忌避してきた先祖達の小さな善業の積み重ねによって、業の法則で、日本はどうにか植民地になることがなかったのと、個人的には思っています。
 食べるものは食べられるというような法則の外には、神さまも出られないですものね。

 また、肉食をすると、肉体的には少子化します。外界すべては心の現われですから、この問題も、私たちの日々の行いの結果と思います。
 間違った原因を作って、正しい結果を得ようとする訳にはいかないと思います。

 また、肉体的には、神事は厳寒の中、火気を近づけずに行われることもあったように記憶しているので、男性と違って体を冷やしやすい女性がその任にあたることは、大変酷な事ではないのかと個人的には思っています。

 祈りのよって、神の子の自覚をとにかく深め、人間は肉体ではない、愛そのものなので愛の心を深めていこうという発想がないと、肉食も減らないですし、言い争いの波動で益々世界が汚れてしまうのではないかと懸念しています。

 谷口雅宣先生が、御皇室に対しては祈りを、そして愛の心で肉食を少なくするよう呼びかけられていらっしゃるのは、生長の家大神のお姿を拝するような気がしております。
               再拝

投稿: 松尾かおり | 2006年4月 8日 23:28

合掌
女系天皇についても議論百出されておられるようですが、女系天皇についてご存知がないように思われます。
現在は大和朝廷として2,666年、125代の天皇陛下が継承されていると言われております。現在の今上天皇は125代、皇太子は126代、もし愛子様が天皇陛下になられるとしたら127代です。しかし、愛子様のお子様が天皇になられるとしたら、この方は128代ではなく、1代もしくは初代になることなのです。そして、大和朝廷は愛子様で終わりということになるのです。
賢いと言われる「有識者」や、左翼と言われる学者、そして反日帰化人は押し並べて、愛顧さまのお子様であっても128代と認めるようにルールを変えればよいと主張しているのです。
世の中には「易不易の原理」があって、「変えれることと、変えれないこと」 があり、女系天皇とは朝廷が代わることであり、これは変えることができない鉄則なのです。
それを現代の我々、ついこの間まで女性天皇と女系天皇の区別さえも判らなかった我々が早急に結論づけるような内容ではないと私は判断するものです。
一番大事なことは、何故先覚者はこうも男系天皇にこだわってきたのかを、時間をかけて調べることと、どのようにしてこの男系天皇を継承してゆくか、検証するべきだと思います。

この2,666年続いてきた大和朝廷は、過去の日本人の方たちの大切な遺産であり、将来の日本人の文化であることを知り、現代の我々が継承してゆくことが大切なことと思います


投稿: 佐藤克男 | 2006年4月 9日 11:41

合掌、ありがとうございます。
 長い歴史の中で培われた伝統を変えることは、それに終止符を打つことになるというような考え(男系天皇)や、「天壌無窮の神勅」の神話=建国の理想を正しくふまえた論議、天皇家のご本人の意見が大切であるというご意見などがありましたが、天皇家と日本は切り離して考えることはできないということは明らかであると私自身は個人的に信じております。しかし、それすらも信じていない人もいると思います。天皇陛下の素晴らしさについては小さい頃からいろいろな方から学び、本を読みましたが、谷口雅宣先生がこの問題に関して話し合ってみたらどうかという提案にとても素晴しいことだと思いました。それは、天皇の存在と日本国について真摯に考えるチャンスだからだと思ったからです。
 男系天皇という形だけ守る伝統であったら、そんなに心配しないでも、現代の医学ではかなりの確率で男子を産む研究があるので、恐れ多いことですが一番確率の高い方法をお採り頂くのが論理的だと思います。しかし、そんなことを言ったら不遜も甚だしくと攻撃を受けるかも知れません。でも、男系がそれだけ大切なら、確率の高い方法を選ぶべきです。
 個人的に心より尊敬する陛下にどうしてそんなことをお願いできましょうか? しかし、問題の根本が男子の嫡子であることが何よりも大切であるから、血のスペアなるものを過去においては用意していたわけです。だから、血のスペアよりも確実な医療に依存することが何故いけないのか?
 私がこの問題を読んだとき何故嬉しかったかというと、多くの人がもっと天皇という存在を自分の中に見つめる機会になると思ったからです。そして自己の内に陛下を深く祭るとき、いろいろな疑問が出てくるわけです。そしてその中の一例として、例えば、天皇とは日本人であるから、外国人と結婚したらいけないとか、外国人との間に生まれた男子の嫡子は天皇にはなれない、というような皇室典範自体が、今後ますます狭くなる世界に於いては一考の余地があるのではないかということです。
 私にとって天皇とは自分のモラルの規範であり、我が内なる神の顕現であり、日本人の心の中心であると考えます。そうすると、日本人とは何ぞやという問題も自然と出て来ます。そして、現在の天皇は自分たち日本人の心の影であるとも考えます。また、皇室典範も天皇陛下と共に日本人の心の影であるから、自分の心を見直すためにも、真剣に議論すべき問題であり、政治的な問題というよりは内面的な自己内省の大きなチャンスとして見直すよう話し合ったら良いのではないでしょうか。長文にてすみません。(川上真理雄拝)

投稿: Mario | 2006年4月13日 03:51

天皇制は国民が決める?

そもそも皇室典範第一章「皇位継承」は、原理的に変えることは不可能、かつ変えてはならない部分なのである。

 もちろん法律上、手続き上は変更可能である。皇室典範は憲法と違って一般の法律並みの扱いであるから、国会の過半数の賛成で変えることは可能である。しかし、ここで言っているのは、手続き上可能かどうかではない。そうした「民主主義的な」手続きで変えてもよいかどうかを問題にしているのである。

 天皇とは、原理的に民主主義とは相反する存在である。国家の最高権威であり国民統合の象徴と定められた存在が、世襲であり、血統を重んずる原理で決められるということは、国民の意思(投票や選挙)で物事を決定する民主主義の原理とはまったく別の原理によって存在していることを意味している。

 現皇室典範は、形式的な法手続きの問題として見れば、国会での過半数の賛成で改訂することができる。昭和二十二年に制定された内容は、旧皇室典範を大筋において受け継いだものであるが、その成立は「民主的な」手続きによって出来たものである。

 しかし男系によって継承されるという原理には、「民主的」なアメリカも変更を加えなかった。それは理屈以前の厳然たる事実であり歴史的伝統であって、これに変更を加えることのできる正当な論理もなければ、いかなる者にもその権利はない。個人としての天皇にも皇族にも、この原理を変える権利はないのである。ましてや首相にも国会にも国民にもあるはずがないのである。

 すなわち皇室や政府や国民のその時々の意思によっては左右されない、かつ民主主義的な手続きからは超然としている存在が天皇であり、皇室なのである。

 したがって、この制度を民主主義的な手続きの対象とすること自体が間違いなのである。それはまるで、首相を選ぶように天皇を選ぶことに通ずるような、民主主義的思想によって事実上皇室を否定することも可能にするような考え方なのである。一口で言えば、天皇、皇室とはもともと民主主義とは違う原理で存続しているのに、それを民主主義的な手続きで変えようとする矛盾を犯している。したがって「皇室典範有識者会議」などというものを作ること自体、天皇と皇室の原理を否定するものである。

 特に、その根幹に位置する皇室典範第一章「皇位継承」は、民主主義的な手続きによって手を付けてはならない部分である。もしこの部分が民主主義的な手続きで変更可能ならば、天皇・皇室そのものも民主主義的な手続きによって廃止可能だということになる。つまりこの部分に国民の代表たる国会が手を付けたが最後、ゆくゆくは天皇・皇室そのものもまた国民の意思で変更ないしは廃止することが可能だということを宣言したことになる。

投稿: 太田高明 | 2006年4月15日 15:31

「典範改正に見る軽佻すぎる思考」 (藤原正彦氏の意見)

《《《有識者の恐るべき不見識》》》

 昨年、伊勢神宮を初めて参拝した。午後の外宮を歩いていたら、白装束に黒木靴の神官が3人、恭しく食膳(しょくぜん)を持って通りかかった。尋ねると、「神様の食事で、嵐の日も戦争中も一回の休みもなく、朝夕二回、1400年余り続けてきました」と言った。6世紀に外宮ができて以来という。こんな国に生まれてよかったと久々に思った。

伝統を守ることの深い意義を信じる私にとって、「皇室典範を考える有識者会議」が女性女系天皇を容認、の報道は衝撃的だった。「世にも恐ろしいこと」と蒼ざめた。政治や経済の改革が気に入らないことは始終ある。しかし、政治経済は成功しようと失敗しようと、所詮(しょせん)政治経済である。腹を立てても蒼ざめることなどあり得ない。今次の答申はまったく質が異なる。伝統中の伝統、皇統に手を入れるものであり、その存続を危殆(きたい)に瀕(ひん)させかねないものであり、国体を揺るがすものだったからである。

気を鎮め、答申に目を通してみることにした。長たらしい答申を隅々まで熟読する、というのははじめてのことだった。そして、その空疎かつ凡庸な論理展開に愕然(がくぜん)とした。

2000年の皇統を論ずる上での原点が、なんと日本国憲法と世論だったのである。実際、答申では要所要所でこれら原点に戻り、結論へと論を進めている。この二つを原点とするなら、実はその時点で結論は一義的に定まってしまう。男女平等により長子優先である。議論は不要でさえある。

長い伝統を論ずる場合、それがどんなものであろうが、先人に対する敬意と歴史に対する畏敬(いけい)を胸に、虚心坦懐で臨むことが最低の要件である。この会議はその原則を逸脱し、移ろいやすい世論と、占領軍の作った憲法という、もっとも不適切な原点を採用したのである。「有識者」の恐るべき不見識であった。

そもそも皇族は憲法の外にいる人である。だからこそ皇族には憲法で保障去れた選挙権も、居住や移動の自由や職業選択の自由もなく、納税の義務もないのである。男女同権だけを適用するのは無茶な話である。

《《《伝統は時代と理屈を超越》》》

 伝統を考える際に、憲法を原点をするなら、憲法改正のあるたびに考え直す必要が生ずる。憲法などというものは、歴史をひもとくまでもなく、単なる時代の思潮にすぎない。流行といってもよい。世論などは一日で変わるものである。憲法や世論を持ち出しては、ほとんどの伝統が存続できなくなる。伝統とは、定義からして、「時代や理屈を超越したもの」だからである。これを肝に銘じない限り、人類の宝石とも言うべき伝統は守れない。

天皇家の根幹は万世一系である。万世一系とは、神武天皇以来、男系天皇のみを擁立してきたということである。男系とは、父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどりつくということである。これまで8人10代の女性天皇がいたが、すべて適任の男系が成長するまでの中継ぎであって、その男系でない配偶者との子供が天皇になったことはただの一度もない。女系天皇となってしまうからである。

25代の武烈天皇は、適切な男系男子が周囲に見当たらず、何代も前に分かれ傍系となった男系男子を次の天皇とした。10親等も離れた者を世継ぎとするなどという綱渡りさえしながら、必死の思いで男系を守ってきたのである。涙ぐましい努力により万世一系が保たれたからこそ現在、天皇は世界唯一の皇帝として世界から一目置かれ、王様や大統領とは別格の存在となっているのである。

《《《「万世一系」は世界の奇跡》》》

 大正11年に日本を訪れたアインシュタインはこう言った。「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万世一系の天皇を戴(いただ)いていることが今日の日本をあらしめた。・・・・・我々は神に感謝する。日本という尊い国を造っておいてくれたことを」。世辞も含まれていようが万世一系とはかくの如き世界の奇跡なのである。

これを変える権利は、首相の私的諮問機関にすぎぬ有識者会議はもちろん、国会にも首相にもない。天皇ご自身にさえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙(じゅうりん)することは許されないからである。

平成の世が、2000年続いた万世一系を断絶するとしたら、我々は傲岸不遜(ごうがんふそん)の汚名を永遠に留めることになろう。

投稿: 太田高明 | 2006年4月15日 22:39


合掌

太田様のご意見の通りだと確信します。

感謝申します。

投稿: 佐藤克男 | 2006年4月16日 00:17

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